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むしろ学生の横暴を許すな

Posted on 2月 13th, 2009 in 倉庫 by apj

 毎日jpの記事より。

京都外国語短期大:学生にアカハラ、教授をけん責処分 /京都

 京都外国語短期大(堀川徹志学長、右京区)は10日、授業内容の質問をしようとした女子学生(20)に対応しないアカデミック・ハラスメントをしたとして、男性教授(51)を6日付で口頭注意のけん責処分にしたと発表した。学生は大学に相談した翌日の08年10月15日から欠席している。

 大学によると、教授は08年10月11日午前0時45分ごろ、携帯電話に連絡してきた学生に「こんな時間にかけるとは何だ」と激しく叱責(しっせき)。同13日午後1時ごろ、数回かかってきた謝罪電話にも対応しなかった。教授は最初の電話前、質問をメールで送ってきた学生に電話をかけてくるよう返信したが、時間などを指定していなかった。学内調査に「不用意なメールで、不注意だった」と認めたという。【朝日弘行】

毎日新聞 2009年2月11日 地方版

 まず、授業内容の質問という緊急性の低い用件で、真夜中の午前0時45分に大学の教員に電話をかけること自体が、学生の非常識。
 しかも、電話があった08年10月11日は土曜日で、普通に週休2日制で勤務しているのなら仕事はしない日のはず。よほどの緊急事態(夜中に学生だけで実験していて事故発生とか)以外、教員を電話で呼び出すような日でも時間でもない。
 さらに、教員が電話に出なかったのは08年10月13日(月)だが、この日は体育の日で、やっぱり休日。

 一体いつから日本の大学の教員は、休日の深夜や、国民の祝日にまで、学生からの緊急性の低い電話の相手をしないとハラスメント認定されるようになったわけ?
 ふざけた処分をかまされると、それが前例になって、さらにそれを利用しようとする奴まで沸いてでるから、周りも迷惑するってこと、わかってるのか?>京都外国語短期大。あ、労働者の権利をどう扱っているかも気になるな。
 こういう無茶な電話の仕方をする学生を肯定して教員を処分するって、京都外国語短期大は実はクレーマー養成機関なのか?

 むしろ、この教員は、この処分に対し、休日にまで理由なく仕事をさせるなという理由で、いち労働者として大学にクレームをつけるべきだと思う。

 一番妥当な解決は……「電話しなさい」じゃなくて「オフィスアワー(平日の勤務時間中で学生からの質問を受け付けられる時間)に研究室にいらっしゃい」と答えることだったのだろうけど。

別の意味で道徳と科学は別でないと困る

Posted on 2月 13th, 2009 in 倉庫 by apj

 msn産経ニュースの記事より。

他人の不幸 科学的にも蜜の味だった2009.2.13 07:38
このニュースのトピックス:科学

 他人の成功や長所を妬(ねた)んだり、他人の不幸を喜んだりする感情にかかわる脳内のメカニズムが、放射線医学総合研究所や東京医科歯科大、日本医科大、慶応大の共同研究でわかった。妬ましい人物に不幸が訪れると、報酬を受けたときの心地よさにかかわる脳の部位が働くという。13日付の米科学誌「サイエンス」に発表した。

 研究チームは、健康な大学生の男女19人にシナリオを渡して平凡な主人公になりきってもらい、ほかの登場人物に対する脳の反応を磁気共鳴画像装置(fMRI)で調べた。主人公は志望企業に就職できず、賃貸アパートに住みながら中古の自動車を所有するという設定。大企業に就職し、高級外車を乗り回す「妬ましい」人物が登場すると、身体の痛みにかかわるの「前部帯状回」という脳の部位が活発化した。自分と同じく平凡な人生を歩んでいる登場人物には、この活発化が見られなかった。

 次に「妬ましい」人物を襲った「会社の経営危機」や「自動車のトラブル」などの不幸を示したところ、報酬を受け取ったときの心地よさにかかわる「線条体」が強く反応。この反応は、平凡な友人の不幸では見られなかった。また、妬みの感情が強いほど、不幸が訪れたときの反応が活発だった。

 放医研の高橋英彦主任研究員は「線条体はおいしいものを食べたときにも働くことが知られる。他人の不幸は文字通り“みつの味”のようだ」と話している。

 だからといって、他人の不幸を喜ぶのが当然とか、それが自然の摂理だからどんどん妬ましい人の不幸を味わうのが当然で正しい、という内容の「道徳」や「倫理的な規範」を作るべきだとは、普通は考えないだろう。諺として「他人の不幸は蜜の味」というのがあったとしても。
 道徳や倫理は、科学とは別に立ち上げるべきもので、科学に根拠を求めてはやっぱりまずいことになる。

【追記】
 これだけだと何の話か見てわからないこともありそうなので、書き足しておく。今朝、エントリーを上げてからほとんど休み無しに院生の公聴会に出ていなければならなくて、十分な説明もできなかったので……。

 ちょっと前から、「水からの伝言」をいろんな面から批判してきた。「水からの伝言」は、水にいろんな言葉を見せたり音楽を聴かせたりしてから凍らせて結晶を作って写真を撮ったものである。「ありがとう」というのを見せると対称性の良い六角形の樹枝状結晶ができ、「ばかやろう」というのを見せると見た目がきれいな結晶にならない、という話が語られた。シャーレに入れた水を凍らせてから、照明を当てながら顕微鏡で観察するというもので、低温の氷の表面に水蒸気から水の結晶が成長するものを見ているだけである。
 水が言葉を判定するかのような主張は、もちろん、科学としては完全な間違いである。水蒸気から結晶成長するとき、どういう条件の時にどんな形の結晶ができるかは、60年ほど前に中谷宇吉郎が解明して、ナカヤ・ダイヤグラムとしてまとめた。雪結晶の研究としては世界的に有名な業績である。

 この「水からの伝言」が、学校教育で使われるという問題が起きたので、私も批判しているし、気付いた他の人達もあちこちで批判の声を上げている。

 「水からの伝言」を使った道徳の授業では、まず、「ありがとう」を見せた水がきれいな結晶になり、「ばかやろう」を見せた水が汚い結晶になる、ということが、科学的には間違いであるにもかかわらず、正しい科学的事実として提示される。次に、人の体の8割が水だという、正しい科学的事実が提示される。そのあと、水の結晶がきれいになるのだから友達に「ありがとう」と言いましょう、と教えられる。
 この教材は、科学としても間違っているが道徳教育の面からも国語教育の面からも、教えてはいけない内容である。まず、道徳的に正しいことと対称性の良い結晶とをむすびつけている。これは、善=美であると教えることに他ならない。しかし、道徳では、たとえば「人を見かけで判断するな」と教えたりしている。道徳的な善と芸術的な意味での美を結びつけてはいけないのである。さらに、どんな言葉を使うかを水に訊いて決めるという、大変奇妙な話になっている。どういう言葉を使うかは、他人とどう関わるかによって決めるべきことで、そもそも水に訊くことではない。この話で道徳を教えると、他人の存在はどうでもよいということを肯定することになってしまう。
 さらに、文脈を無視して、良い言葉と悪い言葉に単語を分類するというのは、全くナンセンスである。「ばかやろう」の一言にだっていろんな意味を持たせられる。言葉の使い方の深みを知りたければ、文学をしっかり読むべきで、水に判定してもらおうなどというサボリ根性を出してはいけない。

 他人といかに関わるべきかといったことや、人としてどうあるべきかということの答えを、科学に求めるのが間違っている。科学に道徳の裏付けをさせるというのは、人の存在を無視して道徳の内容を決めてもかまわないということになるので、時として非常に不道徳な結果になる。このことを、水伝批判においては、繰り返し説明してきた。
 しかし、「水からの伝言」では、結論が「きれいな言葉を使いましょう」「友達を罵ってはいけない」といった、道徳的にも受け入れやすいものになっていたため、説明の過程で安易に科学モドキを持ち込むことの不道徳さを説明しても、なかなか気付いてもらえないという面があった。

 今回の新聞記事は、他人の不幸を喜ぶ性質が人にあることが科学的手続で確認された、というものである。他人の不幸を嬉しく思うのは科学的に当たり前で妬みがあれば嬉しさも増加、という話である。これは、道徳や倫理としては受け入れがたいのが普通だろう。
 少なくとも私は「他人の不幸はどんどん喜びましょう。それが自然だと科学で証明されてますから」などということを受け入れたいとは思わない。
 誰だって不運・不遇な時があるし、他人をうらやんだり妬んだりする気持ちを持つこともあるし、他人の不幸を嬉しく思うことだってあるだろう。聖人君子じゃないんだから。そう思うことが人の生理としてあるのだとしても、人には知恵がある。他人を妬んだりうらやんだり他人の失敗を喜んだりしたって、客観的に自分の置かれている状況が良くなるわけではないし、妬みからは何も生まれないということに早々に気付くだろう。だから「他人を妬むのはやめましょう」「他人の不幸を喜ぶのは人として良くない」という道徳を語ることには意味がある。その先は、妬まずに自分も努力しましょう、でもいいし、うまくやった人に向かってお裾分けを頂戴、というのだって有りだろう。きっといろんなやり方や考え方がある。

 道徳の根拠を科学に求めるのであれば、引用した記事に基づいて「他人の不幸を喜ぶのは正しいことだ」ということを受け入れなければならなくなる。科学(実は科学っぽいインチキだが)の裏付けがあるからという理由で、安心して「水からの伝言」を受け入れている人達は、このことに気付くべきだ。

 科学がどういう結論を出そうと、人として他人とどう関わるか、人としてどう考え、どう振る舞うのが価値あることかを決めるのは、人が培った倫理であり道徳である。倫理や道徳を考える時には、人と向き合って立ち上げる以外に方法はない。安易に科学になんかに頼っちゃいけないのだ。

「擬似科学はなぜ科学ではないのか」

Posted on 2月 12th, 2009 in 倉庫 by apj

 「擬似科学はなぜ科学ではないのか そのウソを見抜く思考法」チャールズ・M・ウィン/アーサー・W・ウィギンズ著、シドニー・ハリス画 奈良和彦訳(海文堂)978-40393-73940-9を購入。2月10日が発行日なので、都市部の書店なら店頭に並んでいるかも。私は本やタウンで注文して今日生協で受け取った。
 目次は次の通り。

    プロローグ

第1章 事実の探求ー科学的方法
第2章 科学的推論の実際
第3章 現実の追求vs幻想の追求
第4章 UFOと地球外生命体説
第5章 体外離脱体験と霊的存在
第6章 占星術
第7章 創造説
第8章 通常感覚による知覚、超感覚的知覚およびサイコキネシス
第9章 事実の科学的な追求
    エピローグ
    用語集
    もっと知りたい読者のために
    索引
    訳者あとがき

 科学的な観測と推論のサイクルと擬似科学的なそれとの違いがコンパクトにまとめられている。取り上げられている例は、オーソドックスなものだと思う。参考文献リストが、邦訳のあるもののみになっているのが物足りない。ここは、原著通りに掲載して、邦訳のあるものには注釈をつける方が良いだろう。

 参考文献リストの邦訳本は殆ど持っているのだが、入手しやすい状態かどうかをamazonで見たら、「サイキック・マフィア」が品切れですごい値段になっていた(汗)。以前買っておいて良かった……。

珍しく大槻教授に結論だけ同意

Posted on 2月 11th, 2009 in 倉庫 by apj

 大槻義彦のページより。

もちろん私が死んでもお葬式の類はごめんです。急に予定もなくお葬式の通知を出したのでは、受け取った人は大迷惑でしょう。

 私が(私の)葬式の類はごめんだと思うのは、生きてるだけでも面倒くさいことがいろいろあるのに、死んでからまでなぜ手間暇をかけなければならないのだ?と思うからで。 ただ、死期は予測可能な場合もあるからなぁ……だからといって、「一ヶ月後くらいになりそうだから予定あけといて」ってな具合に会食の予定を入れるような調子で連絡をされたって、された方がリアクションに困るかもしれない。

墓も墓参りもナンセンス。これは、思い出をかみしめるところ。思い出なら、たくさんの写真・ビデオ・著作が残っているからそれで十分。もちろん、墓参りはその思い出を思い出す機会になるから悪くはないのですが、それなら命日を決めて息子・孫たちが食事でもしてくれれば良いでしょう。『命日の食事会のファンド』でも残しましょうか。後世、親族以外の人が訪ねてくれることはまずないでしょうから、目印、つまりお墓などいりません。見知らぬ人に墓参りしていただくほど大物ではありません。いつの間にか墓石は落ち窪み、カラスなどの鳥の糞にまみれ、名前の判読もできない。想像しただけで、ぞっとします。

 一応、仏のぐうたらな弟子(つまりヘタレ仏教徒)のつもりでいる。すると、
・釈迦の墓は無い
・仏舎利と称するモノがあちこちに散らばって事実上の散骨状態である
・思想の主要部分が「諸行無常」
……これで、墓を残すことにこだわるという結論がどうすれば導き出せるのかと。
私には葬式も墓も不要で、むしろ散骨した後はきれいさっぱり忘れ去られるのが分相応という結論しか出てこない。墓にこだわれと言われたら、そんなに無情が怖いのかとツッコミの一つも入れたくなる。もちろんこれはあくまでも私個人について、という意味で、普通にどこかの寺の檀家で先祖代々の墓を維持している多くの人を否定する趣旨ではないし、墓参りを期待して作られている墓に参ることを私が拒否するという趣旨でもない。

 ただ、葬式も墓も要らないが教材にはなりたいので、バラしてプラスティネーションにして保存とか、骨格標本を作ってガラスケースの中で陳列されるというのは大いに希望したい。

 墓石がこけむしたって別にぞっとする必要は無いかと>大槻先生。そのレベルを超えて考古学の対象級になるまで残れば、後世の発掘対象となって誰かのメシの種になるかもしれない。まあ、掘ったら遺跡が出てきて発掘調査のため工事がストップ、という、後世の工期遅れの原因を作る可能性もあるが。

誰もがツッコミたいであろう事件

Posted on 2月 10th, 2009 in 倉庫 by apj

 MSN産経ニュースの記事より。

目覚まし音うるさい」男性刺され死亡 容疑の同居女を逮捕
2009.2.10 22:22
 北海道警興部署は10日、殺人未遂の疑いで興部町興部のパート店員、出口志津子容疑者(39)を逮捕した。
 調べによると、出口容疑者は同日午前6時ごろ、同居中の会社員、渡辺明宏さん(38)と自宅で口論になり、包丁のような刃物で首を刺した疑い。渡辺さんがその後死亡したため、同署は容疑を殺人に切り替えて捜査する方針。
 興部署によると、携帯電話の目覚まし音をめぐって口論になったといい、出口容疑者は「音がうるさかった」と供述しているという。出口容疑者は自分の車で渡辺さんを近くの病院に搬送、病院が同署に通報した。

 いやだから同居人刺す事態になる前に、うるさかったら目覚まし止めろよ……。
 普段から腹にすえかねていたとしたって、携帯電話を握ってその辺にたたきつけるとか、外に放り出すとか、相手を往復ビンタで叩き起こすとか、褒められた行為じゃないにしても、取り返しのつく八つ当たりや腹いせのオプションはいろいろあるだろうと……。

DER KAMPF UM'S RECHT

Posted on 2月 10th, 2009 in 倉庫 by apj

 イェーリングの「権利のための闘争」だが、原文を見てみたくなって買ってしまった。

 例の有名な部分はこんな感じ。

Der Widerstand gegen ein schnödes, die Person selbst in die Schranken forderndes Unrecht, d. h. gegen eine Verletzung des Rechts, welche in der Art ihrer Vornahme den Charakter einer Mißauchtung desselben, einer persönlichen Kränkung an sich trägt, ist Pflicht. Er ist Pflicht des Berechtigten gegen sich selber – denn er ist ein Gebot der moralischen Selbsterhaltung; er ist Pflicht gegen das Gemeinwesen – denn er ist nötig, damit das Recht sich verwirkliche.

Der Kampf ums Recht ist eine Pflicht des Berechtigten gegen sich selbst.

 しかし、amazon.deができて便利になった……。ネット経由で買えるようになるまでは、英語の本は丸善とか生協とかの分厚い目録をめくってまだどうにかなるとしても、ドイツ語の本は入手が大変だった^^;)。

 まあ、このフレーズを心に刻んで裁判所へレッツゴーだなわな^^;)。

 神戸、今月26日が判決だけど、控訴審やるのかな。

掃除用品

Posted on 2月 8th, 2009 in 倉庫 by apj

 キーボード掃除用品「サイバークリーン」
 学生用キーボードがだいぶ汚れてきたので、来年度の最初の仕事はこれでまず掃除かなぁ。

Things

Posted on 2月 7th, 2009 in 倉庫 by apj

 iPod TouchをPDAとして使うようになって、ToDoリストをどうしようかといろいろ迷っていたのだけど、WiFi環境でデスクトップと同期できるThingsというソフトがあったので買って使っている。GTDをやるのに良さそうだという評判なんだけど、そこまでいかなくても、分類や関連する作業をまとめて管理できて便利。

ネットだから?

Posted on 2月 6th, 2009 in 倉庫 by apj

 asahi.comより

ネットの中傷―表現の舞台を汚す卑劣さ

 もしもあなたがインターネット上で「人殺し」などと根も葉もない中傷を受けたとしたら――。

 被害はおそらくネットの場にとどまらないだろう。日々の生活のなかで疑いの目を向けられるかもしれないし、仕事にも影響しかねない。

 そうしたひどい中傷に対する重い警告の意味も込めたのだろう。お笑いタレントの男性のブログに事実無根の書き込みをしていたとして、警視庁は全国に住む18人を名誉棄損の疑いで書類送検する方針を固めた。

 また、タレントを「殺す」などという内容を書いたとして、1人を脅迫の疑いで書類送検した。

 ブログへの書き込みをめぐる集団摘発はきわめて異例だ。それほどネットの世界には、悪質きわまりない書き込みがあふれているということだ。

 根拠のないデマを流して、身近なだれかを誹謗(ひぼう)中傷する。著名人の発言が気に入らなかったとして、やり玉にあげる。おもしろ半分で始まった書き込みが、敵意をむき出しにした攻撃へとエスカレートすることもある。それをあおる人たちまでいるから厄介だ。

 だが、書かれた方はたまらない。

 いじめられた、と感じて追いつめられる子がいる。「血の海になります」との犯行予告を書き込まれ、講演会の中止に追い込まれた評論家もいる。

 深刻なのは、そうした無責任な書き込み行為が幅広い層に広まっている点だ。今回摘発された中には女子高校生から国立大学の職員までいた。

 07年に全国の警察に寄せられたネットでの中傷被害の相談は9千件近くにのぼる。お隣の韓国では、被害にあった女優が自殺する騒ぎがあった。もはや見過ごせない状況だ。

 背景にあるのは、名乗らずに発信できるネット社会の特性だろう。だが、自分だけは姿の見えにくい場所に立って、一方的に悪口を浴びせたり事実に反する書き込みをしたりするのは、あまりにも卑劣ではないか。

 もちろん、ネットそのものの役割は前向きにとらえたい。だれもが世界に向けて自分の意見を発信できる。この新しいメディアによって、表現や言論の舞台は大きく広がった。その場はしっかりと守らなくてはならない。

 だからこそ、その発信には責任が伴う。だれかを根拠もなくののしる行為はまっとうな意見表明とは異なる。批判するならば、事実にもとづいて自分の考えを冷静に伝える。そんな慣習が、急速に拡大したネット社会にはまだ根づいていない。

 今回は被害の訴えを受けて警察が乗り出したが、健全なネット社会を築くには世の中全体の努力が要る。

 学校も家庭も、ネットの使い方と発信者の責任をきちんと教えるべき時代になった。

 これは、あくまでも発言する人の人格の問題では。
 こういう、ネットで他人を罵るような人は、普段の生活でも、口コミの噂に基づいて気軽に無責任に他人の陰口を言ってるのではないかと思うのだけど、違うのかな。普段は、そのへんの仲間内の陰口で済んでいたものが、ネットを使うと、結果として「公然と罵る」ことになってしまうというだけであって。
 ネットの使い方云々を強調するの、はちょっと外しているように見える。普段から気軽に他人の悪口を言ったり非難したり、そういうことをする人に乗っかってその場の空気で自分も言う、といったことをしているのがそもそもいけない、という話じゃないかと。

きらきら

Posted on 2月 4th, 2009 in 倉庫 by apj

 「きらきら」(CDブック)を買った。
 吉田六郎氏による雪の結晶写真に、谷川俊太郎の詩をつけた絵本。谷川俊太郎のメッセージカードが付いている。
CDの中身は、
・文部省唱歌「雪」
・白い想い出
・雪と子ども(ノルウェー民謡)
・雪の降る街を
・雪の窓辺で
・きらきら(本の詩に曲をつけたもの)
となっている。

 「水からの伝言」を、結晶写真に江本氏が適当に作文をつけただけのものなので、芸術作品とは呼べるかもしれない、などと言っていたら、雪結晶+詩のまっとうな芸術作品が出た。子どもと楽しむなら「きらきら」の方だろう、当然のことだけど。