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UFO極秘プロジェクトと日本自衛隊

Posted on 11月 23rd, 2008 in 倉庫 by apj

 UFO本フリークではないのだが、タイトル通りの本「UFO極秘プロジェクトと日本自衛隊」を見つけて衝動買い。
タイトルから内容は推して知るべしだが、学研のMU BOOKSだから納得、著者は並木伸一郎氏。
 ムーンホークス説を極めて科学的かつ合理的に否定している部分と、それ以外の部分のギャップが楽しい。UFO信者は、「月面に宇宙人が何やらつくっているのがアポロ計画でわかったが、NASAはそれを隠蔽している」という筋書きを信じているから、「アポロは月へ行ってなかった」ということになると大変に困る。だから、ムーンホークス説の否定部分だけがまともで、他は……ということになる。
 目撃系ネタは1970年代の、ブームのころのものがほとんどで、多分、もう既にさんざんこの手の本で出尽くしているんじゃないかと。
 この本では、ロズウェルに墜落したUFOは日本が開発した気球で、空飛ぶ円盤に見えたのは気球本体ではなく乗り込む部分が円盤ぽい形をしていたからで、発見されたとされる宇宙人の正体は特殊訓練を受けた日本人パイロットだ、という話になっている。高空で宇宙線に人体をさらすという人体実験をしていたということになっている。
 著者がどんどん空想をふくらませるもんだから、もはやオリジナルのロズウェル事件との共通点は、何かが落下したという点以外に無くなってしまっている。
 この先、一体どこまで話が変わっていくのか……。できれば奇想天外荒唐無稽な物語に化けさせて、末永く楽しませてももらいたいものである。

finalvent氏の不誠実さについて

Posted on 11月 22nd, 2008 in 倉庫 by apj

 finalvent氏の偽科学発見テストについて。
 なぜか、ログインしてもコメントが書けない状態になっている。はてなは使い倒したことがないのでよく分からないが、システム上の何らかの制約だとすると、動作が不安定になったりするかもしれないので、話を続けるために魚拓をとっておくことにした。

 さて、finalvent氏の論の展開は不誠実だと考える。議論の流れは元エントリーや魚拓を見てもらうとして、私の説明に対して

疫学についてご存じないようにお見受けします。apjさんとはこの話はここまでさせてください(敗北宣言と受け止めてくださってかまいませんよ)。

 と書くくらいなら、脚気について、疫学での結論はここまでで病理での結論はここまでで関連はこうだ、ということについてfinalventさんなりの見解を述べるべきである。元のwikipediaの記述は相当はしょったものである。 議論は、勝ち負けではなくて、より有益なものを得るためにするのである。ましてや、今回のテストの目的は、科学の難しさを伝えるあるいは認識させることだというのがfinalventさんの主張なのだから、どう難しいかを最終的にはわかるように説明するのが筋である。問題だけ出して、曖昧なまま終わらせるのであれば、テストの目的が果たされたとは言えない。そこを伏せたままにするのは、論者として誠実さを欠く行為である。
 次に、元のエントリーでfinalventさんは、

最初にいうと、私がざっとぐぐった感じでは、この問題を解くための、ネット上の情報がめっからなかった。その意味ではネットの限界指摘にもなるといいなとは思う。追記:探すとあるにはあった。

 と書いている。

 これに対して私は
「 ところで、敗北宣言と受け取ってもらって結構です、などと無責任な投げ出し方をする前に、1つ忘れていることがありますね。当初インターネットにはこの問題の解答がなかったが、探して見つけたと書いておられますね。これがウソでないのなら、何を見つけたか開示してください」
とコメントした。
 議論もかなり進んだし、あちこちで話題になって、テストの目的もそれなりに果たされただろうと考えたので、良い頃合いだと思ったからである。ところが、finalventさんの答えは、

apjさん、ども。「ところで、敗北宣言と受け取ってもらって結構です、などと無責任な投げ出し方をする」のが未練たらしく見えるようでしたら、すみません、まいりました、apjさんには完敗しました、これにてご勘弁を。

 私が欲しいのは、finalventさんがぐぐって後から見つけたネット上の解答が何であったかという情報である。出題者として、もうちょっと他の人が回答してから開示したいというのなら、それを待つつもりであった。謝罪モドキでごまかされて、私としては非常に不愉快である。
 向こうにコメントが書けないので、こちらではっきり言っておく。

(1)完敗宣言も謝罪も却下し、受け取らない。
 議論はそもそも勝ち負けではないし、何についての勝ち負けだかはっきりしないものについての完敗宣言など意味不明である。
(2)適切な時期に、ぐぐって後から見つけた回答のソースを提示してほしい。
 finalventさんは曖昧な書き方や思わせぶりな書き方をするばかりで、回答を示していないのだから、私としては、回答のソースを見に行って自分で答え合わせをしながら考えるしかない。

 っていうかさ、人が真面目に考えて、そっちが教えないから自分で回答を見に行って考えましょうと言ってるのに、「回答のありかを教えてやらないよん」って、それ何て幼稚園児のイタズラ?

【追記】
 そういえば、私の回答にも思わせぶりなツッコミを入れるだけで採点はしなかったな。
普通は、テストをするときは、終わったら採点して講評するもんだと思うが……。他人の反応だけみて参考にするっちゅうのは、それ、テストちゃう、アンケートや。

【追記2008/11/29】
 TAKESANさんのところのエントリーに、TAKESANさんが2008年11月28日 (金) 19:06にコメントされていますが、finalvent氏は、idでコメントをブロックしている模様。それが本当なら、finalvent氏は、
・自分から挑発しておいて
・自分に都合の悪いことを書くidからの書き込みはさせないようにし
・都合のよいコメントだけを集め
・しかもその議論の進め方は、皆で検討できる証拠を出すことを引きのばしまくり、曖昧な質問を繰り返す
ということを現在進行形でやっていることになる。
 こういうのは、「不誠実」ではなく、「卑怯」と呼ぶのが正しい。
※もちろん、コメントをどう扱うかはblogの管理者に任されている。だから、finalventさんのやっていることは管理者権限の範囲であることは言うまでもない。しかし、管理者権限の範囲で振る舞う場合であっても、誠実な振る舞いとそうでない振る舞いの違いが生じることがあり、今回のfinalventさんの振る舞いは、「管理者権限の範囲」且つ「不誠実あるいは卑怯」というのが私の評価である(黒猫亭さんの助言により追記)。

finalvent氏のコメントにさらに突っ込んでおく

Posted on 11月 22nd, 2008 in 倉庫 by apj

 ログインしないと反論が書けないので、こっちにで突っ込んでおく。
finalventさんによる元のエントリーはこちら
私の回答はこちら

 元エントリーの方に、私の回答に対するコメントがあるので、こちらからもコメントしておく。

基本的にその言い分が当てはまるなら千島学説もおK。

 全く違う。 千島学説のような内容が、今の生物学が成り立つ前に述べられたのであれば、その時点ではあまたある仮説の1つ(但し後になれば間違いとわかるもの)に過ぎなかったはず。千島学説を主張しても、非科学でも擬似科学でもなかった「時代」は、過去には確かにあったはず。但し、千島学説を、*今*科学的真実として述べれば、擬似科学と言われても仕方がない。 実際の千島学説は、成立時期を考慮すると最初から相当程度間違いだと評価するしかないが……。
 同様の例としてホメオパシーがある。ホメオパシーも、考え出された時代には、医学の可能性の1つだった。今では効果が無いとわかっているから、科学として主張すれば、ニセ科学になる。しかし、当時ホメオパシーに取り組んだ人達に対して、今の視点から「ニセ科学に基づいて治療していた」と批判するのは当を失する。
 

 なお、ここに書かれているのは歴史文書ではなく現代の見解。

 現代の見解に当てはまるのは、精米がビタミンB1を含まない(つまりゼロである)、という部分のみ。解釈して現代の見解まで広げるとしても、ビタミンB1欠乏が脚気の原因となるという記述だけ。それ以外の部分は、科学に対する現代の見解ではなく、歴史に対する現代の見解であるので、間違っていたとしても擬似科学とは呼ばない。 もう少し読むとしても、過去のある時点で広く問題になった脚気は、今から考えるとそのほとんどがビタミンB1欠乏によるもので、麦を食べることで解決したという歴史的経緯を書いているだけであって、脚気の原因の全てを説明したとか定義したとかというものではない。だから、脚気の原因に別のものがあることが仮に後からわかったとしても、wikipediaの記述は擬似科学ではない。当時問題になっていた脚気の大部分は、今から考えるとビタミンB1欠乏が原因で起きるものであったからである。

 偽科学は非科学的な思考・方法論の帰結であって、同質。

 これも違う。非科学的な思考・方法論の帰結という括りをしてしまうと、コックリさんとか、水子の霊の祟りといった、オカルトに分類されるものまで含む。この括りをすると、最初から科学の枠組みに入りその枠組みで間違いと判定されたものと、最初から科学では扱えないオカルトが一緒になってしまうという不都合が生じる。

「ニセ科学」を間違った科学と別に定義を必要とする理由が、単純にわからない。

 仮説を立てて、科学の手続きに従って調べていることが間違いかどうかは、後になるまでわからない。いろいろ調べて正しいのがどれかわかってきたら「間違った科学」という結論になる。この場合の「科学」は方法論や手続きの意味ではなく、明らかになった内容そのものを指す。 脚気の例でいうなら「脚気の病原体である脚気菌を発見した」「脚気は脚気菌が原因で発症する」は間違った科学。過去にそういう説が真面目に科学として検討された結果、脚気菌の存在は、今では否定されていて、この考え方は誰も採用していない。脚気菌説は、今では間違った科学であるが、過去のある時点ではそうではなかった。 もし、今、「脚気の原因はビタミンB1欠乏ということになっているけど、実は脚気菌によって起きる」と言い出せば、それはニセ科学言説ということになる。
 間違った科学は今でも作られ続け、捨てられ続けている。捨てなければならないことがはっきりしたにも関わらず、捨てずに科学的真実として主張すればニセ科学になる。
 これとは別に、最初から科学ではないものや、まだ科学として検討されていないものが、うわべだけは一般の人に対して科学に見えるような形で登場する場合があって、これもニセ科学に含めている。
 間違った科学=ニセ科学、としてしまうと、最初から科学でなかったものや、まだ検討していないものが含まれなくなる。間違った科学とニセ科学は完全に重ならないので、別途ニセ科学と呼んで区別する必要がある。
 最初から科学でなかった例は「水からの伝言」(∵江本氏が自分のイメージで結晶写真を選んでいると自分で書いているから)、まだ検討していないのに結論が出たかのように提示されたのが「マイナスイオン」ということになる。

 あるいは百歩譲って「ニセ科学」なるものが独自にあるとしても、通常の科学方法論とその考え方さえあれば、対処にまるで困らないし、むしろ、教条的に「ニセ科学」のリストを暗記したかのように批判することで、科学的方法論がスルーされてしまう。

 何度も書いたように、科学を装うが科学でない、と定義している。科学としてどこが間違いか、あるいは、科学を装っているだけでもともと間違った科学ですらないのはどの部分か、という具体的な指摘を伴わないニセ科学の批判はあり得ない。 finalventさんの書かれた2008/11/21 18:26のコメントについて。

水伝を例にするなら、これが教科書に載っているというのはとんでもないことだと思います。ただ、掲載されているのは国語ではないでしょうか。

 水からの伝言が教科書に載ったことはない。で、使われたのは主に道徳の教材として、教師が自発的に使った。一時期、TOSSという教育ポータルの団体が、水からの伝言を使った道徳実践例をウェブで公開し、さらに広がった。このいきさつは、批判の度にあちこちで問題にしてきた。

 たとえば、水伝で詐欺事件や悪徳商法が行われているなら問題です。実際、そのような印象も受けるので、その批判はあって当然でしょうくらいに思います。

 水伝、というか江本氏の水結晶写真が使われたのは、道徳よりも水商売が先。印象も受けるどころか、ばっちり宣伝に登場しているのが現実。

ただ、「ニセ科学批判」は、そういう社会のルールということで展開されおらず、稚拙な科学教条主義として展開されているように見えるし、私にその批判が向けられる。それなら、その批判者に、科学というものがどれだけ難しいものか、おわかりなりますか、ということを実際にやってみてもいいかと思いました。

 思い上がるな。私にわかったのは、finalventさんが、社会の問題も含めてニセ科学を批判してきた状況を何一つ知らずに勝手な思い込みでテスト云々と言い出したということだ。そのことは、上のとんちんかんな水伝に関する認識を見ても明らかだと思う。
 それはともかく、脚気の疫学研究について詳しくまとめたものを見つけた。
我が国の被感染性疾患疫学的研究の歩み」(pdfファイル)
リファレンスがかなり充実している。

「信じるだけ」って前提が意味をなさない

Posted on 11月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

 「信じる自由は内心の自由」でも書いたのだけど、もうちょっとわかりやすい例で。

 あるニセ科学言説に対する批判は、それが他の人の目に触れる(例えばblogに書かれて私が読める状態になっている)から可能になる。どこにも書かれていない、ある人が心の中だけで信じているニセ科学言説は、他人の目に触れることがないから批判されることはない(現実問題として批判は不可能)。
 すると、ネットで時々出てくる「ニセ科学を信じるのは個人の自由」という主張は、批判がネット上にある言説に対して行われている場合には成り立たない。ネットで批判の対象になっているということが即ち、「信じる」だけにはとどまっていなかったということだからである。
 「私は「水からの伝言」を信じています」とblogに書いただけで、他の誰かに対して薦めるようなことは何一つ書いていなかったとしても、何を信じているか「書いて他人が読める状態にした」行為は「信じる」行為とは別である。

 たとえば、私の知り合いに○川△郎という人が居たとして、私が個人的に○川△郎に対し「スケベ、変態、金にルーズ。幼女のヌード好き。あの様子じゃ職場で使い込みとかもしてるよなきっと。脱税だって………(以下略)」などと思っていたとしよう。私が内心でそう思っているだけなら問題はない。客観的事実と一致してなくたって、ただの個人的偏見に過ぎない。まあ、○川△郎を避けたり、見る目がきびしくなったり、よそよそしくなったりはするだろうが。
 しかし、「………(以下略)」の内容をたとえばここのblogに書いたら、名誉毀損やら侮辱やらで、刑事でも民事でも責任を問われる。ここを見に来ている人だって「その書き方はあまりに品位がない」「違法」等というコメントを残すだろう。

 単に「ニセ科学を信じる自由」と、実際にネット上で批判が行われているという状況の違いは、「………(以下略)」ををせいぜい個人用の日記帳に書いてそのへんの本棚にでもしまっておくことにしたか、「………(以下略)」をblogに書いて広く人目にさらしてしまったかの違いと同じである。

 「公然性」を持ってしまった時点で、個人的に信じる自由の範囲は越えてしまうということである。越えた分については、他人に影響を及ぼしうるので、批判なり議論なりの対象になっても仕方がない。

【注意】
 文中の○川△郎は、架空の登場人物であり、現実に似た名前の人が存在しても全く無関係です。うかつに○や△の所に甲とか一とかを入れてしまうと、偶然、実在の人物の名前に一致したとき、大変失礼なことになると思い、絶対存在しない名前っぽいものを書きました……ってそこ、○や△に穴埋めするんじゃない!!^^;)

尋ねられたんで答えてみる

Posted on 11月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

 わかった気がする……なぜ疑似科学批判の連中にイラッとするのか……に言及。

「鰯の頭も信心から」という諺である。
プラシーボ効果を許さないのか、と言い換えても良い。
実際に信心を持って、偽薬を薬と成した人に、
それは「薬ではない」と宣言して、その効果を打ち消すことが
果たして本当に正義なのだろうか?
疑似科学は、本当に悲劇しか齎さないのであろうか?

 その人個人が治ったのはそれでいいけど、他人に対して「信心で偽薬を薬と為しましょう」と誘うのはまずい。信心の仕方というか強さは人それぞれだし、偽薬で済む状態の人もいれば、信心+偽薬ではどうにもならない、それどころかできるだけ早く医者の手当てを受けないといけない人だっている。その人が偽薬を信じているなら、それは内心の問題にとどめておくべきである。誰かに向かってそのことを言えば、それに影響を受ける人が出る可能性があるから、その話はまずいよ、と言わなければならなくなる。
 今、批判されている人達は、blogに書いたとか、新聞や雑誌などのメディアに登場したとか、水伝のように他人に向かって授業をしたとか、少なくとも、「外から見てわかる」形で「ニセ科学を広める」行為をしている。
 逆にききたいのだけど、信心で偽薬を薬と為し、かつ、その信心を内心のみにとどめている人に対して、批判が行われると本気で思ってるのかなぁ。第三者から認識されない信じ方であれば、批判の対象にはならないはずなんだけど。

マイナスイオンのドライヤーを買って、髪の毛がサラサラになって少しかわいくなった気がする、勇気を出して家から出てあの人をデートに誘ってみよう!とキラキラした目をしている女性に向かって「いや、それ錯覚ですから! あなた不細工のままですから! 残念!」
と一刀両断することは本当に絶対的な正義なのか?

 「マイナスイオンは無関係の可能性が高いけど、髪の毛がさらさらになったのなら、いいドライヤーなんだね。良い買い物をしたね。行ってらっしゃい」

また、例えば、飲み会の席などで気になる異性に話しかけたいとしよう。うわべの会話でなく、相手の性格をもっと知りたい。そんな時に会話の端緒として「血液型、何型?」と訊くのは、これだけ血液型に対するコンセンサスがある日本では、実際にかなり有用なことである。
「○○ちゃん、何型? そうなんだ、××な性格って言われない?」
「えー、うち、そんなことあらへんよう……けっこう、落ち込みやすい性格やと思ってるんやけど……」(ぼくが萌えるので便宜的に関西弁風女子とさせて頂いた。意味はない)
そこからフォローするなりアドバイスするなり裸で向き合い本当の性格をキャストオフさせてあげるなりワンナイトカーニバルを決めるなりはあなたの腕の見せ所だ。
少なくとも「血液型何型?」と訊かれて「そんなのは疑似科学なんだ。それよりアインシュタインがどうやってブラウン運動からアボガドロ定数を求めたか知ってる?」と返すよりは仲良くなれるだろう。

 私は女だけど、で、飲み屋で口説かれる可能性はまずないけど、男性から「血液型、何型?」と訊かれたら、コイツ大丈夫かいな、と思うだけだが。まあ、これだけ血液型に対するコンセンサスがあるし、その場で喧嘩をするのも大人げないと思ったら、「社会性」の範囲で適当に合わせるだろうが……。

「嘘も方便」こういう諺もある。
差別に使われるかもしれない。でも人を救うこともあるかもしれない。実際、血液型云々は、会話の潤滑剤として現代の社会ではまだ充分に有益なものなのである。

 それ、血液型が原因で会社に採用されなかった人の前で口に出せるの?現実に差別されている人の前で「社会ではまだ充分に有益」などと主張するなら、科学云々以前に、人間性を疑う。
 「嘘も方便」の意味を激しく間違ってるのでは。

普通の人はまず「言葉」から理解しようとする。
人を説得するなら説得するなりの、言葉や態度というものがあるのだ。

 で、血液型で差別された人が「社会ではまだ充分に有益」で納得するか?私には、「おまえが言うな」としかコメントのしようがない。

常識的な考え方の例

Posted on 11月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

  msn産経ニュースより。ジャパンスケプティクスの安斎会長の記事。

疑似科学やオカルト… なぜ、だまされるのか? (1/3ページ)
2008.11.21 08:09

 霊視や前世占い、占星術といった「スピリチュアル(精神的な、霊的な)世界」がブームだ。それらを扱うテレビ番組は軒並み高視聴率を獲得し、ベストセラーになる出版物も多い。だが、中には疑似科学やオカルト現象を妄信し、だまされて被害にあう人もいる。科学の視点で批判してきた立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長の安斎育郎さんは「『思い込み』と『欲得ずく』が錯誤への落とし穴」と注意を呼びかける。(伐栗恵子)

■「欲得ずく」「思い込み」が落とし穴

 今月中旬に大阪市内で行われた関西消費者協会の講演会。安斎さんは趣味の手品を生かしながら、超能力やオカルト現象のトリックを暴いていく。

 例えば、スプーン曲げ。丈夫な金属のスプーンを指で軽くさすっているうちに、ぐにゃりと曲がり、客席からは驚きの声が上がる。だが、これは支点、力点、作用点をうまく利用しただけ。要領さえつかめば簡単に曲がるという。

 「目の前で自分の理解を超えたことが起こったとき、超能力と思わずに、なぜ、こんなことが起きるのか、と考えてほしい」と安斎さん。「人間は、だまされやすい」ということを肝に銘じるのが大切であって、一番危ないのは「私だけは、だまされない」という「思い込み」と指摘する。

 「あの人の言うことだから、本当だろう」という主体性の放棄も、自らの心をだます行為だ。「自分の目でしっかり確かめ、自分の頭で判断する習慣を」と呼びかける。

 不幸に陥ると、その原因を霊に求める人がいる。問題の根本的な解決にはならなくても、「悪霊(あくりょう)のたたり」などのせいにした方が心の平安を得られやすいからだ、と安斎さん。「霊は、人の不幸の消しゴム係」と絶妙の表現をする。

 もし霊が目に見えるのならば、霊そのものが光を発しているか反射しているはず。「たたる」には記憶や認識といった高度な仕組みを持った有機体でなければならない。霊を信じるかどうかは個人の自由だが、「科学的な意味では存在し得ない」と断言する。

 科学技術が進歩したこの時代に、人はなぜ、「スピリチュアル」にはまるのか。安斎さんは、それこそ、「なぜ」と問う力が弱まっているからだと嘆く。

 例えば、携帯電話やDVDの仕組みは、説明されても理解するのが難しい。科学が進歩したがゆえに、人は自分の理解の範疇(はんちゅう)を超えたものをそのまま受け入れてしまいがちで、それが超能力などを簡単に信じる傾向となって表れていると説明する。
 「ささいなことでも、『なぜ』と意識的に問い直してほしい。その背景には必ず理由があるのだから」

 さらに、“インチキ”を見破るには、「そんなことができるのなら、どうしてこうしないのか」と考えてみることが大切だと言う。

 スプーン曲げができるのならば、どうして金属加工技術として役立てないのか。そんな能力をもった人を生産ラインにずらりと並べれば、次々と金属加工が施され、たちまち製品が出来上がる。簡単に大もうけができる話なら、その勧誘員自体が大金を手にしているはずであり、そもそもそんなおいしい話を他人に教えるのか。「3週間で英語がペラペラになる教材」といった宣伝文句が本当なら、なぜ、その販売員はペラペラではないのか…。そう考える心のゆとりが必要だ。

 楽して得を取りたいという「欲得」と「思い込み」、それに「非合理的思考」が結合するとき、人はとめどもなく危うい「だまし」の深みにはまっていく、と安斎さんは警告する。

 楽して結果だけほしいという傾向を、紀藤正紀弁護士は「インスタント指向」と呼んだ。
 以前「ありがとう」というラベルで米がカビないという話が出てきた時は、「それが本当なら、どうしてコンビニのおにぎりの賞味期限ラベルのかわりにありがとうラベルが使われないのか?」とツッコミを入れた。
 「それが本当なら、もっとうまい利用方法があるのに、使われていないのはなぜか」と考えることが、欺されないためのストッパーになるかもしれない。

国籍法以外にもいろいろスルーしてるんじゃないの?

Posted on 11月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

 産経msnの記事より。

国籍法改正 誰も理解せぬまま参院も審議入り
2008.11.20 19:42
 未婚の日本人の父と外国人の母の間に生まれ、出生後に認知された子の日本国籍取得要件から「婚姻」を外す国籍法改正案は20日、参院法務委員会で趣旨説明が行われ、審議入りした。法務委は同日の理事懇談会で、26日に1時間45分の参考人意見聴取、27日に4時間の一般質疑を行った後に委員会で採決することで合意。このため、改正案は28日の参院本会議で成立する見通しとなった。

 衆院法務委がわずか3時間の審議で改正案を採決し批判を受けたことから、参院側は「慎重な対応をしたい」(自民党国対幹部)として倍近い審議時間(5時間45分)を確保した形だ。だが、これで懸念される偽装認知への歯止めをどうするかなど、十分な議論が尽くせるかどうかは疑問だ。

 「この中で、国籍法改正案を全部理解している人は手を挙げてください」

 20日昼の自民党津島派の総会で、戸井田徹衆院議員はこう呼びかけたが、手を挙げた議員は1人もいなかった。改正案は国会議員も内容をよく把握しないまま、成立へと向かって突き進んでいるようだ。

 改正案は今月4日に閣議決定されたが、国会議員らが問題点や危険性に気付いたのはその後のことだった。無所属の平沼赳夫元経済産業相は19日の「国籍法改正案を検証する会合に賛同する議員の会」で、こんなエピソードを紹介した。

 「現役閣僚から『とんでもない法律が通りそうだから何とかしてくれ』と電話があった。『あなたはそれに閣議でサインしたんだろう』と言ったら、『流れ作業で法案の中身は分からなかった』と話していた」

 自民党では、改正案が衆院を通過した18日の役員連絡会や参院執行部会で問題指摘が相次いだ。執行部会では、国対幹部が「運用で(犯罪に)歯止めをかけていく工夫が必要だ」と述べ、尾辻秀久参院議員会長も「もう一度検討した方がいい」と語ったが、成立の流れを押しとどめるまでには至っていない。

 一方、改正案を問題視する民主党議員からも「うちの法務部会(部門会議)も、『次の内閣』会合も通っちゃっているんだよな」との嘆息が漏れている。

 国籍法の問題点以前に、法案成立に至る過程で、議員がまともに中身を理解せず、ヘタすりゃまともに読まずにサインしてスルーしているということが判明したことの方が大問題だと思うが……。

 こういう成立のさせ方をしているのが、国籍法改正のこの1件だけとは思えなくなってきた……orz。法律改正が盲判レベルってのはイヤ過ぎるぞ。わが国の立法府って一体……[:泣き笑い:]

現代の知識で過去の行動を判断する愚

Posted on 11月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

 擬似科学発見テストだそうですが。

 ウィキペディアの以下の項目に含まれている引用部分は、極めて偽科学的説明である可能性が高い。科学的説明の逸脱とその理由を説明しなさい。

 はっきり言ってピント外れの出題にしか見えない。 

まず、引用されたウィキペディアの文章

江戸時代の江戸では、富裕層のあいだで玄米に替えて精米された白米を食べる習慣が普及し、将軍をはじめ富商など裕福な階層に患者が多かった。江戸時代末期には一般庶民も発症し、江戸患いと呼ばれた。大正時代以降、ビタミンB1を含まない精米された白米が普及し、副食を十分に摂らなかったことで非常に多くの患者を出し、結核と並んで二大国民病とまで言われた。

高木は海軍において西洋式の食事を摂る士官に脚気が少なく、日本式の米を主食とし副食の貧しい下士卒(兵曹および兵。のちの下士官兵)に多いことから、栄養に問題があると考え、明治17年(1884年)軍艦筑波に、この前年別の軍艦が行なった遠洋練習航海と食生活以外は全く同じ内容で遠洋練習航海を行なわせる試験案を上策し、それが採用され、結果として西洋食の艦において脚気患者が出なかった。このことから栄養障害説を確信したとされる。下士官兵にはパン食は極めて不評であったので、西洋食(パン食)から、同じ麦を食材とした麦飯に海軍の食料は変更された。これによって、海軍における脚気は根絶された。

 は、過去の出来事を現代の知識を踏まえてまとめたもので、歴史の解説であって科学の解説ではない。Wikipediaの文章の中で、現在の科学に照らし合わせて判断できる記述といえるものは、「ビタミンB1を含まない精米された白米」くらいしかない。ところで、「胚芽米のすべて」を見ると、

しかし、筆者の大学で分析した結果、「第三世代胚芽米」コシヒカリのビタミンB1含量は、一般の胚芽米(五訂食品標準成分表)のほぼ1.5倍(精白米の4倍)、ビタミンE含量は、ほぼ1.2倍(精白米の6倍)であった。驚異的な数値である。カリウム、マグネシウムなども高い数値を示した。胚芽の一個づつは小ぶりでも、まんべんなく着芽しているためである。

とあるので、精白米にビタミンB1が全く含まれていないというわけではなさそうである。食品成分データベースから、穀類→米、とたどって、精白米を調べると、詳しい成分まで見ることができるが、ビタミンB1含有量はゼロではない。従って、「ビタミンB1を微量しか含まない精米された白米」とでも修正するのが、今の科学に照らし合わせた正確な記述ということになる。

 残りの部分は、歴史の記述であって科学の記述ではないから、この中に史実と違う内容や誤りが含まれていたとしても、擬似科学とは呼べない。

 また、当時は存在すら知られていなかったはずのビタミンB1という物質が登場するが、Wikipediaの記述は江戸時代に起きたことを現代の知識を背景にして記述したものであり、江戸時代にビタミンB1が知られていたという誤解を招く余地は(よほど曲解しない限り)無いだろう。

 高木の推論も、歴史的事実としてそのように考えたという話に過ぎず、現代の科学についての誤認をさせるものではない。この部分の記述が歴史的事実と違っていたとしたら、それは、Wikipediaの筆者が歴史について調査不足だったとか間違えたといった話に過ぎず、「間違った科学史の記述」ではあっても擬似科学とは呼べない。もし、高木の推論の仕方や試験への持って行き方が、今の知識を基準とした場合に何か問題があるものであったとしても(同じことを今実行したら擬似科学と呼ばれるものであったとしても)、それは当時の実験医学の水準の限界によるものであり、現代の科学の知識を元にして批判すべき対象ではない。

 なお、「スキャンダルの科学史」には、史実としての記述として、高木が、「脚気は栄養のバランスの問題」であると考えるに至った理由として、監獄食と海軍食の比較からだと書かれている。が、これも、史実をどう確認するかという問題であり、擬似科学の問題ではない。

 脚気が、食物摂取におけるビタミンB1欠乏以外の理由で起きるかどうかについては、私も知識が無いのでわからない。何か、代謝異常を起こすような病気があれば、脚気を発症することがあっても不思議ではないが……。しかし、当時問題になっていた、広く国民の間で発症していた脚気の原因は、ほとんどがビタミンB1欠乏によるものであったと考えられるので、まれに発症する別原因による脚気があったとしても、この文脈において考慮する必要はない。

 何て言うか、できの悪い準備書面に対する反論を書いている気分。関係無い論が展開されている部分を指摘して、「その主張は本件訴訟に関係がない」と、さくっとスルーしてるみたいな。あるいは、準備書面と関係のない証拠が出てきて、その証拠は主張に関係がない、と一蹴する感じというか。

探索中:手品の本

Posted on 11月 20th, 2008 in 倉庫 by apj

 タイトルも出版社も失念してしまったのだが、確か数巻セット、1巻がそれなりに分厚かった手品の本を探している。
 20年くらい前に、神田の交差点から水道橋駅に向かう道に面した小さな本屋で売っているのを見かけた。同じ頃、東京ディズニーランドの土産物売り場のマジックの種とかを売ってるところにも置いてあった。当時は貧乏で買えなかったのだが、そのうち、と思っているうちに何だったか忘れてしまった。本には、日本図書館協会選定図書と書いてあった。
 どなたかご存じないでしょうか?教えて頂けると嬉しいです。

【追記】
 ターベルコースという高価なシリーズがあると教えていただきました。金額と装丁を見た限り、どうもこれらしいです。いろいろ情報をくださった皆様、ありがとうございました。昔から一度読みたかったものなので、ちょこちょこ買っていきたいと思います。不器用なので手品の習得を目指してもまず無理でしょうけど。

元厚生事務次官のところが襲われた件

Posted on 11月 19th, 2008 in 倉庫 by apj

 Yahoo経由産経の記事

しかし、現在のところ、テロ事件で犯行を誇示するために容疑者が報道機関へ送る声明は届いておらず、インターネット上での予告も確認されていない。

 誇示するのは自己満足だったりプロパガンダのためだろうから,実行して終わりだという犯人なら声明は出さなさそうな。

 作家の江上剛氏は「犯人への怒りは禁じ得ないが、もしテロなら、政治不信、官僚不信が極まれりということではないか。昭和初期の血盟団事件のように、世直しと称して『官僚一人一殺』という形で動く組織が現れたのかもしれない」と話した。

 これからのテロは、組織じゃなくて「個別の11人」だという方がむしろしっくり来るんだけど(「我々は個別の11人。ここで我々が倒れようとも、個別の自我が我々の意志を引き継ぐ。よって我々にとって死は意味を持たない。」攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG)。連帯するのも徒党を組むのも、昔に比べると流行らないし。
 izaの記事には細かいツッコミを入れたくなった。

 ある職員が「恨まれるとしたら、心当たりが多すぎる」というほど、最近の厚労省への世間の風あたりには激しいものがある。直近1年だけでも、吉原さんと山口さんの経歴が重なる年金問題の不祥事にとどまらず、薬害C型肝炎、医師不足、後期高齢者医療、派遣労働者問題…。所管するあらゆる分野が、国民の大批判を浴び続けている。

 問題が噴出するたびに舛添厚労相が直属のプロジェクトチームを立ち上げて、対応策を検討するが、批判は収まらない。

 検討する*だけ*だったからってオチでは?さっさと実効性のある解決策を出して実行していれば大批判だっておさまると思う。問題が起きてるのにしつこくいつまでも認めようとしないという態度が余計に反感をかっているんじゃないかと。

 特に仕事で失敗してなくても経営者の都合で簡単に切られる派遣と、仕事で大批判されても平気で昇進してるっぽい官僚の身分保障を比べると、「殺す以外に官僚をクビにする方法が無い」という考えを抱く人が出てきてもおかしくはない気がする。「死が二人を分かつまで」で結婚して離婚を認めないと、妻殺し夫殺し以外に別れる方法がなくなるというのと同じで。逆に、政治家は落選させればそれでクビにできるから、テロの対象にする必要がなくなる。かなり嫌な発想だけど。