十年や二十年では変わらないコミュニケーションのあり方を読んで。
【追記】このエントリーのタイトルは、より正確には「論と論者を切り離さないことによるメリットを知りたい」となるが、言及先の表現に則り、人を切り離さない~と書いた。
まず、気になった部分について、本筋とは関係ないがツッコミを入れておく。
「fjを経験してきた私たちは、(政治系ブログの人たちなんかと比べて)一段上のステージに達しているんだ」という自負を感じた。
ステージといったものは多分存在しないし、上下というものもないから、そこで感じているものは多分幻ではないかと思う。従って、
だが、本当にそうか。
という問いは無意味だと思う。
さて、ここからが本論。
政治批判系のブログでは「属人的な議論をしている(から程度が低い)」というのが、アカデミズム系の人たちの一部からなされた批判だった。
アカデミズム系というのがが何を意味するかはっきりしない。誤解を避けるために改めて書いておくと、私が指摘したのは、「属人的な議論をしている」から、さっさと終わる筈の議論がいつまでも紛糾したままになっていて、内容や理解が深まってもいかないのではないか、ということである。程度の高低の話ではなく、議論の効率が著しく悪いということを指摘した。
そもそも私は、自然言語の性質上、書き手の人格と書かれたテキストを切り離すことはできないと考えている。
という読み方が必要になるのは、文学の解釈において作家を理解する場合の話ではないのかと。
ところが、今回アカデミズム側にいるある方に、「あなたのやっているのは印象批評だ」と指摘したら、「私は印象で書いている」と返されてしまった。これには、「膝カックン」だった。ひとたび確立したはずの、アカデミズムの世界の人たちの「ネットにおける議論のスキル」というのももしかしたら形骸化してしまっているのではないか、そんな「印象」(笑)を受けたのである。
アカデミズム系にいるある方とは一体誰のことか。具体例を挙げて特定してもらいたい。議論を発散させないためには、批判の対象を限定し、明確にする必要がある。
現代文の試験問題の材料ならば「この文中の”今回アカデミズム側にいるある方”とは誰を指しているか」といった問いを作ることに意味があるかもしれないが、議論をしている最中に、設問のネタを残すような書き方をするのは、読者に余計な労力をかけるだけなので不親切である。また、このような書き方をすると、読んだ人のうち自分が「アカデミズム系にいるある方」に該当すると考えた人全てがそれぞれの立場で反論し得るが、その中には、筆者が本来狙った人以外による想定外の反論も含まれることが予想される。結果として議論は全く収束しなくなることがある。これは、既に、論宅mercaがやって(=ニセ科学批判者という括りで議論したため私やきくちさんが反論したが、批判対象はそもそも全く別の人だった)、混乱を引き起こしたのと類似の手法である。
実際「アカデミズム系にいるある方」が文章中で特定されていれば、私が何かを書く必要があるかどうかは、読んで直ちに判断できた。実際にはそうなっていなかったために、長々とここでこうやって説明している。批判対象を特定しない書き方は、関係のない人にまで無駄足を踏ませる可能性を常に伴っているということを、少しは意識してもらいたい。
だが、人間を切り離しての議論などできない、それが「政治批判系」の「水伝」批判派の何人かの主張だし、それには当ブログも賛成だ。
それでは、人間を切り離さないことのメリットを知りたい。
少なくとも、私が行ってきたニセ科学批判では、切り離すも何も論の中に人間など最初から存在しないし、人間そのものに言及するときは、例えば「主観的に因果関係を認めれば客観的に間違いでも信じる」といった、人間の仕様についての言及に限られていた。そういうやり方で議論をして、これまで、対象についての理解を深めてきた。人間を切り離した議論をすることのメリットの方は、はっきりしていると考えている。
ニセ科学批判をしてきた経験から見ると、正月の水伝騒動はさっさと終わる筈のものである。一方が強固な水伝ビリーバーであれば継続的な批判が必要になることもあるが、今回は全くそうではなかった。ところが、水伝騒動が元の水伝ネタを離れたまま、時々ニセ科学批判に言及しつついつまでも終わらないのを見ると、議論から人間を切り離さないことのデメリットはあってもメリットが見当たらない。
人間を切り離さないで議論することを支持するというのは1つの立場ではあると思うが、それなら、そのことによって得られるものが何かを示して欲しい。
人間を切り離すとうまくいかないケースとしては、既にコメント欄の方で「文学の議論をする場合」(は作品と作者を切り離せない)というのが挙がっており、これについては私も同意する。ただ、この場合であっても、作品を議論している論者同士の間では、論と論者は切り離さないと解釈が水掛け論に終わりそうである。
また、例えば、たんぽぽさんの文章を全て文学作品として扱うことにするのは、少々無理があると思う。
水伝批判に名を借りて別のネタで対立している相手方を批判し続けるために役立つ、というのであれば、そういうことをしたい人にとっては、人間を切り離さないことがメリットであると言えるかもしれない。それならそうとはっきり言ってほしい。
今回の議論を見る限り、論から人間を切り離さないことによって可能になったことは、
(1)論者にとって都合のよい読み方を読者に求めることで、論や表現の欠陥を隠す
(実例:私がたんぽぽさんのエントリーについて批判を加えた時に、玄倉川さんが私に対して、”(書かれていない)たんぽぽさんのパーソナリティも理解すべきであると主張し、その際考慮すべきパーソナリティの内容は『「冷静」「時にシニカル」「割り切りのよさ」という個性』であると規定し、さらに、「それがある程度知的な大人が備えてしかるべき読解力だ」”と主張したという事実)
(2)相手の内心を勝手に推測し、そこから論を展開する
(実例:たんぽぽさんのエントリーのうち、私が指摘した部分)
という、何らかのテーマについてまともに議論をし、そのことによってテーマに対する理解を深めようとした場合には、邪魔になりそうなものでしかなかった。
【追記で連絡】
多分、このエントリ関連だと思うんですが、いただいたトラックバックを、たくさんのspamトラバ削除のときに間違って消してしまいました。心当たりの方はすみませんがもう一度送っていただけないでしょうか。