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さすがに呆れ果てた

Posted on 1月 16th, 2008 in 未分類 by apj

 昨日のエントリを書いたら、Seagul-Xさんが、コメント欄にて、Kumicitさんの「忘却からの帰還」というblogの「乗り遅れな気もするけど、merca論宅氏について考えてみた」というエントリを紹介してくださった。それを読んで相当脱力した上にぶち切れ寸前になったので、とりあえずここに書くが、これまでの議論の流れを知らない方にとっては何のことかわからない上に、ひょっとしたら気分を害するかもしれないことを、予めおことわりしておく。

 論宅さんのblogの一連の議論について、私はこれまでずっと、論宅さんが「脳内ニセ科学批判者」に対する批判を行っているのだと思っていた。しかしKumicitさんによるとそれは違っていて、本当の論敵はTheorySurgery氏であるという(The Black Crowes)。検討の経緯については上記blogを見ていただくとして、どうやら

あくまでも”疑似科学批判”一般ではなく、「特定の”疑似科学批判論者”たるTheorySurgery氏による”社会科学は疑似科学”という主張」がターゲット。従って、「社会学の方が、自然科学よりも科学的でありうる」ことを主張しているようだ。おそらく、”merca論宅”氏の念頭には、いわゆる”ニセ科学批判”などなかったと思われる。

ということのようである。

(以下、TAKESANさんのところに書いたコメントと重複します)

 そういえば、社会”科学”を擬似科学として批判するとか、”科学的”社会主義の擬似科学性を批判するという話は、ちらっときいたことがある。今につながるニセ科学言説へのツッコミを入れ始めた頃に「そんなものを批判するなら、なぜもっと重大な問題である”科学”を名乗る人文系の学説を批判しないのか」といった意味のことを言われたことを思い出した。あれは確かfjでだったか……。

 この手のツッコミについては、「優先順位問題」ということで既にカタがついている。優先順位の議論を始めたら最後、結局何もできなくなるのは明らなので、各自ができることをするしかない。ある特定の問題が重要だと思うなら、他人に要求したりせず、そう思う人が自分でやれ、ということである。要するに「言い出しっぺの法則」を適用しろということである。

 従来の擬似科学批判なら科学哲学のメタな議論やら、人文・社会学系の一部との論争が「決戦場」になっていたのかもしれない。ところが私は、主戦場というか決戦場としては、批判を始めた時から裁判所を想定していた。批判の内容が、社会科学云々ではなく、対悪徳商法と親和性が高かったからである。
 科学的真実を述べたものに対する提訴は非常にやりにくいことも確かだが、可能性はゼロではない。批判した結果として嫌がらせの提訴をされる可能性があることは最初から予想の範囲内であった。ただ、科学に関する表現について提訴された場合に、裁判所で勝たないとまずいだろうと考えていた。いずれにしても、非専門家に対して、科学の詐称について指摘した結果、誰かの利害に差し障れば、それは訴訟への道に続いていかざるを得ない。

 紛争になった場合には、メタな議論をいくらしたって裁判官を納得させるのは無理だから、論宅さんがやってるような議論というのは、私にとっては、はっきりいってどうでもいい代物である。口頭弁論で使えないから。それでも「科学を絶対視云々」という誤解を、世の中のうっかりさんに対して広める効果だけはしっかりあって、それは発生しがちな誤解であり、私がこの先誰かを説得する時に余分な一手間を発生させる方向に効くので、多少は対策せざるを得ない。

 今回は、それが単なる私怨によるものだという指摘があったわけで、論宅さんは「ニセ科学批判批判」を掲げつつ、実は私怨で、議論の大風呂敷を広げまくって、全く関係のない他人の活動の足まで引っ張っていたのかと、呆れると同時にキレかけた。

 「科学を絶対視」しているわけではない、科学は方法論だし得られた成果は自然の近似に過ぎない、揺るがない部分があるとしたらそれは自然観察の積み重ねによって支えられているからだ、ということを、どれだけ手間暇かけて専門家でない皆さんに説明してきたか、論宅さんは分かっているのかと小一時間(以下略)。

 論敵が実在しているなら、メタな議論などせず、名指しで堂々と批判しろ。当事者同士でトラバの打ち合いでもコメント合戦でも存分にやってろ。それができないなら最初から批判なんかするな。誰と誰の間の、何に関する批判なのかが読んで一目でわかるなら、私も、私がスルーするべき議論かどうかを直ちに判断できる。社会科学と自然科学のどっちが科学的かなどという種類の議論には、私は最初から関わるつもりもないし関わりたいとも思わない。ド下手くそなやり方で議論を敷衍して、こっちがやってる説得やら説明の活動にまで勝手に引っ掛かかって来るな。
 最初は、論宅さんは社会学の議論を試みているのだと思ったから真面目にコメントを残したりもしたのだが、私怨で他人の手間を増やすだけの傍迷惑な議論を平気でする人物という評価をするしかない。

 風呂敷を広げたんならさっさと畳んでくれ。邪魔だから。

【追記】
 つまり、論宅さんの行った批判は、「ニセ科学批判批判」ではなく、一般的な「ニセ科学批判批判」を装った、特定の「社会科学の擬似科学性を指摘する言説への批判」であったということになる。これを一言で言うとしたら「ニセ”ニセ科学批判批判”」とでも呼ぶしかないが、単語を見ただけではもはや何がなんだかわからない。
 無理目な議論だとは思うが、とりあえず定義してみる。半分シャレだが。
●「ニセ”ニセ科学批判批判”」
 ニセ科学(仮定義あり)に対する批判に対する批判という外見を装っているが、実はニセ科学に対する批判ではない別のナニモノカに対する批判や異議申し立てであったり、他人がうかがい知ることのできない個人的な理由や欲求を満たす目的を隠して議論をしているもの。
 定義からいって、他人からうかがい知ることのできない理由や目的というのは、議論を見ただけでは直ちにわからないものなのだから、他人の議論を最初から「ニセ”ニセ科学批判批判”」と決めつけることは、ポパーの言うところの反証不可能な主張となってしまうためお薦めできない。別に調べた証拠によって、欲求や目的の存在が明らかであるならば「ニセ”ニセ科学批判批判”」と判断してもよい。

「説」がどこにも見当たらない

Posted on 1月 15th, 2008 in 未分類 by apj

 TAKESANのところの「論宅さんへ質問」というエントリーを見ていて笑ってしまった。

辛辣な批判ばかりで相手の説を自説に取り入れていないところが問題ですが、それは仕方ないことだと思います。批判の仕方も開かれていないということですね。(2008-01-14 15:46)

 以前に論宅さんのblogのコメント欄におじゃまして、具体的なことを述べて欲しい、その議論が何に基づいているのか具体例を出してほしいと言っても何も出て来なかった。それで、あきらめて最近はろくに見に行っていなかった。
 NATROMさんのところでも改めて指摘されている通り、以前、『「(科学を絶対視する)疑似科学批判をする論客たち」という言葉で誰を指しているのか、実名を挙げて頂けませんか』と言われて誰の名前を挙げることもできなかったのに、論宅さんは未だに「科学が絶対的な真理と思っているニセ科学批判者」の存在を仮定して議論を続けている。そんなありもしないものに基づいていくら議論を重ねたって結局は空想の産物でしかない。空想の産物を味わうのなら、良くできた小説として楽しく読みたいところなのだが……。
 ところで、個別のニセ科学について間違いを指摘する立場から見た「相手の説」というのは、科学の詐称そのものになるから、そんなものを取り入れたのではミイラ取りがミイラというかニセ科学の仲間入りをするだけである。
 「相手の説」=「論宅さんの説」ならば、この場合、「相手」と「説」の両方が間違っている。
 まず、「相手」について。私は最初、論宅さんのblogにおじゃました時、論宅さんを相手だと思って議論を始めたのだが、論宅さんは私の相手は全くせず、そのかわりに「ニセ科学批判者」という想像上の産物の相手ばかりしていた。そんなことをしておいて、今頃になって「相手の説を自説に取り入れない」などと言われても、「それ、相手が違いますから」としか言いようがない。
 次に「説」について。現実には存在しないものについて書かれた論説文をいくら重ねたって「説」になるわけではない。それは、論説文の体裁をとった創作に過ぎない。実際、読んでみてもこれが論宅さんの説だといえそうなものが全く見当たらない。これでは、「説を取り入れろ」などと言う方が無茶である。そもそも存在しないものをどうやって取り入れろというのだろうか。
 同じコメントにこんなのもある。

私の場合、正しいと思えば、ニセ科学批判者の見識を取り入れています。天羽さんのニセ科学の定義とかです。菊池さんが示されたグレーゾーンの問題もです。

 ニセ科学の定義(仮)やグレーゾーンの問題の議論を支えているのは、山ほどある個別の具体例である。論宅さんの主張を支えている個別の具体例は、全く見当たらない。論宅さんの説の根拠を示すのは論宅さんの役割のはずだが、全くできていない。
 具体例を出してわかるように説明してくれれば「説」の検討のしようもある(というかどれが「説」か推定する手がかりくらいは得られるはずだ)が、今のままでは、一体どこがどう「説」なのかがわからないので、対応のしようがない。

今年も鳥のねぐらに……

Posted on 1月 12th, 2008 in 未分類 by apj

 宿舎の敷地内の木、またまた鳥のねぐらにされている。2,3日前から、夜中でも何かのきっかけで一斉にさえずり始める。去年と同じ鳴き声っぽいので、多分ムクドリだろう。去年は2ヶ月以内位でどこかに去っていったので、今年も多分同じような感じなのだろう。当分、夜中もうるさい状態が続きそうである。
 昨日の夜の雨が深夜から雪になって朝には少し積もっていた。夜になって、昼間融けたところが全部凍っていた。これで地面の温度が下がると、降ってもそうそう融けなくなりそうである。

もっと簡単な話なのだが

Posted on 1月 11th, 2008 in 未分類 by apj

 社会学玄論の「ニセ科学批判の意味空間」にツッコミを入れてみる。NATROMさんのところでも、「ニセ科学批判者は科学を絶対視しているか?」というエントリーが上がったので、私のところでも議論してみる。

人によって科学の定義が異なるおそれもある。単に科学者による発言や発明品を全て科学と思う人もおれば、ニセ科学批判者のように科学哲学的な公準で厳密に考える人もいる。

 少なくとも私は科学哲学的な公準は採用していない。「科学を装う」については「通常人の常識で見ると科学(あるいは科学的根拠がある)と誤認することがある」という、むしろ法解釈の基準に沿ったものを提案しているし、「科学でない」については、「通常人」のかわりに「専門家」を想定して判断することになるだろうと考えている。「専門家の判断」がどのようなものになるかは、例えば公正取引委員会の景表法4条2項の運用指針を読むとイメージがつかめるはずである。

物理的リアリティ(対象と認識の一致)の世界では、科学が唯一絶対的な正しい真理であるという前提において、はじめて装おうことが意味をもつと考えられる。

 この部分は間違っている。「科学が唯一絶対的な正しい真理である」という前提は不要で、そのかわりに「科学とはどのようなものかという専門家の間での共通認識がある」が「その共通認識の全てが必ずしも通常人にまで共有されていない」という前提があればよい。

そして、ニセ科学批判も、科学の立場からなされるのならば、科学が唯一絶対的な正しい真理であるという暗黙の前提をもつことになる。

 この部分は間違い。「科学とは何か」ということについて、一定の合意があれば良い。グレーゾーンはあってもよいが、「これはどうやったって真っ黒だろう」というものについて合意がとれていればそれでよい。「これは真っ黒」と「専門家」なら誰でも判断するものを、「かなり白です」と敢えて触れ回るようなことをされた場合には、「それは違う」と言うしかない。

ニセ科学批判者たちが、なぜそんなに熱くニセ科学やニセ科学批判批判を批判するのか、その理由が釈然としないもどかしさを感じる。

 その程度のこともわからないのだとすると、おそらく、merca氏は自身の専門を相当軽んじているに違いない。
 例えば、○○工務店を経営して、マイホームを建てたいお客さんに、技術的基盤のある、防火耐震に気を配った設計施工をしていたとする。そこに、××工務店が出てきて「ウチなら同じ機能の家を□□工法でやるので10分の1の価格で」などと商売を始めたとしよう。□□工法はそれらしいパンフレットで宣伝され、素人目には良さそうに見えた。しかし、同じ機能を10分の1の値段で実現する□□工法があるという技術的根拠は、今の建設業の技術的完成度からみて、何一つ存在しなかったとしよう。○○工務店としては「□□工法にはこれこれの理由で根拠が無いから、確立した従来通りの工法をウチはお薦めします」と言うしかないのではないか。そのうち、「□□工法」に騙される人がたくさん出てきたら、今度は建設業界を挙げて「□□工法を騙る悪徳工務店にご注意!」と、消費者に注意喚起することになるだろう。
 工務店の例で書いたが、どの業界でも同じである。まっとうな商売をしているところに、粗悪品でぼったくる悪徳商法が進出してきたら、「最近は粗悪なものを売りつける商売が流行っているから気を付けて下さい」位の事は言うものである。粗悪品の流通を許したら、消費者も被害を受けるが、まっとうな商売をしている側だって大打撃を蒙る。
 自身の専門を重んじるのであれば、自身の専門が偽られて他人を騙すことに使われているのを見たら、注意喚起をするのが当然ではないか。

科学だけが正しいとは限らないという私のような相対的な認識をもっている者には不思議にうつるのである。科学が唯一絶対的な正しい真理と堂々と思っているから熱く議論するのであると正直に言えばいいと思う。ポストモダンが生み出した懐疑論者やニヒリストたちの前で、科学は文化を越えた唯一絶対的な真理であると単純にいうのは、恥ずかしいと思っているのかと思う。

 正直に言おう。自分が生業にしている仕事のイメージが悪いことに利用されているのを見たら、それを防ぐために注意喚起をするのは、人として当たり前のことだと思う。ポストモダンや懐疑論者やニヒリストだということが、自分の専門について、知識の差を利用した騙りが横行しているのを放置することを正当化するとは、ちょっと考えられない。

【追記】
 このあたりの厳しさは、職種によっても相当異なる。例えば、資格もないのに「債務の整理をしてあげますよ」などと持ちかけて怪しげな一本化をやったりすると、弁護士であることを騙らなくても、非弁活動ということで処罰される。インチキ債務整理屋が跋扈したら社会的弊害が極めて大きいし(大抵そういう商売はヤ○ザが絡んだりするし)、弁護士業界全体の信用にもかかわるから、この手のことをやったら最後、それはもう弁護士が腕によりをかけて熱心に狩り出して刑事と民事の両方できっちり責任を負わせてくれるはずである。
 これが科学者やら技術者になると、国家資格である士業ではないから、ニセ科学言説を振りまいた人が直ちに処罰されるわけではない。が、ニセ科学言説が広まるのを放置しておくと、科学や技術の業界と業界の提供するサービスの信用低下を引き起こすことは確かなので、専門家の側が「それはニセ」とはっきり言った方が望ましいだろう。

ツッコミどころ多すぎ

Posted on 1月 9th, 2008 in 未分類 by apj

  Yahoo経由、スポーツ報知の記事より

「地図の上は北で下は南」??あきれた教師、分限免職
1月9日8時1分配信 スポーツ報知

 大阪市教育委員会は8日、特別支援学校の男性教諭(43)を教員として指導力不足で適格性に問題があるとして分限免職処分とした。この男性教師は、20年の勤務実績を持つベテランだが「三角形は一つの曲線と二つの曲線に囲まれる」「地図の上は北で下は南」、経線を「かけせん」と読んだりと、仰天授業を展開。1年間の校外研修を行ったが、改善が見られず、今回の処分が下った。

 中学校で社会科を約6年担当し、特別支援学校で14年勤務してきたベテラン教師が、トンデモ授業を行っていたことが、大阪市教育委員会の調査で判明した。

 調査によると、43歳の男性教師は、地図の読み方を説明する際、生徒に「上は北で、下は南」と見たままの?謎解説。山陰地方の「陰」の字も誤字で板書。指摘があって教科書を見ても、書けず、そのまま放置して先に進んでしまった。

 数学の授業では「三角形は一つの曲線と二つの曲線に囲まれる」と説明。経線を「かけせん」と読んだり、パソコンの授業では、的確な指示ができなかったことも。新学年になった時に、発注する教科書を前年度と全く同じものを頼んでしまう凡ミスもあった。

 特別支援学校では科目ごとの専任を置かず、幅広い分野を指導することが求められているというが、かなりの問題授業が常態化していたようだ。

 生徒や保護者からの訴えが続いたことで、事態を重く見た教育委員会では、昨年1月から1年間、模擬授業を行うなどの校外研修を行った。が、ここでも、助言や指導に対し「言い過ぎだ」「中傷だ」と声を荒らげ、逆ギレ。途中で席を立ったこともあったという。

 教育評論家の尾木直樹氏は今回の処分に関し「妥当でしょう。分限免職処分は認定が非常に難しく、裁判になることもあるが、これだけの証拠を集めたのは珍しいのでは?」と話す。

 「アルコール依存症、ヘビースモーカーで授業が手につかなかったりはよくある話。計算ミスを繰り返す、お経を唱えているような授業をする、というのもよく聞きます」。同氏によると、全国的に健常者の学校で問題が発生した場合、特別支援学校に異動させる人事が行われる傾向にあるという。

 分限免職処分は、地方公務員法第28条第1項第3号で定められており、懲戒免職とは異なり、退職金の受け取りが可能。大阪市では04年に3人の分限免職の処分者を出して以降、今回で4人目の処分となる。

 義務教育で非ユークリッド幾何は、幅広過ぎではあるわなぁ。地図については微妙な気が。矢印みたいな記号でどっちが北か示すことになっているが、大抵は上が北の地図が多いから、そういうのを指さして「地図の上は北で下は南」って私でも言いそうな……。
 しかし、その日本語能力でどうやって大学に合格したのかとか、どうやって単位を全部取って卒業できたのかとか、どうやって教員採用試験に合格したのかということの方が不思議だ。

不実証広告規制

Posted on 1月 8th, 2008 in 未分類 by apj

 景品表示法4条に関する運用指針。特に、4条2項に書かれた「合理的な根拠」の判断基準を引用しておく。

1 基本的な考え方

 商品・サービスの効果,性能の著しい優良性を示す表示は,一般消費者に対して強い訴求力を有し,顧客誘引効果が高いものであることから,そのような表示を行う事業者は,当該表示内容を裏付ける合理的な根拠をあらかじめ有しているべきである。
 このような観点から,公正取引委員会が事業者に対し,商品・サービスの効果,性能に関する表示について,景品表示法第4条第1項第1号違反に該当する表示か否か判断するために必要があると認めて,当該表示の裏付けとなる合理的な根拠を示す資料の提出を求めた場合に,当該事業者から提出された資料(以下「提出資料」という。)が当該表示の裏付けとなる合理的な根拠を示すものであると認められるためには,次の二つの要件を満たす必要がある。

(1) 提出資料が客観的に実証された内容のものであること
(2) 表示された効果,性能と提出資料によって実証された内容が適切に対応していること
 なお,商品の効果,性能に関する表示は,当該商品の製造業者から得た,商品について効果,性能があるとの情報を基に販売カタログや店舗内表示などにより,販売業者が自ら行うこともある。この場合,販売業者が自ら実証試験・調査等を行うことが常に求められるものではなく,製造業者等が行った実証試験・調査等に係るデータ等が存在するかどうか及びその試験方法・結果の客観性等の確認を販売業者が自ら行ったことを示す書面等を当該表示の裏付けとなる根拠として提出することも可能である。

2 提出資料が客観的に実証された内容のものであること

 提出資料は,表示された具体的な効果,性能が事実であることを説明できるものでなければならず,そのためには,客観的に実証された内容のものである必要がある。
 客観的に実証された内容のものとは,次のいずれかに該当するものである。

(1) 試験・調査によって得られた結果
(2) 専門家,専門家団体若しくは専門機関の見解又は学術文献

(1) 試験・調査によって得られた結果
 ア 試験・調査によって得られた結果を表示の裏付けとなる根拠として提出する場合,当該試験・調査の方法は,表示された商品・サービスの効果,性能に関連する学術界又は産業界において一般的に認められた方法又は関連分野の専門家多数が認める方法によって実施する必要がある。

<例>
日用雑貨品の抗菌効果試験について,JIS(日本工業規格)に規定する試験方法によって実施したもの。
自動車の燃費効率試験の実施方法について,10・15モード法によって実施したもの。
繊維製品の防炎性能試験について,消防法に基づき指定を受けた検査機関によって実施したもの。
 イ 学術界又は産業界において一般的に認められた方法又は関連分野の専門家多数が認める方法が存在しない場合には,当該試験・調査は,社会通念上及び経験則上妥当と認められる方法で実施する必要がある。
社会通念上及び経験則上妥当と認められる方法が具体的にどのようなものかについては,表示の内容,商品・サービスの特性,関連分野の専門家が妥当と判断するか否か等を総合的に勘案して判断する。
 ウ 試験・調査を行った機関が商品・サービスの効果,性能に関する表示を行った事業者とは関係のない第三者(例えば,国公立の試験研究機関等の公的機関,中立的な立場で調査,研究を行う民間機関等)である場合には,一般的に,その試験・調査は,客観的なものであると考えられるが,上記ア又はイの方法で実施されている限り,当該事業者(その関係機関を含む。)が行った試験・調査であっても,当該表示の裏付けとなる根拠として提出することも可能である。
 エ なお,一部の商品・サービスの効果,性能に関する表示には,消費者の体験談やモニターの意見等を表示の裏付けとなる根拠にしているとみられるものもあるが,これら消費者の体験談やモニターの意見等の実例を収集した調査結果を表示の裏付けとなる根拠として提出する場合には,無作為抽出法で相当数のサンプルを選定し,作為が生じないように考慮して行うなど,統計的に客観性が十分に確保されている必要がある

<例>
自社の従業員又はその家族等,販売する商品・サービスに利害関係を有するものの体験談を収集して行う調査は,サンプルの抽出過程において作為的な要素を含んでおり,自社に都合の良い結果となりがちであることから,統計的に客観性が確保されたものとはいえず,客観的に実証されたものとは認められない
積極的に体験談を送付してくる利用者は,一般に,商品・サービスの効果,性能に著しく心理的な感銘を受けていることが予想され,その意見は,主観的なものとなりがちなところ,体験談を送付しなかった利用者の意見を調査することなく,一部の利用者から寄せられた体験談のみをサンプル母体とする調査は,無作為なサンプル抽出がなされた統計的に客観性が確保されたものとはいえず,客観的に実証されたものとは認められない。
広い地域で販売する商品につき,一部の地域において少数のモニターを選定して行った統計調査は,サンプル数が十分でなく,統計的に客観性が確保されたものとはいえず,客観的に実証されたものとは認められない。
※ どの程度のサンプル数であれば統計的に客観性が確保されたものといえるかについては,商品・サービス又は表示された効果,性能の特性,表示の影響の範囲及び程度によって異なるため,これらの事項を勘案して個別事案ごとに判断することとなるが,少なくとも,学問上又は表示された効果,性能に関連する専門分野において,客観的な実証に耐える程度のものである必要がある。
(2) 専門家,専門家団体若しくは専門機関の見解又は学術文献
 ア 当該商品・サービス又は表示された効果,性能に関連する分野を専門として実務,研究,調査等を行う専門家,専門家団体又は専門機関(以下「専門家等」という。)による見解又は学術文献を表示の裏付けとなる根拠として提出する場合,その見解又は学術文献は,次のいずれかであれば,客観的に実証されたものと認められる。

(1) 専門家等が,専門的知見に基づいて当該商品・サービスの表示された効果,性能について客観的に評価した見解又は学術文献であって,当該専門分野において一般的に認められているもの
(2) 専門家等が,当該商品・サービスとは関わりなく,表示された効果,性能について客観的に評価した見解又は学術文献であって,当該専門分野において一般的に認められているもの
 イ 特定の専門家等による特異な見解である場合,又は画期的な効果,性能等,新しい分野であって専門家等が存在しない場合等当該商品・サービス又は表示された効果,性能に関連する専門分野において一般的には認められていない場合には,その専門家等の見解又は学術文献は客観的に実証されたものとは認められない
 この場合,事業者は前記(1)の試験・調査によって,表示された効果,性能を客観的に実証する必要がある。
 ウ 生薬の効果など,試験・調査によっては表示された効果,性能を客観的に実証することは困難であるが,古来からの言い伝え等,長期に亘る多数の人々の経験則によって効果,性能の存在が一般的に認められているものがあるが,このような経験則を表示の裏付けとなる根拠として提出する場合においても,専門家等の見解又は学術文献によってその存在が確認されている必要がある

3 表示された効果,性能と提出資料によって実証された内容が適切に対応していること

 提出資料が表示の裏付けとなる合理的な根拠を示すものであると認められるためには,前記のように,提出資料が,それ自体として客観的に実証された内容のものであることに加え,表示された効果,性能が提出資料によって実証された内容と適切に対応していなければならない。
 したがって,次の例のとおり,提出資料自体は客観的に実証された内容のものであっても,表示された効果,性能が提出資料によって実証された内容と適切に対応していなければ,当該資料は,当該表示の裏付けとなる合理的な根拠を示すものとは認められない。
 なお,ここで表示された効果,性能とは,文章,写真,試験結果等から引用された数値,イメージ図,消費者の体験談等を含めた表示全体から一般消費者が認識する効果,性能であることに留意する必要がある。

<例1>
家屋内の害虫を有効に駆除すると表示する家庭用害虫駆除器について,事業者から,公的機関が実施した試験結果が提出された。
 しかしながら,当該試験結果は,試験用のアクリルケース内において,当該機器によって発生した電磁波が,害虫に対して一時的に回避行動を取らせることを確認したものにすぎず,人の通常の居住環境における実用的な害虫駆除効果があることを実証するものではなかった。
 したがって,上記の表示された効果,性能と提出資料によって実証された内容が適切に対応しているとはいえず,当該提出資料は表示の裏付けとなる合理的な根拠を示すものとは認められない。
<例2>
あらゆる種類のエンジンオイルに対して10%の燃費向上が期待できると表示する自動車エンジンオイル添加剤について,事業者から,民間の研究機関が実施した試験結果が提出された。
 しかしながら,その試験結果は,特定の高性能エンジンオイルについて燃費が10%向上することを確認したものにすぎず,一般的な品質のエンジンオイルについて同様の効果が得られることを実証するものではなかった。
 したがって,上記の表示された効果,性能と提出資料によって実証された内容が適切に対応しているとはいえず,当該提出資料は表示の裏付けとなる合理的な根拠を示すものとは認められない。
<例3>
99%の紫外線をカットすると表示する紫外線遮断素材を使用した衣料について,事業者から,当該化学繊維の紫外線遮断効果についての学術文献が提出された。
 しかしながら,当該学術文献は,当該紫外線遮断素材が紫外線を50%遮断することを確認したものにすぎず,紫外線を99%遮断することまで実証するものではなかった。
 したがって,上記の表示された効果,性能と提出資料によって実証された内容が適切に対応しているとはいえず,当該提出資料は表示の裏付けとなる合理的な根拠を示すものとは認められない。
<例4>
「食べるだけで1か月に5kg痩せます」との見出しに加え,「○○大学△△医学博士の試験で効果は実証済み」との専門家による評価があることを表示することにより,表示全体として,食べるだけで1か月に5kgの減量効果が期待できるとの認識を一般消費者に与えるダイエット食品について,事業者から,美容痩身に関する専門家の見解が提出された。
 しかしながら,当該専門家の見解は,当該食品に含まれる主成分の含有量,一般的な摂取方法及び適度の運動によって脂肪燃焼を促進する効果が期待できることについて確認したものにすぎず,食べるだけで1か月に5kgの減量効果が得られることを実証するものではなかった。
 したがって,表示全体として,食べるだけで1か月に5kgの減量効果が期待できるとの認識を一般消費者に与える表示と,提出資料によって実証された内容が適切に対応しているとはいえず,当該提出資料は表示の裏付けとなる合理的な根拠を示すものとは認められない。

 当たり前のことだが、「ユーザーの声」を集めただけでは合理的根拠と認められることはない。マルチ商法の場合だと、ダウンの人々の意見は利害関係者の意見とみなされるだろう。
 研究費を出して専門家に研究を依頼したとしても、その人が一般に認められていない見解を出した場合は合理的根拠といえないと判断される。従って、トンデモに走る学者に運良く仕事を頼んで、研究をしてもらったとしても、4条2項の適用を免れることはできない。

 ちょっと前に、ニセ科学の定義と判定について考えるというエントリを出して、「科学を装う」の方は「通常人の常識で見ると科学(あるいは科学的根拠がある)と誤認することがある」という基準になるだろうと書いた。
 「科学でない」の判定は、「専門家が合意している内容に沿って実験し結果を合理的に説明することができない」ということになる。この場合の「専門家」は、特定の誰それ先生ではなく、蓄積された科学的知識に沿ってものごとを判断してくれる人、というものになる。

 他人に物を売る時には「主観や心情に基づいて購入の根拠となる効果を示す」という情報伝達のあり方を法は禁止していると考えて良い。消費者の側が「主観や心情に基づいて購入」するのは買う側の自由だが、その「主観や心情」を他人に伝えることで他人の購入の意思決定に影響を及ぼす場合には、合理的根拠を示す形にまで各自で手間暇かけて作り直さないといけない。

【追記】
 ある言説が、科学を装うが科学でないという「ニセ科学」の定義にあてはまるかどうかについては、定義の構成自体を法解釈技術的構成にしないとうまく運用できないのではないかというのが私の問題意識である。では、実際の法解釈の方がどんなことを具体的に定めているのかということの一例が、景表法4条2項のガイドラインだったりする。
 力関係でもなくその日の気分でもなく個人的な好き嫌いでもなく、意思疎通するための合理的な基盤のうち、自然観察に関するものが科学であるし、規範に関するものがおそらく法ということになるのだろう。これらは質の違ったコモンセンスということになるのだろう。個人的な好みや主観以上のものを何も含まない言説でもって他人と意思疎通するのは無理がある。

 「論文が無いとダメ」などと言うと「それは科学者の論理だから押しつけるな」という反発を喰らうことがあるのだけど、既に法がその基準を採用していることも考慮しないとまずい。法に無知でも免責はされないから、「科学者の(ローカルな)論理(だから嫌なら受け入れなくても良い)」だと思い込んだまま行動すると、予想しないところで違法なことをやってしまう可能性もある。これは、気を付けてほしいところである。

 なお、「ある言説をニセ科学であると判定し批判すること」≠「ニセ科学批判」である。「ニセ科学」であると判定する部分の作り方は、既に前のエントリで書いた通りである。ところが批判の方は、個別の言説ごとに内容に応じて行うわけで、ひとくくりにはできない。適用する科学の成果も個別に違った物になる。だから、批判活動に対して「ニセ科学批判」と呼んで、何かを特定した気分になったとしても、実は何一つ中身を特定できていない。「ニセ科学批判批判」は、そもそも内容を特定することができていない「ニセ科学批判」なるものを批判しようとしているから、言葉遊びの域を出ず、内容が無いのは当たり前である。

 「ニセ科学」の判定の基準を作るとしたら、ある程度抽象的にならざるを得ない。じゃあ、抽象的といっても実際にどうするのか?となったときの参考になるとしたら、例えば景表法のガイドラインのような決め方ではないか。いくら抽象的にやるといっても、個別の例にあてはめ可能な形にしておかないと、空虚なものになるだけで終わってしまいそうである。

(酒の席でのネタ)新自由主義な壷売り

Posted on 1月 7th, 2008 in 未分類 by apj

 年末のLINK総合法律事務所の忘年会の後の3次会あたりで出た酒の席でのネタ。
 「統一協会の売ってる壷は一体どういう御利益があるという話になっているのか?」という疑問を山口弁護士にぶつけたら、「つまり悪霊ホイホイ」。壷の中はもちろん空だが、買っておいておくと悪霊だか災厄だかを吸い込むという設定になっているらしい。それならば、「あの統一協会の壷と同じ悪霊ホイホイ機能のあるこちらの壷が、何とお値段10分の1で!」という霊感ダンピング商法が可能なんじゃないかという冗談で盛り上がってしまった。「御利益のある壷」の販売に市場原理を持ち込めば、ぼったくり霊感商法から薄利多売霊感商法になるのではないかという話。市場を独占しているから壷の価格が下がらないのだとすると、競争相手を作ればよいのでは?という、至極当たり前のことなんだが(何か違)。

対策方法が違うのでは?

Posted on 1月 6th, 2008 in 未分類 by apj

 J-CASTニュースより。

私大生2割「日本語力中学生以下」 学力底上げにeラーニング導入
2008/1/ 5
 「ゆとり教育」に端を発する学力低下が叫ばれるなか、「私大学生の2割の学生の日本語力が中学生以下」という驚きの調査結果が明らかになった。この調査を行った教育機関では、「大学でのeラーニング導入を推進しないと、今の大学は生き残れない」と提言している。

66%が「中学生以下」と判定された大学もある

 大学生の基礎学力の低下を受け、独立行政法人・メディア教育開発センター(NIME)では、日本語・英語・数学の基礎学力を測定するための「プレースメントテスト」を開発し、各大学で提供している。調査は1998年から00年、04年から07年にかけて行われたが、「日本語力が中学生レベル以下」と判定される大学生の割合が非常に多いのだ。まとまったデータが残っている04年時点(24大学・7353人が受験)で、「中学生以下」なのは、国立大学で6%だったのに対し、私立大学では20%で、短大では実に35%。06年の調査では、66%が「中学生以下」と判定された大学もあった。
 このプレースメントテストを開発したNIMEの小野博教授によると、大学での授業を理解するためには、高校生レベルの日本語力が必要だといい、この調査結果からすると、授業の内容さえ理解できない大学生がかなりの数にのぼる、ということになる。
 小野教授は、
「大学の数を増やしてしまったことで、(1科目受験のみで合格できる制度が登場するなど)入試制度が変化しており、入試で受験生を選別できなくなっています。そこで、プレースメントテストを行って『学力別クラス編成』をする大学も多いです」
と嘆息する。
 教育方法学が専門の藤川大祐・千葉大学准教授も、
「(自身が勤務する)国立大の学生を見ていても、ちょっとした漢字を書くのでさえいい加減だったり、簡単な数学が出来ない、という例が目立ちます。そう考えると、調査結果にあるような『私立大学で日本語力が中学生レベルの学生が多い』という話も、驚きには値しないと思います」
と話し、学力低下を実感している様子だ。

全国107大学がeラーニング参加を表明

 これを受けて、2007年11月1日には、eラーニングを使って学力底上げを目指す「オンライン学習・大学ネットワーク」がNIMEを事務局として立ち上がり、全国107大学が参加を表明。08年4月からは、補講用の数学、物理、英語などの教材を配信する予定だ。
 前出の小野教授は
「現状では、コンテンツが足らなさすぎます。まずは大学の先生たちが授業をやりたがらない分野を充実させたいです」
と話す。なお、「授業をやりたがらない分野」とは、「中高生の勉強をやり直すような内容」や、「SPI(企業の採用選考で使われる、マーク方式の能力・性格検査)対策などの就職準備」などだそうだ。
 一方、藤川准教授は
「何かやれば学力は上がるものなので、eラーニングもひとつの方法だとは思います。ただし、(学力低下が指摘されている)これまで勉強してこなかった学生に、対面でない状況で教えたとして、どれだけ効果が上がるのかは未知数だと思います」
と、やや懐疑的な様子だ。

 中学生レベルの国語力を身に付けていないのに大学に入れるということが根本的におかしいのっであって、それを大学でどうにかしようというのは本末転倒ではないか。「大学でのeラーニング導入を推進しないと、今の大学は生き残れない」という、まず大学を残すことありきな話ではなく、せめて高校の内容をそれなりに身に付けている学生だけが大学に入れる状態になるまで、大学の数を減らすことだろう。
 高校で科目選択などでやってこなかったとか、高校で学んだ当時にあんまり必要だと思わなかったので学生が忘れてしまっているといった内容については大学でフォローするのが適切だが、中学校の内容をフォローするというのはどう考えても違うのではないか。もし、中学校の内容をフォローするとしたら、それは高等学校の役目だろう。
 小学校の内容を身に付けていないのに中学に進める、中学の内容を身に付けていないのに高校に入れる、という、粉飾決算のようなことを繰り返した挙げ句に発生した事態なのだから、根本的な対策としては、大学の数を減らして浮いたリソースを小中高に振り向けて、各段階での学習内容が身に付くまで留年も有りにして、人手と時間と予算をかけてケアするしかないのでは。
 先日の同窓会で、中学で教師をしている人がぼやいていたのは、分数がわからない中学生が3分の2居る、ということだった。ちょっと詳しく聞いてみたら、数や量の概念を全く分かっていないといいうことで、それでも「中学校数学の公式に当てはめて方程式を解く」ことは一応できるらしい。これは、中学受験などでほとんど選別せず、学区制でほとんどの人が公立小→公立中、と進んでいる状態での話である。中学受験で優秀な人の大部分が私立に行った後に残ったグループでの話ではない。普通に公教育をやって、小学校で身に付ける内容を身に付けないまま中学校に進んでいる人の割合の方が多いというのではどうにもならないだろう。だからといって教育内容を削減するようなゆとりにしたって問題は解決しない。超多忙な先生方にゆとりを持たせて、小中高それぞれで身に付けるべき内容を教育することに十分な手間と時間をかけられるようにするしかないのではないか。

apache重すぎ……

Posted on 1月 5th, 2008 in 未分類 by apj

 院生の実験を横目で見ながら新サーバの設定作業続行。FreeBSDを最新版にしたら、メール周りのインストールがまだ不安な状態だったり、/usr/local/etc/rc.dにスクリプトを置いてるのに自動起動してくれないデーモンがあったりでまだ移行できない。
 で、何か今日はapache重すぎ。topで見たらswapに落ちまくり。で、もう一回調べて設定を見直した。放っておくとhttpdのサイズが増える(多分メモリリークで)なので、MaxRequestsPerChildの値を減らして、デーモンの最大起動数も減らしてみた。

実験開始

Posted on 1月 4th, 2008 in 未分類 by apj

 院生と一緒に集中実験開始。
フォトマルの温度調節にエラーが出ていたが、いじくり回しているうちに復旧。