わざとに行われた言い換えの例

 たとえば、私の発言について

牛乳☆たん@milktan2525 1:35
@Hideo_Ogura @apj apj氏に科学的態度を要求するのは無理です。その人は科学と疑似科学の区別もつかないと自分で言ってた人なので、おそらく健康食品のまっとうな商法と悪徳商法との区別もつかないでしょう。

といった主張がなされています。これ、私が主張したことではなく、他人の勝手な解釈によるものです。つまり私の発言ではないのです。実際に私がどう発言したかは、このあたりに記録が残っています
 もとは、「科学」と「非科学」の間に線は引けるかという問いに対し、「グレーゾーンが拡がっているため線引きはできない」と私が答えたものです。グレーゾーンがあるわけですから、1本の線は引けませんが、明らかに確からしいほぼまっ白から、明らかに科学ではない大体真っ黒なものまで幅があるわけで、真っ黒なものについては非科学と判定しても間違いではないわけです。既に白である内容に反するものであれば、科学非科学判定における黒、ではなくて、単なる間違いとする方が適切でしょう。
 まず、上記で引用した言説は、元々科学と非科学の話であったものが、科学と疑似科学についての発言であるとされています。この点で元の発言の趣旨とは違っています。私は、科学を装った言説については一貫して「ニセ科学」と呼んでおり、疑似科学とは区別しています。科学と疑似科学の線引きについて議論したことはありません。
 次に、程度の問題を無視するという種類のごまかしが行われています。グレーなところに1本の線を引けない、ということと、両端に近い黒と白の区別がつかないということは意味が全く違います。
 つまりこの言い換えは、「apj氏に科学的態度を要求するのは無理」と言うのに都合良く見せかけるために、私の本来の発言の趣旨をねじ曲げているものなのです。おそらく、本来の私の主張をそのまま書いたのでは、都合のよい主張つまり科学的な話の信用をわざとに落とすことができないからでしょう。
 勝手な解釈をもとに、言ってもいないことを本人が言ったように見せかけるというのは、不誠実です。
 なお、科学とそうでないものの間に線が引けるかというのは、科学哲学で以前から出されていた問いで、線引きできない、というのが一応のコンセンサスとなっています。このコンセンサスがあるからといって、科学的態度をとれないとか、科学的な態度や科学そのものがあてにならないかというとそんなことはありません。線引き問題については、科学の専門家に訊くよりも科学哲学の専門家に訊いた方が、現状の研究を踏まえた答えが得られるはずです。

 参考までに、「科学哲学の冒険」(戸田山和久著、NHKブックス)の83ページより、線引き問題について書かれている部分を引用しておきます。

科学と科学でないものとを区別する基準を探そうというのも、科学哲学の古くからの問題で、「線引き問題(demarcation problem)」と呼ばれている。線引き問題の現在のところの結論は、科学と非科学をすっぱり区別するただ一つの基準はなさそうだ、というものだ。だからといって、科学と非科学は結局区別できないんだということにはならない。いくつもの基準があり、それの総合点というか合わせ技で、やはり、現在まともな科学とみなされているものとそうでないものとの間には大きな隔たりがあるということが示される。この点については伊勢田哲治さんの『科学と疑似科学の哲学』(名古屋大学出版会、285ページ参照)が詳しい。

 線引きできない、というのを絵で表すならば、白から黒までグラデーション塗りした帯を想像すると良い。白黒の境界線を1本引くことはできないが、白い方の端と黒い方の端の色の違いは誰が見ても明らかである。これが、まともな科学とそうでないものを分けるのは「大きな隔たり」でしかない、ということの意味である。

【追記2014/05/08】
 伊勢田さんの「疑似科学と科学の哲学」も確認したので追記。この本に285ページは無いので、戸田山さんの本に書かれた参照ページは誤記ではないかと思われる。線引き問題について、おそらくここではないかと思われるのは252ページの
「2)線引き問題は何を問題にしているのか?」という節と257ページの「4)線を引かずに線引き問題を解決する」という節である。ここに挙げられている線引きの基準として使えるかもしれないもの一覧は次の通りである。

(a)ルースの線引き基準
(b)枚挙的帰納法
(c)仮説演繹法
(d)ヒューム流懐疑主義(奇蹟論までふくめて)
(e)反証主義(仮説自体の反証可能性)
(f)方法論的反証主義(反証された仮説に固執しないこと)
(g)蓄積的進歩
(h)俗流パラダイム論
(i)クーンの「通常科学」による線引き
(j)クーンの五項目の合理性基準
(k)リサーチプログラム論
(l)リサーチトラディション論
(m)強制的な基準(学会誌、査読制度など)
(n)科学的理論の使用
(o)強い再現性・操作性
(p)機械論的世界観の使用
(q)マートンの科学の四つの規範
(r)ファイヤアーベントのアナーキズム(なんでもあり)
(s)科学知識社会学
(t)特定理由の要件
(u)統計的検定法
(v)ラングミュアの病的科学の徴候リスト
(w)ベイズ主義

さらに、伊勢田氏は、

 確かに、科学であることの必要十分条件を与えるのは無理そうだ。ということは科学も疑似科学も区別できないということになるのだろうか?それはちょっと気の早い結論である。わたしが提案したいのは、「科学と疑似科学は区別できる、しかしそれは線引きという形での区別ではない」という考え方である。第5章で確率論的な「程度」思考の重要性を強調したが、「程度」思考を取り入れるということは,科学と疑似科学の間の区別を線引き問題としてとらえることを止める、ということでもある。

が、グレイゾーンが存在するからといって明確に科学的な分野や明確に非科学的な分野が存在する可能性を排除することにはならない。

と述べている。
 結局、伊勢田氏も、科学とそうでないものの判定は合わせ技でやるしかないという考えを示している。列挙された基準のいくつかと、分野ごとのクリティカルな要件を満たしていないといったことの合わせ技でもって判定するしかないというのが現状である。