前置きの部分が非常にしっくりきた

 小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句「ネット弁慶が街中に現れた理由」の、冒頭部分。

心を痛めている。

 ……という書き出しを読んだ瞬間に

「なんだこの偽善者は」

 と身構えるタイプの読者がいる。

 ながらく原稿を書く仕事をしてきて、最近、つくづく感じるのは、若い読者のなかに、情緒的な言い回しを嫌う人々が増えていることだ。

 彼らが嫌う物言いは、「心を痛める」だけではない。
 「寄り添う」「向き合う」「気遣う」「ふれあい」「おもいやり」「きずな」といったあたりの、手ぬるい印象のやまとことばは、おおむね評判が良くない。かえって反発を招く。

 彼らの気持ちは、私にも、半分ぐらいまでは理解できる。

 この国のマスメディアでは、論争的な問題を語るに当たって、あえて情緒的な言葉を使うことで対立点を曖昧にするみたいなレトリックを駆使する人々が高い地位を占めることになっている。彼らは、論点を心情の次元に分解することで、あらゆる問題を日曜版に移動させようとしている。

 若い読者は、そういう姿勢の背後にある卑怯さを見逃さない。
 リテラシーとも読解力とも違う、不思議な能力だ。

 この手の言い回しは、どう書かれていてもやっぱり上滑りしているようにしか見えないのですよ。議論すべきことを曖昧にする卑怯さというのは、相手にするとストレスが溜まるものです。何でもかんでも情緒で決着つけようとするヤツばっかりだった嫌な思い出というのは、私の場合、学校教育と一体のものになっています。
 「手ぬるい」言い回しの何が嫌かというと、言ってる側が真意をぼかしているためそれを推測するために余計な労力を使わないといけないからなんですね。禁止するとか止めろということを論理的に伝えられないので、敢えてぼかして相手に察しさせようとする傲慢さか、きれいごとで誤魔化そうとするずるさしか感じないのです。
 それを正面から指摘すると、人の気持ちがわからない、と非難されるわけです。私からみれば、伝える努力を怠っているのは貴方でしょう、としか言えない。
 こういう表現に隠された卑怯さを見抜く若者が増えてきたというのであれば、私にとってはかなり希望が持てる話です。

読書感想文?

 空想科学研究所(@KUSOLAB)のツィートが流れてきた。曰く、

『蜘蛛の糸』お釈迦様がカンダタを助けるために極楽からクモの糸を垂らすと、他の罪人も「何百となく、何千となく」登ってきた。仮に5千人とすれば、これに耐えるクモの糸は直径4.3㎝。こんな太い糸を出すクモがいたら、その体長は220mである。 (柳田)

 これを見て、ツィートしながら、ひょっとしてこれは蜘蛛のサイズ以前にいろいろ問題がありそうだと考えた。

 青空文庫で確認すると、「蜘蛛の糸」(芥川龍之介)は、

○はるか上空が極楽で、そこにはお釈迦様が居る。
○地獄はうんと下にあって、カンダタ他生前悪事を働いた連中が居る。血の池とか針の山とか、苦痛を与える設備が一通り揃っている。
○カンダタは生前蜘蛛を助けたので、お釈迦様は極楽の蜘蛛の糸をカンダタに垂らしてやった。
○地獄から見ると、天上がどうなってるかはわからない。
○とりあえず蜘蛛の糸が来たのでカンダタは登った。
○途中まで登って下を見ると他の連中も登ってきてたので、この糸は俺だけの物だと叫んだところ、糸が切れてカンダタ以下全員地獄に逆戻り。

 という、まあ有名な話である。道徳話のネタで学校で習った記憶もあるし、ひょっとしたら国語の教科書や教材に登場したこともあったかもしれない。自分だけ助かろうとする了見の狭さがいかんだろうとかそういう教訓話にされてたと思う。

 今回改めて読み返して気付いたのは、蜘蛛の糸の太さとか蜘蛛のサイズの推定以前に、目の前に蜘蛛の糸が垂れてきた場合、常識的に判断すれば、上に居るのは蜘蛛だと思わなきゃいかんだろうということである。蜘蛛の糸が天上から降りてきたからといって、上にお釈迦様が居る、と考えるというのは、相当なぶっ飛び具合である。でもって、人一人を支えられる強度の糸だということは、この糸で蜘蛛の巣が作られた場合、人が引っかかれば切って抜け出すことはまず不可能である。蜘蛛の糸が来たからといって喜んでいてはいけない。様子がわからない以上、上に居るのは、亡者を餌にしようと待ち構えている蜘蛛である可能性の方がずっと高いと考えるしかない。餌にされる予感しかしない。よくこんな状況で糸を登る気になったものだ。
 しかしカンダタは、上に居るのが蜘蛛かお釈迦様かの識別ができない状態で、喜んで糸を登っている。地獄から抜け出せるかも、としか考えていない。後に続いた亡者どもも同様である。普通なら、このまま地獄に居るか上で蜘蛛の餌になるかの二択だったら、餌の方がマシなほど地獄が酷いところでない限り登らないだろう。
 芥川の書いたオチは、自分だけ助かろうとする無慈悲な心がいかんという趣旨のものだったが、これには賛同しかねる。むしろ、上が蜘蛛かどうかも検討しないということでわかるように、先のことを全く考えない行動ばっかり生前にしていたから、結果として悪事をたくさん働いて地獄に落ちることになったのだという教訓話の印象の方が強い。

 私がカンダタだったら、蜘蛛の糸が来た時点で逃げる……蜘蛛苦手。