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SSFS解読法?何だか既視感ありまくりな件

Posted on 8月 15th, 2008 in 未分類 by apj

 以前に書いた、「粘着ヘタレ判定基準」の方に、hirさんがあまりにぴったりな参考文献(?)を紹介してくださったので、使えそうだから引用しておく。
【追記】
 このエントリーは、「SSFSさんが境界例の患者である」と主張しているのではなく、「SSFSさんのマイナスイオンについての議論が、境界例の患者とのやりとりとして書かれている例と酷似した展開になる」ということを指摘するために書いた。つまり、展開が似ているのであれば、対処方法としても似たものが使えるのではないか、という話である。
 「境界例の治療方法6」だそうで。

 投影性同一視という防衛機制は、境界例の患者がよく使う防衛機制です。これはどういう防衛機制かというと、分かりやすい表現で言えば、他人を利用した自己愛や、他人を利用した自己嫌悪ということになります。つまり、他人を鏡のように使うのです。そして、他人という鏡に映った自分に向かって、自己愛的な賞賛を投げかけたり、あるいは逆に鏡に映る自分の醜い姿に向かって、激しい嫌悪感を剥き出しにしたりするのです。表面的には相手を賞賛したり、憎しみを露にしたりしているように見えるのですが、実際には相手の人は患者を映す鏡として利用されているだけなのです。

 なぜこんなことをするのかというと、たとえば自己愛を映し出す場合で言えば、自我が貧弱なために自分で自分を愛することができないからなのです。自分に向き合おうとすると、どうしても見たくもない都合の悪い感情と向き合わざるを得なくなりますので、そういう不愉快な事態を避けるために、他人という鏡に自分を映し出して、そこに自己愛を注ぐのです。つまり、極端な言い方をすれば、他人の人格や個性などはどうでも良くて、あくまでも自分の延長としての存在としてしか他人を理解しないのです。

 単に都合の悪い自分を見たくないだけなら、きっと、「お前は身勝手だ」「人間としてどうよ」ってな、分かりやすい言葉になるはずのところ、「マイナスイオン」というニセ科学がからむと、「マイナスイオンの定義が曖昧な上に効果も確認されていない」という事実と向き合わないという方向に進む、と。

 たとえば、スタッフに向かって「お前は、自分勝手で自己中心的だ」という非難を浴びせたとします。患者の人柄をよく知っている人からみれば、「自分勝手で自己中心的なのは、他でもない自分自身のことではないか」ということになるのですが、患者自身はそういう自分のいやな部分を見ようとはせずに、そのいやな部分を他人に押しつけるのです。そして、いやな部分を押しつけた他人に向かって「お前は、自分勝手だ」と言って非難するのです。このように自分のことを棚に上げて、他人を非難することで、自分の中にある嫌悪すべき部分と直面することを避けているのです。つまり、自分自身と向き合う代わりに、他人という鏡と向き合って、他人を攻撃するのです。ですから、患者が、「お前は、×××だ!」と言ったとき、「お前は」という部分を「私は」に置き換えてみれば、言っていることがそっくりそのまま患者自身にぴったりと当てはまることがあるのです。しかし、患者は「私は、自分勝手だ!」とは言いません。その代わりに「お前は、自分勝手だ!」「お前は、自分のことしか考えていないじゃないか!」と言って、周囲の人たちを非難するのです。

 マイナスイオンの効果について、しきりに立証責任を相手にかぶせようとする、と。

では、なぜこのような防衛機制が発生するのかと言いますと、患者には自分というものがないからなのです。自分というものがないので、葛藤を自分だけで抱えることができないのです。加えて、患者は精神的な「分離-個体化」に失敗しているため、自分と他人とを区別する境界が非常にあいまいです。ですから、本来なら自分の中にとどまっている葛藤が、自他の境界があいまいなために、自分の境界の中にとどまっていることができずに、そのまま周囲の人間関係の中へと流出してしまうのです。そして、患者の心の中の混乱が、そのまま周囲の人たちの混乱として表現されることになるのです。そして、周囲の人たちは、患者から色々な役割を押しつけられて、気づかないうちに患者の葛藤の代役を演じさせられることになるのです。そして、こういう形を取ることで、患者自身は自分の見たくもないいやな部分を全部他人に押しつけることが出来ますので、本人としては「善人」のままでいることができるのです。つまり、自分はあくまでも善人であり、悪いのはすべて悪役を割り振った他人のせいなんだということになるのです。

 既に、自分=マイナスイオン?そりゃー無いわ実体が無いわ……。

こういった、自分のことを棚に上げて他人を非難するパターンを、他にもいくつか挙げてみましょう。私の存在を無視するようなことをするな。
   → 自分自身が他人を無視するようなことを平気でしている。

お前はマトモじゃない。狂っている。常識というものを知らない。
   →  自分自身が狂っていて常識というものを知らない。

お前は卑怯で陰険なやつだ。
   →  自分自身が卑怯で陰険なことをしている。

なんで私の言うことが信用できないんだ。
   → 自分自身が他人を信用していない。

お前は私を支配しようとしている。
   →  自分自身が他人を支配しようとしている。

お前は欠点だらけだ。
   → 自分自身が欠点だらけ。

お前のようなやつは、誰からも相手にされないぞ。
   → 自分自身が誰からも相手にされない。

お前は態度がでかい。生意気だ。
   → 自分自身が生意気で、でかい態度を取っている。

 「お前が言うな」ってヤツですよね。確かにぴったり当てはまる……。ここに書かれている例は一般的な言葉なので大変分かりやすいが、これにマイナスイオンがかぶって、科学における証明手続きの部分で使われると、確かに、大先生が出来上がりそうではある。

 一般的な用語の範囲(つまり引用した例のようなもの)でやっていればわかりやすかったところ、大先生は、何故か、他人に自己を投影するかわりに、マイナスイオンに自己を投影したってことか。すると、普通の口げんかになる(リンク先の例でいうと『「お前は、自分勝手だ」と言われたら、「自分勝手なのは、お前の方じゃないか。自分のことを棚に上げて、なんだ!」と言い返したくなったりします。』)はずのところが、全部科学っぽい論争に化けることになったと。ややこしいな。

 まあ、病院のスタッフと患者なら、治療するにはどうするかという話になるのだろうけれど、マイナスイオンの誤解を広める側と広まるのを防ぐ側という関係だと、治療の役割なんか担う立場でもないし、徹底的に反論するしかないし、まあ、悪役振られてもギャラリーに伝わればそれでいいし。

OmniOutlinerはTeXのソース生成には不向きか……

Posted on 8月 14th, 2008 in 未分類 by apj

 OmniOutliner Professional 3の最新β版の案内を見かけたので、ダウンロードしてきた。ただし、テストしてみたのは安定版の方。Omniが決めるセクションごとに、TeXの\documentclass指定やらパッケージの読み込み、続く \chapterなど、最後に \end{document}だけ書いてあるセクション、などと分けて入力し、プレインテキストでエクスポートしてみた。項目の所に出す[+]などの記号を全部削除しても、勝手にインデントしてスペースやタブを入れてくれたりするので、まともに使えない。プレインテキスト出力を3通りも作るのなら、余計な装飾も調整も無しで入力した文字列と改行コードのみを素直に吐き出すモードをも用意して欲しかった。
 ということで、アウトラインでそれなりに便利な編集機能が使えるにも関わらず、現状ではTeXのソース入力には使えないことがわかった。

筑摩文庫

Posted on 8月 13th, 2008 in 未分類 by apj

 今頃気付いたのだが、最近、筑摩文庫で昔翻訳された(当時はA5版とかの)自然科学本が出まくっている件について。今日、復刊.comからのメールを見たら、また別のタイトルが筑摩書房で、とあった。復刊.comのリクエストを、文庫で復刊するという企画をちょっと前からやっているっぽい。確かに、出せば一定数は売れる&在庫を持っても同じ冊数ならハードカバーの本ほど場所をとらない、わけで、いいアイデアだなぁ。

spam2題

Posted on 8月 12th, 2008 in 未分類 by apj

 飽きもせず繰り返しくるエロspam。文面が変わらなくて特にしつこいのがこれ。

ご連絡が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。青山加奈子です。1ヶ月前に貴
方の連絡先をある方から聞いたのですが、仕事が多忙だったのと私自身の気持ちの整
理がつかず、今日になってしまいましたm(__)m
今回、連絡をしたのはぜひ貴方とお会いしたいと考えているので、条件など詳細を詰
めたかったからです。一応、私の案としては交際費という名目で1回につき、10万円
を貴方にお支払いをするという線で考えています。このメールを読んで頂けたら、私
宛まで返信をお願いできますか?折り返し、私の写真や個人情報をお教えします。も
し、返信が無い場合、私との交際意思がないという事なので、別の知人に貴方の連絡
先を教えます。いずれにしても一度ご連絡をお待ちしていますね♪

 全国の青山加奈子さんに謝れ!っていうか何というか。この手のspamに登場する人物と同姓同名の人って、かなり迷惑してるに違いないんだけど、どうしてるんだろう。

 とうとうspamネタにまでなった毎日新聞変態記事。

さて、6月20日、「J-CAST」というインターネット上の新聞は、(<>http://www.j-cast.com/2008/06/20022225.html)、英文サイト「毎日デイリーニューズ」上のコラム「WaiWai」において、日本人の変態記事を5年以上にわたり、世界へ発信してきたことが記事にしました(詳しくは、次のサイトをご覧ください<>http://www8.atwiki.jp/mainichi-matome/又は<>http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080721_mdn_mainichi_jp/)。その後、これがインターネット上の某大掲示板で問題になり騒ぎ出した結果、先日、「日本テレビ 情報ライブミヤネ屋」『7月3日(木)(13:55-)』という番組において、日本人の変態記事を世界へ数年間発信したことがテレビで初めて報道されました(その後、同番組において、21日も報道されました。)。雑誌においては、週刊文春(7月24日発売)、週刊新潮(7月10日発売、6月26日発売)、SPA(7月8日発売)、週間ポスト(6月30日発売)で紹介されました。
こうした報道を行ってきたのにもかかわらず、毎日新聞社は甘い社内処分等を行っただけであり、どの記事のどこが問題であったのを全く外へ公表しておらず、問題の隠蔽と言わざるを得ません。また、処分を行ったと言いながら、トップの常務デジタルメディア担当常務 朝比奈豊氏は、代表取締役社長に昇進しており、反省はポーズにしか見えません。

このように日本人の名誉を傷つけるような記事を書き、全く反省が見られない毎日新聞社に御社は広告を出し支援しておりますが、公序良俗に反する同社に対し、どのような見解をお持ちであるのか、また今後同社に対して広告を引き続きお出しになるのかについてお聞きいたしたく、何卒よろしくお願い申し上げます。

大江

 ってかこれ、お茶大のアドレスの方に来たんだが、広告出してたっけ?>お茶大。まあ、御社じゃないことは確かだし。個人にもばらまいてるとしたら相当数誤爆していそう。

バブル

Posted on 8月 11th, 2008 in 未分類 by apj

 「バブルの時代」というサイトを読んでいるところ。
 バブルを経験してきたはずだが、一部上場企業に就職がどんどん決まる同級生を横目に院試の勉強などして、貧乏院生を続けているうちにバブルは崩壊していた。結局、私自身は恩恵をほとんど受けていない。家賃が妙に高かったりで、むしろ生活は苦しかったような……。

 そういえば、当時は冬場のスキー行きは、大学の格安宿舎が使えるところに滞在することにしていたのだけど、友達に誘われていったどこかのスキー場が、ゲレンデがらがら、リフトに人もまばら、食堂も空きまくりですぐに食べられる状態だった。設備は非常に立派で、オープンして間もないということだったが、確か行ったのが1991年頃。第三セクターのスキー場だったような……今頃はどうなっていることやら。
 バブル崩壊の後で行った志賀高原では、スキーのインストラクターが、バブルまっさかりの頃が異常に混んでいたのであって、その人達は去り、結局「この10年毎年来ているような人達」は相変わらず来ていると言っていた。

 ディスコは結局1回も行かなかった。

 バブルが終わった後に、貧乏院生の定番バイト家庭教師をやってて、お宅に伺う前に近くの喫茶店で軽食を摂っていたら、近くのテーブルで、借金どうするんだと吊し上げられている方が……。消え入るような声で、一応ゴルフ会員権が云々、と言ってたけど、そっちも既に全国的に暴落済みなわけで、返済無理だろうなぁ、と他人事のように思いつつ。そんなもの買う金も無かったから、リッチな気分も味わえなかったかわりに借金を背負うこともなかったのだけど。

【コミケ】緊急のお知らせが出ています

Posted on 8月 9th, 2008 in 未分類 by apj

コミックマーケット準備会からの緊急のお知らせ
http://www.comiket.co.jp/info-a/C74/C74Oshirase.html
会場に行く予定の方はぜひご一読を。

#私は行く予定は無いのですが、仲間はサークル参加していたりとか。微力ながら情報伝達に協力^^;)。

マルチ商法の基本w

Posted on 8月 8th, 2008 in 未分類 by apj

 掲示板に書いているうちに、こっちでもまとめたくなったので。以下悪用厳禁……というまでもなく、多くのマルチは既に実践済みである件。

 まず、商品は何でも良いが、身近に使うものを選んだ方が説明しやすい。

(1)確率的に放っておいても起きる・起きたと感じそうなことを「効果」にする。
・水がおいしくなった←季節や飲む水温によって味が変わる
・アトピーが軽くなった、リウマチが云々←慢性病は、良くなったり悪くなったりするし、医者の治療で良くなることもある
・植物の育ちが良くなった←他の要因で、植えた場所による差が出るなどよくあること。
・台所のぬめりが減った、カビが(以下略)←条件を同じにしての比較は、個人では普通しない。
・水の色が変わった←一般の人は測定できないので、客観評価されることがなく、光の当たり具体など見方によって色が多少違って見えることはある。
・とにかく、普通の人にとって「主観でしか評価できない」ものを宣伝したい効果リストに入れておく。関連性も脈絡も不要で、沢山列挙しまくるほどよい。どれか1つでも、偶然体験してくれればしめたもの。ヘタな鉄砲も数打ちゃ当たる。全体で何割かの人が(製品の性能とは無関係に)体験可能であれば、それだけセールストークを信じることを強化するのに役立つ。
(2)製品に製品以上の「付加価値」をつけ、それを販売者に対して与える
・「環境に良い」←販売する行為=エコな行為、社会的にも認知される「良い行為」のはず。
・「健康に良い」←販売すると他人の役に立つ、他人を幸福にする。
・つまり、他人に商品を薦める行為=善、ということを植え付ける。
・「宣伝を恥ずかしがってはいけません。人見知りもダメです。だって、あなたがしている宣伝や販売は、単なる儲け主義じゃなくて、社会に貢献する有益なことなのですから」これで、金儲けに邁進することの後ろめたさは雲散霧消するはず。
(3)権威をつくっておく
・健康本の著者、先生と呼ばれる人など。学歴は、ディプロマミル経由のものでも積極的に利用。白衣で登場させ、学会ぽい名前の団体の会長の肩書きを作るというのも有り。
・マスコミへの登場は多いほどよい。女性週刊誌の広告記事や、テレビ通販等でも「○○に出ました」と言いまくる。
・お手盛りの「何とか賞」を集めて並べておく。金で買える賞は買っておく。
・補助金等は積極的に申請すること。うまく通れば、強力な呪文「お役所も認めた」が利用可能に。
・特許も出しておく。実際に査定までいかなくても、カモには、公開広報と特許公報の区別なんかつかない。
4)批判は無視する
・都合の悪い批判は徹底的に見なかったこと、無かったことにする。
・ぶっちゃけ、教祖がぐらついては、末端が不安になるからよろしくない。
・批判=この製品のすばらしさを理解出来ないバカの言うことだから相手にしなくていい、という態度を貫くこと。
・同時に、効果の方を徹底的にすり込む。もともと、誰でもある確率で体験可能なことを効果リストに入れてあるので、1つでも体験した人には、そちらを強調すれば、批判に取り合うことはないはず。
・初級レベルの呪文「だって、あなた自分で体験したでしょ?あんな訳わかんない石頭科学者の言うことの方を信じるなんてどうかしてますよ」

 メインターゲット=カモ=末端は、
・活字になったりテレビに出たりすることは、すごいと思っている
・自分の体験でしかものごとを判断しない
・手軽に「よいこと」をしたがる、良い結果を得たがるインスタント志向を持つ(面倒な理屈や検証はスルー)
といった人々である。
 末端に、現実を客観視させたら負けである。

 マルチに誘われた時は、以上のことを参考にし、「相手の立場に立って」よく考えてみてほしい。

※そういえば、「相手の立場に立って」って台詞は、小学校の先生あたりがよく好んで使っていた。多分、相手の嫌がることをするなとか、そういう意味だったのだろう。しかし、実際に「相手の立場に立って」が効力を発揮するのは、相手が良からぬことを企んでいる場合である。

蛍光赤のペンを探索中

Posted on 8月 8th, 2008 in 未分類 by apj

 愛用していた、三菱ゲルインクボールペン ユニボールシグノの蛍光赤が2年前に製造されなくなって、代わりを見つけられずに困っています。蛍光オレンジでも蛍光ピンクでもない、蛍光赤はここしか作ってなかったので、代替品探しに難航中。どなたか、似た色のものをご存じないでしょうか。海外、国内を問いません。

量子力学無しではどうにもならない

Posted on 8月 7th, 2008 in 未分類 by apj

 直前のエントリーで言及した、「痛いことを惜しげもなくさらすブログ」の、「ニセ科学(ry (2)」に、さらに言及しておく。

ご存じないようでしたら、今ドンデモ科学系で批判されているのは、量子力学の議論に起因する、今までの科学的態度それ自体に対するアンチテーゼだと思いますので、いくつか書籍をあたられることをお勧めいたします。

科学的に間違っているのを正せばよいとか、科学的理想とのギャップを埋めればよいのではなく、科学的態度そのものが間違っていたという議論です。

つまり、今までの科学こそがニセ科学であったという話。

謙虚さが足りないと申し上げたのは、その論点です。

 量子力学は別にニセ科学でもないし、科学的態度を云々される代物でもない。
 身近なところからの例ということで、量子力学無しでは化学結合が起きる理由を説明できないのだということを指摘しておく。
 随分前から高校進学率は9割を超えていて、高校では理科の一部は必修なので、今現役で活動している国民の殆どが学校で化学の一部を一度は学んでいるはずである。「物質が原子からできている」を知らない人はまず居ないし、「身の回りの物質はいろんな種類の原子がくっついた(結合した)ものでできている」も、ほとんどの人が知っているだろう。
 しかし、「なぜ、原子がお互いくっついて離れなくなるのか」の説明は、量子力学無しには不可能であった。実際、大学で私は学生達に向かって、「受験勉強でも大学に入ってからも、化学反応についてはさんざんやってきたが、何と何がこう結合する、という話ばっかりだった。ここにきてやっと、なぜ化学結合が可能かについて(生まれて初めて)勉強することになる」と説明している。なお、この講義内容は物理化学の続編で、水素原子の波動関数を求めた後、水素分子イオンや水素分子についての計算をしている。

 以前にも書いたが、科学に対する問いの立て方は2通りある。法則がなぜその形なのかというWhyを問うと、形而上学になってしまう。観測できる量の間の関係というHowを問うなら、そのおそれはない。Howの方は精度が年々良くなって、たまに法則の形の方が変わったりもするが、Whyだけを考えていたって得るものは少ないのではないか。というか、Whyの方を考えて先に進むことが可能になるとしたら、イヤというほどHowをどう記述するかについてやってみた後ではないのかと。

 今までの科学がニセ科学だというのなら、まずは、どうして水素原子が2つくっついて水素分子になるのかを、きちんと説明して見せて欲しい。お薦めの「態度」でそのことが可能になるのなら私だって知りたい。それすらできないままに態度の方を問題にするならば、その方がよほど傲慢であろう。

詐欺の被害者だって気付くまでは幸せ

Posted on 8月 7th, 2008 in 未分類 by apj

 ニセ科学論議の違和感概要を読んで。

特に「まともな学者であれば云々」といったようなコメントがいくつか見られたりしたので、単純に激しく上から目線で不快に感じました。

 「まともな学者ではない」と言われるケースは大体次の2通り。
(1)大学や研究所に職を得ているが、自身が研究論文として積み重ねたものでもなく、他の誰かによって既に積み重ねられたものからも逸脱した内容を、啓蒙書を書いたりマスコミに登場するといった方法で、もっともらしく述べた場合。一応は職を得ているだけあって、別の分野ではまともな学者をしている場合もある。
(2)局地的(?)に「先生」と呼ばれ、場合によっては講演などをする立場ではあるが、学位が学位商法によるものであったり、著書(多くはインチキ健康本など)はあるが論文は無かったり、研究らしいことをしている実態が全く無い場合。

 上から目線ではなく、端的に事実を指摘しただけである。

それでも議論の前提として、2つの観点から鑑みてちょっと科学的態度の正当性の主張が、大変失礼ながら傲慢に感じられてしまいました。 ・人間が技術的に実施しうる認知の限界に対する謙虚さ ・不完全性定理と不確定性原理の観点から導かれるべき謙虚さ
もちろんそれを皆さん踏まえていると思うのですが、そうであればどうしてある意味不遜にも「まともな研究者であれば」という言葉遣いで、科学的態度の正しさを主張できるのか、ちょっと不思議に感じてしまいます。

 検証済みでないことについて、「検証済みである」かのように装うのは、科学としてはニセであるし、そのようなことはまともな研究者ならしないのが普通だから。つまり、「まともな研究者」の定義の中には、「はっきりしない話を一般の人の前で宣伝したりしない」というものがあり、これがかなり共通の認識となっているから。

科学的態度とは、たぶん「正しい」ということを見つけ出すために推奨される方法論だと私は思っているのですが、そこの認識は間違ってないでしょうか?そうだとすると、一方で「正しい」ということが、生き物としての人間にどれだけの効用があるかということが、人間としての私にとって非常に興味があるところです。要するに、「科学的態度を訓練して身につけると、人間として幸せになれるの?」ってことは、科学的態度を広く啓蒙していく上で重要だと思うんですが、そのあたりについては最近はどういう議論になってるんでしょうか?

 例えば、ある魚を食べたら具合が悪くなったとしよう。科学的態度によらずにこのことから体験談的教訓を得るならば、「その魚は今後は食べない」という結論になる。科学的態度をとるならば、例えば、(1)魚に毒があるのか、(2)調理法が悪かったのか、(3)魚が古かったのか、(4)具合が悪くなったのはその魚とは無関係の原因なのか、を突き止めることになる。(1)であるならば、さらに原因を調べ、その魚のうち食べられる部分とそうでない部分を分けて、安全な食べ方を見つけることができるかもしれない。魚の毒が、魚がエサにしている別の何かに由来するとわかったら、同じものをエサにしている別の魚を食べる時は、その前に十分調べることになるだろう。これによって危険を避けることができる(2)であれば、十分火を通すといった対策で、安全に食べることができるだろう。(3)であるなら、古くなったものは食べない、という経験を積むことになる。また、古くなるのを遅らせて保存することを考えるようになるだろう。(4)であれば、今後もこれまで通りその魚を食べても良いことになる。
 科学的態度をとった方が、より選択の幅が広がるし、食べて大丈夫なものを却下してしまう可能性も減る。人間として、どちらがより楽しいことになるかは、明らかではないか。

むしろ最近「ニセ科学」とはてなでは喝破されているような本が売れて=日本社会では効用が高くて、何らかの「人間的幸福」に事実として寄与しているように見えるのですが、そのあたりについてはいかがでしょうか?

 楽して痩せられるとか、音楽を聴かせるだけで簡単に作物や醸造製品の品質が良くなるといった言説のことだろうか。だとすると、「ステキに欺されている間は幸せ」としか言いようがない。マルチの被害者だって、欺されている間は、「この製品を売れば、社会にも貢献できる上、儲けもどんどん増える」というバラ色の未来を信じているものだ。自分がカモであり、負債しか残らないことに気付くまでの間は。 「人間的幸福」が持続するタイムスケールを考慮すべきだろう。まあ、一生欺されたままで幸せならいいという人には、かける言葉が見つからないが。

それに対して、ニセ科学批判は「科学的正しさ」こそが真・善・美であるっ!と主張しているのはわかるのですが、「だからそれで幸せになれるの?」ってところが見えないのがなんかちょっと、という違和感があるのです。

 科学的正しさを、「真・善・美」と結びつけている人を見かけたことはない。また、「真」「善」「美」は全く別の概念であり、価値判断の基準であるので、ひとくくりにするのは間違いだろう。科学的正しさが結びつくとしたら「真」だけで、道徳的な意味での「善」も、芸術的な意味での「美」も無関係である。また、「善」と「美」が無関係だからこそ、道徳では、「人を見かけで判断するな」と教えている。