Interdisciplinary(by TAKESAN)のエントリ「適当な分析」を読んで。
見下すとかそういう話じゃないんだけど、ある所から先は「他人の理解力まで責任は持てない」「他人の読解力まで責任は持てない」と言うしかないんじゃないか。コミュニケーションの限界ってそういうもんじゃないのか。いくら勉強したって知識をつけたって自分なりに考えたって、他人に物を伝える以上、最後の所はこう開き直るしかないのがコミュニケーションってもんじゃないのか、と思うわけで。
元ネタは、ここのこれ
他人の記憶力まで責任はもてない
確か、少し昔、fj.news.usageで 「あんた、何々と書いたじゃないか」 「そんな覚えはない、どこに書いたというのか?」 というやりとりがあって、ここまでならよくあるのだが、この次が 「他人の記憶力まで責任は持てない」 というのだった。歴史に残したい名言中の名言だ。 確か、さらにこの後、 「どの記事か示せ」 「探せなければ諦めろ」 という感じのやりとりが続いたようだ。fjのパワーを感じさせた一幕といえよう。
だったりする。あと、もう一つ同じところから紹介しておきたいのが
自分の立場に立って物事を考えて下さい。
fj.news.usageで見かけた表現。インパクトすごすぎ。ふつぅは「人の立場に立って」とか「他人の立場に立って」というものだが、流石fj.news.usageというか、何というか、とにもかくにも凄いです。
このblogにしたって、私は私の考えと表現でいろいろ書いているのだけど、書いて公開した途端、それは私の手を離れる。私の方から、読む側に「どう読め」と強制することはできない。blogに限らず、本でも何でも、およそ表現というのは全てそういうもので、受け手に解釈を強制することはできない。だから、ズレたコメントがついたら追加の説明をするという努力はするけれど、それでも最終的に狙った理解に到達するかどうかという保証は無い。
「自分の立場に立って物事を考えて下さい」というのはある意味当たり前で、誰にとっても正確に説明できるのは「自分の立場」しかないということによる。「他人の立場に立って物事を考える」というのは、正確には「(自分も含め、別人が想像する)他人の立場」に過ぎないので、想像したものが事実と違っている場合が多々あるに違いない。間違った想像に基づいて何を考えたって見当外れの結果しか出てこないだろう。
従って「他人のことを考えろ」「他人はこう考えるはずだ」などと他人に言うのは愚の骨頂で、そもそも不可能なことを要求しているということを自覚すべきである。不可能なことを要求するというのは、ただの「嫌がらせ」だよね。そういう場合の対応は、「自分の意見を言うのにわざわざ他人を持ち出すな」となる。
では、「他人の立場に立って物事を考える」のが全く無意味かというと、そうでもないので、有効な例を1つ出しておく。マンション売り込みの電話が時々職場にかかってきて、その内容は「マンションに投資して儲けませんか、確実に資産が増えますよ」というものである。ここで、相手の立場に立って物事を考えてみよう。「本当に儲かるなら他人になど勧めず自分でそれを真っ先に実行して左うちわで暮らすはず。何も真っ昼間から電話営業のノルマに追われてであくせく働く必要はなくなる。あんたがそんな仕事をしている事実が、マンションじゃ儲からないという何よりの証拠である」という結論が直ちに出るから、「そんなもの要りません」と返事することになる。「人の立場にたって」というのは、本来、こういう場面で使うものである。
【追記】
同じページにこんなのもあったな。
訴状を見ていないのでコメントできない
一言だけいわせてくれ。
訴状見ろよ!
そりゃ無理だって……。
普通、提訴した側がマスコミ呼んで記者会見したりプレスリリース出したりするのって、訴状を提出した直後だろう。記者は原告から情報を得た後は、被告のコメントを取りに走って、その日のうちか遅くても翌日報道するための記事にする。ところが裁判所は、訴状を受け取ったら事件番号を振って適当な期日指定をして被告に送るわけで、この手続きに一週間から十日はかかる。訴状提出した当日に被告のところに行ったって、そりゃ訴状はまだ届いてないから見てないのは当たり前だわな。一応は両方の当事者に取材しないと記事にならないから、被告の所にも行くんだろうけど、毎回判で押したような「訴状を見ていないのでコメントできない」という返事をもらって帰ってくるだけになる。というか、それを知っててわざとにやってませんか?>記者の皆様。