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磁気活水器について相談をうけた

Posted on 2月 1st, 2008 in 未分類 by apj

 某電力会社の人が遠方から見えて、社内に売り込みが続いている磁気活水器についてどう考えるべきかという質問を受けたので、午前中に2時間ほど面談した。「私は活水器の開発や試験はしていない、水の物理化学に基づいた話でよければ」と言ったところ「製品開発に関わってしまっているちょっぴり怪しい人に訊くのとそうでない人に訊くのでは答えが違うだろう」ということで、この話を一体誰に訊くと良いか調べて、溶液化学の某先生経由で私のところに来られた。
 事前に、永久磁石を使うものやコイルで変動磁場をかけるものなど、何種類かの製品について資料をいただいていたので、すぐに話を始めることができた。
 まともな知識を持った現場の技術者の方々であったので、活水器の販売側の一見科学的な説明が、科学として完全に間違っていたり有り得ないもののオンパレードであることは認識しておられた。その上で、そういうものにまどわされずに実際に防錆に使える装置を拾い出すには何に気を付ければよいかという話になった。
 まとめると、こんなことを話した。
・磁場によって水自体が変わることはまず期待できない。
・特定の磁気活水器が防錆効果を示すということはあり得る。
・「材料と環境」に掲載された報文のように、装置の実装によっては犠牲陽極を設置したのと同じことになっている場合がある。
・試験片の表面の元素分析や、水の中に何が溶けたかという成分の分析が基本で、それを元に、本当に起きているのはどんな現象なのか調べていくしかない。
・その結果、既に知られている犠牲陽極を設置する方法等に分類されてしまうかもしれない。それでも、たまたま安価で効果的な防錆方法が偶然実現してしまっているものを見つけ出すこともあるかもしれない。
・要は、物質の種類と移動で現象を説明することで、それを十分に尽くしてなお説明不可能な現象に当たってしまった時にはじめて物理的変化について考えることになる。

 「本来なら、装置の効果がどうして出るのかを突き止めるのは販売側の仕事のはずなのに、売り込まれる側が試験して確定しなければならないのは納得いかない」とぼやいておられた。「磁場で水そのものが変わるというデマが広まった結果、装置を実装してたまたま効果があれば磁場の効果だと間違った納得をして、誰もその先を調べなくなってしまった。このため、いつまでも本当の問題が解明されないままに残ってしまっている。善意で信じているあたりがもうどうにも救いようがなく、科学技術のレベルという点だけを考えるならば、まだ、詐欺っててくれる方が、技術は押さえている分マシかもしれない」などと答えた。

 磁場で水そのものが変わるという「ニセ科学」のおかげで、消費者だけではなく、事業者側まで混乱して損害を被っているのが現状である。

冨永教授が独立当事者参加、代理人は壇俊光(サイバー)弁護士

Posted on 1月 30th, 2008 in 未分類 by apj

 神戸地裁で第4回口頭弁論が終了した。
 今回のハイライト(?)は、お茶の水大のサイトの管理責任者である冨永靖徳教授が独立当事者参加の申立を行ったことである。代理人はサイバー弁護士で有名な壇俊光氏(Winnyの弁護団事務局長)。
 実は、第一回口頭弁論終了後に、当事者参加の話はあった。しかし、「参加申立は、裁判官の訴訟指揮の状況がわかるまで、二、三回待って欲しい」というのが、お茶の水大の顧問弁護士のコメントであったらしい。冨永教授は職員である以上、大学の代理人の意見を容れざるをえなかった。一方、私は職員ではないので、自らの権利に基づき、詐害防止参加を第2回口頭弁論から行った。冨永教授としては、参加すると訴訟がややこしくなって大学が嫌がるので、当面は参加を見合わせるつもりだったらしい。
 ところが、口頭弁論を3回行った結果、当該表現とは最も関係の薄い学長が提訴され、当事者参加が学外の私で、学内外にウェブサイトの責任を負うことになっている冨永教授が全く何もしない状態が実現してしまうことになった。つまり誰が見ても「責任者は一体どこで何をしとるんだ?」ということになったわけで、さすがにこれはまずいと気付いたらしい。
 冨永教授の参加によって、私の権利は冨永教授との明示の契約によって発生し、対大学との関係はすべて冨永教授が責任を負うという、本来あるべき形をとることになった。権利の振り分けで、冨永教授と私が利益相反の関係になることはあり得る。このため、冨永教授は独立に訴訟代理人を立てて、訴訟参加を行うことになった。
 これらの流れが決まったのは、年末年始をはさんでのことで、訴訟参加が決まったのは御用始め早々くらいであった。弁論の形が変わるという話や、冨永教授の参加が必要だという話を年明けそうそうに絵里タンには説明した。絵里タンとしては、冨永教授の参加無しに勝てる状況だと考えていたらしく、当初はさほど歓迎していなかった。が、今のままだと学外の私が直接お茶の水大学との「黙示の契約」を主張することになり、弁論としてはそんなに重い部分でなかったとしても、この形で決着すると大学が大変嫌がることが予想される。また、以前に母校を提訴までして(冨永教授経由で意見書を出したりして)交渉してできあがった、「研究室ページの責任者は明示された教員」という規則を破ることになってしまう。裁判には勝ったが運用規則はめちゃくちゃになりました、では、その後のネット利用に大きな支障を来してしまう。このあたりのことを絵里タンに話して、納得していただいた。訴訟が終わった後でも、制度の運用は続くのであり、当事者としてはそこまで考えて訴訟を行わないといけないのである。
 冨永教授の立場としては、大学との利害も一致はしておらず、学内で参加の是非について判断を求めることができない状態であった。それで参加することは今日まで伏せておくという話になった。このため、裁判について他所の掲示板等ではあまり突っ込んだことを書くのを止めた。詳しく書くと「冨永が居ないのは変」という話になったりするが、私は当事者ゆえに状況を知ってしまっているから、何を書いても後から見るとウソを書いたことになりそうだったからである。

 壇弁護士は、別の裁判とダブルブッキングだったらしく、今日は欠席。申立書だけあらかじめ裁判所に届け、本日提出となったので、次回以降弁論をすることになる。

入会してみた

Posted on 1月 28th, 2008 in 未分類 by apj

 情報ネットワーク法学会に入会。酔うぞさんに推薦していただいたのだけど、入会を許可するという通知が本日届いた。早速会費等を納入。
 ネットと従来の社会の摺り合わせはまだまだこれからだし、問題も出てくる。継続的に情報収集して考えていかなければならないと思ったので、専門外だけど思い切って入ってみることにした。

 ただ、この分野の研究会等のスケジュールがわからない。私が普段出没する物理系だと、複数の学会に参加している人がいるからそれなりに日程がずらしてあったりするのだが、分野が全く重ならない学会が混じると、シンポジウムなどの開催日程がぶつかりまくる可能性もある(汗)。

MSN産経:【竹内薫の科学・時事放談】疑似科学

Posted on 1月 26th, 2008 in 未分類 by apj

 MSN産経:【竹内薫の科学・時事放談】疑似科学の記事より。メモ代わりに貼っておく。

 ■だまされやすい日本人
 疑似科学とは、その名のごとく「科学に似て非なるもの」のことである。身近な例では「マイナスイオンは身体に良い」とか「クラスターが小さい水はおいしい」といった類(たぐ)いの仮説で、科学的な根拠の薄いものを言う。
 科学者のほとんどは、こういった仮説が実験的・理論的な根拠の薄いことを知っているけれども、「マイナスイオン」とか「クラスター」といった科学用語が使われているために、一般の人は気付かないことが多い。科学用語を使っているために、人々が根拠のない仮説を信用してしまうのが問題なのである。
 マイナスのイオンはたしかに存在するが、それが身体に良い、ということは科学的・医学的に検証されていない。だから「身体に良い」という効能を謳(うた)った商品を販売すればお縄をちょうだいする。実際、厚生労働省は平成15年8月にこのような商品を摘発し、「マイナスイオンがどんな物質で人体にどう影響するかが証明されない限り、効能のある医療用具として承認することはないし、前例もない」という談話を発表している。
 このため、世の中に広く出回っているマイナスイオンの出る電化製品は、慎重に「マイナスイオンは身体に良いといわれています」という伝聞表現を使っているのだ。
 ちなみに、マイナスイオン商品の氾濫(はんらん)は日本に特有の事情らしい。たとえばアメリカでは半世紀も前に同様の商品が流行しそうになったが、食品医薬品局(FDA)が警告を発したため、事実上、禁止になった経緯がある。日本政府や国会がマイナスイオンの問題に正面から取り組まないのは不思議だ。
 分子が「塊」になった状態をクラスターと呼ぶ。科学ではよく目にする言葉である。ふつうの水の分子も数個のクラスターを形成するが、1兆分の1秒くらいの時間間隔で、塊になったりバラバラになったりを繰り返している。安定したクラスターにはならないのだから、クラスターが大きいも小さいもへったくれもない。つまり、水の味がクラスターのせいだ、というのは科学的に検証されていない仮説なのだ。
 マイナスイオンの例もクラスター水の例も、消費者が正しい科学情報を知っていさえすれば、「科学っぽい」イメージだけに惑わされて商品を購入することはなくなる。要は日本国民の「科学技術リテラシー」の問題なのである。
 実は、かくいう私も疑似科学の被害に遭い、人生そのものを狂わされた一人である。海外での勉学を終え、帰国した直後に、有名科学誌の編集者の紹介により科学書の執筆に携わったところ、その本が疑似科学本であることが判明し、私は科学界から追放される憂き目を見た。
 その後、十数年の歳月をかけて、コツコツと信用を取り戻してきたのである。狂信的ともいえる疑似科学叩(たた)きを経験した私は、今では、疑似科学の甘言とも疑似科学叩きの罵詈(ばり)雑言とも距離を置くようにしている。どちらも本来の「科学的な態度」とは程遠いと思うからである。(たけうち・かおる=サイエンスライター)

 最後の2段落についてはよくわからない。のせられて執筆した本が擬似科学本であっても、科学界(ってあるのか?)がわざわざ研究者を追放するとは思えない。というか、その本人が書いた内容の部分がまともであったなら、他の執筆者によって書かれた部分がまずくても、変な編集の本を踏んじゃった、という話で済むはずなので。

【追記】
この記事をとりあげた2ちゃんねるのやりとりに吹いた。
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1201332045/

106 :名無しさん@八周年 [] :2008/01/26(土) 16:41:39 ID:4X2SfYQ80
10年間ひかなかった風邪をひいた
止めた事が2つある
・マイナスイオンブレスを外した
・日田天領水を飲むのを止めた
どっちが大切だったのだろうか?

116 :名無しさん@八周年 [] :2008/01/26(土) 16:43:47 ID:zLNB03+sO
>>106 馬鹿じゃなくなったんじゃないの?

ツボにはまったので引用しておく

Posted on 1月 25th, 2008 in 未分類 by apj

 2ちゃんねるのスレ(私が見たのはまとめblogの方)より。ツボにはまったのでメモがわりに引用しておく。

289 : 名誉教授(コネチカット州):2008/01/21(月) 08:05:27.11 ID:tOuKqrHBO
源氏物語だって平安時代のスイーツ(笑)が書いた小説じゃねぇか。
しかも主人公の性欲半端ねぇし。

オヤジの嫁寝取る、幼女誘拐、本妻がイヤだから愛人作りまくり
流された先でも愛人つくるわ、不細工でもとりあえずやるわ…

 こちらは、初出がどこだかよくわからないがあちこちでコピペされて有名になっているもの。

アマテラスは引きこもり、紫式部は腐女子、清少納言はブログ女、
紀貫之はネカマ、かぐや姫はツンデレ、聖武天皇は収集ヲタで正倉院はヲタ部屋、
後白河法皇は最新流行の追っかけ、秀吉はコスプレじじぃ、

狂言は第一次お笑いブーム、鎌倉末期は新興宗教ブーム、戦国の茶道は萌え喫茶ブーム
江戸期に入るとエロパロ二次創作がこれでもかってぐらい溢れかえっている。

日本人は伝統的に変態遺伝子を受け継いでいるのは事実だ。
外国人から指摘されたとしても悪びれる必要はない。堂々と千年変態だと答えればいい。

 最初に見かけた時爆笑した。あとは、2ちゃんまとめblogに出ていた「源氏物語をスイーツ(笑)文にしてみる」違和感が無いのが……orz。

文系の人と語る楽しみ

Posted on 1月 24th, 2008 in 未分類 by apj

 最近、黒猫亭日常さんのところにおじゃまして、いろいろコメントを書いている。黒猫亭さんの文章を読むのが楽しみだったりする。
 blog主の黒猫亭さんは文系の人である。最初に黒猫亭さんの文章を見たとき、この展開の文章はどう頑張っても私には書けないと思った。言葉が人に向かう時の厚みをもった紡ぎ方は、やはり文系の人の物である。理系では、言葉の半分が数式や記号だったりするし、余計な言葉をそぎ落として自然を記述することに向かう。私はそういう訓練をされてきたから、私の使う言葉もそうなっている。
 言葉を尽くし、言葉を積み上げて人に向かうというのは、理系の訓練からは出てこない。理系はそんなふうに訓練されていない。しかし、人を考え理解する方法としては言葉をきちんと使うというのは非常に強力であるし、積み重ねもあるのだと思う。
 自然科学の修得には訓練の積み重ねが必要だが、言葉を使うという文系の分野にも訓練と積み重ねがある。人間には両方が必要だと思う。特定の個人が片方のやり方しか習得できなかったとしても。
 もちろん、言葉を積み上げたって自然科学に対しては無力だし、科学の方法で人を理解しようとしたって生理学的な理解以上のものは何も出てこないだろうから、使う方法と対象を間違えては意味がない。これはまあ、言うまでもないことである。

 理系文系論争というのは大抵不幸な方向、つまり互いにこき下ろすという方向に行ってしまうことが多いのだが、理系だから数学や実験器具を駆使して自然を相手にできる、文系だから言葉を尽くして人にきちんと向き合える、などと、互いに何がアドバンテージかを主張した方が、実りがあるのではないか。

TeX用ツール

Posted on 1月 22nd, 2008 in 未分類 by apj

 4年生の卒論書き用の環境に、Mac pTeXとmiエディターとTeX tools for miを入れて設定していたのだが、MacのOSのバージョンがちょっと古かったためか、最新版のTex tools for miを動かすと、設定画面が出なかったり、最初の1回は動いたのに2回目から全く動かなかったり、プリファレンスファイルがうまくできていなくて毎回ツールの場所を訊いてきたりと、不穏な動きをした。とりあえず、TeX tools for miの最新版は捨てて、ちょっと前の私が普段使っているものをコピーして入れたら問題なく起動。AppleScriptまわりのツールでも、動くバージョンは確保しながら、動作確認しつつ最新版に変えた方が安全らしい。
 一応、teTeXとTeX shopという環境でも動かせるようにはしているのだけど。

手札を良い状態に保つ

Posted on 1月 21st, 2008 in 未分類 by apj

 「裁判」カテゴリーにするかニセ科学の話題にするかで迷ったのだが、前日のエントリーとの関連もあるのでニセ科学の方に書いておく。
 向こうの掲示板で「正義は勝つのだ!」という、応援投稿がなされた。気持ちはありがたく受け取るが、実のところ、これは民事訴訟にはとことんそぐわないフレーズである。
 民事訴訟の目的は正義の実現ではなく、私的紛争の解決である。その途中経過として真実が明らかになったり、結果として正しい方が勝つこともあるが、それは、たまたま「正しい方」が「真実を立証する活動をした」ことが認められたからに過ぎない。裁判所は積極的に真実を明らかにすることはない。真実を明らかにするのは、争う当事者の責任である。主張がいくら正しくても、立証が不十分なら敗訴する。そして、一旦判決が確定すると、それは、社会において「正しいもの」とされるという約束になっている。
 教科書が何と書こうが評論家が何と言おうが、権利が自動的に保証されるわけではない。侵害者相手に不断の闘争をする以外に、権利を実現する方法はない。また、権利が法的闘争によって作られるという面もある。権利のために紛争を行うことは、自分自身に対する義務であると同時に、社会に対する義務でもある。

 とはいえ、現実の訴訟は社会のリソースの一部を使うことになるし、当事者のリソースも食われることになる。何でもかんでも訴えればいいというものでもない。

 さて、黒猫亭さんのところのコメントについて、少し補足を書いておく。

潜在的に訴訟に発展する可能性を常に有しているわけですが、勿論、実際の訴訟は無駄な公費を遣わない為に訴訟が成立しないような強引な提訴を門前払いするわけだし、無理矢理提訴してもまず負けることはないから「訴えられる」ということを過剰に恐れる必要はない。

 後半についてはほぼその通りなのだけど、前半については違う。法的救済の門戸を閉ざさないため、提訴するための敷居は相当低いし、門前払いされることは現実には滅多にない。

 前日のエントリで、ニセ科学批判のためのガイドラインを書いたが、それなりに機能しているとしたら、おそらく、ガイドライン通りにやると正当な論評の範囲に収まるから、という理由だけではない。宣伝中のニセ科学に対する批判が的確であった場合は、批判された当該表示について、業者自身も根拠となる資料を持っていないはずである。すると、仮に訴えたとして、裁判所で合理的根拠を示せなかった場合、敗訴だけでは済まず、不実証広告だとか優良誤認表示であるということを広く知らしめる結果になる。
 まあ、普通に見て科学として全く間違っていれば、合理的な証拠を集める実験やら調査やらを考えるコト自体が不可能なので、証拠は持ってないだろうという見当は付くことが多い。

 裁判だって、手札が悪いと多少技術が良くたってどうにもならない(ってか麻雀に似てるそうな。by絵里タン)。相手の手札が悪く、自分の手札が良い状態を維持することが、提訴を防ぐことにつながるのではないか。それでも、嫌がらせや八つ当たりの提訴を防ぐことができないので、この部分についてまで訴訟を怖がる必要はない。

 なお、年末から訴訟が増えているのは、やむを得ずそうなったに過ぎない。特に名誉毀損関係については、私はむしろ訴えない方である。提訴で言論と表現を萎縮させるよりは、ネット上の対抗言論で名誉の回復を図る方が健全だと思うからである。実際、吉岡氏が「水は変わる」を出た時から、それが私に対する名誉毀損文書であることを認識していながら、2年も何もしなかった。吉岡氏がお茶の水大を訴えたりしなければ、私も吉岡氏を名誉毀損で提訴することはしないつもりだった。また、削除要求に対する提訴にしても、吉岡氏がお茶の水大でなく私を訴えていたならば、特にする必要が無かったものである(∵訴えられるのをのんびり待っていればそれでよいし、訴えてくるとは限らないから)。

予防的に書くが、訴訟を嫌がらないこと

Posted on 1月 20th, 2008 in 未分類 by apj

 黒猫亭さんのところで「反科学の情熱」という、ニセ科学批判批判を鋭く読み解くエントリーがあがった。ただ、書かれた時に、「私が既に告発を何回かされている」と勘違いしておられたようで、そのことについてコメントしたところ、違っている部分が速やかに削除となった。このため、元の黒猫亭さんの議論の流れが途中で一つ抜けることになってしまい、

社会闘争の次元に降りていくプロセスの理解において一過程見落としていたということですので、そちらのご考察を踏まえて、もう少し踏み込んで考えてみたいと思います。

とコメントされた。このことについて少し書いておく。

 これまでのところ、私はまだ刑事・民事ともに訴えられたことはない。ただ、「訴えてやる」と言われたことはある。製品の宣伝に使われている間違った科学を批判しただけでも、短絡的に「商売の邪魔をした」→「訴えてやる」と考える人は、まあ一定割合でいる。そういう人は、視野も考え方も短絡的であるからこそ、扱っている商品を間違った科学で飾り立てて平気で販売しているのだから、整合性はとれている。さらに、「訴えるぞ」と脅すと言うことをきくという人もそれなりに居るために、脅しが効果を発揮するということを既に学んでいたりする。ともかく、そういう短絡的なものの見方しかしない人のうち、本当に勘違いした人が訴えてくることも、まあ予想できる。
 私が批判した相手が意見を変えるだろうということは、特に期待していない。怪しい宣伝というのは、ネット上では複製による増殖をしているように見える。無知でか悪意でか、同業他社の宣伝を適当に持ってきて使っている人が相当居るということだろう。事業者として正しい情報を出そうなどということは最初から考えていないという態度が透けて見えている。こんな相手が、批判された位で態度を変えるはずがない。
 ただ、これからニセ科学言説が含まれた宣伝を見る人達、うさんくさいと思いながらも商品について検討している人達にとっては、科学的に正しい情報がわかれば、役立つこともあるかもしれない。
 怪しい宣伝を放置しておいたとしても、ただちにそれが科学として受け入れられることはないだろうが、その内容が本当かも知れない・調べるに値する何かがあるかもしれない、と思い始める人が出てくる。消費者がそう考えた場合は何らかの消費者被害につながっていくが、役人がそう思ってしまったら研究者の業界に直接影響する。どう見てもニセ科学なテーマがまともなテーマであると誤解されて補助金が出るいうことがあり得る。研究費のパイは有限だから、まっとうな科学とニセ科学が研究費のパイを奪い合う関係になりかねない。実際に、浄水器では全く意味のない遠赤外線効果に賞を出してお墨付きを与えた科技庁の例もあるし、全国各地で被害が発生して集団提訴となった節電器を推奨するコメントを出しているのは環境省である。こんな状況だから、批判する側だって、「訴えてやる」と言われた位で批判をやめる気は全くない。つまり、訴訟を無条件に嫌がったりしていたのでは、批判ができないことになる。

 利害が対立したときは、最終的には訴訟で決着をつけるしかない。他人の権利を侵害するものが全てダメかというとそんなことは無くて、正当な行為であれば不法行為責任を問われることはない。デマを流して店の売り上げを下落させれば不法行為とされるだろうが、近くに同種の店を開業して正当に競争した結果であるなら不法行為とされることはない。
 すると、科学的真実を述べて批判する時には、「訴訟になったとき、どこまでの表現ならば正当という判断になるのか」を常に考えることになる。下手な書き方や主張の仕方をして、科学的真実を述べている部分が不法行為認定されてしまったりすると、その後また別に裁判をやって判断をひっくり返すまでは、批判そのものが相当やりにくくなることが予想できる。
 ガイドラインとして、
・製品そのものに対する批判は試験をしてからでないとやってはいけない。
・公開された製品宣伝の内容については、誰が批判をしてもかまわない。∵一旦公表された表現内容については誰がどう批判しても自由である。
・批判の内容が、現行の科学に照らして妥当でなければならない。
・意見、論評の範囲を逸脱してはいけない。
といったことを基準としている。後は、個別具体的に表現内容を詰めながら、ぎりぎりの線を狙うのか安全側に振るのかというさじ加減をすることになる。紛争を発生させるよりも予防した方が、コストは安くて済む。
 当然、他人の権利を不当に侵害してはいけないので、誤爆してはいけないし、間違った内容を書いてはいけない。また、明らかな間違いについては速やかに訂正しないと、現実に提訴されて負けるリスクを背負うことになる。

 これまでのところ、訴えてやるという脅しはあったが、私に対する直接の提訴はまだない。お茶の水大が訴えられている件は、他にたくさん書いてある科学に関する議論の部分ではなく、原告の商売がマルチ商法である旨指摘した部分で起きている(それはそれで、弁護士は普通はこんなもので提訴はしないと言い、裁判官はどこが名誉毀損か説明が要る、つまり読んだだけではわからないと言っている始末だが)。この状況を見ると、一応、上記の基準は、訴訟に対しては予防的に働いているようである。
 裁判所で勝てる範囲で書くということは、すなわち、普通の弁護士であれば提訴するのが難しい内容であることを意味する。むやみに訴訟を呼び込む内容を書いてしまうと、裁判に時間と費用がかかってしまって損である。ただ、訴えてやるという脅しはいつでもあるし、実際に訴える人も居るので、訴訟を嫌がるべきではない。

 ニセ科学批判をする側にとっての役立つニセ科学批判批判とは、上記のガイドラインの精度を高めるような内容のことである。言説に対してニセ科学というカテゴリーを立てることがケシカランといった種類の議論は全く役立たない。表現の内容が正当かどうかは、現在の科学水準に照らしてどうかで判断されるし、意見・論評の範囲かどうかとなると、今度は科学ではなく判例を調べないとわからない。

 これが、社会闘争へのプロセスとして黒猫亭さんが考えていた部分を埋めることに役立つかどうかはよくわからない。ただ、これまでこんなことを考えながらやってきたということを書いてみた。なお、こういったことを「社会闘争」と呼ぶのは私が持ち合わせていなかった言葉の使い方というかセンスで、私は単に「紛争」とだけ認識している。

ノルマンディ上陸作戦のロケ(但し兵士役はたった3人)

Posted on 1月 19th, 2008 in 未分類 by apj

 某MLで教えてもらった、表題の通りの映像のメイキングビデオ。
http://jp.youtube.com/watch?v=WRS9cpOMYv0
いや~すごいわ[:うっしっし:]