別の意味で道徳と科学は別でないと困る
msn産経ニュースの記事より。
他人の不幸 科学的にも蜜の味だった2009.2.13 07:38
このニュースのトピックス:科学他人の成功や長所を妬(ねた)んだり、他人の不幸を喜んだりする感情にかかわる脳内のメカニズムが、放射線医学総合研究所や東京医科歯科大、日本医科大、慶応大の共同研究でわかった。妬ましい人物に不幸が訪れると、報酬を受けたときの心地よさにかかわる脳の部位が働くという。13日付の米科学誌「サイエンス」に発表した。
研究チームは、健康な大学生の男女19人にシナリオを渡して平凡な主人公になりきってもらい、ほかの登場人物に対する脳の反応を磁気共鳴画像装置(fMRI)で調べた。主人公は志望企業に就職できず、賃貸アパートに住みながら中古の自動車を所有するという設定。大企業に就職し、高級外車を乗り回す「妬ましい」人物が登場すると、身体の痛みにかかわるの「前部帯状回」という脳の部位が活発化した。自分と同じく平凡な人生を歩んでいる登場人物には、この活発化が見られなかった。
次に「妬ましい」人物を襲った「会社の経営危機」や「自動車のトラブル」などの不幸を示したところ、報酬を受け取ったときの心地よさにかかわる「線条体」が強く反応。この反応は、平凡な友人の不幸では見られなかった。また、妬みの感情が強いほど、不幸が訪れたときの反応が活発だった。
放医研の高橋英彦主任研究員は「線条体はおいしいものを食べたときにも働くことが知られる。他人の不幸は文字通り“みつの味”のようだ」と話している。
だからといって、他人の不幸を喜ぶのが当然とか、それが自然の摂理だからどんどん妬ましい人の不幸を味わうのが当然で正しい、という内容の「道徳」や「倫理的な規範」を作るべきだとは、普通は考えないだろう。諺として「他人の不幸は蜜の味」というのがあったとしても。
道徳や倫理は、科学とは別に立ち上げるべきもので、科学に根拠を求めてはやっぱりまずいことになる。
【追記】
これだけだと何の話か見てわからないこともありそうなので、書き足しておく。今朝、エントリーを上げてからほとんど休み無しに院生の公聴会に出ていなければならなくて、十分な説明もできなかったので……。
ちょっと前から、「水からの伝言」をいろんな面から批判してきた。「水からの伝言」は、水にいろんな言葉を見せたり音楽を聴かせたりしてから凍らせて結晶を作って写真を撮ったものである。「ありがとう」というのを見せると対称性の良い六角形の樹枝状結晶ができ、「ばかやろう」というのを見せると見た目がきれいな結晶にならない、という話が語られた。シャーレに入れた水を凍らせてから、照明を当てながら顕微鏡で観察するというもので、低温の氷の表面に水蒸気から水の結晶が成長するものを見ているだけである。
水が言葉を判定するかのような主張は、もちろん、科学としては完全な間違いである。水蒸気から結晶成長するとき、どういう条件の時にどんな形の結晶ができるかは、60年ほど前に中谷宇吉郎が解明して、ナカヤ・ダイヤグラムとしてまとめた。雪結晶の研究としては世界的に有名な業績である。
この「水からの伝言」が、学校教育で使われるという問題が起きたので、私も批判しているし、気付いた他の人達もあちこちで批判の声を上げている。
「水からの伝言」を使った道徳の授業では、まず、「ありがとう」を見せた水がきれいな結晶になり、「ばかやろう」を見せた水が汚い結晶になる、ということが、科学的には間違いであるにもかかわらず、正しい科学的事実として提示される。次に、人の体の8割が水だという、正しい科学的事実が提示される。そのあと、水の結晶がきれいになるのだから友達に「ありがとう」と言いましょう、と教えられる。
この教材は、科学としても間違っているが道徳教育の面からも国語教育の面からも、教えてはいけない内容である。まず、道徳的に正しいことと対称性の良い結晶とをむすびつけている。これは、善=美であると教えることに他ならない。しかし、道徳では、たとえば「人を見かけで判断するな」と教えたりしている。道徳的な善と芸術的な意味での美を結びつけてはいけないのである。さらに、どんな言葉を使うかを水に訊いて決めるという、大変奇妙な話になっている。どういう言葉を使うかは、他人とどう関わるかによって決めるべきことで、そもそも水に訊くことではない。この話で道徳を教えると、他人の存在はどうでもよいということを肯定することになってしまう。
さらに、文脈を無視して、良い言葉と悪い言葉に単語を分類するというのは、全くナンセンスである。「ばかやろう」の一言にだっていろんな意味を持たせられる。言葉の使い方の深みを知りたければ、文学をしっかり読むべきで、水に判定してもらおうなどというサボリ根性を出してはいけない。
他人といかに関わるべきかといったことや、人としてどうあるべきかということの答えを、科学に求めるのが間違っている。科学に道徳の裏付けをさせるというのは、人の存在を無視して道徳の内容を決めてもかまわないということになるので、時として非常に不道徳な結果になる。このことを、水伝批判においては、繰り返し説明してきた。
しかし、「水からの伝言」では、結論が「きれいな言葉を使いましょう」「友達を罵ってはいけない」といった、道徳的にも受け入れやすいものになっていたため、説明の過程で安易に科学モドキを持ち込むことの不道徳さを説明しても、なかなか気付いてもらえないという面があった。
今回の新聞記事は、他人の不幸を喜ぶ性質が人にあることが科学的手続で確認された、というものである。他人の不幸を嬉しく思うのは科学的に当たり前で妬みがあれば嬉しさも増加、という話である。これは、道徳や倫理としては受け入れがたいのが普通だろう。
少なくとも私は「他人の不幸はどんどん喜びましょう。それが自然だと科学で証明されてますから」などということを受け入れたいとは思わない。
誰だって不運・不遇な時があるし、他人をうらやんだり妬んだりする気持ちを持つこともあるし、他人の不幸を嬉しく思うことだってあるだろう。聖人君子じゃないんだから。そう思うことが人の生理としてあるのだとしても、人には知恵がある。他人を妬んだりうらやんだり他人の失敗を喜んだりしたって、客観的に自分の置かれている状況が良くなるわけではないし、妬みからは何も生まれないということに早々に気付くだろう。だから「他人を妬むのはやめましょう」「他人の不幸を喜ぶのは人として良くない」という道徳を語ることには意味がある。その先は、妬まずに自分も努力しましょう、でもいいし、うまくやった人に向かってお裾分けを頂戴、というのだって有りだろう。きっといろんなやり方や考え方がある。
道徳の根拠を科学に求めるのであれば、引用した記事に基づいて「他人の不幸を喜ぶのは正しいことだ」ということを受け入れなければならなくなる。科学(実は科学っぽいインチキだが)の裏付けがあるからという理由で、安心して「水からの伝言」を受け入れている人達は、このことに気付くべきだ。
科学がどういう結論を出そうと、人として他人とどう関わるか、人としてどう考え、どう振る舞うのが価値あることかを決めるのは、人が培った倫理であり道徳である。倫理や道徳を考える時には、人と向き合って立ち上げる以外に方法はない。安易に科学になんかに頼っちゃいけないのだ。
- » Continue reading or コメント (0)