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きわどい科学・・・・・・ウソとマコトの境界を探る

SNコメント

 

 ワシントン大学物理学教授の著者Michael W. Friedlander の1995年の著作AT THE FRINGES OF SCIENCE「科学の縁取り」の邦訳。訳者あとがきでは次のように紹介されている。

最近,日本でも超常現象やオカルトを,正統科学の立場から批判的に取り扱った本が多く出版されるようになったが,本書は単なる事実の列記や批判的議論だけに終わらず,このような正統でない科学を概観することにより,これまで科学者,研究者の間では暗黙のうちに理解されていた,正統科学の方法,限界,しくみを対比的に浮かび上がらせるという興味深い,また教育的なアプローチを採っている。

 この紹介どおり,なかなか興味深い本である。まず,第2次大戦後の古い話題だが疑似科学の極端例として,ヴェリコフスキーのベストセラー「衝突する宇宙」と,一部の科学者の支持と政治的介入で効果のない製品がのさばったAD-X2バッテリー添加剤事件が取り上げられる。続いて,専門外の研究を行った科学者による成功例と失敗例の対比として,大陸移動説と常温核融合の事例が検討される。次に,科学的手法の理論的枠組みに対する見解を,クーン,ザイマンやポッパーを紹介しつつ示す。著者の立場は科学に基本的な信頼を寄せるもので,相対主義の科学社会学・科学哲学はある理論の科学的価値を評価するのに役立たないと批判する。著者は次のように言う。

 ある理論をテストするときには,まだ行われていない実験や観測の結果を予測する能力とともに,以前の理論より広範囲にわたる観測事実を説明できるかどうかが問題になる。現役の科学者から見ると,科学研究で得られた内容は,まったく間違っているものは別にして,次第に蓄積されていくものである。基礎となっているような実験や観測は,それが理論に果たす役割が時とともに普通はゆっくりと,ときに急激に変わっていくかもしれないが,いつまでも真であり続ける「事実」である。そういう範囲では,科学の中心となっている知識は信頼に足るものである。

……中略……

科学の新たな構成要素としてどのようなものを迎え入れ,どのようなものを間違いもしくは疑似科学として排除するかを決めていくのは,科学者たちの意見によるのである。

……中略……

通常科学を進めていくなかでアノマリーは蓄積されていくが,あるものは(それが正しいか間違っているかは別にして)無視され,あるものは次なる関心の焦点になっていく。そのどれを捨て,どれを追求するかは,ひとえに優れた判断,経験と直観の問題である。有意なアノマリーが集まってあるパターンが生じると,その分野の科学者たちはパラダイムを再検討せざるを得なくなる。科学に対するよくある誤解の一つは,たったひとつ説明のつかない事実に直面しただけで理論が崩れ去る,という考え方である。事はそれほど単純ではない。

 そして,専門学術誌における査読システムや学会発表などの「科学の現場のシステム」を紹介し,重力波やモノポール,日本人による「回転するコマの重さが回転方向とともに回転速度に左右される」という報告などの“誤った発見”に触れ,科学の研究システムが科学の体制外の人に門戸を閉ざし,過激なアイデアに対しては慎重ではあるが,基本的にはうまく働いていることを論じる。科学者による革新的なアイデアの受容もしくは拒否の過程は,恐竜絶滅説,相対性理論,第五の力,宇宙論,量子力学,ポリウォーター,1988年のネイチャーに載った「有効成分の分子が全くないほどの極度希釈溶液にも生物学的効果がある」という内容の論文,を題材にとって示される。疑似科学の事例では,占星術,木星効果,ニューマドリッドで1990年12月3日に巨大地震が起こるという予言が引き起こしたパニック,UFOが取り上げられる。超心理学には,一つの章が当てられて批判され,次のように断じている。

一世紀以上も前からそのインチキが暴かれ,懐疑派を納得させる成果を欠いているにもかかわらず,この研究の魅力は,一部の有能な研究者たちに,いつかは主流科学に認定される本物の効果が実在するのだと確信させ,彼らの献身的な研究を引きつけてやまないのである。

 科学における不正事件は,シリル・バートの心理学研究,N線,医学のイカサマ,ミリカンの電気素量測定実験が取り上げられる。また,政治がらみの疑似科学として,ルイセンコ事件,ナチスのアーリア物理学,創造科学が論じられる。なお,日本では創造科学にあまり直面しないので我々の危機感は少ないが,次の記述にはやりきれない気持ちになる。

1993年8月,カリフォルニア州ヴィスタの教育委員会は,進化についてのもうひとつの考え方として創造科学を教えることを認める評決を下した。委員会は科学の授業での対決を避けるために,社会と文学の授業で創造科学を教えることを認めたのである。