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逆だった(?)わけだが……

Posted on 3月 13th, 2008 in 未分類 by apj

 YOMIURI ONLINEの記事より。

横浜市大の論文審査、教授ら十数人にも院生から現金

 横浜市立大医学部(横浜市金沢区)の嶋田紘(ひろし)医学部長(64)の研究室で、学位取得の謝礼として現金の授受が行われていた問題で、嶋田学部長のほかに教授ら十数人が大学院生らから現金を受け取っていたことが12日、関係者の話で分かった

 同大の調査検討委員会も同様の事実を把握し、医学部全教員を対象に調べている。文部科学省は同日、事実関係の調査・報告を速やかに行い、再発防止策を講じるよう同大を指導した。

 関係者によると、学位取得を巡る現金の授受は嶋田学部長が消化器病態外科(第2外科)の教授になった1992年ごろから始まったとみられているが、2000年から05年ごろにかけて、少なくとも研究室の大学院生らの論文審査で主査や副査を務めた教授ら十数人が、現金を受け取っていた。額は10万円のケースが多く、一部だけを受け取るケースもあったという。

 横浜市大は05年に、理事長名で贈答の授受や饗応(きょうおう)接待を受けることを禁じる通知を教職員に出している。嶋田学部長はその後も謝礼の受け取りを続けていた。嶋田学部長は「謝礼を受け取り、預かったが、研究報告会や学位取得の記念品などのために、医局で積み立てて使い、個人として受け取っていない。しかし、金品の授受は誤解を受けるものと考え、医局長と相談の上、返還している」とのコメントを出した。

 一方、文科省はこの日、横浜市大の事務局長を呼んで指導するとともに事態の説明を求めた。同省大学振興課は「現金のやりとりは論外。なぜこのようなことが起き、どう立て直すのか、しっかり対応してほしい」と話している。
(2008年3月13日03時00分 読売新聞)

 医学臨床系の特殊事情だろうか。理学系、特に物理では、博士号を得るのに、教授に謝礼を渡すというのは聞いたことがない。
 私が最初の学位を得た時は、審査にパスした後で主査の先生が、研究室主催のお花見&食事会に誘って下さり、その研究室で無事学位を取った人に交じってお祝いをしてもらった。
 論文博士の審査に通った時は、審査の後、世話人になってくれた教授夫妻(=お茶大の冨永教授)が「お祝い」だといって大学前のレストランでお昼をごちそうしてくださった。
 もちろん、正規の授業料や大学の事務を通して納める審査料以外のものは支払っていない。
 両方とも、どっちかというと、記事とは話が逆なんですが……。

久しぶりの広島大

Posted on 3月 12th, 2008 in 未分類 by apj

 午前中、目黒区立東山中学校で話をしてきた。建物はキレイだし、生徒さんたちの雰囲気も良かった。
 私の話は、普通に進学してもいろんな騒動に巻き込まれるとか、何をしたいかなんてやっていくうちにしかわかってこないとか、ニセ科学宣伝をしているあぶない商品がいろいろあるとか、悪徳商法によって販売されていることも多いとか、高校までくらいの理科の知識で危ないものを避けることが相当できるはずなので試験が終わったら忘れるんじゃだめだとか、いろいろ話をしてみた。今回は、出張ついでのボランティア講師(出張旅費が別件で出ていて、移動の途中の空いた時間に入れた)。
 酔うぞさんの話も面白かった。使いながら作っていくしかないというのは、それなりにネットと関わりの深い人でないと言えないのだろうなぁ、と思いながら聞いていた。学校でネットを使うということになると、どうしても、既にある物を使うとか管理するという発想になりがちなので。

 夕方、広島へ。久しぶりの広島大学。半年暮らしていた時と、周辺はそんなに変わっていない。キャンパス内の学士会館に宿泊できたので移動が楽である。適当に食事したり買い物したりして、明日の発表のスライド並べ替えやら新規製作やらをしないと……(中学校用スライド優先で準備したから、後回しになってる)。

法との付き合い方を教えてはどうか

Posted on 3月 7th, 2008 in 未分類 by apj

法律と教育は、実は相容れない」を読んで。

 だから、生徒が「校則違反してるわけでないのに、なんで叱られなければならないのだ」と言い出してその主張が通ったり、先生が「きっちりと指導したいから、誰の目にもはっきりする基準を儲けてくれ。スカート丈は、何センチと決めた方が、だれにも公平で指導がしやすい」と言い始めたら、その学校は、教育機関でなくなってしまう。校則にしろ、スカート丈にしろ、「線引き」に判断をゆだねているからだ。

 「線引き」することが合理的で妥当かどうかの検証を怠たりさえしなければ、線引きしたってまったく構わないはずだ。基準を設けることがいけないのではなく、理由が説明できない状態で基準を運用することがまずいということだろう。どうも、問題提起がずれてしまっているように見える。ここは、線引きの意味を見失うな、と言わなければならないところではないか。
 また、「校則違反してるわけでないのに、なんで叱られなければならないのだ」と言われたときに、きちんと説明することが出来ないのなら、叱った方が多分何かを間違えている。

 共同体の維持は、明文化されない「不文律」が「常識」や「モラル」として遵守されているからできるのだ。判断基準の全てを法律や校則による共同体は、相当に住み心地の悪い社会になるだろう。なぜなら、構成員には、常識もモラルもないということだからだ。それで、人間が共同体のメンバーとして生きる上での常識やモラルの育成の役割を担っているのが公教育であったり、家庭教育だったり、地域社会だったりする。

 構成員に常識やモラルが欠けていても、全てを法律や規則で判断することにすれば、それなりに居心地のよい社会が出来そうに思うのだが……。それだけの緻密で多量のルールを決めて運用するという部分に、ノウハウが必要になるだろうけど。

 「それを学校でやっても良いことかどうかの判断」は容易い。「それ」を全てのメンバーが行ったときでも学校が機能するかどうか、である。

 全員が守らなくても学校が機能するような校則、つまり余計なものを定めていないかどうかの検証の方が先だろう。
 どうも、社会には、定めてあっても守る人が少なかったり、守らせる気もない規則が多すぎるように思う。車の制限速度は法律で決め、駅前に自転車を無闇に置くなというのは、条例あたりで定めているのだろうが、守られる率が少ないものである。つまり、規則を無視することが一種の文化になってしまっている。
 モラル、というかやった方が良いことの集まりがまずあって、その中で最低限これだけは強制力を持たせましょうというのが法で、その中間くらいにあるのがローカルな規則ということになるのだろう。生徒を共同体の一員として訓練するというのであれば、規則に頼らずモラルを教えよう、というのではなくて、規則をどう定め、どう適用し、どう改正するかというプロセスを教えないとまずいのではないか。

 法律も校則も、その共同体の成員が「最低限に守るべき事項」を明文化したものである。だから、「法律(校則)にさえ触れなければいいさ」「抜け穴を探せ」などということを全てのメンバーが言い出したら、その社会は共同体としての機能を失う。

 わざわざ、抜け穴を探すなどという面倒なことをしなければならないのだとしたら、規則が本当に必要かどうか、何故必要だったのか、変更してより良いものにできないかを考えてみた方がよい。それで、少々不便だけど守る利益がある、ということになれば、それでもかまわない。
 私が何故この話題にこだわっているかというと、中学校の時の制服について定めた規則について、未だに納得していないからである。女子の制服は、セーラー服で、スカート丈は大体決まっていて、スカーフはそのまま結ばず下に垂らせ、靴下は三つ折りにしろ、といったものであった。ところがこれが甚だ不合理なのである。制服の方は入学時の体格と入学後の成長分を見越して入学時に大きめのものを買うのだが、スカーフのサイズは1種類。身長にもよるが、結ばないと長すぎて、食事の時には汚すことが多かった。靴下の三つ折りも、夏場はそれでもいいのだが、冬の寒いときには延ばす方が合理的、というか気温に応じて調整するのが服の本来の役割の筈である。でもって、これを強制する教師の理屈が「中学生らしく」「服装の乱れから生活の乱れが始まる」といったものであった。ついでに言うと、いわゆる「不良がかった」生徒は、そのような規則は当然破りまくりである。
 常識的に考えて、女子生徒全員が靴下の三つ折りを止めたために学校として機能しなくなる、などということはあり得ない。スカーフを結ぶな、について、見てくれ以外の合理的理由をつけられるとしたら、後ろからスカーフを引っ張って首を絞められた時に危険だから(結ばず上衣のループに通しているだけなら引っ張れば抜けるから安全)というものだろう。
 このことから経験的に学べるとことがあるとしたら、次のようなことだろう。
・規則の根拠に合理性はない。
・規則とは誰かが勝手に決めるものである。
・作った側が真面目に守らせる気のない規則がそのままにされる。
・規則を守らなくても、実は大したことにならない。
 これでは、共同体の一員をつくる教育としては、逆効果でしかない。
モラルに頼って、規則の作り方や運用の仕方の教育をおろそかにしてはいけない。

生徒の中には、「オレだけだから良いだろ」ということが多い。じゃあ、「なぜ、「オレ」だけがしなくて(或いは、皆もしたいのに我慢していることをすることが)許されるのか」ということである。他の人の存在はどうなるのか。これは、公平や平等から外れる考え方である。

 「ルールがタコだから」と答えなければならない場合もある。あるいは、リスクを背負うのもオレだから、と答える場合もあるだろう。

しかるに最初から「外れること」を是認していたら、「外れる人」の割合がもの凄く増えてしまうだろう。ヒトは、もともと、個性、個性と連呼しなくても、したいことやしたくないことは個体によって大きく異なるものなのだ。

 そうであるなら、他の人の存在は考えることに、常に意味があるとはいえない。その「オレ」が何かをしたとして、他の人がやりたいことはそれとは別の何かになるはずだからである。
 どうも、前の方に書かれていることとうまくつながらない。具体例が無いので、非常にわかりにくい。

 どんな社会を作りたいかというところから、絶対にしなければいけないこと(法定される)と、した方が良いことと、しない方が良いことが出てくる。余裕があるときに、このつながりに立ち戻ることさえできれば、普段は線引きで判断のコストを下げるというのも有りだろう。
 法と教育が相容れないとは私は考えない。むしろ、線を引いたり引かれたりという経験をすることで、法やルールとの付き合い方を学んだ方が有益である。

【追記】
 石田さんのトラックバックを参考にして、大事だと思うチェックポイントを1つ。
 改正手続きが明示されていない規則は欠陥品であり、規則と呼べる代物ではない。
 構成員にわかりやすく手続きが示されていれば、その条文内に全てが書かれていなくてもよい。「規則制定改廃の手続き○条による」とか何とか書いてあればOK。もちろん、手続きの中身が民主的であることは必要条件である。

日経サイエンス4月号、の議論の続き

Posted on 3月 6th, 2008 in 未分類 by apj

 元エントリーは「日経サイエンス4月号」。期待していた議論が、くだらない理系文系ルサンチマン論争でどこかにすっ飛んだので、仕切り直しをする。
 最初にコメントをくださったkaeyさんが、次のようなメールをくださった。メールを題材にしてエントリーを上げることを快諾してくださったので、以下に引用する。

 4月号の『似非科学と非寛容』を一読して心に浮かんだのは、ニセ科学が跋扈するのはなぜかという疑問です。
 これについて記録を調べたり、具体的な事例を集積したり、きちんと調査研究したわけではないので、概論的なことを評論的に述べるしかありません。
 理由はひとつではないでしょう。怪しげな摩訶不思議やニセ科学跋扈の原因として沢山考えられる中で先ず私に思い浮かぶのは、科学が人類に害悪を及ぼしたり、被害を受けた人々が追及したその原因が科学技術であった事実ではないかということです。
 例えば、広島や長崎に投下された原子爆弾や近代戦争に使われた最新兵器・工場排水によって引き起こされた水俣病やイタイイタイ病・シックハウス症候群・ シアン化カリウムやアジ化ナトリウムによる毒物中毒事件・茨城で起きたICOの臨界事故・アスベスト問題などなど。人々に甚大な被害が出て大事件になり、 人々によく知られるようになった出来事では、人体に危害を加えた直接のものが化学反応や物理反応になっています。このような事件を引き起こした主体は人 (人為というやつです)ですが、一般人々は「科学」が凶器になって人に襲いかかったという印象を持ちます。実は科学そのものではなく、科学に基いた技術が 生み出したものがそうなっているのですが。「科学」とひとくくりにされがちです。
 その印象からさらに「科学」≈「生命を脅かす凶器になることもある」≈「生命を脅かす凶器になる」≈「凶器」という風に印象が進んでしまうと、科学が悪いものになってしまいます。 科学は人間が自然界を理解したり役立つものを得るため方法だったりする、中立的なものなのに、「悪いもの」という風に修飾されてしまいます。科学の本質をあまり理解していない人は、このような印象に流される場合もあるでしょう。
 そうするとその極端な反動として、非科学的がものが「善いもの」という価値観も生まれて来るでしょう。宗教団体が作るパンフレットなんかによくある絵 は、いろいろな動物や人が田園風景の中で仲良く暮らしているというもの(私には胡散臭い)で、そこに科学技術を象徴するような事物は出てきません。科学と 離れたところに理想の楽園があるかのような印象を与えます。
 以上のように、科学が人類にもたらしたいい面を忘れ、悪い面だけがことさら記憶に残った結果、科学を毛嫌いする風潮が生まれ、それが怪しげな摩訶不思議を受け入れる素地になっているのではないかと思います。しかしながら、多くの人がそのような考えに陥っているという訳ではありません。飽くまでそのような 風潮があるというだけの話です。
 そして、人々が「こうあって欲しい」という希望をかなえるのに、摩訶不思議だけでは十分ではないときにニセ科学が使われるのではないでしょうか。つまり、都合のいいところだけ科学的検証の方法論を利用するのです。科学をよく理解できない人には、科学的であることとそうでないことの区別が明瞭ではありません。また、いくら科学は怖いと思っても、現代の日々の生活で科学技術の恩恵を受けていない人はないのですから、自分に都合のいいところでは科学を受け入 れます。
 私は、科学や技術から生まれてきたよい点と悪い点をきちんと捉え、それに関わった人間活動を踏まえてきちんと分析し、それを啓蒙することが、このような 風潮を消すために大切ではないかと考えています。

 やっと本筋の議論に戻ったという感じです。まずは、メールを紹介させていただきます。意見交換はコメントの方で……。

郷里の珍味、養殖成功

Posted on 3月 5th, 2008 in 未分類 by apj

 MSNサンケイニュースの記事より

初の養殖ニゴロブナ水揚げ 琵琶湖、フナズシ向け
2008.3.5 12:10

 琵琶湖独特の食文化、フナズシを安価に提供しようと、滋賀県安土町の女性が天然ものの激減で高騰している原料のニゴロブナの本格的な養殖に成功、町内の養殖池で初の水揚げが始まった。池は、かつて湖だった場所で水田を掘削。昔の琵琶湖に近い環境で薬品などを使わず育てるため、天然のニゴロブナと同等の品質が確保できたという。水揚げしたフナはコメと混ぜ合わせて塩漬けし、11月にフナズシとして完成。「天然もの」の約半値で出荷する予定だ。
 これまで成功例がなかったニゴロブナの養殖に挑戦したのは大島正子さん(45)。農家を継いだ大島さんが平成9年、試行錯誤の末、養殖法のめどが立ち、地元企業の支援を受けて18年に養殖・加工・販売会社「飯魚(いお)」を立ち上げた。今年、ようやく本格的な出荷の態勢が整った。
 養殖池の面積は2.7ヘクタール。今年は約1ヘクタール分で育てたニゴロブナを水揚げする。激減の主な原因とされる外来魚やカワウがいない環境に加え、エサだけでなく池に自生するエビやアカムシで育った養殖魚はかつての天然ものに近いという。
 水揚げ作業は、普段は1.6メートルある水深を50センチほどまで下げ、底に集まったニゴロブナを網で捕獲。スシ用の20センチ以上のフナを選別し、いけすに移した。「初の水揚げ」を聞きつけて見物に訪れた滋賀県モロコ・フナ養殖研究会のメンバーは「ものすごい数だが、どれも生きがいい。土がええんやろな」などと感心しきりだった。
 水揚げは今週いっぱい続けられ、来週から地元の漁師が伝統的な手法でフナを漬ける。2トンの出荷を見込んでおり、販売価格は20センチ前後のフナズシで2000~3000円程度を予定している。

 フナ寿司は、いわゆる寿司を想像すると間違いで、ぬかみそ付けのぬかの代わりに米を使い、キュウリやナスビの代わりにフナが入っているという、つまりは「フナの米漬け」で、滋賀県の珍味である(なれ鮨という)。発酵させて作るので、独特の香りのする酸っぱい魚になる。食べる時は、米を全部取り除いて、フナを切って、醤油や薬味をつけて食べる。好き嫌いが分かれるが、好きな人はトコトンはまるらしく、郷里では、フナを買ってきて普通の漬け物同様に、家に樽を用意して漬けている人もいる。最近では、フナが品薄になってしまったため、中サイズのフナ寿司でも買うと一匹3000円ちょっと、大型のものだと5000円ほどしていた。料亭で出してもらうともっと高いだろう。養殖が難しいので値段が下がらないということだったが、今回、養殖に成功したのであれば、もう少し手頃な値段で手に入るようになるかもしれない。
 外来種が原因でフナが減ったというのは事実で、琵琶湖もブラックバスに悩まされている。外来種だっておいしくいただければみんなが採るから減るだろうということで、ブラックバス鮨は既に試験製造が行われた。しかし、サイズが大きいので、きちんと発酵するまでにフナの倍の時間がかかる上、味の方は淡泊すぎて物足りないそうである。従って普及はしていない。

 こんなことを書いていたら、小学生の時、5年生になると理科の授業でフナの解剖実習があるときいて、心待ちにしていたのを思い出した。結構楽しかったのを覚えている。それをきっかけに、理科教材の解剖器具セットを買い、夏休みのイベントの鮎つかみ取り大会に持っていって、食べる前にしっかり内部を見てからおいしくいただいた。

中学校で話をします

Posted on 3月 4th, 2008 in 未分類 by apj

 3月12日に東山中学校で話をする予定。この春卒業する生徒達に、世の中いろいろ危ないモノがあるという話をしてほしいということで、酔うぞさん経由で依頼が来たので引き受けた。午前中に、私と酔うぞさんで話をする。
 ダイエット法やマイナスイオンが怪しいとか、テレビを疑えといったことを易しく言ってみる予定。後は、人生は予定通りにも予想通りにもいかないとか、勉強はずっと続くとか、そういう話も盛り込んでおこうかと。
 高校生相手は去年やったけど、中学生は初めてなので、どうしたものかと思案中。

日本システム企画株式会社について情報を募集します

Posted on 3月 3rd, 2008 in 未分類 by apj

 日本システム企画株式会社(NMRパイプテクターを販売)が、宣伝に際して天羽についてどのように言及しているか、情報を募集します。

 経緯は次の通りです。

 ここ数年、この会社関連で「売り込みを受け、マンション管理組合の一部の人が熱狂的に進めようとして困っている」という相談がなぜか多いのです。ウェブでとりあげた他の会社は殆ど何もなくて、ここばっかりです。不思議に思っていたのですが、どうやら、この会社は宣伝に際して天羽の名前を出しまくっているため、ネット検索した住人の方が連絡してくるということのようです。そこで、天羽について一体何を吹聴しているかを知りたいので情報を募集します。
 できれば書面になっているものがありがたいです。出所がわかるものが欲しいです(何年何月頃、何県何市のマンションで……くらいまで。)。
 オフィス宛に送って下さると助かります(990-8560 山形市小白川町1-4-12 山形大学理学部 天羽優子 宛)。

 私に対する言及であれば、私には知る権利があると思います。

 とりあえず確認がとれた範囲では、次のようなセールストークを行っている模様です。
○「天羽が勝手にお茶大のウェブサイトを利用していて、処分された」←事実無根。お茶の水大のサイトは、冨永教授が置けと言ったから置いているだけ。また、処分された事実はない。
○「天羽は無職である」←実際には山形大学理学部物質生命化学科准教授(この主張は、突っ込めばすぐに引っ込めるらしい) 。無職ということにした方が、会社の宣伝上都合が良いのかもしれません。
#まあ、無職に近い状態も長かったので仕方ないかもしれませんが、もうそろそろいいでしょう^^;)
○「天羽は延々と営業妨害している」←2001年の1月から2月にかけてのやりとりの公表と対応のみ。あとは、クレーム第一号としてたまに言及している。数年にわたってあちこちから私のところに問い合わせが来るようなセールスを延々続けているのは会社の方である。というか、会社が私の名前を出し続ける限り、普通の人なら「ホンマかいな」と思って私に問い合わせしてきて、結果として私がいろいろ説明する羽目になるわけで。

【ご注意】売り込みを受けた方へ
 セールス内容を怪しんで天羽の名前をちょっとでも出すと、それだけで、その人だけ説明会の時に資料がもらえなかったりということがあるようです。暫くは天羽の名前を出さずに黙って話を聞いておいて、登場する研究機関の名前や研究者の名前が実在するか、その研究者がどんな人でどういう状況で登場するようになったのか等について裏を取る方が、より正確な情報が得られると思います。 ぶっちゃけ、私の名前は既にNGワード扱いされてます。また、ここで情報収集中と書いたことで、今後は会社が資料を回収しようとするかもしれませんので、ご注意ください。

何故検索できたのか?

Posted on 3月 1st, 2008 in 未分類 by apj

 お茶大の方の掲示板に書いてるのだが、一応こちらでも書いておく。
 仮の名をAさんとする(メールアドレスa@abc.jpとする)から、メールアドレスがウェブサーバで公開されているというクレームがあった。Yahooで検索するとatom11.phys.ocha.ac.jpが引っ掛かる、という連絡であった。
 全く覚えのないアドレスであったので、不思議に思いつつ検索してみたら、確かにatom11.phys.ocha.ac.jp内のsearch_200411.htmlとsearch_200510.htmlなるファイルが引っ掛かった。search_200411.htmlの中にはa@abc.jpが存在しなかったが、search_200510.html中を見るとa@abc.jpが書かれている。
 serach何チャラとうファイルは、httpdのログからwebalizerが自動で生成する、サーチエンジンの検索キーワードをまとめたファイルである。ここに検索キーワードとしてa@abc.jpが登録されるということは、2005年の10月に、どこかの誰かがa@abc.jpと入れてYahoo!なりGoogleなりで検索し、その結果atom11.phys.ocha.ac.jpのどれかのファイルが検索結果に出たので、リンクをつついて見に来たのがhttpdのログに残った、ということではないか。すると、2005年の10月以前に、サイトのどこかにa@abc.jpなる文字列が含まれたファイルが無ければいけないはずである。ところが、これまでにatom11.phys.ocha.ac.jp内にa@abc.jpが含まれたファイルはsearch_200510.html以外に存在していなかった。

 ということで、最初の1回目の検索をa@abc.jpというキーワードでやって、なぜatom11.phys.ocha.ac.jpに到達し、apacheのログにそれが残ったのかがさっぱりわからない。さらに、a@abc.jpが含まれていないファイルがなぜヒットするのかもわからない。

 一応、キーワードファイルを出した後で、sedで@の含まれている行を全部消すという対応をしたが、何でまたファイル内に存在しないメールアドレスで検索でき、それがログに残るのかがが謎である。

【追記】
 向こうの掲示板で(ぱ)さんが指摘して下さったのだが、今回はこういう状況ではないかと。

1)たまたま、メールアドレスの@の両側の「a」「abc」が、同じ月のうちに全く独立に検索され、ばらばらの状態でsearch_200411.htmlに記録された(2004年11月)
2)2005年10月に、誰かが「a@abc.jp」で検索し、search_200411.htmlに到達した。このこため、「a@abc.jp」がsearch_200510.htmlに記録された。
3)webalizerの集計ファイルは一定期間(1年くらい)は、リンクをたどって到達できる。この期間に、サーチエンジンが見に来て登録した。

 2)をやったのが全く別の人なら不幸な偶然だが、もし本人だったらある意味自業自得ということになる。

グロービートジャパン(ラーメン花月)・平和神軍事件名誉毀損事件で無罪

Posted on 2月 29th, 2008 in 未分類 by apj

 yomiuri onlineの記事より。

ネットでラーメン店を中傷、名誉棄損問えず…東京地裁

 インターネットのホームページ(HP)で、外食店の経営会社を「カルト集団」などと中傷したとして、名誉棄損罪に問われた東京都大田区の会社員、橋爪研吾被告(36)の判決が29日、東京地裁であった。波床昌則裁判長は「ネット上の個人の表現行為については、従来の名誉棄損の基準を適用すべきではない」との判断を示した上で、「内容は事実ではないが、ネットの個人利用者として要求される程度の調査は行っている」と述べ、無罪(求刑・罰金30万円)を言い渡した。ネット上の名誉棄損について寛容な姿勢を示す新判断で、議論を呼びそうだ。

 判例では、事実に反し名誉を棄損しても、内容に公共性・公益性があり、加害者が真実と信じるだけの「確実な根拠」があれば罪にはならないとされてきた。

 判決はまず、HPの記載内容について「確実な根拠はなく、従来の基準では有罪になるとも考えられる」とした。一方で、「ネットでは被害者が容易に反論できるほか、個人が掲載した情報の信頼性は低いと受け止められている」と、ネットの特殊性を指摘。従来ほど厳格な基準を当てはめるべきではないとし、〈1〉わざとウソの情報を発信した〈2〉個人でも出来る調査も行わずにウソの情報を発信した――場合に名誉棄損罪を適用すべきだ、と述べた。

 橋爪被告については、経営会社の登記や雑誌の資料を集めるなど「ネットの個人利用者に求められる程度の調査を行った」とし、無罪とした。弁護人の紀藤正樹弁護士は「ネット上の個人の書き込みについて新基準を示した画期的判決」と評価した。橋爪被告に対しては名誉棄損訴訟も起こされ、橋爪被告に77万円の支払いを命じる判決が確定している。

 渡辺恵一・東京地検次席検事の話「判決内容を詳細に検討し、適切に対応したい」

(2008年2月29日21時39分 読売新聞)

 画期的な判決、おめでとうございます&お疲れ様でした>橋爪さんと弁護人の皆様。
 この裁判については、酔うぞさんが傍聴に行っておられたし、判決の日は傍聴席が埋まってしまって中に入れなかったらしい。出てきたマスコミの人が電話で無罪だと言っていたのを横できいて、電話で私に第一報をいれてくださった。酔うぞさんの方にもエントリーが上がっている

 年末のリンク忘年会でお会いした時に、橋爪さんから、「刑事被告人」という肩書きの名刺をもらったのだけどw、これで「元・刑事被告人」になるのだろうか。

 いずれ、判決全文はネットで読めるようになると思うが、ネット上の名誉毀損事件の裁判で、課される注意義務の範囲が、従来のマスコミと個人とでは違うという基準が示されたのが画期的である。
 もともと、名誉毀損の基準が出来たのは100年も前で、その頃は「公然と」表現するには、ビラや新聞や雑誌を配る、ラジオで放送するといった、マスコミしか使えないインフラを使わないと不可能だった。表現する側に調査能力もその他の(個人では持てない)力もあるという前提で判断されることになっていたわけで、それを、ネット時代の個人に適用すると、個人にとって過酷すぎる結果をもたらしてしまう。基準の方も見直しが必要なのではないか、ということは、紀藤さんをはじめ、ネットに詳しい人達の間では繰り返し問題点として指摘されてきていた。

 ところで、報道で、「外食チェーンの会社」が「グロービートジャパン(ラーメン花月)」で、「カルト」と呼ばれたのが「平和神軍」だと報じている記事がどれだけあるのだろうか。少なくとも読売の記事は、個人である橋爪氏の名前は出すのに、会社の方は特定していない。報道の姿勢として著しくバランスを欠くように思う。

 今のところ、もう少し詳しい話や議論は次のblogで読める。
弁護士紀藤正樹のLINC TOP NEWS-BLOG版。写真入りで、左から紀藤弁護士、橋詰爪氏、山口弁護士。
弁護士山口貴士大いに語る
弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」

【注意】このエントリーでは固有名詞を書いたが、グロービートジャパン、ラーメン花月、平和神軍といったキーワードは、ネット上で書くだけで、削除要求がどこからかやってくる(笑)ということが起きていた。判決で状況が変わったかも知れないが、とりあえず、このエントリーの削除要求については、どういうルートできたものでも公開して対応することにする。
#過去に、前科十犯の脅しの言いなりになってエントリーを削除させた山形大学を信用しろという方がもはや無理なので 😛 。

江原啓之が大学で講義する件

Posted on 2月 27th, 2008 in 未分類 by apj

 J-CASTニュースより。

江原啓之「大学教授」就任 スピリチュアルではなく「生命倫理」教える
2008/2/26
スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之さん(43)が2008年4月から大学の「客員教授」として学生の前で講義する。お得意のスピリチュアル・カウンセリングの講義ではなく、科目名は「生命倫理」もしくは「コミュニティ福祉」あたりらしい。

客員教授として、90分の講義を年間2~3回する

江原さんが講義するのは、08年4月に新設される、旭川大学(北海道・旭川市)の保健福祉学部。同大によれば、江原さんは客員教授として、90分の講義を年間2~3回する予定。科目名は「生命倫理」もしくは「コミュニティ福祉への招待」になる予定で、具体的な講義内容などについてはまだ決まってないという。

しかし、なぜスピリチュアル・カウンセリングの江原さんが大学で講義するのか。
同大入試広報課の担当者は次のように説明する。

「大学側からお願いしたのではなく、江原さんサイドからお話があったようです。江原さんは旭川に縁があるようで、山内(同大山内亮史学長)が共通の知人を通じて、07年7月にお会いしました。江原さんは、看護士からの相談が多く、終末期の患者さんとの接し方などについて相談も多くあるようです。そこで、保健福祉学部が新設されることもあり、『機会があればどうでしょうか』という話になりました」
講義では「スピリチュアル・カウンセリング」について直接扱うのではなく、あくまで「看護婦や看護士の実態や対処の仕方」が主なテーマになるようで、大学側も「スピリチュアル」を扱った講義として広報することはないという。

市民からの反応は賛否両論

江原さんといえば、最近は何かと物議を醸している。

2007年7月28、29日に放送された「FNS27時間テレビ」では、江原さんが、秋田県の美容院経営の女性に対し、亡き父親からのメッセージを伝えてカウンセリングしたところ、内容に不満を持った女性から抗議され、放送倫理・番組向上機構(BPO)が08年1月21日に「人間の尊厳を傷つけかねない」と同番組を批判する事態にまで発展。さらに江原さんも自身の公式サイトで、「フジテレビの番組制作のありかたを遺憾に思います」「私自身はテレビにもしがみついているわけでもありません」と発言していた。

また、週刊文春08年1月24日号では、テレビ朝日系番組「オーラの泉」で、女優の壇れいさんを前に壇さんの父親を霊視したが、壇さんの地元では「父親は生きている」と疑問の声が上がっているとも報じられてもいる。

テレビ番組で人気がある一方、江原さんについては問題情報も取りざたされる中で、地元でも受け止め方は様々なようだ。

「市民の方から興味があるというお問い合わせもありますが、賛否両論といったところです」
と入試広報課は話している。

 例えば、芸術系大学の芸能学科のようなところなら、実際に売れているタレントの江原氏を招くのも有りだと思うが、保健福祉学部はどう見ても違うだろう。単に看護士からの相談が多いからという理由でもって、インチキスピリチュアルを売り物にしていた人物に講義をさせるというのは、受けた人生相談が多いからという理由で占い師を連れてきて倫理学の講義をさせるというのと大差ないし、スピリチュアルの蔓延と間違った権威付けに大学が荷担することにもなる。江原氏については、その芸能活動の欺瞞性が既に批判の対象となりつつあるわけで、この状況で「大学で講義しました」などという実績を与えることは、霊感商法の被害者を間接的に増やす効果しかない。
 江原氏の講義を単位の一部に勘定するというのは、ディプロマミルよりも悪質ではないか。
 また、江原氏が看護士からの相談をきちんと体系的に集めて整理し分析しているという話は全く無いわけで、江原氏が講義したところで、体験談の羅列以上のものにはならないだろう。一方、看護士のような医療系の現場で働く人には、体験談の羅列を受け入れるような考えを持ってもらっては大変に困る。インチキ健康食品や何とか療法を水際で食い止めてもらわないとまずいわけで、その意味からいっても、江原氏に講義をさせるというのは間違っている。