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今後考えるかもしれない問題
野次馬問題(仮)
- 「尻馬に乗って表面的なニセ科学批判を行う野次馬的な人達」に関する問題(仮の括り)
- 「尻馬に乗る」人が出ることは本当に問題なのか。逆に、むしろ良いことではないのか。野次馬を問題にする人達が、現にニセ科学を普及させようとして非難された当人や、批判批判をしようとしている人達だった場合、それはただの逆切れではないのか。
- 科学を利用して他人を騙すことは良くない、という「空気」が社会にあった方が良いと考えるなら、野次馬の存在はむしろ好ましいことではないのか。
- ネーミングは「野次馬問題」でいいのか。単に首を突っ込むだけでは済まず、騒動をいたずらに拡大しまくって実害を及ぼすレベルになったらさすがに問題にすべきだろうし、それならば「フーリガン問題」とでもした方がいいのではないか(もちろん、批判側と批判批判側を問わず)。野次馬にネガティブイメージを感じられないのだが……。むしろ、好奇心でいろいろ首を突っ込んでいる間にあれこれ詳しくなる人、というポジティブイメージの方が強いのだが……。
- 個人的には、積極的に野次馬であることを選んでいる。たとえば、利害関係の全く無い他人の裁判を傍聴に行って面白おかしくblogで議論するなど。それで得るものもあったりする。個人的には野次馬をすることがプラスになっている。こういうのと、ニセ科学における野次馬問題とは何がどう違うのか。
- 野次馬の定義と、野次馬であることの判別はどうするのか。そんな定義や判別は可能なのか。
- (定義・判別基準とも関連するが)ニセ科学を問題とした場合に、野次馬が発生している事実はあるのか。
- 野次馬が発生したとして、何が問題なのか。表面的なニセ科学批判が行われたとしても、それは単に「稚拙な批判」でしかないのではないか。それならば、個別に批判のまずいところを指摘すれば足りるのではないか。従来の相互批判のあり方を越えてまで問題とする必要はあるのか。
- 野次馬は一時的なものではないのか。きっかけが尻馬に乗る行為でも、他人の議論を見ているうちに学習して、きちんと議論するようになったりすると、その野次馬は野次馬ではなくなるのではないか。
- 野次馬の括りに失敗すると、「ニセ科学批判批判」がやった失敗の轍を踏むだけではないか。
- 一般に、何かあった場合には野次馬が発生することは予見できるが、別にニセ科学云々に限った話ではない。
- 野次馬が発生することによって、何か不都合があるのか。
- 野次馬が存在することが真面目に議論する人の足を引っ張っているのか。これまでに見た感じでは、野次馬が直接足を引っ張っているのではなくて、野次馬を見た(と思った)人達がニセ科学批判批判を標榜する形で足を引っ張っているようにしか見えない。つまり、野次馬問題が本筋のニセ科学批判に及ぼす影響は、メタな批判批判を通して現れるという間接的なものに見えるが、これは野次馬問題と呼べるのか。野次馬を想定しての当事者以外による批判が行われた場合、批判対象の野次馬は誰かの脳内にしか存在しないのではないのか。
- 情報伝達の到達範囲を広げることを考えた場合、野次馬が居た方が良いのではないか。
- リピーターとかトランスポンダみたいな振る舞いをするもの(どっかで見かけた議論に手を加えずにそのまま広める)は野次馬なのか。情報伝達には重要な役割を担っているはずだが。
- 悪質な場合を考えると、ニセ科学批判の外見を装った個人攻撃とか誹謗中傷とかがありそうだが、悪意がある場合は、尻馬に乗るというのとも違いそうだが……。
- 当事者(誰かにニセ科学言説を説いている人や、直接説かれている人)でもないのに、ニセ科学の問題に首を突っ込むこと自体が、そもそも野次馬ではないのか。だとすると、ニセ科学を問題にする人のうち、直接何らかの被害を受けた人以外は全て野次馬ではないのか。
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