『「わかる」ことと「わからない」こと』で見かけた話題について私も書いておく。
フナイオープンワールドを取材した方のblogより。
科学的根拠が権力になることにヘキヘキしている私などは、日本物理学会やマスコミに総反撃されている「水からの伝言」の著者江本勝さんには同情してしまう。
科学的根拠が権力になったことなどない。権力の側が科学的根拠を謳ったことはあったかもしれないし、検証の「程度」を無視して都合の良いように使おうとしたことならあったかもしれない。
科学(とりあえず自然科学に限定)は、自然を記述するものなので、むしろ、記述した結果が権力者の意に沿わないということの方がずっと起こりうることである。
「水は言葉がわかるという事実を私は言ってるだけ。このファンタスティクな事実を通して、水の大切さ、言葉の大切さを世界に広めている言ってみれば、アーティスト。なぜかを考えるのが、学者でしょ」と憤懣やるかたない表情で話した。
江本氏自身が、著書の中で、水を凍らせて写真を撮るといろんな形の結晶ができるので、水のイメージに合うものを選んでいる、と述べている。だから、水は言葉がわかるというのは江本氏の思い込みに過ぎない。この場合、ファンタスティクなのは「事実」ではなく、江本氏がこしらえあげた「創作」の方である。 江本氏のやっていることは「創作」としてもデキが悪いというかむしろ手抜きだろうというのが私の意見である。「水が言葉を理解する」という世界をフィクションの中で作ったとしたら、もっといろんな「お話」が書けるはずだ。犯罪捜査のやり方からインタビューの仕方、人と人とのコミュニケーションのあり方まで世界の全てが変わる。放送禁止用語を決めるのに水が使われ、文芸賞の選考は選考委員の席の他に水の席が設けられ、検察官は水結晶の写真を付けた起訴状を裁判所に持ち込むはずだ。広辞苑の次の改訂では、すべての言葉に水の結晶写真が附されるに違いない。まあ、ディテールを書き込んでファンタジーの世界を作るのであれば、それなりにいろんなことが書けるはずである。そのシミュレーションをさぼって、世界を書くことを手抜きしておいて、一体どこがアーティストやねん。
なお、学者は、他人の「創作」を事実にすりかえて検証することは仕事ではない。当たり前のことだが。
テレビも公平さを欠いた報道で、波動=エセ科学という魔女狩に加担している。この世には、わからないこともまだまだたくさんあるのだ。
批判派と一緒にテレビに出ることから逃げているのは江本氏の方である。この間放映されたミヤネ屋でも、江本氏の方が逃げた。 実は、だいぶ前に、韓国のテレビ局が取材を試みて、江本氏と、批判派として私を出したいと電話してきたことがあったけど、その時も江本氏は逃げて、話は立ち消えたんじゃなかったかな。
自説を主張する場を用意してもらったのに勝手に逃げたのだから、江本氏を支持するにしても、一方的な批判というのは間違い。批判するならふがいない教祖を批判すべき。
ところで、本の読み聞かせをしているボランテイアの知人が、「水からの伝言」を学校で読みたいといったら、教師にやんわり断られたそうだ。彼女は、とてもよい本なのにと残念がっていた。江本さんの話では、大分県である教師がこの本を読んだら、教育委員会から「だめ」だというお達しがきたそうである。まさか、小田原市の教育委員会がそのような動きをしているとは思えないが。「水からの伝言」は科学書ではない。世界に通用するすぐれた読み物であり、教育書だと思う。
教師も教育委員会もグッジョブ。 「水からの伝言」は科学としてダメなだけではなく、道徳としてはさらにダメである。ちょっと前のエントリーにも書いたけど、水からの伝言を受け入れるというのなら、友達の名前を水に見せて付き合うかどうかを決めることができるということになる。水伝では、結晶がうまくできないような言葉を発することがいけないというのだから、うまく結晶にならなかった友達の名前を声に出して呼んではいけないことになる。それは、使ってはいけない単語だと水に判定されたのだから。
水からの伝言を受け入れてしまったら、友達の名前を水に見せて結晶の出来具合で付き合うかどうか決める、ということを止めさせることはできない。一方、常識的な教育としては、「誰とでもまずは仲良くしなさい」と教えるのだから、これでは全く駄目である。
そろそろ、目に見えないものを信じる時代がきているのに。
きてません(きっぱり)。自分の目に見えるものだけ信じるのは個人の自由だけど、勝手に一般化してもらっては困るし、他人にそれを薦められても困る。 実際、物質は原子からできている、という考え方が確立してくる過程において、目に見えないものをどう認識するかということは徹底的に考えられている。だから、目に見えないものでも実験の手順を踏むことで認識する、ということであれば、そんな時代は「そろそろくる」のではなく、とっくの昔に終わっている。 目に見えない上に、実験でも確認できないものを信じたいというのは勝手だけど、そんなあやふやなものを信じることを他人に勧められても困る。
サンガの森の「魔女狩り!」はもっと違う。
科学的根拠というひとつの「権力」がマスコミも取り込んでの「魔女狩り」を行っているかのような図。
この際だからもう一回繰り返しておく。科学的根拠を抜きにしても、「水からの伝言」は、道徳としても全くダメだし、文芸としても手抜きで粗悪な作品だから、子供に勧める理由が無い。 なお、魔女狩りで最近面白い話を聞いた。刑事裁判で証拠を積み上げて有罪を立証しようという発想が出てきたのは、もともと魔女裁判から来ているという話である。「黒山羊使ってサバトをやった」というのが容疑の内容であったとして、黒山羊を法廷に連れてきても「サバトをやってました」という証言はとれないから、有罪にするには別途証拠を用意しなければならなくなったのだそうで。
この稚拙な「科学的根拠」というものが、一体どれだけの価値や効力があるというのだろう・・・?
科学の知識無しで生活してみてから言ってもらいたい。身の回りの品すべて、科学の知識に基づかずに準備できるものだけにして暮らしてみて、なお同じことが言えるのであれば、その主張を認める。
小指の先ほども解明していない、この世界の成り立ち。小指の先ほどの「科学的根拠」をふりかざして、数値にあらわれない、見えない世界を全て切って捨てようとするその主旨にまだまだ先は遠いのか・・・とちょっとげんなり。
先に「科学を騙った」のは「水からの伝言」の方である。ついでに言うなら、「水からの伝言」の方が、既に実験でも確立された科学の内容を否定するものになっている。だから、次のように書き直してお返しする。
小指の先ほども(知識を得る努力を怠ったために)理解していない、この世界の成り立ち。
小指の先ほどの「科学の詐称」をふりかざして
すでに実験で確立された、見えている世界を切って捨てようとするのは
全く無意味です。
とにかく、科学的根拠を振りかざされるのが嫌ならば、最初から科学を騙るな。