「ブログ論壇の誕生」佐々木俊尚著(文春新書)で、お茶の水大が訴えられた神戸の裁判の件が取り上げられた。記載があるのは本の13章の『光市「1.5人」発言 ーブログの言論責任は誰にあるのか』。私が独立当事者参加を行ったことが書かれている。その上で、
それでもなお大学や企業に対し、「サーバの管理者として」の責任を求めるというのは、実のところ「おまえじゃ話にならない、上司を出せ」と恫喝するのと同種の行為に他ならない。本当は「サーバの管理者として」の責任を求めているのではなく、「おまえの属している共同体に連帯責任を取らせろ」というきわめて日本的な所属思考が働いているだけなのだ。
そしてそうした所属思考が根強く残る背景には、中間共同体が国内にくまなく張り巡らされ、個人としてお互いに自立した関係をこれまで一度も築けなかった日本の風土が色濃く東映されている。
そのような日本にはこれまで、当事者同士の議論で決着をつけるような土壌が存在していなかった。だから『煩悩是道場』が言うように、公園での迷惑行為を本人に指摘すると「逆ギレされるかもしれないし」「怪我をしたりするかもしれない」と思ってしまうのである。
だがいまや企業やムラ社会などの中間共同体は戦後社会の崩壊とともに喪われ、ひとりの日本人は個人として直接、社会に対面しなければならない状況に直面しつつある。そのような状況の中で、いまだに人々は「上司が責任をとれ」「大学が責任をとれ」「あいつを懲らしめてください」「おまえじゃ話にならん」とお上に頼り、偉いヒトに言いつけ続けている。
このような行動は、何も生み出さない。
私の問題意識もほとんどこの引用部分と同じである。だから、山形大学に来た削除要求に対し、コンテンツを発信した者として、削除義務が存在しないことを確認する訴えを提起し、認容判決をもらった。つまり、共同体に連帯責任をとらせようとしたところで、当事者本人が裁判所に出向いていってきちんと責任を負うことが可能なのだから、そのような恫喝はそもそも無意味だということを、実践で示すことを試みたのである。
組織に、所属する人間個人の発言について連帯責任を追わせるやり方をとっても、良い結果にはならない。発言者に責任を負わせるのが、最もシンプルで、かつ、言論の内容をまともに保つことができるやり方である。もし、組織が個人の発言について責任を負うことになると、組織が事なかれ主義的な対応をした場合、発信するべき情報も発信されなくなるかもしれない。逆に、組織が個人の発言の法的紛争を進んで行うようになったら、組織が責任を負ってくれるから自分は安心、と、紛争を誘発する発言を無責任に行う人だって出てくるだろう。どちらも健全とはいえない。
ところで、その神戸の裁判等の打ち合わせを絵里タンの事務所でやっていたのだが……。
参考になる判例を調べたものを見せてもらったのだが、ネットから持ってきたもので、URLをみると判例秘書のサイトからだった。その後こんな会話が……。
私「判例秘書契約してるんですか」
絵里タン「事務所で契約してる。契約して使ってみませんか?」
私「値段いくら?」
絵里タン「毎月払うんだけど契約が複雑でよくわからない」
私「弁護士がわからない契約って、判例秘書の会社の法務は一体どんだけ優秀なんだよwww」
絵里タン「基本料金は月1万円くらいだったか……リンクしてある判例タイムズとかの本をオンラインでダウンロードできるサービスもあって、そういうのをつけると値段が高くなる」
私「判例タイムズかぁ……大学にあるしなぁ。判例秘書で検索して、リファレンスが出たらメモしておいて、本は大学で見るという使い方も有りかも」
絵里タン「大学なら判例の検索システムがあるんじゃないの?」
私「あるけど、その端末のところ(別棟の人文学部の判例検索室)まで行かないと駄目だし」
絵里タン「判例秘書って、他の人に勧めると、勧めた人と勧められた人の双方にメリットがある……って何だかマルチの勧誘みたい」
私「法律勉強してる間は判例引けると便利かも……うーん……」
便利そうなんだけど、値段との相談だよなぁ。裁判所サイトからも判決は得られるし。それで足りないのがどこかとか、ちゃんと調べてからでないと決められない。
それはともかくとして、クライアントに判例秘書の契約を勧める弁護士というのも、なかなか趣味をわかっているというか何というか。