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不老長寿とはこれまた……

Posted on 8月 28th, 2007 in 未分類 by apj

 仕事してたら、事務から電話で、外線が入ってますというから出てみた。
「○○県の××と申しますが、水からの伝言についてお話を伺いたいのですが。地元の大学の準教授に訊いたらそちらを紹介されまして」
「はあ、どういったお話でしょう?」
「ありがとうと書いて水に見せると綺麗な結晶になるという話ですが、不老長寿と書いて貼ったらそういう水ができるんでしょうか?飲んだら不老長寿になるってことは……」
「できません。それはオカルトで、おまじないのレベルです」(きっぱり)
 とりあえず断言しつつ、脱力感から受話器を落としそうになった。
 オカルトだとしても、あまりにも安直すぎませんかそれは?不老長寿などという「大技」を使う手順としては。
 不老長寿なんて、中国の皇帝が人を使って方々探して追い求めたけどできなかったわけで。東洋でそんなの実現したことになってるのは仙人クラスだけで、尋常でない才能と修行が必要な上本物の仙人に逢った人は誰もいなかったり、探しても見つからないような材料を要求されたりする。あるいは、不老長寿にはなったけど太陽に当たるとダメでニンニクと十字架がダメで胸に杭を打たれると死ぬってパターンも有名だ。そういう願いを書いただけで叶うお札は、手に入れるためには、超えるのが不可能なハードルを越えるとか、とんでもない修行と下準備が必要だということになってるのが普通では。たまに、何でも願いが叶うお札を簡単に手に入れた話もあるが、そういう場合はほぼ100%の確率で、そいつを使うと破滅への道だわな。
 まあ、勤務時間中だし、科学者に分類される身としては、
・中谷宇吉郎の仕事を説明
・水からの伝言の写真のからくり(沢山作ってイメージに合うのを選んでいる)
・そもそも科学ではない。紛らわしいことをしているだけ
という、いつもの内容を丁寧に説明した。
 しかし、「不老長寿」が「そのへんの紙に不老長寿と書いて貼り付けたボトルの水を飲む」などという安易な方法で実現したら、中国の歴代皇帝の立場が無いような……。それはオカルトとしてもぜんっぜんダメですが、と言ってみたいのを堪えるのに苦労したぞ、今日は。

 いやまあ、不老長寿なるものが仮に実現したとして、それはシアワセなことなのかというのは、カテゴリーの違う問題だが……。とりあえず「銀河鉄道999」でも見て考えればぁ……。

【追記】
 文字通りの「不老長寿」だと、「地球へ…」のミュウだよなぁ。
まあ、「長寿」の方は程度によっては多少は何とかなるかもしれないが、「不老」は難易度高い。

ニセ科学批判はレッテル貼りではなくレッテル剥がし

Posted on 8月 27th, 2007 in 未分類 by apj

 技術系サラリーマンの交差点:「ニセ科学」関連・最終記事より。ニセ科学批判をすることは、批判した相手に「ニセ科学」というレッテルを貼ることではないかという議論があった(まあ、他でも時々あるが)。
 で、多分それは違う。ニセ科学については「科学を装うが、科学でないもの」をそう呼んでいる。ということは、まず先に「科学でない」あるいは「まだ科学に入っていない」モノに対して、誰かが先に「科学である」というレッテルを貼ったという現実があるわけで、これがニセ科学批判の大前提である。もし、「科学でない」あるいは「まだ科学に入っていない」モノが、「科学である」レッテルを貼られずにそのまま置いてあるなら、わざわざしゃしゃり出てニセ科学だと指摘する意味はない。ニセ科学を批判するという行為は、既に貼ってある間違った「科学である」レッテルを剥がす行為か、あるいは「このレッテルは間違い」というレッテルを上に貼り付ける行為か、いずれかでしかない。
 いずれにしても、「先に間違ったレッテルが貼ってある」ところが出発点になる。

「水からの伝言」は授業だけでは済まなかった

Posted on 8月 27th, 2007 in 未分類 by apj

 停電があったりで、少し遅れたのだが、信濃毎日新聞の2月24日の記事より。既に酔うぞさんのところでも取り上げられている。

科学者から批判の「ニセ科学」 先生が紹介する事例
8月24日(金)

 科学者から「ニセ科学」との批判が相次いでいる「『ありがとう』という文字を見せた水の結晶は、美しい形になる」との内容を、先生が子どもたちに紹介する事例が教育現場で出ている。長野市内の小学校でも校長が全校児童を前に講話する事例があった。これに対し、専門家は「科学的にあり得ない内容。科学的知識の十分でない子どもたちに、事実であるかのように教えるべきではない」と指摘している。

 長野市内の小学校では今年2月、当時の校長が全校児童を前に、「ありがとう」「ばかやろう」などの文字を水に「見せて」凍らせたとされる結晶の写真をスライドで紹介した。「ありがとう」を見せた結晶は形が整い、「ばかやろう」の場合はバラバラだった-とし、「きれいな言葉を使っていると体も心もきれいになるが、汚い言葉を使っていると醜くなってしまう」と述べたという。

 この問題を「ニセ科学」と批判する著書がある左巻健男・同志社女子大教授(理科教育)によると、こうした事例は、同様の話を扱った書籍の出版や一部教育団体の紹介をきっかけに、全国各地の小学校の道徳の授業などで散見されているという。講話で紹介した校長も書店から購入した写真集を参考にしていた。

 菊池誠・大阪大サイバーメディアセンター教授(物理学)は「言葉の意味や内容が水に影響を与えるというのはあり得ない話」と断言。「(整った)雪のような結晶の形になるかどうかを決める要素は、温度と水蒸気の量だと明らかになっている」と話す。

 校長は「内容は半信半疑ではあったが、言葉遣いが荒れていることを子どもたちに気づかせ、きれいな言葉を使おうという趣旨だった」と説明。科学者による批判は「知らなかった」とし、「知っていれば講話では扱わなかった。不適切だった」としている。

 この校長は、講話の内容を各家庭に配布した「校長室だより」でも紹介。校長や学校によると、講話後に教諭の1人が校長に「(話は)本当かね」と尋ねた以外、内容に対する疑問や批判の声は寄せられていないという。

 こうした事態に、菊池教授は「そもそも道徳は物質から教わるものではなく、別の教え方があるはずだ」と強調。左巻教授も「以前であれば授業に取り上げることなど考えられなかった。教員は、科学的な物の見方の背景にある批判的な見方を、もっと鍛える必要がある」と話している。

 問題になりそうな部分は酔うぞさんの指摘とほぼ同じになってしまった。既に酔うぞさんは、

わたしがこの校長の説明で問題と感じるのは
・内容は半信半疑ではあった
・知っていれば講話では扱わなかった
この部分で、まとめると「自分じゃ何も考えてませ~ン」宣言ではないか、それを学校内で問題にしなかった、

と指摘していて、それはその通りだと思う。
 ただ、最大の問題は、きくちさんの指摘(で、ここでもさんざん議論してきたことでもあるのだが)「道徳を物質に教わる話」を平気でしたという所にある。つまり、マナーあるいは道徳を教えるつもりで、最もマナーや道徳を蔑ろにすることをやってしまった。それがまさに「自分じゃ何も考えてませ~ン」ということなのだろうけど、だったら人に道徳なんか教えちゃいけないわけで。
 一部の政治家やら審議会のエラい人が学校で道徳を教えさせたがっているけれど、やったところで期待通りの事は起きないだろう。道徳とは何か、を言葉で説明できない人ばっかりだと、見当外れな内容が教えられる結果になるだけではないか。

やっぱりウソだわなぁ……

Posted on 8月 25th, 2007 in 未分類 by apj

 あっちの掲示板に投稿されたもの。Q&Aネタかな。「G(ゲルマ)のパワーでやせる」に業務停止命令。報道発表によると

経済産業省は、著しいそう身効果を謳った「ダイエットGプレート」,「ドクターGスリム」と
  称するサンダルやクッション、枕等を販売している通信販売業者である
  ?有限会社ビューティー・アートセンター(東京都文京区)
  ?有限会社通販エクスプレス(東京都渋谷区)(以下、「2社」という。)
  に対し、特定商取引法の違反行為を認定し、同法第15条の規定に基づき、
  平成19年8月25日から平成19年11月24日までの3か月間、
  2社の通信販売に係る広告、申込み受付及び契約締結の各業務を停止するよう命じました。
  認定した違反行為は、虚偽・誇大広告、広告表示義務違反です。

モヒカン族か……

Posted on 8月 25th, 2007 in 未分類 by apj

 はてなダイアリーキーワードより。「モヒカン族」だそうで。おもしろいので引用しておく。黒影さんのところで知った
 水商売ウォッチングを作り始めた時から、内容についてのクレームを言う人は居た。そういう人達とやりとりしていて、こりゃ利害対立もあるかもしれないが本当の原因は文化摩擦だろうと感じていたのだが、この説明を読んで腑に落ちた。広告出す業者は、インターネットで手軽に宣伝、などという当時の雑誌記事を読み、ネットが双方向だということがおそらく頭には無く「消費者は一方的に広告を受け取るもんだ」ということを前提にしているのに、こっちは「ネタ発見」と思っているわけで。クレームのやりとりでは、業者は「態度を問題」にし、私は「内容を問題」にするというすれ違いが起きていた。
 当時はこのズレをどう呼ぶべきかわからなかったが、モヒカン対ムラ社会の文化摩擦だったんだ、とちょっと納得した。
 まあ、この場合も二分法で線が引けるわけでもないから、モヒカンとムラ社会は連続分布だろうし、一人の人間が場面ごとにモヒカン的になったりムラ社会的になったりすることもあるだろうけど。ただ、今後ムラ社会的な部分は減ることはあっても増えることはないだろうと思う。
 大学は、既に一部モヒカン的になっている。既に知り合いの勤めているところでは、教員が学生を叱ったら30分以内に、学生が2ちゃんねるでそのことを暴露してる(これが2年前の話)。教員の言動は、ほとんどネット直結でバレるということを前提にした方がよいし、前提にしないとやっていけない。しかも、何がどこに流れているかを全部把握するのは、おそらく不可能だろう。情報を流すことを止めさせるのは不可能なのだから、対応策としては徹底的な情報開示を先にやって風評を断つ以外にない。
 モヒカン的であることのメリットは実はかなり大きい。主張したことに対して訂正追加情報をいろんな人からもらえるし、議論で主張の内容を叩いてよりブラッシュアップすることもできる。訂正やら疑問やらをぶつけられたことを人格攻撃とか恥などと思う人は、情報を受け取れないから損をする。
 ところで、過去を振り返ってみると、既に小学校に行ってた時からトラブルは絶えなかった。今になって考えると、学級運営がムラ社会的だったり、周りの人達がムラ社会文化に浸かっている度合いが強かったりということが本当の原因だったような。多分、モヒカン的スタンスで行動すると、ムラ社会にはどうやっても相容れないということなんだろう。所属している文化圏が違うと思わないとどうにもならないんだが、そんな認識、小学生には多分無理だわな。

【Mohican】

一言で言えば「技術原理主義者」(モヒカン族グループのキーワード「モヒカン族」より)。

ネット世界の「原住民」であるが、その思想は極めて近代的。これはコンピュータ・インターネットに早くから触れた人たちに、ソクラテスの時代から続く合理主義などの近代的思想を持つ人たちが多かったことが原因として考えられる。(鶏が先か卵が先か、コンピュータやインターネットの仕様の多くは合理的にできている)

近年インターネットが一般層へ急速に普及し出したことにより、近代的思想を持たない一般人(モヒカン族曰く「ムラ社会」のひと)との間で文化衝突が起きている。

■こういう人はモヒカン族
(注1:モヒカン族の中にも様々なタイプがあるため、モヒカン族はこれらの要素が全て当てはまる、ということはない)
(注2:一部誤解が含まれているかもしれないが、モヒカン族の思想に倣い、躊躇なく修正して欲しい)

・会話中の言い間違いや相手の誤解は指摘するほうが良いと考える
・一般人から「理系的」と呼ばれやすい
特に、Webに関する考え方では、以下のような思想を持つモヒカン族がいる。
・W3Cの勧告に正しく従うことが合理的であると考える
  補注:これを強く主張する人たちは特に「W3C原理主義者」と呼ばれる。
・いわゆる「意味と見栄えの分離」を尊重する。
  補注:これを強く主張する人たちは特に「CSS原理主義者」と呼ばれることがある。
W3Cの勧告通りの表示をしないブラウザは非合理的だと考える
・いわゆる1バイト系カタカナ・2バイト系英数字・機種依存文字に疑問を持つ
・「無断リンク禁止」という考えに疑問を持つ
・「モヒカン族の解説はこちら」の「こちら」にリンクをつけるようなやり方に疑問を持つ
「教えて君」の態度に疑問を持つ

■モヒカン族の思想
・原則として発言者の社会的地位を考慮せず、意見の内容だけに注目する
・馴れ合いよりはむしろ殺伐とした議論を求める
・誤字脱字等の間違いはただ単に「間違い」と考え、他人の間違いは他意なく指摘し、自分の間違いは素直に認める

■モヒカン宣言

1. どんな努力をしても絶対に覆せない事柄を根拠にするな。「差別」という外道に堕ちる。
宣言
1. 発言者の社会的地位を気にせず、言説だけに注目する*1
2. 事実のやりとりに、余計な装飾語はいらない
3. 間違いは、きちんと認めて修正すればいい

モヒカン族5つの価値
校正
  間違いを訂正してくれる人を我々は尊敬して評価します。よけいな裏読みをして「人格攻撃している」とは思いません。
共有
  アイディアに校正の機会を与えることが生みの親の義務です。「理由が無いけど、これはこれでいいんだ」というエレガントではない開き直りはくだらない。
ツッコミビリティ
  校正、反論しやすいエレガントな言説が価値ある言説です。その為には、冗長にならない範囲で、ソースと推論過程を明確化し他へ示します。
全体最適化
  たくさんの人がハッピーになれるエレガントな方法を見つけた時、我々は最もハッピーになります。
差異
  お互いの違いを確認することで、我々はつながります。「自分らにとって良いから他の人にも良いはずだ」とは思いません。

■ムラ社会とは
・反モヒカン族が属しているコミュニティそのもの
・反モヒカン族が信奉している「前世代の思想」は「ムラ社会文化」と表現する
ムラ社会の特徴
・論理的に正しいかどうかよりも、周囲にいる仲間であるかどうかを優先して擁護する
・個人の思考法の違いを抑圧することで均質化して連帯感を盲目的に持つ
・ただ単純に自分の周辺に存在しているというだけの無意味な条件だけで「仲間」と認識する
・他人との関係を「嫌っている・好んでいる」という基準でしか判断しない
・他人から単なる事務的な指摘や事実確認をされたときでも「自分のことを挑発しているのか? 嫌っているのか?」と受け取ってしまう

・自分の趣味の対象に否定的な言葉をかけられると、何の趣味を持っているのかということとその人の評価は無関係なのに「そんな趣味を持っている人はダメだ」という風にバッシングされたと曲解して怒る
ムラ社会の例
・手作業と苦労が感じられるほど評価する
・既存の手作業処理をプログラムで効率化して一瞬で出来るようにしたら「そんな楽をしたらダメだ。心が入っていない」
・修正書類を早々に翌日に持っていったから、誠意?が無いと言われた
・トラブルの根本的な原因に気が付いたので報告したら「その担当者に角が立つから……」と黙殺された
・興味があるので色々と調べて考えて「もっとこうしたほうがいいのではないか」という意見を提出したら、なぜか「君は私に対する尊敬や誠意が無いね」と解釈された
・「○○って映画を見たけど面白かったよぉ」「それって宣伝先行のクソ映画でしょ。しかもパクりだし」「ねぇ、どうして私にケチをつけるの?」「えっ? 映画にケチはつけたけど、君にケチはつけていないよ」「ひどい。バカにしているのね」

■ムラ社会宣言
宣言
1. 発言者の社会的地位を考慮する。偉い人の失言は大目に見る
2. 内容の前に礼節を知るべし。敬語、修飾語が適切に使われていない文は見るに値しない
3. 間違いを指摘することはその人の人格を攻撃することである。また、真に誤りを犯した場合、どんな謝罪を行っても許されるものではない

ムラ社会5つの掟
校正
  間違いを訂正する人は内心人格を攻撃しています。人として尊敬できることではありません。よけいな訂正は慎みましょう。
共有
  あなたのものはあなたのもの。わたしのものはわたしのもの。人のものに口を出すのは恐ろしい人です。
マターリティティ
  周囲の人を最大限配慮?し、理論よりも何となく心を打つのが価値ある言説です。その為には、過程やソースを表に出さず、優しい言葉のオブラートでくるんで示します。
最適化の放棄
  例え非効率であっても、揉め事が起きない方法が一番ハッピーです。
差異
  お互いの差異は努力で埋めることが出来ます。自分が良いと思ったことを積極的に人に対して行いましょう。
■起源
「void GraphicWizardsLair( void ); //」の作者otsune氏が、2005年6月に使ったのが始まり。

今のネットはシステムとかプログラムに強い方面の人が跳梁跋扈しているサザンクロスシティみたいなもんだから。
普通の新聞記者さんがネットにふらふらと入ってくるとギャップで悲劇が起こっちゃう。彼らは大関東地獄地震が起こったことを知らずに目立つ行動をしてしまって、駆けつけたモヒカンで手斧を持ったプロテクター姿のシステム管理者やプログラマやネットジャンキーたちに原理主義攻撃でボロボロにされちゃう。
「この世界はネットお宅が支配する修羅場なんだぜぇ。平民は消毒だぁぁ」という感じで丸焼き炎上。
んで逃げる時に発せられる捨て台詞が「ネットお宅の理屈なんて関係有りません」という遮断宣言。
やっぱりモヒカンで手斧を持った連中がウロウロしているってのはちゃんと啓蒙したほうがいいような気がする。
http://www.otsune.com/diary/2005/06/14/4.html#200506144

共通教育の講義で代替医療を取り上げているのだが

Posted on 8月 24th, 2007 in 未分類 by apj

 講義のネタに入れるかもしれないものを見つけたのでメモがわりに。
 普段やっている共通教育の科学リテラシーでは、パンヴェニストの実験を紹介した後、代替医療について次のように学生さんに教えている。

西洋医学だけでは幸せになれないこともあるかもしれない。が、代替医療が医療費削減と結びつかないか、気をつけておく必要はあるだろう。今の日本の厚生労働省は、変な治療法を取り締まる方針だが、黙認しはじめたら要注意。金持ちは高度な医療を、貧乏人は代替医療でがまんせよ、ということになりかねない。しかも、上からの押しつけではなく、貧乏人が自分から望んで代替医療を求めるという状況を作り出して行われる可能性がある。アメリカでは、容認する方向に向かっている(貧富の差で、受けられる医療サービスに差があることを容認する社会なので)。

 政治家や官僚が「高価な先端医療は金持ちにしか使わない、貧乏人は代替医療よい」とは絶対に口が裂けても言わないだろう。しかし、代替医療の効果を煽る宣伝を放置すれば、「情報&経済的弱者」の何割はその宣伝を信じ、自分から進んで代替医療を選び始めることが予想される。これは「患者の自己選択・自己決定」のもとに行われることになる。山形大学で学んだ学生さんは、社会に出てからも、自分がこういう方向に誘導されない・こういう方向に他人を誘導する社会を作らない、という行動をしてほしいと思って、講義の時に触れている。
 ところで、「超自然現象」や疑似科学を調べる、というメールマガジンを購読しているのだが、51号に興味深い記述があった。

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★医療制度「改革」と代替医療&健康食品
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「週刊文春」2007年8月9日号に、「がん患者『お金』との闘い」という記事があります。「保険診療から見放された末期がん患者が直面する高額医療」のルポです。

 記事に登場するがん患者たちはいずれも末期。手術・化学・放射線の三大療法による「根治の可能性はゼロ」とされているものの、未承認薬や高度先進医療は保険がきかず、高額療養制度にも適用に矛盾があって自己負担の軽減が十分に行われない。つまり、病気だけでなく治療にかかるお金との闘いも壮絶な人々の話が書かれています。

 その人々が共通してたどり着くのが代替療法や健康食品。といっても、このルポはそれらを奨励しているわけではありません。要するに、現在の医療と保険の制度で十分な治療を受けられない人が、結局そこに行くしかなくなったという展開になっています。

 万が一、取材対象者の描き方に誇張や脚色があったとしても、記事で書かれている医療・保険制度についての説明自体は本当のことです。

「後期高齢者医療制度(後高医制)」という、現行制度の後退としかいいようのない制度が来年4月からスタートします。新制度が始まると、これまで国民・政管や組合健保などでうけていた公的医療保険(健康保険)について、75歳以上は全員この「後高医制」に入れられ、保険料は年金からの強制天引きとなります。

 この制度で受けられる医療サービスは厳しく制限され、例えば輸血なら1回だけで2回目からは自己負担。薬もたとえば血圧の薬「ノルバスク」「ブロブレス」を併用していた者は、1種類は保険がきくがもう1種類は自腹へ、などとなっています。

 今から20年ほど前、老人医療を「枯れ木に水をやるようなもの」と言い放った大臣がいましたが、昨今の「改革」なる路線は、とうとうそれを実際の法案で表明するに至ったのです。

 1980年代以降、我が国では第二臨調主導のもとで社会保障制度の見直しが積み上げられ、健康管理の自己責任化と社会保障制度を市場化へシフトさせる「構造改革」が企図されてきました。

 2002年に、野党欠席の中で与党が強引に成立させた「健康増進法」は、各自が健康状態を自覚せよという「国民の責務(第2条)」とともに、「特別用途表示食品(第6章第26条~第33条)」という、いわゆる健康食品の一部にお墨付きを与える条項もあります。

 つまり、国民に健康管理の責務を押しつけながら肝心の公的医療サービスは削減し、その受け皿として健康食品を検討することすらも国が法律で定めているのです。

 本稿で強調しておきたいのは、代替療法や健康食品にシフトする人イコール「非科学な人」「業者に騙される人」ではなく、現在の医療・保険制度の矛盾や弱点の中で、結果としてそれぐらいしか選択せざるを得なくなっているケースが実際にあり、今後はさらにそれが増える、ということです。

 記事には「一回26万円の代替療法」という小見出しがありますが、それでも、重粒子線治療の相場よりは「安い」。金額だけの単純な比較は意味のないことですが、患者(の家族)の財布と心境からみれば意味は大ありです。

「300万円は払えないが26万円なら払える。このまま何もせずに死にたくない。とにかく何かやってみよう」という判断を誰が責められるでしょうか。ましてや、国が民間の医療サービスへのシフトを進めているのです。責めるべきは患者(の家族)の「非科学な選択」ではなく、それを選択せざるを得なくしている社会にこそあるのではないでしょうか。

 社会の中の疑似科学問題解決は、個々に科学知識を求めるだけではどうにもならない面がある、という現実がこのルポでもわかります。

やむにやまれず目の前にぶら下がっている藁をつかむしかない立場や心境の人々に対して、藁が科学的にどうだとか、エビデンスだのハチノアタマだの言っても、藁が何故必要と思わされているのか、どうして藁に価値が見えるのか、ということを明らかにしなければ、藁に対する解決は見えてきません。

 藁にすがる状況を作り出しているのは、「健康増進法」「医療『改革』」といった国策であり、藁を作っているのは業者、藁に値打ちをつけてやっているのがマスコミ(健康情報番組)、その原作者兼道化役が○○博士や、タレント志向の目立ちたがり屋の学者達なのです。それぞれの立場に対し、徹底批判と改善の議論は可能です。

 にもかかわらず、かけ声ばかり「疑似科学は社会的背景がある」などとアリバイ的に唱え、実際には「○○という健康食品にエビデンスはない」などという訓詁学的な「疑似科学批判」に留まっていることが、いかに現実の問題解決に際して無力でかつ不誠実なことか……。

 「疑似科学批判勢力」の本気度が、今ほど問われているときはありません。

 擬似科学批判を運動化して直接政治と結びつけることがそのまま解決につながるかというと、それも違うと思う。そういう運動のあり方を否定はしないが、優先順位問題に巻き込まれるのもまた不毛である。社会が適切な合意をするための知識を普及させることには、擬似科学批判は役立つと考えている。全体に知識が普及すれば、どういう政治家を選ぶべきかというところで効いてくる。もし、普段から代替医療を信じる状態にはまっていれば、医療費削減の結果そちらに向けられていることにすら気付かないで、「これは自己決定である」と満足してしまうかもしれない(文春の記者は気付いたようだが)。まずは、政策に問題があることに気付かないと話が始まらず、そのためには擬似科学批判による知識の普及が役立つのではないか。

 人間は生きていれば一度は死ぬ。治る見込みのない高齢の癌患者に対し、限りある医療リソースをどこまで投入するかということは、本人や家族の感情の問題もあり、なかなか社会的に合意するのは難しいかもしれない。
 それでも、技術は進歩するのだから、普通の医療のコストダウンをするための技術開発にも予算をつけるという合意をすることはできる。あるいは、最初は高くても普及すればコストダウンできる技術を優先するという選択だってある。

 ところで、上に述べたような講義をしている立場から見ると、皮肉なことに、山形大学は、重粒子線治療をやりたがっているらしい。私が放医研に居た頃、重粒子線治療の治験が行われていた。所内に専用の送電線を引き込み、海岸に居並ぶ冷凍倉庫(電力が足りなくなると給電を止めて東電に協力できるクラス)を押しのけて、千葉県下で最も電力を使う事業所になっていた。治験の成果が出たら、もう少し小型の装置でできるようにして、全国の医療施設で使ってもらうようにしたい、という話だった。ただ、いくら小型化するといっても、モノが加速器では限度があり、抱え込めば維持費のコストダウンはまず無理だろう。先に導入した群馬大学では、年間100人の自由診療を受け入れないと赤字だと分かり、今頃困っているらしい。赤字の額は、現行の大学病院の黒字を簡単に越えるということだ。

 最先端の医療をやめろというつもりはない。しかし「金持ち以外は払えない高額ですごい医療」or「費用対効果が大変に怪しいがどうにか払える金額の代替医療」の2択を患者に強いるというのは、やはり何かが間違っている。「払える価格のそれなりの医療」も選べるように、政策的に、医療技術の開発も含めて誘導してもらいたい。私達にできるのは、そういう選択をしてくれそうな政治家を注意して選ぶことだろう。

水環境学会市民セミナー

Posted on 8月 23rd, 2007 in 未分類 by apj

 タイトルのところで話をしてきた。

 久しぶりに安井至先生にお会いした。安井先生の講演は最初だったので、私が会場に入るのとほとんど入れ違いになってしまった。

機能水研究振興財団の堀田さんの話。 「機能水」は、安全性から科学的根拠までかなりよく調べられている。また、アルカリイオン水の臨床試験の成果は、アルカリイオン水に多少なりとも腹部愁訴に対する効果があることを実証しただけではなく、水を飲む量を増やしただけでも効果があることまで見つけてしまったことにある。教訓としては、きちんとした科学的手続きに沿って調べると、意外なことまでわかるかもしれないということか。

 学校の環境教育の教科書や副教材に、間違ったイメージを植え付けるものが含まれているという指摘など。岩手県立大学総合政策学部の山田さんによる。講演資料の引用文献が大変充実していて、資料として使える。どちらかというと左巻先生向けの話題?

どこにそんなに金があるんだ?

Posted on 8月 23rd, 2007 in 未分類 by apj

 Yahooニュースの読売の記事より。

水増し合格、大学側にもメリット…受験料収入12億円
8月23日14時43分配信 読売新聞

 大学入試センター試験だけで合否を判定する入試方式を利用して、「関関同立」と呼ばれる近畿地区の有名私大4校(関西学院、関西、同志社、立命館)に合格した受験生のうち、実際に入学するのは10人に1人もいないことがわかった。

 私立高校が合格実績水増しのため入学意思のない生徒を多数受験させたことが一因とみられる。同方式による今春の出願者は4校で延べ7万人を超え、受験料収入は総額約12億8000万円に上っており、大学側の経営上のメリットが大きいことも明らかになった。

 読売新聞の取材に、関関同立側が2007年度入試の状況を明らかにした。

 それによると、4校の同方式の総募集人数2572人に対し、志願者総数は7万4845人。総募集人数の9倍近い計2万2827人を合格させたが、入学者は計2082人にとどまった。4校は募集人数の7~12倍の大量合格者を出しているが、定員割れが出ており、入学率(合格者のうち入学した者の割合)は9・1%だった。

最終更新:8月23日14時43分

 12億 8000万円を74845人で割ると、一人1万7000円程度。独自入試を課すならこの倍程度はかかるだろうから、まあ妥当な金額か。10人に1人しか入学しないということは、4大学分で約10億円分の受験料収入が余分にあることになる。滑り止め目的で個人受験している人もいるはずだが、受験料収入を目立って押し上げるほど高校側が水増し受験させてるとすると、半分から3割程度としても、3億円から5億円になる。一体何校がやっているのだろうか。いずれにしても、「合格枠を金を払って大学から買う」というのが実現してしまっている。疑問に思ったのは、私立高校がどの程度補助金をとっているかということで、全額を入学者から徴収してまかなっているのなら内部の意思統一さえできていれば差し支えないかもしれないが、もし、公的な補助を受けているのなら、この目的に金を使うのはまずいんじゃないか。

前期の講義でどう答えるか迷った質問

Posted on 8月 23rd, 2007 in 未分類 by apj

 前期、「科学とニセ科学について考える」という共通教育の講義をしたのだけど、その時にどう答えたらいいか、ちょっと迷った質問がこれ。
「温泉はニセ科学ですか」
 温泉に行くと、リウマチに効果があるとか何とかちょこっと書いて貼ってあるアレがニセ科学と呼べるか?という質問である。
 もし、瓶に入れた怪しい液体にそれらしい名前を付けて効能書きを添付して売ったら、まず確実に薬事法に触れる。また、温泉の効能書きについて、どれだけ厳密な臨床試験がなされているかは疑問である。字面だけ見ると、根拠出せやゴルァ!となるが、しかし実感としては、通常の温泉の効能書きがニセ科学には見えない。よっぽど極端に科学的根拠を主張して、かつそれがインチキなら別だろうが……。

 普段使っている「ニセ科学」の定義は「科学を装うが科学でない」というものである。温泉について考えるなら、まず、温泉の効能書きのあり方が「科学を装う」にあてはまるかどうかを考えないといけない。すると、確かに、病気に対する効果や飲み方が書いてあるが、臨床試験をしているとは思えないものが多数である。
 ところで、温泉とは、ずっと昔から病気に対する効果が書いてあるものであった。その効果が言われ始めたのは、おそらく、医学が今ほど発達しておらず、医者に気軽にかかってよく効く薬をのむこともできない、体を使う作業の多かった時代からであろう。そのような時代では、数日仕事を休んで湯に浸かってのんびりするだけでも、体を休めて病気の回復を助けたり、症状を和らげたりする効果は、今よりもはっきり感じられたのではないかと思う。その後医学が発達しても、温泉が医学の領域を侵すことはなかったし、温泉の側が代替医療としての地位を確立したわけでもない。怪しい代替医療信者が温泉を取り入れてことさらに効果を喧伝することが無いとは言えないが、普通の温泉については、「風呂に入ってくつろぐと云々」というのとさほど大きな隔たりはない。温泉地は、観光の目的地として人気が高いものも多く、そのような場所で病気に対する効果が書いてあったとしても、それを通常の医学や科学で十分に根拠づけられたものであると勘違いする人もまず居ないだろう。まあ、温泉が効くのは水のクラスターが……などと余計な科学モドキをくっつければ、温泉の説明でもニセ科学になるが、単に効能だけを控えめに書いてあるなら、それはもう科学とは少し違うカテゴリーのものとして定着している。
 こう考えると、温泉の効果は、文面上は病気に効くことになっていても、科学を装うということにはあたらないと考えられる。だから、「温泉がニセ科学ならショックだ」という学生さんに対して、「科学を装う状態にはなっていないから、普通はニセ科学だと批判するような対象ではない」と答えたのだった。

 この問題の難しいところは、一部分だけ取り出すとニセ科学といえそうでも、社会におけるあり方、全体の態様を考えると科学を騙っているとは言えないものがある、というところではないかと思う。

学会とニセ科学

Posted on 8月 22nd, 2007 in 未分類 by apj

 「技術系サラリーマンの交差点」より「分析化学会は「ニセ科学」と向き合うか」というエントリより。中で取り上げられた項目について、私なりの見解を述べておく。
●「ニセ科学」というネーミング
 使われだしたのは確かに最近で、多分松山の物理学会の前後からだと思う。確か、阪大の菊池さんが言い出たのだったか。科学を装うが科学でないもの、というのが、ほぼ合意された定義だろう。
●何が新しいか
 多分、一般消費者や(典型的なのがマイナスイオン)、義務教育の現場(水からの伝言)といった、割と社会に広まったものを対象にしていることか。これまでは、例えば、フリーエネルギーなど「夢のような」ことを主張している人達はいたし、本も出たりしているが、ある意味マニアックなところでとどまっていた。
● 「疑似科学的なプロセス」はあるが「対象そのものが疑似科学」ということはない
 「科学を装う」がニセ科学に当てはまる条件なので、そもそもプロセスしか問題にしていない。
●「疑似科学的か否か」は過去についての評価しかできない
 正確に言うなら、評価可能な期間は「過去から現在まで」ということになる。
●ターゲットの収集
 「まんべんない対象から公平に抽出するのは困難」とあるが、公平な抽出の基準は立てられない。国民生活センターも公正取引委員会も、本当に公平な抽出を実現しているのかというと疑問である。まあ、被害報告や苦情が多かったものが優先されることならあるかもしれない。
●誤解が生じる懸念
 ニセ科学かどうかのレッテルを貼って欲しいというニーズはある。これに対しては、判定ではなく「どう考えるのか」を主に説明することで対応するしかないだろう。
●所属先との関係
 使命感を主張するのは理由の一つに過ぎず、実際には研究者側の利害も相当入っている。これについては後で述べる。

ニセ科学関連で訴訟が起こっているが、その内容は科学論争ではなく、大学のサイト管理責任を問うものである。
言うまでもないが「疑似科学批判」と「専門家のウェブ活動のあり方」は別個の問題である。にもかかわらず、実態として多少なりともリンクしているようである。これは、幅広い立場の人が参加する学会が公式に関わりを持つ際には注意しておくべきことと思う。

 これについては、そのうち動けるだろうと予想している。大学の果たすべき責任と、発信者個人が負う、表現の内容そのものについて(これは大学は責任を負えないし、負うことにすると情報発信のほとんどが事実上不可能になる)の責任の切り分けを、一度は学外でもやっておく必要があると認識している(学内では規則を作れば良いだけなので)。

 さて、上記エントリのコメント中で柘植さんが引用した河合さんの主張「定かでない事柄を定かであるかのように喧伝するものを諫めるようなことをすれば、学問における定かでない事を定かにするという営みをレッテルを貼るかたちになって阻害するから、学問的にはやるべきでない」について。これがまさに利害と直接絡む部分である。「定かでない事柄を定かであるかのように喧伝されると、本当はこれから定かでないものを定かにする作業が必要なのに、その必要性が認識されなくなり、結果として学問の発展を阻害する」の方が妥当なのではないか。科学者にとってニセ科学が直接の利害を持つとすれば、この形でだろうと思う。

 学会の仕事としては、
 メンバーがニセ科学について何らかの投稿をしたりセミナーを開いたりという活動を行うことについて、一定の理解を持つこと。ニセ科学についての発表や情報交換の場を作るところまでは積極的にやってもいいが(消極的には邪魔しないというだけでもよいが)、学会公認のニセ科学を認定するなどということはすべきでもないしする必要もない。学会はそもそもそういう「お墨付き」を与える組織ではない。
ということになるのではないか。分析化学会に限らず、どこの学会でも同じだろう。