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水素水:週刊ポストの記事

Posted on 1月 23rd, 2009 in 倉庫 by apj

 このエントリでも触れた水素水の話だが、週刊ポストに太田教授が登場していた。
 QPさんから情報と、該当ページの写真をいただいたので掲載する。2009年の1月16,23日号とのこと。
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 やっぱりこれはまずいんじゃないですかね。太田教授がこんな形で出ては。

 水素水については、まだ効果効能を謳えないと太田教授は述べていた。
 本文の内容が写真からははっきりしないのだが、「通常人がこのページを見たときに、水素水の効果効能が太田教授によって保証されたと思うか」ということを考えると、誤解を振りまく結果にしかなっていないのではないか。

【追記】
 このページに内容確認ができる画像が上がっていたので、こちらに検討用として転載しておく。

【追記】
 太田教授にこの件でメールしてみた。

To: 太田 成男From: apj Subject: 週刊ポストの記事

太田様

 山形大の天羽です。
週刊ポストの水素水の宣伝記事に太田教授が登場していますが、
これはまずいのではないでしょうか。

 研究途中であり、効果効能を謳えない段階で、一般向けに
こういう記事が出るのは問題だと思います。

 「研究が始まっている」と明記してあっても、一般の方がこれを
読めば、太田教授がお墨付きを与えたと受け取るのではないでしょうか。

 これに対する返事。

From: 太田 成男To: apj Subject: Re: 週刊ポストの記事

天羽さま

メールありがとうございます。
checkが甘かったと反省しています。「水素水はサラリーマンの皆さんにもお薦めです。」は、一言よけいな言でしたね。
印象は別として、この掲載は「宣伝広告ではなく、記事である」という説明をうけて、お話しました。(談)とか入れていただければ、印象は違ったかもしれませんね。
法的な点については、出版社(小学館)の法務で検討した結果で、問題ないとの見解だそうで、責任は小学館にあるとのことです。 
今後、気をつけます。もうこのような形で私がでることはないでしょう。

太田成男

 法的にはセーフでも、明らかに「やらない方が良いこと」むしろ「やってはまずいこと」だろう。特に、活性水素の白畑教授と一緒に見られたくないと考えている太田教授にとっては。これでは、活性水素の白畑教授とますます同じに見られても仕方がない。

 単に薦める文言があったからよくないという話ではない。(将来どうなるかはわからないが)現状では効果効能を謳えない状態の水素水の宣伝記事に、研究をしている太田教授(この場合は研究においても第一人者つまり権威)が出てくることで、既に専門家がお墨付きをあたえている印象を一般読者に与えることが問題なわけで。

 活性水素と同じような、いい加減な宣伝・怪しい宣伝に荷担している、と思われることこそ、太田教授が最も注意して避けなければならないことのはずである。

 この記事だが、コピーされて、記事とは違う種類の水素水の販売にも使われかねない。「別の製品だけど、既に水素水の効果は専門家も突き止めてますよ」とかいう宣伝文句と一緒に。で、太田教授の名前と顔がばっちり広まる、と。顧問先の企業の製品だからいいだろう、と思っているなら考えが甘い。水関連のインチキ宣伝は、他社の宣伝でも使えるならコピペで流用することが横行している。研究した上でまっとうに商売と結びつけたいと本気で考えているのなら、今の時期に研究者が一般向けに名前を出すべきじゃない。

ベタな部分を敢えて強調する

Posted on 1月 23rd, 2009 in 倉庫 by apj

 lets_skepticさんのところの「ニセ科学批判批判を批判しているニセ科学批判者の批判の仕方を批判してみるよ」を読んで。

ひとつひとつの投稿を読むだけだとtittonさんは当たり前の事と、表面上は批判的思考の手法を用いたことを主張しています。ちょこちょこ間違った認識やダブルスタンダードな判断が入っていますが*2、見た目はきちんと文章を書いているようだということです。

 つまり、一見まともに見える議論の使えなさっぷりとかダメっぷりを誰にでもわかるように提示するにはどうしたらいいか、という話。 これに対する一つの答えとして、直近のエントリーを書いていたので並べておく。
想定しているユーザーが違う
「本物」の科学を手にしていないとニセ科学を批判してはいけないのか?
批判で済むなら安上がり
 何を意識して書いたかというと、徹底的にベタな話をするということである。
 まず、ニセ科学批判のユーザーは誰かという部分に「(ニセ科学宣伝を使った商材による)悪徳商法の被害に遭った・遭いそうな人」という具体的なものを入れてみた。
 「本物の科学」などという、頭の中だけで想定したものを持ち出してくることに対しては、「精度」という、現実とすりあわせて評価する基準を出して、現実の前では本物云々の想定は無意味であることを述べてみた。
 ニセ科学批判をやっても良い理由を、現実の被害救済のコストに比べて「安上がり」だからと指摘した。

 自己矛盾することを言ってでもある論に反論したいというような人の主張は、現実の世界に足場を持ちようがない。tittonさんの主張がダメな理由は「論の中だけで閉じている」ことによる。「ニセ科学批判」という論が独立して存在しているという前提のもとでしか、tittonさんの論は効果を持たない。実際、議論の流れを見ても、具体的な例は何も出てきていない。批判の姿勢とか、メタな価値判断の部分しか議論できていない。論の世界だけで異議を出そうとする相手に対して、論のみの範囲で対応した場合、ダブルスタンダードの指摘等は可能だけど、わかりにくいものになる。その上、話をずらしたりそらしたり、自分の論に対する反論なのにわざとに独立の意見として扱うといった手法を使ったりするので、ダメさをわかりやすく示すのが難しくなる。メタな言葉の応酬になるからである。すると、

今回の議論では、tittonさんが労力をかけてまともな主張をしているのに対して、TAKESANさんが難癖をつけている(相手にしていない)ようにも見えるということがいえます。ニセ科学批判者は無礼だとか偉そうだとかいう印象をギャラリーに与えるかもしれません。

という懸念が出てきてしまう。 tittonさんが労力をかけているのは確かだが、それが空虚なものをそうでないように見せかけるための労力に過ぎないことをはっきりさせるには、tittonさんの都合のよい形、つまり論には論で対応するやり方で相手をするかわりに、徹底的にベタな話をぶつけておくと良いのではないかと思った。 私が主張した「ニセ科学批判が安上がり」の根拠を示すには、まず、比較相手である「現実の被害」の見積もりをすることになる。マルチや悪徳商法の被害金額はこれまでのケースから具体的に見積もれるし、いろいろ相談したりした場合のコストだって、拘わった人の時給換算で一定の金額を出すことが可能である。幅はあるだろうけど、平均的な被害金額とか、モデル被害ケースを作ることはできる。批判側の手間についても、時給換算して価額を出してしまえばよい。
 「ニセ科学批判批判」が批判の意義や論の価値などを比べる相手は「ニセ科学批判」である。価額を出して比較しようとすると、「批判を行う」行為のコストの比較にしかならない。つまり議論の手間の比較にしかならず、手間だけを問題にするなら、「ニセ科学批判批判」と「ニセ科学批判」はどっちもどっちだという状況を作ることができる。手間が変わらないことを示した上で詭弁をぶつけてくるのが批判批判側のしたがることである。しかし、そもそも「批判する行為」が妥当かどうかを考える場合には、考慮すべき対象が「現実の被害」でないと無意味である。これをあからさまに出しておくと、「ニセ科学批判批判」が「現実の被害」の救済策としてはまるきり役立たないことをギャラリーに示すことができるかもしれない。

 哲学的なあるいは抽象的な価値基準についての労力をかけた議論という体裁を取りたがる相手には、価額に換算で評価するのが、煙に巻かれない方法の1つではないだろうか。

 この考え方をとった場合、効力のある「ニセ科学批判批判」の中身とは、批判によって具体的な利益を失うことの主張になる。つまり、ニセ科学を使った商売で利益を得ている人の反論だけが、価額を比較可能な「ニセ科学批判批判」となる。

批判で済むなら安上がり

Posted on 1月 22nd, 2009 in 倉庫 by apj

 どうも、TAKESANさんのところに出てきている「ニセ科学批判批判の人達」(敢えてこう括る、今のところ2人ほど出てきたけど)って、話が言論だけで済むと勘違いしているような……。

 向こうに書いたコメントと重複するのだけど、ニセ科学を分けて考えると
(A)単なる表現にとどまっている場合。
 「相対性理論は間違っている」といった本を出すといった例。被害と呼べるものがあるとしたらその本を買って散財した程度であって、それ以上には広がらない場合。内容を信じちゃうと相対論を誤解するけど「相対論を誤解した」以上の被害はさしあたり発生しない。
(B)単なる表現に留まらず、他人を欺すことに使われて、言説が間違っている以上の被害を発生させる場合。
 水伝は浄水器の宣伝に使われたし、波動測定器はインチキ健康グッズの商材になった。景表法4条2項を適用するとそれなりに網をかけられるようなニセ科学。特商法の規制でも同様にひっかかってくるもの。
がある。

 (A)の方だけなら、ニセ科学は言論と表現の世界のみで閉じた話ということになるんだけど、(B)だって現実に存在していて、それなりに影響がある。ニセ科学宣伝をしている商材に大金をつぎ込んだ被害者が出てきたりして社会問題になると、(B)を使って商売した人を取り締まるとか処罰するといったことになるのだけど、これは現実のコストがかかる。
 例えば、
・被害者が金をつぎ込んでしまったり、借金をして利子がかさんだりする金銭的被害が発生する。
・被害者が消費者センターなどに相談にいくと、被害者も手間と時間をかけるし相談員も手間と時間をかける。
・被害者が行政書士などの法律家に仕事を頼んで解約&返金をしようとすると、相談料とか時間とかがかかる。
・取り締まりや処罰には、然るべき役所の人がやっぱり手間をかけて実行することになる。鑑定作業に科学者も使われたりするかもしれない。
・紛争まで移行すれば今度は裁判所のリソースを喰うことになる。
 いろいろ、各方面の手間暇を動員したって、引っ掛からなかった元の状態に戻すのは至難の業だろう。

 もし、ニセ科学批判の言説があったことで、信じて引っ掛かる人を減らすことができたら、引っ掛かった後から対応するために必要になるコストは不要になる。でもって、引っ掛かった後の対応のコストは、「批判すること」のコストに比べて相当に高い。
 批判する意見があったって引っ掛かる人は引っ掛かるのだろうけど、批判を見て引っ掛かるのを免れる人が居るなら、批判の方がずっと安上がりなんじゃないかな。

 批判批判の人達を見ていると、批判そのものが何か重大なことだと思い込んでるようにしか見えない。彼等は言論の世界しかない所に住んでいるのかもしれない(どこか別のバーチャルな世界の住人なのかもしれない)。現実の社会に住んでいるのなら、批判で済む分は批判で済ませる方が、楽だし、他への影響も少ないはずなんだけどね。

【追記】
 ここまで書くと、批判批判の人達の中には、そういう批判は科学者の仕事じゃないとか言い出して、勝手に他人の仕事の範囲を定義しようとする傲慢な意見を出す奴が出てくるかもしれない。
 でも、科学者だってこの社会に生きている。科学者がニセ科学批判をしているとしたら、それは、職業柄、何がどう変なのかに気付いたからである。別に、科学者じゃない人だって、ニセ科学の存在に気付いたら批判したって構わない。というか、気付いた人が声を上げて、それをきっかけにしてみんなで考えれば良いのでは。科学者だって専門を離れれば素人だから、別の分野では、誰かが声を上げたことで教えてもらう立場になる。まあ、お互い様である。
 研究をさせるために給料を払っているのだから批判はけしからんとか、もっとバカなことを言い出す人には、「一体どこの社会にお住まいですか?」と訊いておこう。私が住んでる世の中には、収入と結びつかなくても、した方が良いことがあるし、何かのペナルティと結びつかなくても、しない方が良いことがある。こういうアナログな部分を無視して線を引こうとするのは、言ってる人が単に社会性を欠いているか、それとも「カガク」(現実の科学じゃなくて発言者がこういうもんだと思い込んでいる科学ね)に毒されているか、どっちかなんじゃないかなぁ。

「本物」の科学を手にしていないとニセ科学を批判してはいけないのか?

Posted on 1月 21st, 2009 in 倉庫 by apj

 TAKESANさんのところにちょこちょこ書き込んでいたら出てきた問い。
 「正しい」あるいは「本物」の科学を知らないとニセ科学を批判してはいけないのか?ということについて。

 ニセ科学はニセだからまずい、もっと言うと「ニセ○○」は○○が何であっても他人を欺すからよろしくない、というところから出発する。そうすると、じゃあ今の科学は本物と呼べるのか、と言われたりするので、ニセ科学が何をどう欺しているかをまとめておく。

 科学自体は時間が経てば知識が増えて内容が書き換わったりするから、今あるものが、一般的な用語の意味で、絶対に「本物」「正しい」とは言えない。じゃあ、ニセ科学が何を偽っているのかというと、「精度」「信頼度」を偽っている。しかも、著しく、極端に偽っている。
 今の科学が、永劫今のままで有り続けるわけは無いだろうけど、今の科学の精度や、内容に対する信頼度というものは確かにある。その精度を担保しているのは、世界中で実験と観察を積み重ねてきて、結果を関連づけて組み上げたということそのものである。科学は断片的な知識を集めただけのものではないので、一部分を全く違うものに置き換える(例えば、水の結晶が言葉で変わってしまうことにする)と、残りの部分もほとんど崩れることになる。だから、今の科学を何か別のもので置き換えるのなら、その別のものが、今の科学のカバーしている範囲をそっくりカバーできない限り、置き換えとしては使えない。今より貧弱で使えないものをわざわざ採用する意味なんか無いからである。

 それなりの精度でそれなりの範囲で使える科学があるところに、場当たり的でちっとも使えないものが科学の振りをして出てきた、というのがニセ科学である。だから、ニセ科学を批判するのに、今の科学が絶対だとか本物だとかいうことは必要がない。
 つまり、客観的に最良の品かどうかを判断するのは人知を超えた話であるとしても、今人が提供できる最良の品を売っているところに、クズ級ゴミレベルの粗悪品が出てきた、ってことなのだから。そりゃ、良品を売ってる側だって、間違って粗悪品を掴まされた側だってクレームをつけるわな、そんなニセモノが出回っていたら。

想定しているユーザーが違う

Posted on 1月 20th, 2009 in 倉庫 by apj

 chnpkさんの「「ニセ科学」と「ニセ科学批判」と「ニセ科学批判批判」について」を読んだ。
 「ニセ科学批判批判」と、私が実際にやってきた(今も進行中の)「ニセ科学批判」がかみ合わない理由として、批判批判側が藁人形を攻撃しているからではないかと思っていたのだが、ずれの中身が少しはっきりそうなので言及しておく。

 chnpkさんの指摘は次の通り。

「ニセ科学批判」と「ニセ科学批判のユーザー」ところで、ここまでの考察ですでに、<ニセ科学批判のユーザー>と<ニセ科学批判者>とを区別することは可能に思われる。ニセ科学批判のユーザーとは即ち、上述した「科学についてまったく無知であり無理解のまま、「ニセ科学批判」という枠組みのもとで、科学的な気分を満喫する」人々のことだ。一方で「ニセ科学」批判者とは、「ニセ科学批判」の枠組みを設けた人々、素人でも「ニセ科学」を批判することができるようなまさにその枠組みをこしらえた人々である。「ニセ科学批判のユーザー」に限った話であれば、その動機を想像することはたやすい。「ニセ科学批判」の尻馬に乗っかることで、知的な気分を味わうことが出来るからだ。

「ニセ科学批判」のユーザーは、「ニセ科学批判」を消費する。資本主義における消費は、労働者という被支配者層における決して満たされない支配欲を、貨幣の支払いによる財やサービスの獲得という形式で、お手軽に実現する。財やサービスの獲得はお手軽な支配であり、貨幣の活用は経済システムからの疎外感から人間を解放する。はてなブックマークのボンクラどもがネガコメの対象にリンクを提供しながらスターをもらってニヤついているのも一緒だ。同様に、「ニセ科学批判」のユーザーは、簡単なインターネット検索で入手した「ニセ科学批判」の枠組みに乗じて啓蒙活動に参加することで、つかの間の優越意識と科学による支配を脱したかのような錯覚を得る。これらはまったく同じだ。つまり「ニセ科学批判」の消費のレトリックと言える。

 この指摘が、「ニセ科学批判」と「ニセ科学批判批判」のある面を捉えているのだとしたら、そういう批判批判の人が何を言っても、私の主張とはかみ合わない。私のニセ科学批判のユーザーとして私が想定しているのは、「「ニセ科学批判」の尻馬に乗っかることで、知的な気分を味わうことが出来る」人ではなくて「ニセ科学によって現実の被害を受けている人」だからだ。例えば、ニセ科学宣伝に騙されて悪徳商法の被害者になりつつある人は、想定したユーザーの一部である。
 ニセ科学批判のユーザーが「現実の被害を受けている人」であるならば、ニセ科学批判をやった結果敵対することになるのは「ニセ科学のユーザーであることによって利益を得ている人」ということになる。だから、営業妨害だというクレームが来るのは想定の範囲内のことである。批判をする活動を維持するには、最終的には訴訟で勝てば良いのだから、訴訟で負けない範囲で批判を書く、ということを考えてきた。去年あたりから現実の訴訟をやって、誰かの利益に反するニセ科学批判をやってもそれなりに大丈夫だということを示すことを試みている。
 「素人でも「ニセ科学」を批判することができるようなまさにその枠組みをこしらえた人々」とあるが、その中に私が入るとは考えていない。誰かの利益に直結する批判は、迂闊にやれば、訴えられて負けるという形で足を掬われるからである。裁判所で主張を通すためには、個別の事例に即した徹底的にベタな批判でないと難しいし、批判の内容を支える根拠や批判のあり方が不法行為ではないことを裁判官に納得させられる状態を保っておかなければならない。枠組みをこしらえたから批判をどうぞ、というのはあまりに無責任である。
 私が敵対する相手として想定しているのは「私の批判で不利益を受ける人」なので、「ニセ科学批判批判」の人達に対しては「で、あなたの不利益は一体何?」と訊くしかなく、この問いに対して明確な答えが無いならば、「現実の被害を防ぐ活動を単なるお前の趣味で邪魔をするな」としか言いようがない。

 ニセ科学が根絶できると思ったことはない。簡単に結果が得られることを期待する傾向を、弁護士の紀藤正紀は「インスタント指向」と名付けた。ニセ科学の多くは、現実のややこしいことから目を逸らさせ、結果が簡単に得られると煽るために使われている。これは、楽して結果を得たいという欲求と合致する。「インスタント指向」という、受け取る側の心情が、ニセ科学を受け入れやすくしている面があるともいえるので、そう簡単にニセ科学は根絶できないだろう。ニセ科学を根絶せよというのは、楽して結果を得たいという心情を捨て去れということに重なってくるからだ。「そんな都合の良い方法はありませんがそれが何か?」と身も蓋もない現実を提示する科学は人を甘やかしてはくれないので、ウケは悪いはずである。
 現実問題として、ニセ科学よりはよっぽど理屈の単純なオレオレ詐欺ですら、警察や銀行が頑張って啓蒙活動をしたり取り締まったりしても、根絶できていない。心情の部分を突いて騙す行為を根絶するのはほぼ不可能だということの証左ではないか。

 もし、「多大な効果を上げるニセ科学批判」なるものがあったとしたら、それはカルトによる洗脳と大差ないものになるだろう。却って危ない。だから「ニセ科学批判批判」側の人に言っておく。「多大な効果が無い」という設定で批判するんじゃなくて「多大な効果がない」から今のところ安全、と見るべきなのだ。

効果を度外視してなお、「ニセ科学批判」という活動に没入するのであれば、そこにはなにか別の動機があるのではないかと勘ぐりたくなるのは自然なことだろう。その別の動機が、「ニセ科学批判批判」の立場からは、「ニセ科学批判者」においては大衆を支配することであり、「ニセ科学批判のユーザー」においては「勝ち誇った自己肯定」の感覚を得ることであるように見えるというわけだ。であれば「ニセ科学批判批判」の動機についてはつまり、次のように言うことができるだろう。本来の動機や目的を隠蔽した、ニセ・ニセ科学批判に向けらる不快感であると。

 こう考えている人が「ニセ科学批判批判」側に居るのだとしたら、随分ケチな考え方をするものだと評価するしかない。そういう人達は、コピペの「ニセ科学批判」を見たどこかの誰かが、現実の被害者にならずに済むかもしれないことは想像もしていない。仮に「勝ち誇った自己肯定」に基づいて書かれた批判であっても、それを読んだことで、現実の悪徳商法の被害者になることを免れる人が一人でも二人でもいれば、その批判には意義がある。不快感で足を引っ張るだけの人よりはよっぽど他人の役に立っているはずだ。

 言論や表現は、そもそもの動機や目的とは違った形で、受け取った人に影響を与えることがある。自己肯定したいのなら、誰かを助けるとか誰かの役に立つということを目指したらどうだろう。優越感云々じゃなくて、お互いに助け合いましょう、で良いと思うのだけど。

【追記】
 楽して結果を得たいという心情には2つの意味がある。1つは、例えば「○○ダイエット」のように、これさえやれば苦しい運動や食餌制限無しにダイエットという結果が得られる、という、ただ単に安易に結果が得られる、というものを受け入れたいという心情。もう1つは、ニセ科学の内容自体がニセ故に単純で、学習の努力なしに解った気持ちになりやすいということ。ニセ科学が、ダイエット法のように目に見える利益とあからさまに結びついていなかったとしても、楽して理解できたという気持ちとは結びついている場合がある。

i文庫がバージョンアップ

Posted on 1月 19th, 2009 in 倉庫 by apj

 iPod Touche/iPhoneソフトのi文庫(青空文庫リーダー)がメジャーバージョンアップした。メジャーバージョンアップなのにバージョンアップ代金は無料。制作者さんに申し訳ない気分になった。
 今回は、青空文庫の作品リストデータベースのアップデートができるとか、青空文庫全内容のほぼ一括ダウンロード(実際にはファイルを10個くらいの圧縮ファイルに分割したものを自動で順次ダウンロード)ができるようになったのが大変に便利である。早速一括ダウンロードした。7000篇以上の作品を持ち歩けるようになった。
 私の環境では、バージョンアップしたら、旧バージョンで個別ダウンロードしたファイルが全部見えなくなったが、一括ダウンロード機能が追加されていたので、復旧というか元よりもファイルが多い状態にできて、特に不満はなかった。
 しかし、「法窓夜話」を読もうとすると相変わらずエラーが出て読めない。調べてみたら、このファイルはSHIFT_JISではなくてSHIFT_JISX0213で、i文庫側では第三水準の文字の表示のあたりで引っ掛かっているっぽい。第三、第四水準対応の別のリーダーだと表示できた。

レポート売買サイト

Posted on 1月 18th, 2009 in 倉庫 by apj

 最近、コメントをくださったなるさんのサイト(理系済)でも紹介されていたのだけど、レポート売買のサイトがある。

 教員側の対策としては、レポートで成績をつけるのを止めて、持ち込み不可あるいは限定した資料のみ持込可(指定許可書のみとか、指定した資料集のみとか)の試験をすればそれで済みそう。あとは、過去問と同じ問題を出さないとか、条件を振り分ける部分が微妙に違う問題を出して丸暗記でどうにかしようとするとばっちり引っ掛かるような工夫をするとか。

 法学のレポートなんかも大量に出回っている。ところで、法律系についていえば国家資格や試験(弁護士、司法書士、行政書士、弁理士、法学検定試験など)があり、試験過去問や類似問題への対策はいくつもの予備校が山ほどだしていて、受験する側だって相当勉強なり研究なりしてから試験に臨んでいても、通る人は通るし落ちる人は落ちる。過去問の答えを丸暗記して試験に臨んだって、次に出る問題で得点できるとは限らない。この事実を考えると、レポート問題を攻略されても学生の実力を測る方法はいくらでもありそうに思う。

 しかし、こういうサイトで課題を攻略された教員はいろいろ複雑な気分になるだろうなぁ。特に、攻略済みの問題を出しているにもかかわらず学生の出来が悪かった場合は。ズルして丸写しレポートを出す学生を通すのは教育機関として問題だというのは確かだけど、攻略情報にもたどり着けない(あるいはたどり着いてもその情報の活用すらできない)学生が居るという事実も同時に判明してしまうわけで、今時その程度の検索能力・情報処理能力もない学生をパスさせていいのかという別の問題も発生する。

Moon Atlas

Posted on 1月 17th, 2009 in 倉庫 by apj

 iPod touchアプリのMoon Atlasを買った。月の地図。地球儀みたいに回せる表示に切り替えると裏側も出る。拡大もできるし、主なクレーターの名前や場所が表示されて楽しい。

聖書のサイト

Posted on 1月 16th, 2009 in 倉庫 by apj

 The Unbound Bible。各国語で聖書が読めるページ。いやまあ、「読める」かどうかは語学の修得状況によるけど……。ヘブライ語とかラテン語とかもある。

健康本的作家養成本

Posted on 1月 15th, 2009 in 倉庫 by apj

 「すべてのオタクは小説家になれる!」大内明日香・若桜木虔著、(イーグルパブリッシング)を読んだ。
 一言でいって、健康本(しかもいわゆるバイブル本)的作家養成本である。しかも、健康本に例えるとするならば、最近の「壮快」という雑誌の路線に近い。なお、「壮快」は、怪しくても健康関連情報を載せるという範囲から既に逸脱し、魔方陣を付録につけるというぶっ飛び具合を見せている。本来テーマとなるべき情報そのものが怪しい上に、本筋と関係のないところが妙に詳しく書かれているあたりが、この本と「壮快」の共通点である。「健康本」を読んでも、健康について間違った知識を得るだけでちっとも健康にならないという意味で、この作家養成本は健康本的である。

 まず、「第一章 オタクは小説家に向いている」。

「オリジナリティ」は重要ではありません。

と断言している。その理由の一つ目は、

だって、オリジナリティがあると言いたいだけなのであれば、「見たこともないような奇妙キテレツな小説とも言えないような代物」を書けばいいんですから。

 それ、オリジナリティじゃなくて、単なる「読むに堪えない文」では。もう一つの理由は、オリジナリティは作家を幸せにはしないからだと書いてある。

例えば、ネットで新人賞の受賞作家を検索して、その中から「デビュー作一作しか本になっていない作家」の作品をピックアップして読むと、実は多少なりとも他の作品よりはオリジナリティがある確率が高いのです。

 デビュー作の後、次々と作品を生み出している作家の一作目が軒並み凡庸だということまで言わないと、こういう結論は出ないはずである。私にはとてもそうは思えない。サンプリングの仕方と結論の出し方が健康本的である。
 この筆者は、オリジナリティの代わりになるのは専門知識だと主張している。このことが、オタクが小説家にむいているという説とつながっている。その理由として列挙されているのが、

①「特定分野に対して専門知識がある」②「まじめでコツコツ型が多い」③「一人でなにかをすることができる」

 オタクに限った属性でも小説家に限った属性でもないと思うが……。 小説家になるために絶対に必要な才能としては、

「小説を書くことが好き」「小説を書くことが楽しい」

が必要だと……。そういう作家さんが居てもよいとは思うけど、職業ってそういうもんだっけ?むしろ、辛くても続けられるとか、苦にしないといったことの方が重要なのでは。
 と読み進んでいくと、49ページで驚愕のどんでん返しが!

 この本ではいわゆる「小説の書き方」は説明しません。
 なぜなら、そういう本は、私達が説明するまでもなく、世の中にたくさんあるからです。
 たくさんある小説作法署の中から、あなたが気に入った本を選んで、その記述に従って、まずは一本、小説を書いてみてください。

 この本の狙っているターゲットって、オタクであるという自覚があり、かつ、自分も作家になれるかも、と淡い期待を抱いている層じゃないのか?しかしこの本で小説の技術を教えるつもりは全く無いらしい。つまり、題名通り「すべてのオタクは小説家になれる」と読者をただ単に煽るだけの本だったのである。
 次に、読者を

「善意の読者」とは、「あなたの作品が良くても悪くても、最後まで読んでくれる読者」のことです。
(中略)
「悪意の読者」とは、「おもしろくなかったら途中で読むのをやめてしまう読者」のことです。

 と二分している。で、「悪意の読者」対策をするとプロ小説家になれる、というのが筆者の主張である。その対策の一つとして、「出し惜しみをするな」というのだが、

言い換えれば「竜頭蛇尾はOK!」ということになります。
(中略)
もっと極端な話をすれば、物語は完成しなくてもいいのです。
竜頭でありさえすればいい。

 最初の見かけが悪いと小説を手にとってもらえないが、最初が良ければとりあえず読んでもらえるというという話である。「竜頭で最後が不明な小説」を間違って買わされた読者は絶対に次からその作家の本は買わなくなると思う。1回だけカモをひっかけて金を巻き上げてドロンするつもりならこの方針でも良いかもしれないが……。というか、ぱっと見よく見せかけて実は品質が大変悪いものを売りつけるって、普通に悪徳商法の典型的な手口ではないかと。
 驚愕する主張はまだまだ出てくる。

読者は複雑なことは「絶対に」理解できません。(中略)さて、それを防ぐために、「わかりやすく書くためのコツ」をお教えします。それは、「対象読者を『虫』に設定する」
ということです。

 小説の書き方ではなくて、インチキ健康法を書くときの姿勢に見える。
 さらに、ゴシック体で強調されているのが、

「リアリティは計算して作り上げるもの」「取材は、必ずしも必要ではない」

 体験談が全部捏造だった健康本を思い出した。 小説を書くための技術を教えるつもりは全く無い本だが、「第四章 小説家になるための「弟子入り」大作戦!」が、妙に具体的である。
 たた漫然と読んでも面白くないので、私がオタクで(これは事実)作家志望(これは仮定)だとして、作家の誰かに弟子入りを試みるというシチュエーションを想像しながら読んでみる。作家は……具体的な誰かを想像する方がイメージが湧くのだが、面識があるのがと学会会長の山本弘氏なので、SF作家を志望する私が山本会長に弟子入りを試みる、という妄想でとりあえずはOKだな。

 師匠を持つからには、師匠の知識と人脈を根こそぎいただくくらいの気概で接しましょう。そして、師匠とのふれあいを、あなたの作品がより素晴らしくなるための栄養にしましょう。

 ……いきなり濃い目標だが、最後の文、「あなたの作品をより素晴らしくするための」が日本語として正しい気がする。

 見ず知らずの人に「弟子にしてください」と頼むのですから、生半可な気持ちでは、相手も迷惑なのです。

 本気で押しかけたらもっと迷惑をかけそうな気がするが……今回、相手は妻子持ちだ。

 けれど、あなたがもし、やる気と向上心と社会的常識をちゃんと持つ人なら、師匠の方でも大歓迎です。

 えーと、私が今の准教授の職を蹴飛ばして大阪の山本会長のところに転がり込んだ時点で、ほぼ全ての人が私の「社会的常識」を疑うに違いない。

 「特定の一人に気に入られるように工夫すること」は、「読者全員に気に入られるよう工夫すること」と、なんら変わりはないのです。

 山本会長の好みって、同人誌の「チャリス・イン・ハザード」の主人公みたいなのだよな……。私ゃ、歳取りすぎてるし、かわいくないし、一体どうすりゃいいんだか……。ダイエットとエステから始めたってごまかすには無理がありすぎる。  で、弟子にしてもらえなくても恨むなとか、相性があるとかごちゃごちゃ書いてあって、いよいよ具体的な方法が示される。

 まず、「この人の弟子になりたい」「この人に指導していただきたい」というターゲットを複数決めましょう。

 いきなり複数かよ!断られることも前提にするのだから予備を考えるのはわかるけど、芸の師匠を決めるってこんな安易な話だっけ? ターゲットに接近する方法は、難易度順に示されている。このご時世、いきなり押しかけると通報されかねないので、まずは、

「ターゲットのブログ」あるいは「掲示板」「ミクシィ日記」にコメントをつける「はじめまして。いつも先生の作品を拝見している者です。こちらもときどきのぞかせていただいております。(日記や作品の感想)。以後、よろしくお願いいたします」とでも書いておけば、ファースト・コンタクトはOKです。

(中略)

しかし、あんまり頻繁に書き込むと気持ち悪いと思われてしまうので、週に一、二回くらいがいいかと思います。

 これくらいなら、まあ目立たずできそうだ。
 次に、自分のブログのURLをコメントに書いたりしてターゲットを誘導する。このときの心構えは、ブログを面白くしておいてターゲットに好感を持ってもらうことが大事だそうで。
 次の方法は、ターゲットの知人に紹介してもらう、というものだが、

どうやったらターゲットの知人がゲットできるか。その方法は千差万別で、ひとくちに説明はできません。このやり方を試す人は、自分でいろいろ工夫して考えてみてください。

 と、アドバイスする気ナッシングな記述が。 で、知人が居なければターゲットに直接声をかけることになる。この方法は、

ターゲットに「直接声をかける」ためにはまず、ターゲットのスケジュールを調べます。(中略)
講演会やイベントのスケジュールの日程を調べればよいのです。

(中略)
「スーツ」を着ていくことをおすすめします。

(中略)
弟子入りもまずはお友達、知人から。
考え抜いて、なにか「用件」をでっち上げてください。

(中略)
ひとつめは、「大学で教えている人には、『あなたの講義を聴きにきました』と言う」方法。
もうひとつは、「あなたの所属するナントカに入れてください、と言う」方法。

(中略)
また、そもそも「ターゲットと接触するために、ターゲットの入っているグループに別ルートから入る」という手もあります。
(中略)
また、ターゲットの「よく行く店」が判明している際には、その店に通って、ターゲットが来るのを待つ、という手も非常に有効です。
(中略)
どんな有名なターゲットでも、「本業とは関係ないところ」から入ると、意外に簡単に接触できるものなのです。

 相手の行動パターンを読んで、好みを調べ、待ち伏せしろということか。つまり、東京のと学会例会の後、大阪に戻る山本会長の後をつけて新幹線に乗り、どこの店に立ち寄るかとかをしつこく調べてそこで待て、ってことだな。で、会長の好みを下調べした上で、バーかどっかでくつろいでいる会長に、楽しい話でアプローチせよ、と。
 直接接触が大変な場合は、ターゲットにメールを書くといことが薦められているが、

ここで、「ターゲットがどういうふうにこの手紙を読んで、どう感じるか」ということを徹底的に考え抜いてメールを書かなくてはなりません。(中略)
つまり、一通のメールには、あなたのすべてが投影されている」と言っても過言ではありません。
(中略)
いかに私があなたに好意を抱いていて、真剣な気持ちで、お遊びでなく、あなたの指導をうけたいと思っているか。その気持ちを考えに考えて、それこそ丸一日考えるぐらいの気持ちで書いてください。
(中略)
師匠捜し、ターゲットに接触するためには、「使える手は(犯罪以外なら)なんでも使う」「楽をしようとしない」。この二つは非常に大事です。

 用件が無いと書けないので難易度が最も高いとされている手紙については、

「手紙の場合のみ、『押しの一手」というのが、効く可能性がある」(中略)
「手紙は必ず、手書きにする」

(中略)
文字を見れば、真剣に書いたのかそうでないのか、その人の性格はどうなのか、また便せんや筆記具の選び方、宛名の書き方(もちろん手書きにしましょう)、果ては切手選びのセンスまで、ありとあらゆることが問われることになります。

 どう見てもラブレターの書き方である。つまり、山本会長が好みそうな絵柄の便せんと封筒のセットを買い、知る限りの文句を並べてアプローチせよ、と。
 無事に弟子入りできたとして、その後の注意は、

つまり、師匠と弟子の関係は「生きた関係」でなくてはならず、そのためには弟子の方から、何らかのアプローチをしつづけなくてはならないのです。

 読めば読むほど、SF作家になるため山本会長の元で修行している姿ではなく、ストーカーまがいのモーションをかけた挙げ句に不倫をしている姿しか思い浮かばないのは何故だろう……。 とにかくこの本、オタクが、コミケあたりに出しそうな二次創作を気軽に書こうとか、そこから一歩踏みだして作家になろうということを目指すための解説本だと思ったら大違いである。
 最初の3章は、健康バイブル本のフォーマットで書かれた、インチキ健康本を書くときに参考になる情報。第4章は、彼氏か彼女を見つけてアプローチし、無事ゴールインする(相手が未婚の場合)か不倫する(相手が既婚の場合)ための方法にしか見えない。
 その上、肝心の小説作法は別の本を見ろといってスルーされており、やたらこまかく具体的で情景が思い浮かぶのは「弟子入り大作戦」の部分だけである。
 真面目に作家を志望するとか、プロにならないまでも小説を書くことを楽しむために技術を身に付けたいという人は、別の本を読むべきである。