Feed

助かって欲しい>被害者の方々

Posted on 6月 8th, 2008 in 未分類 by apj

 秋葉原で通り魔事件の模様。

秋葉原で通行人ら次々刺され、5人が心肺停止状態
6月8日13時7分配信 産経新聞

 8日午後零時半ごろ、東京都千代田区外神田4の秋葉原電気街の中心部で、男が刃物ようなものを振り回し、通行人を次々と刺した。男は身柄を確保された。
 東京消防庁によると、けが人は10人以上とみられ、刺された6人のうち5人が心肺停止状態だという。現場には救急車17台が出動し対応に当たっている。
 目撃者らの話によると、最初に歩行者天国に車が突っ込んで複数の歩行者をはね、駆けつけた警察官らが運転していたとみられる男に次々に刺されたという。

 昨日のトンデモ本大賞に来ていた人と、日曜日に秋葉原に行く人は客層としてかなり重なっていると思う。友人知人が巻き込まれていないか心配だ。刺された方々も重態のようだが、どうか助かって欲しいと祈るばかり。

911陰謀論と水伝との温度差

Posted on 6月 8th, 2008 in 未分類 by apj

 @niftyニュースの記事より。

<失言>「9・11テロは米の自作自演」 藤沢中学教諭謝罪

2008年6月5日(木)2時35分配信 毎日新聞

 神奈川県藤沢市石川の市立善行(ぜんぎょう)中学校(塚原喜三校長、449人)の20代の男性教諭が5月下旬の授業中、米同時多発テロ(01年9月11日)について「9・11テロは米国の自作自演」と発言していたことが分かった。生徒から聞いた関係者が市教委などに抗議し、同中は今月1日、PTA役員らを集めて謝罪した。

 同中から報告を受けた市教委によると、教諭は社会科担当。5月26~29日に、2年生の4学級(145人)のそれぞれの授業でこの発言をした。授業を受けた生徒から「本当に自作自演なの」と尋ねられ、驚いた親族が「こんな授業をしていいのか」と同中や市教委に抗議し発覚した。

 市教委の桑山光生学校教育課長は「教諭本人は、物事の見方は一つじゃない、と説明する例として『自作自演との説もある』と言いたかったようだ。しかし、あまりにも例が悪すぎた。厳重注意する」と話している。【永尾洋史】

 911陰謀論については迅速に反応したくせに、道徳教育の「水からの伝言」の実践については、実践例が圧倒的に多いにも関わらずほぼ完全スルーしていたのはどうしてだろう?>親族&学校&教育委員会。例の悪さという点では、「911陰謀論」は「水からの伝言」といい勝負の筈だけれど。教諭が偏った見方をしているのは確かだし、今回のチェックをしたことは評価する。しかし、チェックの基準の方だって偏っているように見える。「911陰謀論」に敏感に反応するのなら、「水からの伝言」にも同程度に反応してほしい。どっちの話も駄目なのは確かなので。

トンデモ本大賞

Posted on 6月 7th, 2008 in 未分類 by apj

 と学会恒例イベントのトンデモ本大賞が池袋であったので行ってきた。
 受付で配られたのが「と学会経由水」のペットボトル。製造元のホームページを見ると、「キルリアン写真」が出ていたりするとかで、ネタとして特注ラベルをつけてもらうように発注したとのこと。ラベルに曰く、

この水はと学会を経由してお手元に届きます。この水は「ありがとう」という紙を張っても味は変わらないでしょう。この水は凍らせても多分綺麗な結晶にはならないでしょう。また、このペットボトルは魔除け・魔寄せに使用できるかも知れませんので、興味のある方は自宅に持ち帰って部屋に飾りましょう。興味の無い方は、空容器をキチンとゴミ箱に捨てましょう。ポイ捨ては厳禁です。(なお効果があった場合、因果関係を証明する有意なデータと共にと学会にご連絡ください。但し、効果確認の際に生じた結果に対しての責任は負いかねますので、あくまで自己責任での効果確認をお願いします)

 商品は「阿蘇のメイスイ」。製造者は熊本県の丸富産業株式会社。

 前半は、「と学会結成秘話・山本ひろし物語」上映と、お祓いと、例会のエクストラ版。候補作の紹介の後休憩。その後、杉ちゃん&鉄平の演奏会と、活弁士坂本頼光(さかもとらいこう)氏によるアニメ活弁とMAD映像を使った活弁。
 芸人さんが来ると、本当に会場が華やかになる。
 杉ちゃん&鉄平の演奏で、バイオリン一つでfax受信音や、救急車やパトカーの音、電車の踏切の音を出したのには驚いた。バイオリンってこんなに表現力の高い楽器だとは思ってもみなかった。
 坂本氏の活弁も見事だった。今では映像と音声が一緒なのが当たり前なので、音声無し映像を活弁で楽しむというのは珍しい経験だった。さらに、オリジナルアニメの内容が……^^;)。「サザザさん」という、サザエさんのパロディー(絵柄は長谷川町子+水木しげる)で、絵の方も坂本氏が作った。版権の問題もさることながら、内容が不謹慎すぎて、絶対テレビには出ることができないから、ライブでしか楽しめないという……。活弁士は全国に10人程度居て、老人ホームの慰問などをこなしている。その年代の人達が映画を見ていた頃は、活弁士の声で楽しんでいたから、昔の通りの上映は人気が高いのだそうで。

 大賞は、『富を「引き寄せる」科学的法則』ウォレス・ワトルズ著(角川文庫)。
今回のノミネート本は例年より小粒だったので、なかなか大爆笑の連続にはならなかった。

 遠隔地に居る関係で、準備には全く貢献できなかったし、当日も会場にたどり着くのがやっとだったので、物品販売等をすることもできなかった。仕方がないので、終わった後、客席のゴミ拾いをする役に加わった(清掃業者も入っているようだが、あまりにもゴミが多いと次年度から会場使用に難色を示されることがある)。荷物の搬出の準備が整ったあたりで、運営スタッフの記念撮影の後、会員全員の記念撮影をして会場では解散。

 2次会、3次会を秋葉原で行った。

 と学会の方はシャレで水を発注したが、会員の一人は親戚から水を勧められて困っているとのことだった。
 まず、「この水がいいのよ」と九州あたりから送ってくる。長期保存できないので、頻繁に送ってくる。いい返事をしなかったら、今度は三十数万円の浄水器を送ってきたので、取り付けることになった。さらに、「最近からだの調子どう?」「良くなったでしょ」などと、頻繁に訊かれてチェックされる。ここで、「全く変わりませんね」などと言ったら最後、人間関係が悪くなる上に、勧誘がさらにエスカレートするので、嘘でも「そういえば調子いいですね」などと話を合わさなければならない。また、怪しい水を信じている人は当然「波動」も信じていて、「波動」が正しいという前提で全ての話をする。その話にツッコミを入れていると、「波動を信じていない」ことがバレ、波動を信じない人はもうどうしようもない人、の烙印を押される。そして、この人には何を言っても(波動を理解できないのだから)無駄という判断となった場合、あきらめてはもらえず、「まずは飲んでみて、体験してわかって」という方向に勧誘が切り替わる。つまり、本人に体験させて信じさせようという作戦である。
 ビリーバーとはどうやっても言葉が通じることは無いらしい。

 来年は、みらい座いけぶくろで6月6日に開催される。

補足:本日会場で購入した同人誌等
・本家立川流 第8号
・本家立川流 四五六合本号
・面白漫画俱楽部同人誌 vol.1
・ぶっとびマンガ大作戦 vol. 11
・オタク的翻訳論 巻一
・オタク的翻訳論 巻二
・日本トンデモ本大賞公式記録2003~2007(会員には無料配布)
・美少女ゼミ教授立川談之助 手拭 (立川流の本を買うと無料配布)
・刑事クラ(杉ちゃん&鉄平、音楽CD)

作家の氷室冴子さん逝去

Posted on 6月 7th, 2008 in 未分類 by apj

 livedoor newsより

。[訃報]「なんて素敵にジャパネスク」の氷室冴子さん51歳
2008年06月06日19時22分
 氷室冴子さん51歳(ひむろ・さえこ<本名・碓井小恵子=うすい・さえこ>作家)6日、肺がんのため死去した。
(略)
 北海道岩見沢市出身。大学在学中の77年、「さようならアルルカン」で小説ジュニア青春小説新人賞の佳作に入選してデビュー。平安時代が舞台の「なんて素敵にジャパネスク」シリーズが大ヒットし、80年代から90年代にかけて田中雅美さんらと集英社コバルト文庫で「コバルト四天王」と呼ばれ、少女小説を代表する一人として活躍した。他に「ざ・ちぇんじ!」「クララ白書」など。

 「なんて素敵にジャパネスク」は、白泉社コミックスを後輩が持ってきていたのを借りて読んで、その後、文庫本を全部読んだ。大人になってからだけど結構楽しめた。「ざ・ちぇんじ!」は元ネタが「とりかえばや物語」だと、古文の好きな高校の後輩が言ってたような。
 高校時代の同級生がはまっていたのは「少女小説家は死なない!」。何でも、少女小説家がよりよい作品を書いて競争するのではなく、あの手この手でライバルを妨害する方に走るところがコメディとして面白いだとかで……。結局当時は読み損ねてしまって今に至る。さっき、amazonを見たら古本が安く出ていたので、文庫本とコミックスを衝動買いした。
 今のようにラノベ全盛時代ではなかったので、中高の頃のマンガの次に固い本となると、コバルトは人気シリーズだった。楽しませていただきました。ありがとう。

blogプログラムの選定と設定で難航

Posted on 6月 7th, 2008 in 未分類 by apj

 このblogシステムはpplogpを使っているのだが、なぜか最新版の設定でこけるという現象に見舞われた。サーバにftpして、説明書通りにしかるべくパーミッションを設定してから、セットアップをするのだが、ユーザー名とパスワードの登録をしたところでエラーになる。
 最初のプログラムパスの設定は、pplogp/conf/mainconf.php、pplogp/conf/scriptconf.phpに書かれる。最新版だと、scriptconf.phpに書かれたファイルが存在しないので読み込めないと言われてしまう。動いているものを見ると、最新版でエラーが出る原因となったファイル名は定義されていない模様。アップデートが出る度にフォローしてきた筈なのに、どうしてこんなことになったのかよく分からない。仕方がないので、動いているpplogpをそっくりコピーした後、confの下のファイルを開いてここのサーバでの絶対パスやurlに一括置換して、設定プログラムを走らせると、ユーザー名をきいてくるところから次に進めた。
 pplogpの下の*.cgiファイルは、コピーしただけではパーミッションが644なので、755にしておかないと書き込みにこける。テンプレートの編集は、PC用のものを直接編集し、4個所ほど、http://localhost……となっている部分を、実際のサーバのURLで置き換える必要がある。

 今回、
・コメント承認制にできる。
・PHPで書かれている
・ログの管理にデータベースを使わないもの
という条件でblogを探した。
 5つくらいはインストールしてテストしたと思う。なかなか、コメント承認制の機能を持ったものが見当たらなかった。軽いし良さそうだと思っても、コメント有りと無しの2択だったり……。カレンダーが普通の形になっているものにしたかったこともあり、結局、β版のpplogpを使うことになった。

雉地震速報

Posted on 6月 7th, 2008 in 未分類 by apj

 自宅の周りには雉が多い。早朝も昼間も、甲高い声でよく啼いている。しかし、雉は用心深いので、声は聞こえるのだが、普段はなかなか姿を見せてくれない。
 この間、日が変わる頃に、茨城県沖で地震があった。震源地が少しずつ移動しながら起きて、山形で感じたのは3回ほどだった。その時は、夜中だというのに、突然雉が大きな声で啼きだした。一体何があったのかと思ったら3、4秒後に揺れが来た。数分して、また啼きだした。今度は、啼きだしたのと揺れたのがほぼ同時だった。
 震源が気になって、ネットをつないでYahooの速報を見ていたら、3回目の大きな揺れが来た。今度は、飽きたのか呆れたのか慣れたのか、雉が啼かなかった。
 再現性(?)に問題があるとはいえ、初回は、全く揺れを感じない状態で啼きだしていた。一夜明けて、地震速報がうまく動かなかったという報道があった。雉地震速報ってひょっとしたら優秀なのかも……。

 写真は、珍しく隣の敷地を歩いていた雉。携帯のカメラなのであまりきれいに撮れていない。
!!$img1!!

こんな疑似科学は嫌だ

Posted on 6月 4th, 2008 in 未分類 by apj

 幻影随想さんのところの「ホッテントリメーカーによる疑似科学ネタタイトル候補100選」より。
 類似(?)の内容が、既に、mixiのコミュにあったかと。確か、こんな超常現象はイヤだ、といったものだった。

 kikulogあたりを見ながらちょっとだけ考えてみた。

○テルミンを波動測定器と言い張る
○波動測定器の数値表示として、大まじめに疑似乱数が実装されている
○血液型性格診断で、現在医学の方でわかっている血液型全てをとりいれて組み合わせ爆発
○常温核融合は新体系物理学(量子力学を否定してるヤツね)で説明できる

 とか?

教科書レベルの記述

Posted on 6月 3rd, 2008 in 未分類 by apj

 締め切りが迫っている準備書面を書いているのだが……。

 まさか、不法行為とは契約に因らずに債権債務関係が発生するので云々、などという、民法の教科書の基本レベルの内容から書くハメになるとは思わなかった……orz。

 契約があるんなら請求してないって主張も有りなんだろうけど、権利侵害だからコンテンツを削除しろなんて話は、権利侵害だぞって知らされた時点で債権債務関係が発生し、そいつを誰に請求するかとか、裁判所で請求するかといった話とは無関係なんだが……。

シャープペンの芯についてのメモ

Posted on 5月 30th, 2008 in 未分類 by apj

 シャープペンの芯の堅さの件。
 Fを愛用しているが、
・三菱UNI (2種類)
・Pentel Ain
は期待通りの書き具合。
 PILOT ENOは上の2つに比べると書いた感じが柔らかめになので、硬めが好きな私には今ひとつ。ってか、書いてみて、HBを間違って入れたのかと一瞬思った。

 なお、書いた感じを確認するときは、違うシャープペンに入れると握った感じや重さが違うためわかりにくいので、同じシャープペンで芯だけ入れ替えてチェックしている。
 あくまでも私がチェックした、主観的要素が入る書き具合の話なので、チェックする人は自己責任で……って1ケース200円の芯の話だからまあ気軽にテスト可能でしょう^^;)。

人を切り離さないことによるメリットを知りたい

Posted on 5月 29th, 2008 in 未分類 by apj

十年や二十年では変わらないコミュニケーションのあり方を読んで。

【追記】このエントリーのタイトルは、より正確には「論と論者を切り離さないことによるメリットを知りたい」となるが、言及先の表現に則り、人を切り離さない~と書いた。

 まず、気になった部分について、本筋とは関係ないがツッコミを入れておく。

「fjを経験してきた私たちは、(政治系ブログの人たちなんかと比べて)一段上のステージに達しているんだ」という自負を感じた。

ステージといったものは多分存在しないし、上下というものもないから、そこで感じているものは多分幻ではないかと思う。従って、

だが、本当にそうか。

という問いは無意味だと思う。

 さて、ここからが本論。

政治批判系のブログでは「属人的な議論をしている(から程度が低い)」というのが、アカデミズム系の人たちの一部からなされた批判だった。

 アカデミズム系というのがが何を意味するかはっきりしない。誤解を避けるために改めて書いておくと、私が指摘したのは、「属人的な議論をしている」から、さっさと終わる筈の議論がいつまでも紛糾したままになっていて、内容や理解が深まってもいかないのではないか、ということである。程度の高低の話ではなく、議論の効率が著しく悪いということを指摘した。

そもそも私は、自然言語の性質上、書き手の人格と書かれたテキストを切り離すことはできないと考えている。

 という読み方が必要になるのは、文学の解釈において作家を理解する場合の話ではないのかと。

ところが、今回アカデミズム側にいるある方に、「あなたのやっているのは印象批評だ」と指摘したら、「私は印象で書いている」と返されてしまった。これには、「膝カックン」だった。ひとたび確立したはずの、アカデミズムの世界の人たちの「ネットにおける議論のスキル」というのももしかしたら形骸化してしまっているのではないか、そんな「印象」(笑)を受けたのである。

 アカデミズム系にいるある方とは一体誰のことか。具体例を挙げて特定してもらいたい。議論を発散させないためには、批判の対象を限定し、明確にする必要がある。
 現代文の試験問題の材料ならば「この文中の”今回アカデミズム側にいるある方”とは誰を指しているか」といった問いを作ることに意味があるかもしれないが、議論をしている最中に、設問のネタを残すような書き方をするのは、読者に余計な労力をかけるだけなので不親切である。また、このような書き方をすると、読んだ人のうち自分が「アカデミズム系にいるある方」に該当すると考えた人全てがそれぞれの立場で反論し得るが、その中には、筆者が本来狙った人以外による想定外の反論も含まれることが予想される。結果として議論は全く収束しなくなることがある。これは、既に、論宅mercaがやって(=ニセ科学批判者という括りで議論したため私やきくちさんが反論したが、批判対象はそもそも全く別の人だった)、混乱を引き起こしたのと類似の手法である。
 実際「アカデミズム系にいるある方」が文章中で特定されていれば、私が何かを書く必要があるかどうかは、読んで直ちに判断できた。実際にはそうなっていなかったために、長々とここでこうやって説明している。批判対象を特定しない書き方は、関係のない人にまで無駄足を踏ませる可能性を常に伴っているということを、少しは意識してもらいたい。

だが、人間を切り離しての議論などできない、それが「政治批判系」の「水伝」批判派の何人かの主張だし、それには当ブログも賛成だ。

 それでは、人間を切り離さないことのメリットを知りたい。

 少なくとも、私が行ってきたニセ科学批判では、切り離すも何も論の中に人間など最初から存在しないし、人間そのものに言及するときは、例えば「主観的に因果関係を認めれば客観的に間違いでも信じる」といった、人間の仕様についての言及に限られていた。そういうやり方で議論をして、これまで、対象についての理解を深めてきた。人間を切り離した議論をすることのメリットの方は、はっきりしていると考えている。

 ニセ科学批判をしてきた経験から見ると、正月の水伝騒動はさっさと終わる筈のものである。一方が強固な水伝ビリーバーであれば継続的な批判が必要になることもあるが、今回は全くそうではなかった。ところが、水伝騒動が元の水伝ネタを離れたまま、時々ニセ科学批判に言及しつついつまでも終わらないのを見ると、議論から人間を切り離さないことのデメリットはあってもメリットが見当たらない。

 人間を切り離さないで議論することを支持するというのは1つの立場ではあると思うが、それなら、そのことによって得られるものが何かを示して欲しい。

 人間を切り離すとうまくいかないケースとしては、既にコメント欄の方で「文学の議論をする場合」(は作品と作者を切り離せない)というのが挙がっており、これについては私も同意する。ただ、この場合であっても、作品を議論している論者同士の間では、論と論者は切り離さないと解釈が水掛け論に終わりそうである。
 また、例えば、たんぽぽさんの文章を全て文学作品として扱うことにするのは、少々無理があると思う。

 水伝批判に名を借りて別のネタで対立している相手方を批判し続けるために役立つ、というのであれば、そういうことをしたい人にとっては、人間を切り離さないことがメリットであると言えるかもしれない。それならそうとはっきり言ってほしい。

 今回の議論を見る限り、論から人間を切り離さないことによって可能になったことは、
(1)論者にとって都合のよい読み方を読者に求めることで、論や表現の欠陥を隠す
 (実例:私がたんぽぽさんのエントリーについて批判を加えた時に、玄倉川さんが私に対して、”(書かれていない)たんぽぽさんのパーソナリティも理解すべきであると主張し、その際考慮すべきパーソナリティの内容は『「冷静」「時にシニカル」「割り切りのよさ」という個性』であると規定し、さらに、「それがある程度知的な大人が備えてしかるべき読解力だ」”と主張したという事実)
(2)相手の内心を勝手に推測し、そこから論を展開する
 (実例:たんぽぽさんのエントリーのうち、私が指摘した部分)
という、何らかのテーマについてまともに議論をし、そのことによってテーマに対する理解を深めようとした場合には、邪魔になりそうなものでしかなかった。

【追記で連絡】
 多分、このエントリ関連だと思うんですが、いただいたトラックバックを、たくさんのspamトラバ削除のときに間違って消してしまいました。心当たりの方はすみませんがもう一度送っていただけないでしょうか。