独り言
昔は、教育の場には、「教師と生徒・学生の関係」というのがあった。教師が聖職者とされていたり、一定の権威を持っていたりといった一時期のことを指したかったので「」付きにしてみた。その頃、先生は一応は尊敬されることになっていた。まあ、教師の陰口を言うのは生徒の特権(?)だったけど、一応形式的には敬うことになっていた。この約束事が何を守っていたかというと、生徒や学生がある程度失敗をしても外に出さず、教師と生徒のウェットな関係のもとで許すとか教育するという仕組みを守っていたんじゃないかなぁ。
だから、生徒・学生の側が法治主義的な手段でもって教師と対等な位置に立つ意思を示したら、一応教師側には職業倫理があるとして、残るは対等な(契約に基づく)人対人の関係になってしまう。これは生徒・学生にとってむしろ過酷な面があるんだけど、法治主義的な手段で最大限権利を認めさせる成功例が出てきてしまったら、多分もう昔の関係に後戻りはできない。なにがしかの職業倫理を前提にするとしても、倫理の枠組みでは法治主義的なルールを逸脱することはできないから、何かコトが起きたときになあなあで何とかするという解はとれなくなる。むしろ、なあなあで納めることが違法な行為になってしまったりする。
最初に、法治主義的発想で教師や学校に対して要求を通すことを思いついた人、実行した人は、確かに斬新な発想を持っていたと思う。だけど、それを実現したら最後、全てを法治主義的発想で処理する仕組みを作らない限り全体の整合性がとれないし、制度としても機能しない。最初に思いついた人が、来るべき未来をどこまで想像していたかは知らないが、これまでウェットな関係で調整していた教育の場を法治主義的ルールでもって調整する世界を望んだということなんだろう。仮にそいつがそんなことは想像もしていなくて、気持ちの上では望んでいなかったとしても、行動でもって示してしまったわけで。オモテにコトを出さず、人の善意(一般用語の意味で)とか甘えを許しつつ問題解決をする制度に、一部分だけ(コトによっては都合の良い時だけ)権利義務関係を持ち込むというのは、制度の崩壊を引き起こすし、モンスタークレーマーにエサを与えるだけになってしまうだろう。どうやっても両立しないんだよね。
社会の側は司法制度改革をやって法化社会に舵を切ったし、その社会の側の基準で教育現場にも要求が突きつけられるのだから、教育をする側も一貫した法化社会的対応をする以外に方法は無い。まだ、その気持ちの切り替えができない人達が居るから横やりが入るのだろうけど、もう昔の考え方ではやっていけないということは早晩わかるのではないかなぁ。多分、今は過渡期で、暫くは混乱するし、双方で奇妙だと思うこともいろいろ出てくるのだろうけれど。
【追記】
過渡期の混乱としては、どこかで会社法がらみの裁判で混乱するものが多発中というのを読んだ覚えが……。自営業をやってて、親が亡くなって子供が事業を継ぐことになったが、兄貴に商才が無くて弟に商才がある場合の話。昔だったら、街のご隠居さんが出てきて、兄貴の生活が困らないように弟が面倒を見るかわりに、商売は弟が継ぐ、といったなあなあ解決で済んでいたのが、最近は会社法の枠組みでもって地方裁判所に揉め事が持ち込まれる。でも背後にあるのは、むしろ家庭裁判所でケリを付けた方がよい種類の身内のごたごただから、結果として裁判所もわけがわからん、と……。
【追記】
教師を尊敬しろとか教師に権威を認めろ、というのは、教師に対して「生徒に対してパターナリズムを発揮せよ」という要求の別の表現だったんじゃないかな。教師を尊敬の対象にしないことにし、権威も認めないことにしたら、パターナリズムを発揮していい根拠は法なり規則なりに求める以外に無くなる→結局法治主義的ルールで教育を縛るしかなくなる。
教師の権威を否定したり尊敬をやめたりすることは、教師によるパターナリスティックな対応も拒否する、つまり保護なんか無しで自己責任でいく、ということの表明になっている。
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