レッテルはちゃんと貼れ
digitalひえたろうさんの「「レッテル貼り」というレッテル貼り」より。
つまり「レッテルを貼ること」が問題なのではなく、レッテルがその内容をどう反映しているかが問題なのだ。
比喩的な意味だけではなく、現実には、レッテルがいい加減だとえらいことになる。大学院生の頃、試薬廃棄処理の作業をしていたら、何やら怪しげな瓶に透明な液体が入っていて、レッテルに曰く「濃硫酸らしい」……orz。その「らしい」って何だよ一体。どうするんだこれ、って散々議論になったのを覚えている。「濃硫酸」と断言しておいて違うものが入っているのと、どっちがマシかというと、捨てる前に確認すべしという注意が喚起されるだけ「らしい」の方がマシではあるが。まあ、「レッテル貼るならきちんと貼れバカヤロー」とその場にいたほぼ全員が思っていたわけで。
レッテルを貼ること自体は問題無いが、間違って貼るとか、曖昧なものを貼ると被害が発生するので、貼るならちゃんと貼れと。比喩的な意味の場合でも多分これは同じかと。
ところで、どうして「レッテル貼り」がネガティブイメージを伴う言葉になったのかと考えてみた。思い当たるものとしては、「中身をよく見もしないで間違って貼る」「貼ったが最後訂正しない」「事情により中身が違ってきているのに、貼ってある”レッテルについて”の議論しかしない(わら人形論法の一形態?)」などがある。正しく貼った上で取り扱いも妥当であったならば、「レッテル貼り」にネガティブイメージなど伴いようが無いわけで。
「貼り方」が妥当かどうかをを問題にしないで「レッテル貼り」などと他人を一律に非難するのはそもそも間違いであるばまりか、間違ってレッテルを貼ったりしたために「レッテル貼り」という言葉がよろしくない意味になってしまったということを、再生産する行為であるということになる。
- » Continue reading or コメント (0)