【追記と注意】
この件についての考察を進めた結果、このエントリーを書いた時とは異なった理解に至ったので、こちらを見て欲しい。
PSJ渋谷研究所Xさんのところの「「親がアホ」のツケは子どもに回って当然なのか」について。
先日から話題になっている、授業料を完納しないと卒業証書を出さない、とやった高校の話に関連して。
心情はわかるんだけど、議論の筋があまりにわけがわからないので改めてエントリーを書く気になった。
なんの責任もないうえに責任を取る能力もない未成年のところに責めを及ぼすことを容認していては、規範もへったくれもないだろう。「未成年者・年少者(18歳未満)は保護される」「犯罪や誤りを犯した行為者本人だけが罰せられるべきで、特段の理由もなく家族等が代わりに責めを負うべきではない」といった前提こそが間違っていて正されるべきだというのでない限り。
その前提を授業料未払いの例に適用するのが変なのだが。 まず、「保護」の意味が曖昧すぎるので、何が言いたいのかがよくわからない。具体的な保護規定としては、たとえば
・契約関係:法定代理人の同意を得ない契約は取り消し可能。
・刑事責任:刑法の適用ではなく少年法が適用される、家庭裁判所を通して保護処分か刑事処分相当かの審判を受ける。
といったものはある。保護すべしという理念があったとしても、際限なく保護せよという話ではないはず。何だか、保護の意味を無制限に拡大解釈しているように見える。言及先のエントリーを読んでも、「保護を与えるべき→親が授業料未納でも卒業証書を出すべき」の間が埋まらない。
また、刑事的責任の話を契約関係に持ち出すのは間違っていると思う。
学費未納の話はむしろ、親が定期的に金を払って購入したサービスを子どもに与える約束をしていたが、金を払わなかったので購入されなくなった、というのに近い。上の理屈を適用するなら「一旦子どもにサービスを与えるという契約したら最後、親が金を払わなくなっても、子どもは保護しなければならないからサービスを与えるべき」という話になってしまうが、これは明らかにおかしいだろう。
でも、入学時に学生が未成年や年少者だった場合、法的には単独で契約の当事者になることができないのではないか。
単独で契約の当事者になれないこと自体が未成年者に対する保護である。法定代理人(大抵は親)の同意があれば契約の当事者になることは可能である。それ以上、契約の相手方に対して、対価を受け取っていないのに債務の履行を求めているわけでもない。
未成年者が単独では契約の当事者になれないのならば、基本的には保護者が支払いをするという契約のはずで、そうなると未納が生じた際にも子どもは「善意の第三者」ということになるのではないか(親が学費の支払いをやめると言っていて、学生も「それでいいよ」と承知していたとか、そんな事情でもあるのならともかく)。
「善意」というのは、「ある事実を知らないこと」を言う。 当事者が作り出したり放置したりすることでできた法律関係を信じて取引に入った人を「第三者」と呼び、当事者間に存在する特別な事情を知らない人を「善意の第三者」と呼ぶ。 仮に、親と学校間の契約で、契約関係にない子どもがなにがしかの権利を得るという形になっているのであれば、それは「第三者のためにする契約」(民573)に分類されるのでは。で、子どもがある期間普通に高校に通っていたのなら契約したこと、何の給付を受けるかも含めた契約内容を知っているはずだから、支払が滞った場合に子どもを「善意の第三者」と呼べるような状況が発生するとは思えない。
子どもが契約の当事者で親が法定代理人として同意する、という形なら、子どもは最初から当事者だからやっぱり「第三者」ではあり得ない。
でも、たとえばカード詐欺(保護者)に偽造カードで買い物をされちゃった(学費を払うのをやめられちゃったとき)時は、直接の債務はカード詐欺たる保護者が負うわけで、消費者たる子どもは善意の第三者じゃないのか。消費者がカード詐欺の尻を持たなきゃいかんってのはおかしいだろう。
偽造カードで買い物をされた被害者は、立場を騙られただけであって「第三者」とは呼べないのでは。むしろこの場合第三者と呼べるとしたら、騙られた人ではなくて、実は別人が取引していることを知らずに契約関係に入った人に対してだろう。喩えとして成り立っていないように見える。
債権者のはずの子どもが、その債権を放棄するとでもいうのであればともかく、法廷に出たら適法性のない内規として無効と判断されるのではないかとさえ思う。
債権者の権利がどこからきているかというと、授業料を支払うという親と学校の契約によって発生しているわけだから、元の契約が「授業料を払わなくてもサービスを提供します」とでもなっていない限り、こんな理屈は通らないのでは。
言及先のエントリーは、「責任」「保護」「第三者」といった言葉の使われ方に違和感がありまくる。
しかし、今回のケースはどっちかというと「いったんかけたハシゴが、親の不心得ではずされる。そういうことに公教育が加担するようなことがあってよいのか」というような問題ではないのか。
「公教育」といっても、一定の人的金銭的補助のもとに、ある程度決まった内容の、有限のサービスを提供するものに過ぎない。社会の側には、「高校に通わせる義務」はない。 「いったんかけたハシゴは親の不心得があってもはずせない」ことになったら、分割払いで子どもにサービスを提供する契約自体が危なくてできなくなる。「子供の保護」をタテにしての踏み倒し放題を認めるということになる。それならいっそ、契約の安全のためには、授業料3年分を入学時に納付してもらい、休学の期間は納付不要(つまり納めた授業料が減ることはない)とし、退学の時には残りの期間の分を返却する、というシステムにしてしまえばよい。不払い問題は解決するはずだ。授業料を強制的に徴収するための手段が現実的なコストで実現できるなら、どんどん不払い分を回収することにすればよいのだろうけど、授業料程度の金額を人手をかけて回収するのがコストに見合わないというのなら、先払いにするしかないのでは。支払う相手が自治体なら、某家庭教師センターや英会話塾みたいな倒産はないだろうから、退学時に返却されなくなるおそれは殆どないはずである。
そのかわり、金を貯めてからでないと進学が不可能、ということになってしまうだろうが……。
親が貧乏であることのツケを子どもに回すのはよくない(社会的格差が固定する方に働くから)。だから、奨学金や授業料免除といった手当てが必要だし、実際に授業料免除になっている生徒もそれなりの数存在する。でも、親がアホであることのツケについては、明らかな虐待で保護が必要といった場合以外にまで社会の側が面倒を見るのはやり過ぎではないだろうか。
【追記】
言及先のエントリーで、地下に眠るMさんの勘違いコメントを見たので、こっちでも言及しておく。
「親の因果が子に報い」を肯定するバカ科学者と、その妄言を支持する寝言垂れ流しの諸君に聞いておく。■学校と生徒の関係において、重視されるべきは民法かね? それとも教育基本法かね?
チミら、恥を知れ。
Posted by 地下に眠るM at 2009年03月06日 23:42
「因果」じゃないので、議論自体がミスリーディング。強いて言うなら親の身勝手、といったところ。
義務教育ではない高等学校では、授業料を払わなければ学校と生徒の関係自体が消滅するので、民法が先(∵授業料を払わない生徒に対しては除籍という手段をとることが可能である)。学校と生徒の関係が維持されている間は教育基本法。
前提となる学校と生徒の関係を発生させるものと、関係が発生してからその内容を規定するものの優先準位を、同列に比べることの方がナンセンスではないか。