講義のネタに入れるかもしれないものを見つけたのでメモがわりに。
普段やっている共通教育の科学リテラシーでは、パンヴェニストの実験を紹介した後、代替医療について次のように学生さんに教えている。
西洋医学だけでは幸せになれないこともあるかもしれない。が、代替医療が医療費削減と結びつかないか、気をつけておく必要はあるだろう。今の日本の厚生労働省は、変な治療法を取り締まる方針だが、黙認しはじめたら要注意。金持ちは高度な医療を、貧乏人は代替医療でがまんせよ、ということになりかねない。しかも、上からの押しつけではなく、貧乏人が自分から望んで代替医療を求めるという状況を作り出して行われる可能性がある。アメリカでは、容認する方向に向かっている(貧富の差で、受けられる医療サービスに差があることを容認する社会なので)。
政治家や官僚が「高価な先端医療は金持ちにしか使わない、貧乏人は代替医療よい」とは絶対に口が裂けても言わないだろう。しかし、代替医療の効果を煽る宣伝を放置すれば、「情報&経済的弱者」の何割はその宣伝を信じ、自分から進んで代替医療を選び始めることが予想される。これは「患者の自己選択・自己決定」のもとに行われることになる。山形大学で学んだ学生さんは、社会に出てからも、自分がこういう方向に誘導されない・こういう方向に他人を誘導する社会を作らない、という行動をしてほしいと思って、講義の時に触れている。
ところで、「超自然現象」や疑似科学を調べる、というメールマガジンを購読しているのだが、51号に興味深い記述があった。
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★医療制度「改革」と代替医療&健康食品
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「週刊文春」2007年8月9日号に、「がん患者『お金』との闘い」という記事があります。「保険診療から見放された末期がん患者が直面する高額医療」のルポです。
記事に登場するがん患者たちはいずれも末期。手術・化学・放射線の三大療法による「根治の可能性はゼロ」とされているものの、未承認薬や高度先進医療は保険がきかず、高額療養制度にも適用に矛盾があって自己負担の軽減が十分に行われない。つまり、病気だけでなく治療にかかるお金との闘いも壮絶な人々の話が書かれています。
その人々が共通してたどり着くのが代替療法や健康食品。といっても、このルポはそれらを奨励しているわけではありません。要するに、現在の医療と保険の制度で十分な治療を受けられない人が、結局そこに行くしかなくなったという展開になっています。
万が一、取材対象者の描き方に誇張や脚色があったとしても、記事で書かれている医療・保険制度についての説明自体は本当のことです。
「後期高齢者医療制度(後高医制)」という、現行制度の後退としかいいようのない制度が来年4月からスタートします。新制度が始まると、これまで国民・政管や組合健保などでうけていた公的医療保険(健康保険)について、75歳以上は全員この「後高医制」に入れられ、保険料は年金からの強制天引きとなります。
この制度で受けられる医療サービスは厳しく制限され、例えば輸血なら1回だけで2回目からは自己負担。薬もたとえば血圧の薬「ノルバスク」「ブロブレス」を併用していた者は、1種類は保険がきくがもう1種類は自腹へ、などとなっています。
今から20年ほど前、老人医療を「枯れ木に水をやるようなもの」と言い放った大臣がいましたが、昨今の「改革」なる路線は、とうとうそれを実際の法案で表明するに至ったのです。
1980年代以降、我が国では第二臨調主導のもとで社会保障制度の見直しが積み上げられ、健康管理の自己責任化と社会保障制度を市場化へシフトさせる「構造改革」が企図されてきました。
2002年に、野党欠席の中で与党が強引に成立させた「健康増進法」は、各自が健康状態を自覚せよという「国民の責務(第2条)」とともに、「特別用途表示食品(第6章第26条~第33条)」という、いわゆる健康食品の一部にお墨付きを与える条項もあります。
つまり、国民に健康管理の責務を押しつけながら肝心の公的医療サービスは削減し、その受け皿として健康食品を検討することすらも国が法律で定めているのです。
本稿で強調しておきたいのは、代替療法や健康食品にシフトする人イコール「非科学な人」「業者に騙される人」ではなく、現在の医療・保険制度の矛盾や弱点の中で、結果としてそれぐらいしか選択せざるを得なくなっているケースが実際にあり、今後はさらにそれが増える、ということです。
記事には「一回26万円の代替療法」という小見出しがありますが、それでも、重粒子線治療の相場よりは「安い」。金額だけの単純な比較は意味のないことですが、患者(の家族)の財布と心境からみれば意味は大ありです。
「300万円は払えないが26万円なら払える。このまま何もせずに死にたくない。とにかく何かやってみよう」という判断を誰が責められるでしょうか。ましてや、国が民間の医療サービスへのシフトを進めているのです。責めるべきは患者(の家族)の「非科学な選択」ではなく、それを選択せざるを得なくしている社会にこそあるのではないでしょうか。
社会の中の疑似科学問題解決は、個々に科学知識を求めるだけではどうにもならない面がある、という現実がこのルポでもわかります。
やむにやまれず目の前にぶら下がっている藁をつかむしかない立場や心境の人々に対して、藁が科学的にどうだとか、エビデンスだのハチノアタマだの言っても、藁が何故必要と思わされているのか、どうして藁に価値が見えるのか、ということを明らかにしなければ、藁に対する解決は見えてきません。
藁にすがる状況を作り出しているのは、「健康増進法」「医療『改革』」といった国策であり、藁を作っているのは業者、藁に値打ちをつけてやっているのがマスコミ(健康情報番組)、その原作者兼道化役が○○博士や、タレント志向の目立ちたがり屋の学者達なのです。それぞれの立場に対し、徹底批判と改善の議論は可能です。
にもかかわらず、かけ声ばかり「疑似科学は社会的背景がある」などとアリバイ的に唱え、実際には「○○という健康食品にエビデンスはない」などという訓詁学的な「疑似科学批判」に留まっていることが、いかに現実の問題解決に際して無力でかつ不誠実なことか……。
「疑似科学批判勢力」の本気度が、今ほど問われているときはありません。
擬似科学批判を運動化して直接政治と結びつけることがそのまま解決につながるかというと、それも違うと思う。そういう運動のあり方を否定はしないが、優先順位問題に巻き込まれるのもまた不毛である。社会が適切な合意をするための知識を普及させることには、擬似科学批判は役立つと考えている。全体に知識が普及すれば、どういう政治家を選ぶべきかというところで効いてくる。もし、普段から代替医療を信じる状態にはまっていれば、医療費削減の結果そちらに向けられていることにすら気付かないで、「これは自己決定である」と満足してしまうかもしれない(文春の記者は気付いたようだが)。まずは、政策に問題があることに気付かないと話が始まらず、そのためには擬似科学批判による知識の普及が役立つのではないか。
人間は生きていれば一度は死ぬ。治る見込みのない高齢の癌患者に対し、限りある医療リソースをどこまで投入するかということは、本人や家族の感情の問題もあり、なかなか社会的に合意するのは難しいかもしれない。
それでも、技術は進歩するのだから、普通の医療のコストダウンをするための技術開発にも予算をつけるという合意をすることはできる。あるいは、最初は高くても普及すればコストダウンできる技術を優先するという選択だってある。
ところで、上に述べたような講義をしている立場から見ると、皮肉なことに、山形大学は、重粒子線治療をやりたがっているらしい。私が放医研に居た頃、重粒子線治療の治験が行われていた。所内に専用の送電線を引き込み、海岸に居並ぶ冷凍倉庫(電力が足りなくなると給電を止めて東電に協力できるクラス)を押しのけて、千葉県下で最も電力を使う事業所になっていた。治験の成果が出たら、もう少し小型の装置でできるようにして、全国の医療施設で使ってもらうようにしたい、という話だった。ただ、いくら小型化するといっても、モノが加速器では限度があり、抱え込めば維持費のコストダウンはまず無理だろう。先に導入した群馬大学では、年間100人の自由診療を受け入れないと赤字だと分かり、今頃困っているらしい。赤字の額は、現行の大学病院の黒字を簡単に越えるということだ。
最先端の医療をやめろというつもりはない。しかし「金持ち以外は払えない高額ですごい医療」or「費用対効果が大変に怪しいがどうにか払える金額の代替医療」の2択を患者に強いるというのは、やはり何かが間違っている。「払える価格のそれなりの医療」も選べるように、政策的に、医療技術の開発も含めて誘導してもらいたい。私達にできるのは、そういう選択をしてくれそうな政治家を注意して選ぶことだろう。