「法律と教育は、実は相容れない」を読んで。
だから、生徒が「校則違反してるわけでないのに、なんで叱られなければならないのだ」と言い出してその主張が通ったり、先生が「きっちりと指導したいから、誰の目にもはっきりする基準を儲けてくれ。スカート丈は、何センチと決めた方が、だれにも公平で指導がしやすい」と言い始めたら、その学校は、教育機関でなくなってしまう。校則にしろ、スカート丈にしろ、「線引き」に判断をゆだねているからだ。
「線引き」することが合理的で妥当かどうかの検証を怠たりさえしなければ、線引きしたってまったく構わないはずだ。基準を設けることがいけないのではなく、理由が説明できない状態で基準を運用することがまずいということだろう。どうも、問題提起がずれてしまっているように見える。ここは、線引きの意味を見失うな、と言わなければならないところではないか。
また、「校則違反してるわけでないのに、なんで叱られなければならないのだ」と言われたときに、きちんと説明することが出来ないのなら、叱った方が多分何かを間違えている。
共同体の維持は、明文化されない「不文律」が「常識」や「モラル」として遵守されているからできるのだ。判断基準の全てを法律や校則による共同体は、相当に住み心地の悪い社会になるだろう。なぜなら、構成員には、常識もモラルもないということだからだ。それで、人間が共同体のメンバーとして生きる上での常識やモラルの育成の役割を担っているのが公教育であったり、家庭教育だったり、地域社会だったりする。
構成員に常識やモラルが欠けていても、全てを法律や規則で判断することにすれば、それなりに居心地のよい社会が出来そうに思うのだが……。それだけの緻密で多量のルールを決めて運用するという部分に、ノウハウが必要になるだろうけど。
「それを学校でやっても良いことかどうかの判断」は容易い。「それ」を全てのメンバーが行ったときでも学校が機能するかどうか、である。
全員が守らなくても学校が機能するような校則、つまり余計なものを定めていないかどうかの検証の方が先だろう。
どうも、社会には、定めてあっても守る人が少なかったり、守らせる気もない規則が多すぎるように思う。車の制限速度は法律で決め、駅前に自転車を無闇に置くなというのは、条例あたりで定めているのだろうが、守られる率が少ないものである。つまり、規則を無視することが一種の文化になってしまっている。
モラル、というかやった方が良いことの集まりがまずあって、その中で最低限これだけは強制力を持たせましょうというのが法で、その中間くらいにあるのがローカルな規則ということになるのだろう。生徒を共同体の一員として訓練するというのであれば、規則に頼らずモラルを教えよう、というのではなくて、規則をどう定め、どう適用し、どう改正するかというプロセスを教えないとまずいのではないか。
法律も校則も、その共同体の成員が「最低限に守るべき事項」を明文化したものである。だから、「法律(校則)にさえ触れなければいいさ」「抜け穴を探せ」などということを全てのメンバーが言い出したら、その社会は共同体としての機能を失う。
わざわざ、抜け穴を探すなどという面倒なことをしなければならないのだとしたら、規則が本当に必要かどうか、何故必要だったのか、変更してより良いものにできないかを考えてみた方がよい。それで、少々不便だけど守る利益がある、ということになれば、それでもかまわない。
私が何故この話題にこだわっているかというと、中学校の時の制服について定めた規則について、未だに納得していないからである。女子の制服は、セーラー服で、スカート丈は大体決まっていて、スカーフはそのまま結ばず下に垂らせ、靴下は三つ折りにしろ、といったものであった。ところがこれが甚だ不合理なのである。制服の方は入学時の体格と入学後の成長分を見越して入学時に大きめのものを買うのだが、スカーフのサイズは1種類。身長にもよるが、結ばないと長すぎて、食事の時には汚すことが多かった。靴下の三つ折りも、夏場はそれでもいいのだが、冬の寒いときには延ばす方が合理的、というか気温に応じて調整するのが服の本来の役割の筈である。でもって、これを強制する教師の理屈が「中学生らしく」「服装の乱れから生活の乱れが始まる」といったものであった。ついでに言うと、いわゆる「不良がかった」生徒は、そのような規則は当然破りまくりである。
常識的に考えて、女子生徒全員が靴下の三つ折りを止めたために学校として機能しなくなる、などということはあり得ない。スカーフを結ぶな、について、見てくれ以外の合理的理由をつけられるとしたら、後ろからスカーフを引っ張って首を絞められた時に危険だから(結ばず上衣のループに通しているだけなら引っ張れば抜けるから安全)というものだろう。
このことから経験的に学べるとことがあるとしたら、次のようなことだろう。
・規則の根拠に合理性はない。
・規則とは誰かが勝手に決めるものである。
・作った側が真面目に守らせる気のない規則がそのままにされる。
・規則を守らなくても、実は大したことにならない。
これでは、共同体の一員をつくる教育としては、逆効果でしかない。
モラルに頼って、規則の作り方や運用の仕方の教育をおろそかにしてはいけない。
生徒の中には、「オレだけだから良いだろ」ということが多い。じゃあ、「なぜ、「オレ」だけがしなくて(或いは、皆もしたいのに我慢していることをすることが)許されるのか」ということである。他の人の存在はどうなるのか。これは、公平や平等から外れる考え方である。
「ルールがタコだから」と答えなければならない場合もある。あるいは、リスクを背負うのもオレだから、と答える場合もあるだろう。
しかるに最初から「外れること」を是認していたら、「外れる人」の割合がもの凄く増えてしまうだろう。ヒトは、もともと、個性、個性と連呼しなくても、したいことやしたくないことは個体によって大きく異なるものなのだ。
そうであるなら、他の人の存在は考えることに、常に意味があるとはいえない。その「オレ」が何かをしたとして、他の人がやりたいことはそれとは別の何かになるはずだからである。
どうも、前の方に書かれていることとうまくつながらない。具体例が無いので、非常にわかりにくい。
どんな社会を作りたいかというところから、絶対にしなければいけないこと(法定される)と、した方が良いことと、しない方が良いことが出てくる。余裕があるときに、このつながりに立ち戻ることさえできれば、普段は線引きで判断のコストを下げるというのも有りだろう。
法と教育が相容れないとは私は考えない。むしろ、線を引いたり引かれたりという経験をすることで、法やルールとの付き合い方を学んだ方が有益である。
【追記】
石田さんのトラックバックを参考にして、大事だと思うチェックポイントを1つ。
改正手続きが明示されていない規則は欠陥品であり、規則と呼べる代物ではない。
構成員にわかりやすく手続きが示されていれば、その条文内に全てが書かれていなくてもよい。「規則制定改廃の手続き○条による」とか何とか書いてあればOK。もちろん、手続きの中身が民主的であることは必要条件である。