ニセ科学とは何か
「ニセ科学」という用語が使われ始めた経緯
科学っぽいが、科学ではないものを指す用語として「擬似科学」が使われてきた。この「擬似科学」の代わりに、「ニセ科学」という用語が広まるきっかけになったのは、菊地誠の講義やネット上の文書による。ニセ科学関連文書のリストを見ると、「ニセ科学」という単語が登場するのは、2003/02/17の「大阪府研究職職員研修会講演」のレジュメのタイトルからである。それ以前の文書には「ニセ科学」という単語は登場しない。
次に、菊地の文書から「ニセ科学」の定義について記述してある部分を抜き書きしてみる。
「科学とニセ科学」レジュメ(ver.2)
「この文書は大阪府研究職職員研修会 (2003/2/17 於マイドーム大阪) のために作成したレジュメの改訂版です」とある。
「ニセ科学」とは耳慣れない言葉かもしれないが、ここでは『科学であるかのように装ってはいるが、実は科学とはよべないもの』をそのように呼ぶことにする。最近の実例をいくつかとりあげ、なぜそれがニセ科学なのか、そして、なぜ多くの人々がそれを信じるのかについて議論したい。なお、心霊現象やオカルトなど、科学を装っていない(装う手間もかけていない)ものについては、今回は取り上げない。 ちなみに、「ニセ科学」という用語は参考文献に挙げたシャーマーの著書の邦題からいただいた。用語としては「疑似科学」や「似非科学」よりも単刀直入でいいと思う。菊地の「ニセ科学」は、「なぜ人はニセ科学を信じるのか」(マイクル・シャーマー、岡田靖史訳、早川書房、1999)のタイトルがもとになっている。
「ニセ科学」入門
大阪大学大学院文学研究科文化形態論専攻広域文化形態論講座文化基礎学専門分野共同研究「科学と社会」(代表者: 溝口宏平)報告書(平成16年2月発行)に掲載されたもの。
世間には奇怪な情報が飛び交っている。年末のテレビで「アポロは月に 行かなかった」という説をキッシンジャー等ニクソン政権時の政治家へのインタビュ ーを通して実証するという外国の番組が紹介された。実はエイプリルフール用に作ら れた冗談番組だったというのがオチなのだが、オチの部分を聞かずに信じてしまった 視聴者も少なからずいたらしい。「アポロは月に行かなかった」というのは陰謀論と してポピュラーなもので、反証はいくつでも挙げられる。オチを聞かなくても冗談だ とわかりそうなものだが、信じたいことだけを信じる人間は常識から目をそむけてし まうものらしい。これはいわゆる”陰謀論”である。広い意味では「ニセ科学」かもしれないが、本稿では対象としない。
一方、「ニセ科学」という言葉で超 能力やオカルト、心霊現象、あるいは星占いのたぐいを思い起こす向きもあろう。この中で超能力(テレパシーや予知、念力など)については「超心理学」という学問分野まで存在するので「ニセ科学」と呼べるだろうが、オカルト・心霊などはそもそも 「科学的」な外観を持たないので、ニセ科学とは呼ばない。オカルト信者自身、オカルトを「科学」とは考えていないだろう。
つまり、ここでは「ニセ科学」という言葉を”見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの”に限定して使うこ とにする。「見かけ」という以上、誰から見てのものかが重要だが、ここでは科学の 専門家ではない人たちを念頭に置いている。普通程度の科学的知識を持つ「一般市民」(こういう言葉がいいのか悪いのかはわからないが)には科学と区別がつかないが、専門家から見れば荒唐無稽なものという程度の意味である。
そんなものを論じる価値があるのか。それが大ありなのだ。端的にはルイセンコ事件を思い出せばよい。そこには、ニセ科学が一国の社会・経済・政治を揺るがす大事件になった 例を見ることができる。イデオロギー的に都合がよいかどうかで学説の正否を決めてしまうなら、それはまさに「ニセ科学」である。残念ながらルイセンコ事件の教訓が 世間に行き渡っているとはいいがたく、日本でもルイセンコ事件の縮小再生産のよう な事件は幾度となく起きている。市民運動の側でそれが起きた身近な例が『買ってはいけない』であろう(まだ終わっていないが)。
なお、同様の文脈ではむしろ「疑似科学」という言葉のほうが広く使われている。敢えてその言葉を避けて「ニセ科学」と呼ぶのは、文脈によっては「疑似科学」という言葉が褒め言葉になるからである。具体的にはSF小説やファンタジー小説の批評などで”よくできた疑似科学的説明”などという表現が使われる。「疑似」という言葉には価値判断が含まれな いということであろう。「ニセ」という言葉は否定的な意味合いを強く含むので、こちらを採用する。私自身、「疑似科学」と呼んでいた時期もあるのだが、上述の理由で違和感がつきまとうため、最近は「ニセ」で統一している。この用法はマイクル・ シャーマーの著書の邦題に倣ったものである。「似非」「エセ」のほうをお好みのかたはそれでもかまわないだろう。「トンデモ」という言葉を使う例も見かけるが、特にカタカナで書かれた「トンデモ」という言葉には「ニセ科学」とは少々違ったニュアンスがこめられており、ニュアンスを理解したうえでなければ使用をお勧めしない。
本稿では最近の事例をいくつか取り上げて「ニセ科学」とはどういう ものであるかを考えてゆく。具体的にはフリーエネルギー、マイナスイオン、波動、ドーマン法などであるが、その前に練習問題として血液型性格判断を議論しておこう。
岐阜県産業技術センター(2007/4/19)資料
も、表向きは科学的に見えるのに、実はなんら科学的ではない説が、まことしやかに語られたり商品の宣伝に使われたりしているのを頻繁に見かけ ます。そのようなものは、科学の専門家から見れば科学的ではないことが明らかなのですが、一般の人の目には科学と区別がつかない場合が多く、そのおかげで、ものによっては「科学」として広く受け入れられていたりします。ここでは、そのような「見かけは科学のようだが、実は科学的で はないもの」のことを「ニセ科学」と呼んでおくことにします。「疑似科学」や「似非科学」という言葉が使われることもあります。もちろん、名 前はたいして重要ではないので、好きな名前を使ってください。僕自身は「ニセ」という言葉のもつ単刀直入な感じが気に入っています。
なお、ここではあくまでも「一般の人からは科学に見える」ものを対象として考えます。関連する問題としては、超常現象やオカルトなどがあり ます。それはそれで重要な問題ですし、オウム真理教のように大事件につながった例もあるのですが、科学と間違えられることはないと思うので別 扱いにします。とはいっても、その境界は決してはっきりしたものではありません。
「ニセ科学」を定義する
定義
「ニセ科学」の定義は、
(1)科学を装う
(2)科学でない
の2つをみたすものである。これまでのところ、この意味で使ってきている。
(1)と(2)では、異なる判定の仕方が必要となる。
「(2)科学でない」ということ
従来の科学哲学や擬似科学批判に馴染みが深いのは(2)の方なので、こちらを先に説明する。
実は、(2)の一般的な基準を立てるのはとてつもなく難しい。一般的な意味で(2)を厳密に判定するには、「科学とは何か」ということについてまず合意を得なければならないが、これについては未だに成功していない。一般論として(2)の基準について議論するのは、メタな内容で議論ぽい議論ができるという点では魅力的かもしれないが、科学の専門家が参加したとしても得るものはおそらく少ない。
ところが、個別の具体的な科学っぽい主張についてであれば、多少理科の素養のある人から科学の専門家まで、何が科学として間違っているかを指摘することができる。間違いがどの程度であるかを評価する時には、基準として使った科学の内容の確定の度合いによって差が生じるので、必ずグレーゾーンが存在する。それでも、ある狭い内容の主張を受け入れた場合に、ほぼ確定した科学の内容を広範囲に否定する結果が生じ、かつその否定部分についての合理的な代替案が全く提供されない場合には、その狭い主張は科学として間違いと断言しても差し支えない。ある主張を支えている根拠やその立証課程に、大きな間違いが含まれている場合や、通常の科学で行われる手続きを無視している場合も、科学でないと判断することになる。
たかぎFさんによる「ニセ科学批判まとめ」では、科学でないもの(広義の非科学)を、次のように列挙している。
- 反証不可能でポパー的に見て科学ではないもの (ポパー的非科学)
- 反証可能なだけではなく、すでに反証されてしまっているもの (間違った科学)
- 反証可能で直接には反証されていないが、他の科学知識と整合しないので反証する必要のないもの(間違った仮説)
- 反証可能だが実証も反証もされていないもの(未科学)
「ニセ科学」を定義しようとすると、これらの非科学の定義を使うだけでは不十分である。非科学の範囲を定めようとするとグレーゾーンが問題になるが、科学非科学のグレーゾーン問題の帰趨に関わらず、現在の「グレーの程度」と違うものを主張した場合も、ニセ科学に入るからである。ニセ科学では、表示と実体の乖離を問題にしているのである。
「科学でない」は端的過ぎるかもしれない。「科学の内容や科学の位置づけから乖離している」といった方がより正確かもしれない。
「(1)科学を装う」について
「装う」の判断をするには、法の適用のあり方を参考にするのが良いだろう。
「装う」相手が科学の専門家だとした場合、装う行為のほとんど全てが只の間違いと判定されてしまうに違いない。科学のプロの前で「科学を装う」のは、かなり難しい(あまりに手が込んでいると捏造になるが……)。専門家ではない一般人の通常の受け止め方に対して「装う」のだと考えないと、定義として意味をなさない。
次に、何をどこまでしたら「装う」に該当するのかということが問題となる。これは、通常人の常識で見ると科学(あるいは科学的根拠がある)と誤認することがある、という程度で足りる。「装う」の具体的内容が、社会にどのように受容されているかということも判断の際に考慮する。この判断をするのに参考となる基準は、例えば、公正取引委員会がどのような表示を優良誤認と判断したか、薬事法でどんな表示を規制しているか、といったものになる。客観的証拠があるかのように装っていたが根拠がなかった、というケースが蓄積されているからである。
ここで、「通常人」というものを基準にした。ここでは、「通常人」とは、判断のために便宜的に想定された抽象的な科学の非専門家であって、個別の誰かを意味しているものではない(法解釈の技術でよく出てくるが、その場合は裁判官が想定することになっている)。装っている側が勝手に「これは科学ではなくてポエムです」などと主張しても、通常人にとって科学の実験に見えるような操作をしていたら、通常人の誤解を解くことはできない。また、通常人にあてはまらない特定の誰かが存在するという理由で、「通常人に対して装っていない」ということにはならない。
「通常人」を基準にするならば、科学でないことを知っているのにニセ科学言説を広めることに荷担する人は、最初にそのニセ科学言説を拵えて広めようとした人と同程度の責任を問うべき相手である。逆に、いくら「これは科学です」と言い張っても、通常人の目からどう見ても科学には見えない場合には、装っているとはいえない。
ある特定の言説を「ニセ科学」に分類するときには、その言説の内容が単に科学的に間違っているというだけではなく、科学であるとの誤認を生じせしめるものであるという要素を必要とする。正規品のフリをして人を騙すものを、ニセ札、ニセブランド品などと呼ぶのであるから、それと同様にニセ科学と呼ぶだけのことである。科学だからといって特別扱いしなければならない理由はどこにもない。また、たまたま騙されなかった人が居るからといって、ニセに分類しない理由にはならないのも、他のニセモノの場合と同じである。
法律の適用のあり方を参考にして分類するのであるから、(1)(2)を満たすものを、まずは原則として「ニセ科学」と呼ぶべきである。(2)の判定結果が、科学として間違っているか、まだ科学になっていない(未科学)であるにもかかわらず、科学であるかのように装ったものがニセ科学ということになる。さらに、現状の科学非科学の線引きでグレーゾーンにあるものに対して、「白です」「黒です」と言い張ってもニセ科学となるし、その逆の場合も同様である。分類にあてはまらないものについては、個別に「装う」の態様に応じて、「○○はニセ科学ではない、その理由は××だからである」のように、例外として定めればよい。個別の態様に応じて判断、というのは、もともと科学としてグレーゾーンで、「装う」ことによる科学の現状からのズレが軽微なものである場合(つまり、元々の科学非科学の判定がグレーな場合にちょっとだけ程度の違うグレーを装うような微妙な場合)も考えられるからで、つまりは程度問題ということである。
ニセ科学を考える時に陥りやすい間違い
判定基準が科学に関するものだけだと誤解する
(1)(2)は全く違う基準と方法で判断しなければならない。(2)の基準で主に使われる自然科学的判定基準や(科学哲学の側からの位置づけ)でもって(1)を定めようとしてはいけない。逆も同様。
言説をニセ科学に分類することが科学かどうかなどという議論にも意味はない。(2)は科学(とその位置づけ)と言説の乖離の問題、(1)はむしろ法的判断に近いセンスが必要とされる。
ある言説がニセ科学になるかどうかを考えるにあたって、同じカテゴリーにニセ科学とは呼べない例外が存在するからという理由で、その言説をニセ科学に分類することを妨げてはならない。例外であることの立証は、それを主張する側が行う(これは科学の基準ではなく、法律の運用の一般原則である)。例外の存在で判定を覆せると勘違いしている人を時々見かけるが、原則を定めた上で例外を例示列挙しようとしているのだから、そんな議論は無意味である。原則と例外を同じウェイトで扱おうとする議論は、いずれにしてもミスリーディングである。一方、科学かどうかという判断だけなら、原則と例外といった扱いにはならず、微妙な場合は科学哲学のグレーゾーン問題として扱われることになる。
何が科学であるかを決める(グレーゾーン)問題のことだと勘違いする
「ニセ科学判定問題」は、科学と非科学のグレーゾーン判定問題とは関係がない。科学かどうかの判定が現状ではグレーであるにもかかわらず、「科学として確定しています」などと強弁するとニセ科学になる。「ニセ科学」であるかどうかは、「表示」(=言説の内容)と「実態」(=現状での科学の内容や科学哲学における位置づけ)の乖離があるかどうかによって決まるし、ニセの程度は乖離の程度によって決まる。ある理論が科学とみなせるかどうか、どこまで科学なのかといった線引き問題の帰趨とは関係がない。従って、「科学か非科学かはっきりしないものをニセ科学と呼ぶのはまずい」などと主張するのは、トンチンカンということになる。
科学非科学の線引き問題はひとまず横に置いておいて、ニセ科学かニセ科学でないかの線引きは、言ってることと現実とがどれだけ乖離しているか、その程度まで評価して結論を出そう、という話である。
ニセ科学の定義そのものに社会規範を含める必要はない
ニセ科学の定義そのものには、社会規範を直接含める必要はない(このことは、私も最近まで誤解していた)。
ニセ科学というものを何故問題にするのか、どのように問題にするのか、何故ニセ科学が蔓延するのか、という議論になって初めて、「嘘をついてはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」といった社会規範の存在まで含めて考えることになる。
他人を騙すことを是とする社会であっても、ニセ科学かどうかを判定することそのものには影響しないので、定義に社会規範を入れる必要はないだろう。
「ニセ科学」ではないもの
通常人の基準から見て科学に見えないもの全て。明らかなオカルトは「ニセ科学」ではない。「ニセ科学」ではないものが蔓延して害を及ぼしている場合は批判の対象となるが、ニセ科学として批判の対象になることはない。
フィクションの位置付け
フィクションにおけるよくできた科学っぽい嘘の意味として「疑似科学」を使い、現実の社会で他人を騙すものを「ニセ科学」と呼ぶことにした。しかし、これは、フィクションにおける嘘を全く問題にしないという意味ではない。
フィクションの嘘であっても、提示の仕方によっては、その部分が科学的真実であると誤認され、その誤認によって人が判断を誤ったり損害を被ったりする蓋然性が高いものについては、野暮かもしれないが、「その部分はフィクションで、科学的真実ではありません」という指摘が必要になることがある。
「良くできた嘘で見事に騙された」と受け手が感動するか、「科学的事実と間違えて混乱を来す」と非難されるかは、表現の仕方にもよるし、微妙なところではある。フィクションで嘘を言うことは、本来、道義的に非難されることではないので、紛らわしかったり実際に被害が発生しそうな時にだけ、但し書きや注意書きとして、真実でないことの指摘をすれば足りるだろう。
これまでに議論されたニセ科学の例
参考になる議論
この話題について参考になる指摘や議論。ただし、その指摘や議論を見て私もここの記述内容を改訂していく予定なので、指摘されたことが既にここの内容に反映された状態になっている場合がある。リンク先とここの現状だけを見て「的外れな議論」などと言わないように注意してほしい。私が、他の方々の意見などを取り入れたために、そう見えるかもしれない状態となっているだけなので。