パーソナルツール
現在位置: 環境ホルモン濫訴事件の記録 / 原告(松井)提出書面 / 準備書面(2)(2005/11/17)
contents
 

準備書面(2)(2005/11/17)

原告側準備書面(2)

本件訴訟は2007年3月に第一審判決が言い渡され、既に確定しています。このページは、ネット上の表現を巡る紛争の記録として、そのままの形で残しているものです。

html化に際し、○に数字は1)、2)などに置き換え、○にカタカナは(ア)、(イ)などに置き換えた。これらは、機種依存文字で、そのままにすると表示環境によって文字化けするからである。


平成17年(ワ)第914号・平成17年(ワ)第3375号反訴
原告(反訴被告〉  松  井  三  郎
被告(反訴原告)  中  西  準  子

準備書面(2)

2005年11月17日

横浜地方裁判所 第9民事部合議係 御中

原告(反訴被告)訴訟代理人弁護士 中下裕子
       同 弁護士 神山美智子
       同 弁護士 長沢美智子
       同 弁護士 中村晶子

被告の2005(平成17)年9月16日付「準備書面1」に対する反論は以下のとおりである。

1 本件は事実の摘示による名誉毀損行為である

(1)名誉毀損における事実の摘示と意見の表明
名誉毀損による不法行為責任の成否をめぐっては、事実の摘示による場合と、意見ないし論評による場合とでは要件が異なるものとされ、被告が引用する最高裁判決は後者の場合による要件を明示したものである。
 しかしながら、同判決は、さらに、前者(事実の摘示による場合)と後者(意見ないし論評による揚合)との区別についても考え方を示している。すなわち、意見ないし論評の表明に当たるかのような語を用いている場合にも、一般の読者の普通の読み方を基準に、前後の文脈や記事の公表当時に読者が有していた知識ないし経験等も考慮したうえで、間接的ないしえん曲にある事実を主張するものと理解されるか、又は、間接的な言及がなくとも、前後の文脈等の事情を総合的に考慮すると当該部分の叙述の前提としてある事実を黙示的に主張するものと理解されるならば、その表現は事実の摘示と見るのが相当であると判示している。このような判断基準に照らせば、本件名誉毀損行為は、以下に述べるように、むしろ事実の摘示によるものであって、被告主張のような意見ないし論評による場合には該当しないと解すべきである。
(2)本件記事における事実の摘示
 上記最高裁判決のとおり、一般の読者の普通の読み方を基準にして、前後の文脈等の事情を総合的に考慮して本件ホームページ記事を理解すれば、原告が訴状で指摘した事実の摘示があったと解される。
 すなわち、被告は、「環境省のシンポジウムを終わって」との見出しの下に本件記事を掲載しているが、見出しには「リスクコミュニケーションにおける研究者の役割と責任」という副題がつけられていることからも窺われるように、被告は、「環境ホルモン問題についてのリスクコミュニケーションは失敗だったのであり、そうした失敗を招いたのは学者の責任が大きい」という見解に立って、本件ホームページの記事を掲載している。被告は、カップラーメンから環境ホルモンの一種スチレンが溶出するという報道によって売り上げが15%も落ちるという被害を蒙った企業もあったが、結局、溶出もせず、ホルモン様活性もなかったことがわかった(甲第10号証のとおり、この記載に対しても事実に誤りがあるとの抗議が行われている)など、間違った情報が流されたと指摘した後、「最初の情報発信に気をつけよう」という小見出しの下で、原告に対する本件名誉毀損記事を掲載し、そこで本件ホームページ記事が終わっている。つまり、リスクコミュニケーションの失敗の原因となった学者による情報発信の問題例として、原告のシンポジウムにおける発言に言及しているのである。なお、本件記事の中で、名指しで批判されているのは原告のみである。
 このような前後の文脈を考慮し、一般読者の読み方で本件記事を理解するならば、被告が、本件記事において、
(A)「原告が、既に環境ホルモン問題は終わったものと考え、別の新たな課題、(ナノ粒子の有害性)へと関心を移している」
という事実を摘示したことは明らかである。この点は、被告自身が、本件記事において、「次はナノです」.という原告の発言を紹介したうえで、その趣旨を「要するに環境ホルモンは終わった、今度はナノ粒子の有害性を問題にしようという意味である」と説明していることからも、容易に理解される。このことは、「松井三郎さんが、新聞記事のスライドを見せて、『つぎはナノです』と言ったのには驚いた。」(下線原告代理人)という表現が用いられていることからも明らかである。つまり、環境ホルモン研究の代表的メンバーであった原告が、予想に反して、「環境ホルモンは終わった。次はナノの有害性だ」という趣旨の発言したということを摘示していると解されるのである。
 また、新聞の記事そのままではおかしい。・・・専門家や学者は、その際、新聞やTVの記事ではなく、自分で読んで伝えてほしい。でなければ、専門家でない」(下線原告代理人)という叙述の前提として、
(B)「ナノ粒子の有害性を問題にするにあたって、原告が、原論文を読まずに、あるいは十分に吟味せずに、新聞記事をそのまま紹介した」
という事実が黙示的に摘示されていると解される。
(3)被告の前提事実の主張についての反論
前述のとおり、本件名誉毀損行為については、被告が主張するような意見ないし論評によるものではなく、事実の摘示によるものと解すべきであるが、念のため、被告の主張に対して以下のとおり反論しておく。
(ア)被告は、本件において、意見ないし論評の前提事実として、
  1)新聞記事のスライドを見せたこと
  2)「次はナノです」という趣旨のことを言ったこと
であると主張している。しかしながら、前述のとおり、本件ホームページの記事を前後の文脈も考慮して総合的に理解するならば、およそ上記のような事実だけが批判(意見ないし論評)の前提事実であるはずがないことは明らかである。もし仮に、これだけが前提事実であるとするならば、新聞記事を見せて、「次はナノです」と言ったという事実だけに基づいて、本件記事のように「専門家や学者は、その際、新聞やTVの記事ではなく、自分で読んで伝えてほしい。でなければ、専門家でない」などという、専門家としての基本的資質が疑われるような批判を行っても名誉毀損にならないということになる。このような結論がいかに不当であるかは言うまでもない。
 仮に、本件記事が意見ないし論評であると解されるとしても、その前提事実が前項で指摘した(A)及び(B)の事実と解されることは、冒頭の最高裁判決の判旨に照らしても当然である。被告は、(B)の事実について、本件ホームページ記事には「原論文を読まずに」とか、「十分に吟味することなく」などの記載はないと主張しているが、前述のとおり、「自分で読んで伝えてほしい。でなければ、専門家でない」という表現は、論文を読んでいないか、十分に吟味していないという事実を黙示的に含んでいることは明らかである。
(イ)被告は、さらに、意見の前提として、
  3)新聞記事以外に原論文の指摘及びその問題点の指摘が欠落していたこと
  4)新聞にこう書いてあるが自分はこう思う、といった発言も欠落していたこと
も前提事実とする余地があるかもしれないと主張している。もちろん、これらの事実も前提事実に含まれるかも知れないが、前提事実はそれだけではない。少なくとも「ナノ粒子の有害性を指摘するにあたって原告が論文も読まずに、又は十分に吟味することなく、新聞記事をそのまま有害性の根拠として主張した」ことが前提でなければ、「専門家や学者は、その際、新聞やTVの記事ではなく、自分で読んで伝えてほしい。でなければ、専門家でない」(下線原告代理人)などという酷評が、意見ないし論評の名の下に許されてよいはずがない。
 なお、被告は、答弁書(3頁)においては、「甲1号証における被告の言論が原告のナノ粒子の有害性についての問題提起のあり方を批判するものであったことは明らかである」としたうえで、「すなわち、新聞は、往々にして、ニュース性のあるものを優先して、しかも刺激的な見出しを付けて掲載するのであるから、センセーショナルな見出しのついた新聞記事を、何ら専門家としての判断を加えずに、そのまま掲げて問題があるような話をするなどということは、参加者に誤った印象を植え付ける危険性が高く、専門家としてのプレゼンテーションとしては適切でない」(下線原告代理人〉と主張しているのである。この主張を前提にすれば、こうした意見の前提事実は、論理的に言っても上記1)〜4)のみならず、さらに、(ア)「新聞は往々にしてニュース性のあるものを優先して(十分な科学的根拠を欠くものであっても)、刺激的な見出しをつけて掲載すること」、及び、(イ)「原告がセンセーショナルな見出しのついた記事をそのまま掲げて問題があるような話をしたこと」でなければならない、はずである。
 原告は、準備書面(1)において、上記の答弁書の被告の主張について、「原告が専門家としての判断を加えずにそのまま掲げた」事実についての主張が欠落していることを指摘したところ、被告は、自らの主張の欠陥を自覚したのか、本「準備書面1」において、さらに上記3)、4)の事実を前提事実に加えてきたが、それだけでも足りないことは前述のとおりである。そして、これら(ア)、(イ)の各事実について、真実性の証明がないことは、既に原告の準備書面(1)第1の2で述べたとおりである。
 このような被告の主張態度は、論理性を欠き、およそ科学者の名に値しないといえよう。
(ウ)被告は、さらに、5)「原告はすでに環境ホルモン問題は終わったものと考え、別の新たな課題へと関心を移していること」や、6)「原告が、原論文を十分に吟味することなく、新聞記事をそのまま紹介したこと」は、被告の意見であると主張するが、これは被告の詭弁にすぎない。これらの表現を素直に読めば、到底、単なる意見や論評とはいえないものであることは明らかである。仮に、意見や論評にかかわる部分があるとしても、その前提として、
5)、6)の事実の摘示があると解するのが前記最高裁判決の判旨に照らしても当然である。

2 事実摘示の真実性
 本件においては、前項(2)で指摘した(A)・(B)の摘示事実については、いずれも真実ではない。被告は、前記1)〜4)は真実であると主張するが、本件摘示事実が1)〜4)にとどまらないことは既述のとおりである。
 そもそも被告は、原告の最初のプレゼンテーションにおける最後の発言だけを捉えて事実の真実性を問題にしているが、意見ないし論評の前提事実の真実性の判断にあたっては、本件シンポジウムにおける原告のプレゼンテーション・発言を総合的に理解して判定すべきであることは当然である。本シンポジウムにおける原告の発言(乙5の2、なお、原告のプレゼンテーションは2回にわたって行われている)及びスライドの内容からも明らかなように、原告は、本件シンポジウムにおいて、まず、環境ホルモン研究を通じて、わからないことがいかに沢山あるかがわかったということを指摘したうえで、自分の研究室での研究結果に基づく仮説(ダイオキシンとインディゴ、インディルビンとの相違)を述べ、こうした仮説を前提に、最後にナノ粒子への懸念に言及したものである。原告の前半のプレゼンテーションの主な内容が、原告の研究結果に基づく仮説の紹介にあったことは、甲8のスライドのうち、第6図から第12図までがその説明にあてられていることからも明らかである。この研究結果が原告独自の研究に基づくものであることも、甲8の第8図や乙5の2の発言の趣旨(13頁〜14頁)から容易に理解できることである。
そして、原告は、この仮説は、発ガンのメカニズムの解明にも通じる可能性をもつものであることを指摘したうえで、さらにはナノ粒子の有害性とも共通性があると考えられることから、前半のプレゼンテーションの最後に、こうした研究成果を生かしていくべき課題としてナノ粒子の問題があることに言及し、参考記事として甲8の第13図の新聞記事を示したものである。このように、原告がナノ粒子について言及したのは、決して、環境ホルモン問題は終わったと考えて、次の研究テーマをナノ粒子に選んだという意味ではなく、また、ナノ粒子の有害性を新聞記事のみを根拠にして主張しようというものでもなかったことは、甲8のスライドや乙5の2の発言からも明らかなのである。
 なお、甲8の13頁の「口頭説明の要点」の記載については、原告としてはこのような趣旨で発言したつもりであったが、乙5の2のテープ録音を聞くと、必ずしも明確な言語で説明をしていなかったようである。しかし、プレゼンテーションの流れや全体を通じての原告の考え方に留意していれば、このような原告の発言の趣旨を理解することは決して難しいことではないはずである。少なくとも、原告が、環境ホルモンは終わった、次はナノ粒子であるという趣旨で発言した訳でなかったことは、研究者であり、環境ホルモンのリスクについての文科省の特定領域研究の審査委員も務め、おそらくは原告の研究成果を示す論文要旨に目を通していたに違いない被告には、容易に理解できたはずである。
 さらに、このような原告の発言の趣旨は、後半のプレゼンテーションで一層明確になっている。すなわち、被告が失敗であったと指摘する環境ホルモンのリスクコミュニケーションについては、原告としては、被告の言うように学者の最初の情報発信のあり方に問題があったのではなく、環境ホルモンのリスクは、これまでのような有害性=死というようなリスクの捉え方では把握できないもの(例えば、受精がうまくいかないとか、大人になって生殖活動に支障が生じるなど)があり、このような質の異なるリスクというものを計算する仕方を未だに科学者たちが生み出し得ていないという点に問題があったと考えていること、そして、その点が原告と被告やパネリネトの山形氏や日垣氏との相違点であることなどを述べた。その上で、甲8の第16図のスライドを示して、有害性の判断についての間違いを1型(実験から有害であると思ったが、実際には大したことはなかったという間違い)と、2型(無害だと思っていたが、実は有害であったという間違い)とに分けて、科学者には1型が多く、それが批判されているが、しかし、2型の間違いの方が致命的であって、致命的な結果を避けるためには、1型の間違いがあってもやむを得ないという立場もあり得るのではないかということを指摘したのである。
 このように、原告の発言の趣旨を全体的、総合的に理解すれば、原告が「環境ホルモン問題は終わった、次はナノ粒子だ」と言って、新聞記事だけを示してナノ粒子は有害であると主張した旨の前提事実が、到底、真実といえるものではないことは明らかである。原告の発言の趣旨は、決して「環境ホルモンは終わった」というものではなく、その反対で、環境ホルモンのリスクは従来の有害性の概念(人の死)ではとらえきれない質的に異なる新たなリスクであり、このような新たなリスクについてのコミュニケーションには困難はあるが、なお科学者として今後も努力していくべき重要な課題であることなどを主張したものであった。そのことは、乙5の2からも容易に理解できることである。
 つまり、原告は、被告の摘示事実とは正反対の趣旨の発言を行ったのである。例え、その一部に事実が含まれていたとしても、摘示事実が全体として原告の発言の趣旨と全く正反対の記載となっているような場合には、その摘示事実は、到底、真実とは言えないことは当然である。また、本件においては、被告は、容易に発言内容を理解できる立揚にあり、もし疑問があれば直接本人に確認すればよかったのであるから、本件が、被告が誤った事実を真実と信じたことにつき相当の理由がある場合にも該当しないことは明らかである。

3 社会的評価の低下
 前述の(A)、(B)の事実の摘示によって、原告の学者としての信用や社会的評価が著しく低下させられたことは言うまでもないことである。
 被告は、(A)について、一般に研究者が別のテーマに関心を持つことは社会的評価に影響しないと主張するが、本件においては、そのような一般論が問題とされているのではない。文科省の特別領域研究のリーダーを務め、環境ホルモンには大したリスクはないと考えている被告とは立場を異にして、逆に、環境ホルモン問題は、人や生物が死ぬかどうかという観点のみでは評価できない質の違うリスクがあるとして、その研究継続の必要性を内外の研究者はもちろん、広く一般市民にも訴え続け、「環境ホルモン学会」の副会長という地位にもある原告にとって、日頃からの発言や信条と全く相反する発言を行ったかのように記載されることは、研究者としての原告の信用や社会的評価を著しく低下させるものであることは当然である。
 また、原論文を読まずに、あるいは十分に吟味することなく、新聞記事だけを示してナノ粒子は有害であると主張するなどということは、まさに原告の研究者、専門家としての基本的資質に関わる事項であって、このような事実摘示によって原告の学者としての名誉が著しく害されたことは明らかである。

4 目的の公共性、公益性について
 以上のとおり、本件記事は、仮に意見であるとしても、主要な前提事実についての真実性の証明を欠いており、目的の公共性や公益性の有無にかかわらず不法行為を構成するものであるが、被告が目的の公益性等につき主張しているので、念のため反論しておく。
 被告は、本件シンポジウムの目的について、環境ホルモンの問題点、特に、危険性の程度を過不足なく、どのように伝えるべきかが大きな問題であったが故に開かれたものであるとしたうえで、被告としては、その観点から、セッションの冒頭に、「一般の人に対して発表するときには、危険の大きさ、ほかのリスクとの比較、どのぐらいの大きさの危険ということを一緒に発表する義務がある」と指摘していたところ、そのような観点から原告の発言や発表の仕方は到底座視できないものと考え、本件記事をホームページに掲載したもので、意見内容は妥当であると主張している。これは、つまり、本件記事の掲載の目的が専ら公益を図ることにあったと主張するものと考えられる。
 しかしながら、本件記事は、甲8のスライドや乙5の2の原告の発言に照らしても、原告の発言の主要部分は全く紹介しておらず、それこそ、いきなり、何の前提も加えずに、ナノ粒子に言及した発言部分だけをことさらに取り上げて批判したものである。しかもその内容たるや、原告が原論文も読まずに、あるいは十分に吟味することなく、ただ新聞記事だけを取り上げてナノ粒子には問題があると主張したという、原告の学者としての基本的資質まで疑われかねないものである。さらに、被告は、このような原告の名誉にかかわる重大な批判を、原告が発言したシンポジウムの場で行うのでもなく、原告に直接口頭または文書で伝えて反省を促すのでもなく、わざわざ原告にとっては反論の機会の保障もない、被告の一方的な表現媒体である自己の個人ホームページ上で行っているのである。
 このような事実からすれば、被告は、原告の社会的評価を低下させるべく、ことさらに本件記事を自己のホームページにアクセスする不特定多数の読者に知らしめる目的で掲載したものと考えざるを得ないのである。このような目的が到底「専ら公益を図るために行われた行為」に該当しないことは明らかである。もし、被告があくまでも公益目的であったと主張するのであれば、シンポジウムの場で堂々と批判せず、また直接原告に指摘するのでもなく、わざわざ一方的な表現媒体であるホームページに掲載した理由は何かを明らかにされたい。また、被告は、相手に反論の機会を保障しつつ行う批判と、本件ホームページのような一方的な媒体による批判と、学問的な批判のあり方としてどちらが適当であると考えているかについても、明らかにされたい。
 本件記事を掲載した被告の意図が、主として原告に対する人格的攻撃にあったことは、本件記事において、被告がわざと原告の肩書きを違えて記載していることからも推認される。すなわち、被告は、本件記事において原告の肩書きを「京都大学工学系研究科教授」と記載しているが、正しくは「京都大学地球環境学大学院地球環境学堂教授」である。原告は、当初、被告が不注意にも原告の肩書きを間違えたものと考えていたが、被告のホームページ(甲第16号証)を読むと、被告は、原告から「学堂」に関する話を聞いて恥ずかしく思い、その揚から逃げ出したのだという。「上の空で聞いていたのですか?」との原告からのメールによる抗議に対しても、被告は、「上の空ではなく、真剣に聞いたがために逃げ出したのだが。」と記載している(甲第16号証)。
 つまり、被告は、原告の肩書きをちゃんと知っていたのである。にもかかわらず、わざと正式名称を用いず、間違った肩書きを記載したのである。仮に、被告が、個人的に「学堂」という名称や、原告のそれについての講釈を恥ずかしいと思ったにせよ、だからといって他人の肩書きをことさら違えて記載するなどという行為は、非礼この上なく、他人を侮辱する違法行為であることは明らかである。このようなことを平気で行ったうえ、さらにそのことを何ら反省することなく、堂々とホームベージで公表するとは、いかに被告が独善的であるかがわかるというものである。このような被告の態度からも、本件記事が専ら原告に対する誹謗中傷を目的にホームページに掲載されたものであることが強く推認されるのであって、到底、「専ら公益を図るため」に行われたケースに該当しないことは明らかである。

5 被告の反省の欠如と常習性
 被告は、本件行為のみならず、さまざまなところで、事実を十分確認することなく、意見ないし論評という形式を悪用して、自己の独善的理解に基づいて、他者を批判する言動を行っている。しかも、被告にはその違法性についての自覚が全く欠如している。このため、次々と、同様の名誉毀損を繰り返しており、その態様は極めて悪質である。
(1)被告がいかに事実を確認せず、自分勝手な思い込みで本件ホームページ記事を記載したかは、本件ホームページ記事に、原告以外にも2人から抗議又は間違いの指摘があったことにもよく現れている。
そのひとつがスチレンに関する記述に関するものであった(甲第10号証)。被告は「環境ホルモン問題では、企業も被害者と言っていい場面があった。その責任はとらなくていいのか?」との小見出しの下で、「一番明瞭なのは、カップラーメンのカップから環境ホルモンの一種スチレンダイマーとスチレントリマー(両者をスチレンと略す)が溶出するという問題であった」として、この物質が、カップラーメンのカップから溶出するとの報道(その元は被告の研究室の助手の実験結果であるとしている)で不買運動まで起き、15%も売り上げが落ちたが、最終的には、溶出もせず、ホルモン様活性もなく、SPEED’98のリストから外されたとし、スチレンをリストにのせることに荷担した学者や行政不買運動を呼びかけた市民運動に責任がある旨の記述をしていた(甲1の2枚目〜3枚目)。しかし、その記述には、重大な誤りがあることが国立医薬品食品衛生研究所の研究員である河村葉子氏から指摘されたのである。
 すなわち、甲第10号証から明らかなように、被告は、おそらく、スチレンダイマー及びスチレントリマーを、別の化合物であるスチレン(モノマー)と混同し、スチレンの溶出に関する自らの研究室助手による実験結果を、あたかもスチレンダイマー・スチレントリマーの溶出実験であるかのように記述したうえで、最終的に、溶出もせず、ホルモン様活性もなかったと断定しているのである。しかしながら、環境ホルモンの疑いがもたれていたのは、「スチレン(モノマー)」ではなく、「スチレンダイマー・スチレントリマー」であり、後者については、溶出しているとの実験結果が複数公表されており、ホルモン様活性を示す報告もいくつも発表されているのである。スチレン(モノマー)とスチレンダイマー・スチレントリマーを混同するなどということ自体、科学者としていかにもお粗末と言わざるを得ないが、事実をよく確認しないまま、安易に他者を批判するという態度は、およそ真理追究の徒である科学者にあるまじきものである。被告が、新聞報道のみではなく、スチレンダイマー・スチレントリマーの溶出実験結果を記載した原論文に目を通してさえいれば、また、ホルモン様活性に関する内外の論文を読んでさえいれば、このような誤った記載は容易に避けられたはずである(下線原告代理人)。「専門家や学者は、新聞やTVの記事ではなく、自分で読んで伝えてほしい。でなければ専門家でない」(下線原告代理人)という言葉は、被告にこそあてはまるというべきである。もし、被告に少しでも専門家としての自覚があるならば、自らの言動に恥じ入り、直ちに関係者に自らの過ちを詫びるべきではないか。
 さらに、被告の表現行為の問題性は、単に、原論文を読まず、新聞記事を鵜呑みにして情報発信したというだけにとどまらない。十分な確認をしないまま、誤った事実に基づいて、平気で他者を批判し、他者の名誉を傷つけるという点にこそ重大な問題がある。例え、被告が批判するように、学者が新聞記事をそのまま自己の主張として発表したとしても、当然のことながらそのような態度は学者としての評価に晒されるものであり、その結果、その学者の評価が低下したとしても、それは、自己責任の問題である。しかし、被告のように、原論文を読まずに、新聞記事を勝手に解釈して、誤った事実を前提にして他者を批判し、その結果、他者の社会的評価を低下させた場合は、単に表現者自身の自己責任だけではすまず、他者に甚大な被害を与えるのである。一旦、低下させられた評価を回復することは容易なことではない。だからこそ、法は、言論の自由に配慮しつつも、このような行為は他者の名誉を毀損する違法行為であるとして、厳に戒めているのである。
 いやしくも他者を公開のホームページ上で批判するのであれば、まず、自らが範を示すべきは当然であろう。自らの過ちを棚上げにして、居丈高に他者を批判するというのは、どうみてもフェアーな態度ではない。さらに、被告の過ちは客観的事実である(被告はのちに一部訂正記事を書いていることからも被告の間違いは明らかである)が、原告の過ちであると批判された事実(原論文も読まずに新聞記事をそのまま示した)は、単なる被告の一方的思い込みにすぎず、真実ではないのであるから、なおさら問題が多いのである。
 甲第10号証の抗議メールと、甲第3号証の抗議メールとは、ほぼ同時期に送信されているが、被告がこの2つの抗議メールをよく読んで、自已の行為を反省していれば、直ちに自らの過ちに気付いていたはずである。真に自己反省ができれば、「年度末の仕事に追われて時間が作れない」などという自分勝手な弁解などできるはずがない。直ちに自己の非を明らかにし、自らの軽率な過ちによって言われなき非難を浴びてしまった人々に対して、心から謝罪するとともに、誠心誠意、名誉回復措置を尽すのが、人間としての当然の反省の態度ではないだろうか。ところが、甲第2号証からもわかるように、被告は、本件記事をホームページから削除しただけで、多忙を理由に自己反省を先送りにし、自らが毀損した他者の名誉回復措置など一顧だにしないという態度なのである。あまりにも傲慢、不遜な態度と言わざるを得ない。
 このように被告がきちんと自己の行為を反省できないのは、被告には自らの表現行為がもつ量大な問題点についての自覚が全く欠如しているからである。このため、被告は、本件行為後も、次々と同じ過ちを繰り返しているのである。
(2)そのことは、被告が、本件訴訟の経過などについて自己のホームページに記載した記事内容をみてもよくわかる。
(ア)2005年4月12日,付雑感299の記事の「B.名誉毀損事件」(甲第11号証)の中で、被告は、

「4月3日(日)訴状を受け取った。原告は、京都大学地球環境学大学院地球環境学堂教授松井三郎さん。原告の弁護士には、環境ホルモン国民会議とか、ダイオキシン国民会議とかの幹部メンバーとして名前を見かける方が多く並んでいた。提訴されるというニュースに取り囲まれた時は、狐に鼻をつままれたような感じだったが、だんだん相手の姿が見えてきた。ああ、こういうものだったかというような感じで、背景がつかめてきた。じっくりと時間をかけて、丁寧に考えながら、静かに取り組んでいきたい。』(下線原告代理人)

と記載し、被告による名誉毀損行為に基づく損害賠償請求であるにもかかわらず、自らの不法行為はどこかに置いたまま、いかにも本件訴訟にダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議(以下・国民会議という)の意向が深く関わっているかのような記述をしている。しかしながら、原告代理人は国民会議のメンバーではあるが、国民会議はもともと158名の女性弁護士が呼びかけ人になって設立されたNGOで、弁護士の会員も約300名近くいる。その中の4名が、たまたま本件訴訟の原告代理人を受任したからといって、そのことから、本件訴訟が国民会議の意向で起こされたものと推論するのは、余りにも早計である。このような記述からも、被告の思い込みの激しさ、独善的傾向が窺える。ちなみに、もちろん、国民会議は本件訴訟とは何の関係もない。にもかかわらず、被告やその支援者達からこのような事実無根の風説を流布されて迷惑を蒙っているのである(甲第20号証)。
(イ)2005年4月28目付雑感301は、「名誉毀損事件(近況)」と題するタイトルが付けられて、被告の心境がつづられているが、その中で、被告は、またしても、

 「今回の提訴(松井三郎さんによる提訴)の内容は実に些細なことで、しかも私にすれば、何が悪いの?というようなことなので、…」(下線原告代理人)

と自己反省の欠如を露呈している(甲第12号証)。また、被告は、

「それでも、今回の裁判は、圧倒的に不安が少ない“軽い”例であることは間違いがない。と言うのは、事実が争われているのではないことが、本人には“軽い”ものになる。つまり、解釈の違いは、事実の違いよりは救いがあるということだろうか?なるほどそうだろうと、自分で自分の気持ちの深層に納得する。』(下線原省代理人)

などと記載している。しかしながら、本件訴訟の主たる争点が、摘示された事実が真実かどうかであることは、これまでの被告側の法的主張から明らかなのである.どうも、被告は「事実」という言葉は、実験データの科学的真実性だけを示すものと理解しているのではないかと思われるが、発言してもいないことをさも発言したかのように記載することや、原論文を読まずに新聞記事のみに基づいて主張したかのように記載する楊合においても、まさに「事実」の真実性が問題になるのである。上記の被告のホームページの記載は、被告のこうした「事実」の重みに対する認識の決定的な欠如をよく示すものである。このような認識の欠如が、事実をよく確認しないまま、次々と他者の名誉を侵害する行為を繰り返すことにつながっているのである。
(ウ)このように、問題の所在が理解できず、自己反省もできない被告は、ますます他者への攻撃を激化させ、やがては、根拠のない主観的な想像の世界へと駆り立てられていくのである。2005年5月24日付雑感304の「B.名誉毀損事件」の記事(甲第13号証)には、こうした被告の根拠のない主観的な想像がよく現れている。被告は、

「当初は、何か自分が書き過ぎたのかとか、言い過ぎたのかと思っていたが、自分の書いたものを反復して読み、益永さんはじめ多くが発表しておられることや、私のもとに届く激励のmail、FAX、手紙などを読むにつれ、この裁判は謀略だったのだという確信のようなものが、形成されてきた。」(下線原告代理人)

と記載している。自己の行為を客観化し、自己反省できないことが、いかに勝手な推論につながり、ついには根拠のない主観的な想像まで生むことになるかが、よく分かる。
さらに、被告は、こうした根拠のない主観的な想像に基づき、ますます一面的、独善的な思考の虜になっていくのである。同じ記事の中で、被告は、

「中西氏は、『環境ホルモン問題は終わった』と考えておられるようであるが」(原告代理人)〔原告代理人によるプレスリリース(乙6)の一文である〕とある。考えておられるようであるが、を提訴の理由にしている、恐ろしいことだ」(〔〕・原告代理人)

と記載している。言うまでもないことだが、原告は、「被告が環境ホルモン問題は終わったと考えていること」を理由に本件訴訟を提訴したものではない。原告は、被告による本件名誉毀損行為によって多大な被害を受けたにもかかわらず〜名誉回復措置が講じられていないことから、本件提訴に及んだものである。このことは、乙第6号証のプレスリリースの記載や訴状の記載を素直に読めば、すぐにわかることである。自分勝手な思い込みに基づいて平気で他者を批判し、その名誉を傷つけるという本件名誉毀損行為と共通する構造が、ここにもよく現れている。
 こうした被告の思い込みや根拠のない主観的な想像は、さらに、問題の本質から大きく外れたとんでもない方向の思考にまで発展していくのである。被告は、

『私にかけられているのは、ある種政治的な攻撃である。これに対して、私は戦う武器のようなものがあるだろうか?最近、このことを考えるようになった。』

と書き、その武器のようなものに関して、被告は、

『そういう、何か新しいものの見方、つまリ、従来のAという考え方を支持する人(A派)と、それに反対する反A派があったとき、そのどちらもが心の奥で共通に良いと思う心情、共通に認める事柄を探し出し、それを基盤に諭理を構成する切り口を見つけなければならない。』
 『益永さん達が書いていることは、非当事者としてのそれだと思う。私は、当事者としての、そういう切り口を探さねばならない。そう考えて立ち止まっていたのだが、第一回の口頭弁論を前にして、当事者としてそういう見方を出すことができるという気持ちになってきた。それは、新しい理論でなければならない。これは、今、自分に課している課題である。』(下線原告代理人)

と記載している。共通基盤から新しい論理を構成し、新たな理論につなげていくこと自体は、研究活動のあり方として結構なことだが、本件で問題になっているのは、そのような新たな理論でも何でもなく、被告が、事実を十分に確認しないまま、誤った事実を前提にして、反論が可能なシンポジウムの場や、直接のコミュニケーションの場ではなく、わざわざ一方的媒体である自己のホームページ上で、原告を批判し、その名誉を侵害した行為の是非についてなのである。このような記述は、自己の行為を客観化して自己反省できないことが、当人をどれほど誤った方向に導く結果となるか、その意味で、自己反省がいかに重要であるかを如実に示す例といえよう。
(エ)被告の過ちは、まだまだ続く。被告は、2005年6月7目付の雑感306で、「第1回口頭弁論の報告」と題して、以下のような記載をしている(甲第14号証)。

「原告側は中下祐子(ママ)さんのみ
驚いたことに、松井さん側での出席は中下祐子さんだけだった。松井さんも、その他の三人の弁護士、神山美智子さん、長沢美智子さん、中村晶子さんは来なかった。この期日は、松井さん側が指定してきたものである。したがって、被告側は都合が悪くて欠席ということもあるが、原告側が出席しないのはおかしいと思う。つまり、最初から出席する意志がないのだと思う」(下線原告代理人)

 しかし、通常、訴訟において、代理人が就いている事件では、代理人が出頭していれば本人に出頭義務がないことは言うまでもないことである。それを「おかしい」と非難する方が、明らかに非常識なのである。ところが、被告は、自らの非常識について何ら疑念を抱かず、さらに原告への謂れなき批判を、以下のように繰り返すのである。

「松井さんは横浜地裁に出てくるべきだ。是非、松井さんは出てきてほしい。
私を訴えているのだから。知らない人を訴えたのではない。長いつきあいの知人を訴えたのだから。
団体や、組織を訴えたのではない。生身の個人を訴えたのだから。礼儀としても出るべきだ。(下線原告代理人)

 原告本人に出頭義務がないことは既述のとおりである。代理人が選任されたケースで口頭弁論手続きに原告本人が出頭しないことが、訴えられた被告への礼儀を欠くなどという話を、原告代理人は聞いたことがない。被告特有の「常識」かも知れないが、世間一般では非常識も甚だしい。そもそも、被告は、不法行為を行ったとして訴えられているのである。その被告が、被害者である原告に対して謝罪も自己反省もしないでいながら、原告に対して、礼儀を持ち出して発言をすること自体、あまりにも非常識である。このような記述からも、被告の自己反省の欠如と、あまりにも独善的で自己中心の思考や思い込みの激しさが窺われるのである。
 被告の非合理的な非難はさらに続く。被告は、陳述書について、次のように記載している。

「代理人の中下祐子(ママ)弁瞳士によれば、松井さんの本人陳述書が出されるとのことである。
松井さんは、私の前で、自分の言葉で意見を言うべきだ。
私は、直接考えを聞きたい。
いや、直接聞かないと納得できない。
」(下線原告代理人)

 被告の方こそ、本件記事のような「意見」を、なぜシンポジウムの場や、直接のコミュニケーションの場で言わなかったのか。なぜ、わざわざ一方的媒体であるホームページ上で行ったのか。なぜ、抗議メールが送られたにもかかわらず、それを全文掲載しなかったのかこれらの問いに対しては、被告は一切返答していないのである。にもかかわらず、そのことは全部棚上げにして、このように、あたかも正論をかざすかのようにして他者を非難するのである。これは、被告の批判の仕方に共通する態度である。
 そもそも、原告は、法廷で証言をしないなどとは一言も言っていない。証人尋問に入る前に陳述書を提出することは、訴訟進行を円滑に進めるうえでもごく普通のことである。しかも、現在はまだそのような証人尋問の場ではなく、弁論手続きの段階である。多忙な当事者は、弁論手続きの訴訟進行は代理人に任せて出頭しないのが通常である。当事者本人が出頭したところで、特に発言等の機会がある訳ではなく、後に書面で反論することになるからである。現に、被告自身も、弁論手続きに出席はしていても、意見は代理人を通じて行っており、特に本人自身が意見を述べたことはないのである(訴訟手続上、当然のことである〉。
被告が、こうした裁判手続きに精通していないということも確かにあるだろう。しかし、他者を非難する以上、自分が精通してないのであれば、少なくとも詳しい人に聞いて事実を確認した上で、合理的理由を示して非難すべきではないか。被告には代理人も就いているのであるから、ちょっと確認すればこのよう記載にはならなかったはずである。言うまでもなく、批判というものは、常に他者の名誉を損う可能性を持っている。したがって、十分に前提事実の真実性を確認した上で、他者への批判を行うべきであるということは、科学者としても、人間としても、あまりにも当然のことである。
(オ)被告は、さらに、2005年7月5日付雑感309の「C.松井三郎さんによる損害賠償請求事件」の中で、

 「私の友人のところに、タイオキシン・環境ホルモン国民会議の代表立川涼さんの名前で、私の裁判について書かれた彼のホームページの記事に抗議し、さらに、謝罪とホームページの記事の削除を求めた内容証明付き文書が送られてきたとのことである。
この連絡を受けた時、丁度ソ連支配下の東欧での言論抑圧と秘密警察活動に関するTV報道を見ていた。ぞっとするような内容だった。ロシア・東欧の共産主義者も、最初は国民の生活と様々な権利(言論の自由など)を守るために、社会主義・共産主義国家を樹立していったに違いない。血を流して、国を作った。その国を守るために、社会主義を守るために、思想を守るために、という強い思いからであろう、批判者、反対者の言諭を封じこめ、弾圧していくようになる。やがて、全く思想の自由も、言論の自由もない社会になっていく。そして、最初の理想とは正反対の体制を作ることになった。結局、これと同じような動きをしているのではないか。」

と記載している(甲第15号証)。一般の読者がこの記事を読むと、いかにもダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議(以下国民会議という)が言論の自由を抑圧しているかのように理解するのではないだろうか。しかし、実は、事実は以下のとおりである。
 すなわち、被告の教え子でもある益永茂樹横浜国立大学教授が、自らのホームペ一ジ上に、2005年5月19目付「松井三郎氏の中西準子氏に対する名誉毀損訴訟を検証する(その4)本訴訟とダイオキシン・環境ホルモン国民会議」とのタイトルの下で、本件訴訟の4名の原告代理人弁護士が国民会議の役員を務めていることなどから、本件訴訟が国民会議の都合で提起されたかのような記事を掲載した(甲第19号証)。この記事に対して、国民会議は、原告代理人弁護士たちは個人的に松井教授から訴訟委任を受けたものであって、国民会議自身は本件訴訟と何らの関係もないこと、誤解を与えかねない本件ホームページ記事によって国民会議は多大な迷惑を受けていること、したがって、すみやかに本件記事の削除と謝罪を要求する旨の抗議を内容証明付き郵便で行ったものである(甲第20号証)。
 ところが、被告の上記ホームページの記事には、このような抗議の理由は何ら記載されていない。前述の最高裁判決の法理を本件に適用するならば、言論の自由の抑圧であるとの被告の批判の前提には、「国民会議が、合理的理由なく、本件訴訟について書かれたホームページの記事に対して抗議した」という事実が摘示されているものと解される。このような解釈は、被告のホームページの記事を見た読者の一人が、

 「口頭弁論の話をウェブに書くと、ダイオキシン・環境ホルモン国民会議の代表から抗議がくるらしい。」

と、これまた誤った記載をしている(甲第21号証)ことからも、一般の読者の読み方として当然の解釈といえよう。しかし、この前提事実が真実ではないことは甲第20号証の抗議文から明らかであって、このような被告の記述は国民会議に対する誹謗中傷に他ならない。
(カ)2005年7月20日付雑感310は、「第2回口頭弁論の報告」と題して裁判の様子や被告の感想が記載されている(甲第16号証)が、またしても被告の強い思い込みと、それに基づく他者への攻撃的態度が窺われる内容である。被告は、まず、

「−また中下裕子さんだけ−」

と記載したうえで、

「松井さんが来ないのは分かっていた。しかし、中下さん以外に一人くらい弁護士は来るかと思っていたのだが、中下さん以外は現れず。ひどいものだ。」(下線原告代理人)

と記載している。被告特有の自分勝手な思い込みに基づく非難・攻撃は、いよいよ原告本人にとどまらず、原告代理人たちにまで向けられるようになった。しかしながら、このような非難が、およそ合理的根拠のない誹謗中傷にすぎないことは言うまでもないことである。原告代理人が複数就いている訴訟であっても、代理人のうち1名が出頭していれば、訴訟手続きには影響はない。したがって、1名だけが出頭するというケースも弁論手続きでは珍しくない。複数代理人がいる場合、全員の都合を合わせて次回期日を決めようとすると、なかなか都合が合わず、期日が先になってしまい、裁判手続きの遅延化につながりかねない。このため、本件訴訟については、原告代理人としては、少なくとも弁論手続きにおいては、1名さえ出席可能であれば他が都合が悪くても期日を決めることにしていたのである。このような代理人の態度は、訴訟の迅速化に貢献するものと評価されこそすれ、何ら非難を受ける謂れはない。しかし、被告のホームページにこのように記載されると、欠席せざるを得なかった代理人は、あたかも「無責任でひどい弁護士である」かのような印象を読者に与えかねない。原告代理人としては、上記のような記事について、被告が速やかに訂正し、謝罪の意思をホームページ上に明記するよう要求するものである。
 このように、被告は、第1回目も第2回目も原告代理人は中下裕子だけしか出頭しなかったとして非難しているが、そうであるなら、かねてより被告が主張していた「本件訴訟はダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議らによる謀略である」との考え方に疑問を抱いてもよさそうなものである。そして、今一度、冷静に、自らの行為を客観化することができれば、自己反省もできたはずなのである。
 ところが、被告は、依然として自己反省ができないため、自己は正当化したまま、迷走を重ね、批判の矛先を自己の外へ外へと向け、さらなる名誉毀損を重ねていくのである。被告は、上記雑感の中で、さらに続けて、以下のように記載している。

「提訴の底流
今回の提訴に、ダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議の主要メンバーが関係していることは既に様々なところで指摘されているし、また、環境ホルモン研究者の多くが関係していることも分かる。
しかし、裁判所に出された松井さんの陳述や、私宛のe-mailを読むと、それだけでない、どろどろしたものを感ずる。政治的なもの以外に、松井さん本人の考え方が、この裁判の推進力の一つにはなっている。底流にそういうものがあると強く感ずる。
どういう底流かと言えば、“俺は偉い”という強い主張である。見方によってはどろどろとした、他の見方によれば実に子供っぽいものであるが、それがすごい。」(下線原告代理人)

 このような記述を読むと、はたして、これが、本当に「科学者」が書いた文章かと目を疑うものである。一体、どのような論理的経路を辿れば、このような結論が導き出せるのか、原告には想像だにできない。繰り返すが、原告が本件訴訟を提起したのは、被告が名誉毀損行為をしておきながら、自己反省もなく、原告に対する謝罪も名誉回復措置も、何ら講じようとしなかったからである。自己の違法行為を全て棚上げにして、よくもこのような非常識で、幼稚な、それこそ「実に子供っぽい」想像ができるものかと呆れ果ててしまう。自己を振り返って反省することができない被告は、責任を逃れようとするあまり、このような滑稽ともいえる醜態を演じてしまうのである。
さらに、そのことさえ自覚できない被告は、さらに見苦しい言い逃れを重ね、自己の醜態を晒し続けることになるだろう。自己を客観化して反省することができないということは、哀しいことである,被告の非常識かつ幼稚な言動は、さらに続く。被告は、地球環境学堂についても、以下のように記載している。

「学堂講釈
もちろん、この時の光景を私は鮮明に覚えている。学堂に関する松井さんの講釈を聞いていたのは、山形浩生さん、日垣隆さん、木下冨雄さん、吉川肇子さん、それに私である,京都大学が、この名前を付けるまで、長い長い議論があったこと。また、プラトンやアリストテレスなどの哲人の名前を引きながら、単に学問をやるのではない、高い教養と人格の融合を図るのだというようなことを、「一人で大声をあげて話していた。、多分10分以上もだと思う。
私はしばらく聞いた後、席を外し、その部屋の隅にいた環境省の職員と雑談を始めた。上の空で聞いていたのではない。恥ずかしいから逃げ出したのである。
そして、部屋を出るのではなく、隅で雑談を始めたのは、松井さんに止めて欲しいということを伝えたかったからである。私が席を外してからも、話はかなり続いた。」

 被告が、原告の肩書きをわざと間違えて本件記事に記載していたことは前述のとおりである。まさか、わざと間違えて書いたなどと思いもしない原告は、原告が被告の目の前で学堂に関する話をしていたにもかかわらず書き間違えたことを抗議する意味で、「上の空で聞いていたのですか?」と書き送ったのである。このことは、原告の陳述書にも記載されている。ところが、この記事を見ると、被告は、何と、学堂講釈をしっかりと覚えていたというのである。つまり、覚えていたが、自分は逃げ出すほど恥ずかしいと思ったからか、わざとその名称を表記しなかったのである。誠に思い上がりも甚だしい、失礼千万な話である。
 しかも、被告は、原告の肩書きの誤りを指摘されても、全く自己反省をするどころか、さらに、

「今回の陳述書にも「学堂」が現れた。「プラトンとアリストテレスを描いたラファエロの名画『アテナイ学堂』」ということが、この裁判でどういう意味を持つのか。まさかとは思うが、プラトンとアリストテレスにちなんで名付けられた「学堂」の教授だから、俺は偉いのだぞ、俺に文句を言う奴は誰も許さん、と考えているかのように受け取れる。
それにしても、シンポジウムの会場ではなく、その前の雑談で「上の空だったのでは?」として非難するのもひどい勘違いだ。自分が悪いとは思わないものだろうか?先にも書いたように、私は上の空ではなく、真剣に聞いたがために逃げ出したのだが。(下線原告代理人)

と記載しているのである。被告は、自分が何を書いているのかを理解しているのだろうか。原告が「上の空だったのでは?」と指摘したのは、被告が本件記事において原告の肩書きを間違えて記載していたからである。自らの過ちはどこ吹く風で、「それにしても、シンポジウムの会場ではなく、その前の雑談で『上の空だったのでは?』として非難するのもひどい勘違いだ。自分が悪いとは思わないものだろうか?」などと原告を非難するというのは、一体、被告はどのような神経の持ち主なのだろうか。そもそも、何が原告の「勘違い」で、なぜ、原告が悪いと思わなければならないのか。被告の文章は論旨不明である。
 さらに、被告は、このような論旨不明の独自の論理に基づいて、以下のような、原告に対するさらなる名誉毀損を重ねているのである。

「30年くらい前には、こういう教授がいたように思う。「パスカルはね」とか、「デカルトはね」とか、そうそう、二言目には「マルクスは」という方もおられた。そういう、愛すべき事大主義者の教授でも、自分の話を「上の空」で聞いていたようだから、名誉毀損で訴えるという話は聞いたことがない。
こういう裁判に付き合わされている。
」(下線原告代理人〉

 このような記載は、原告に対する名誉毀損も甚だしい。一体、いつ、原告が、「自分の話を『上の空』で聞いていたようだから、名誉毀損で訴え」たというのか。被告は、訴状も、準備書面も、原告の陳述書も、目を通しているはずである。どこにこのような記載があるのか、明らかにしてもらいたい。
 これらの書面を読みさえすれば、原告の本件請求がいかなる事実に基づくものかは容易に理解できるはずである。繰り返すが、原告は、訴状記載の本件記事が名誉毀損に該当すると主張しているのであって、決して被告が「上の空」で聞いていたようだから、名誉毀損で訴えている訳ではない。そんなこと(上の空で聞いていたようであること)が名誉毀損にあたるはずもないことは、常識的にもわかるはずである。もし、被告が理解できなければ、代理人弁護士に聞けばよいことである。訴状も十分に読みもせず、ないしは理解できないことを他人に聞くなどして確認することもせず、ただ自分勝手な思い込みに基づいて他者を非難するというのは、まさに本件名誉毀損行為やこれまで指摘した数々の被告の問題行為と共通の構造を有する不法行為に他ならない。このことからも、いかに被告が名誉毀損行為を繰り返しているかがわかるというものである。
 さらに言うならば、被告のような高学歴の著名な研究者が、このような簡単なことが理解できないはずがないのである。むしろ、被告は、原告の訴えがこのような理由からではないことを知りながら、わざと、このような記載をして、さも本件訴訟が根拠のないものであるかのように、不特定多数の読者にアピールしようとしたのではないかと思わざるを得ない。だとしたら被告は相当に悪質であると言わざるを得ない。
 そもそも、被告は、なぜ、このような本件訴訟に対する反論とでも言うべきものを、自己のホームページ上で行っているのか。反論があれば、準備書面で展開すればよいはずである。もっとも、上記記載のような反論は、いくら書いてくれと被告から頼まれても、さすがに代理人弁護士は記載しないだろう。もしかしたら、準備書面には書けないことだから、被告は自己のホームページに記載したのだろうか。もし、そうだとしたら、それは極めてアンフェアーで、卑怯なやり方であると言わざるを得ない。
(キ)原告が、本件謝罪広告を環境ホルモン学会のニュースレターへ掲載することを求めていることは訴状記載のとおりであり、この点について原告代理人が提出した上申書について、被告は、2005年8月3日付雑感312の「B.損害賠償請求事件(京都大学地球環境学大学院地球環境学堂教授松井三郎さんから提訴された損害賠償請求事件)」の中で、

「では、なぜ、環境ホルモン学会の会員ニュースに謝罪文を掲載せよと要求するのだろうか?(私のホームページに加えて)もちろん憶測の域は出ないが、二つの意味があるような気がしている。
一つは、裁判所に、この訴訟は学会が支援しているのですよということを示すこと。
もう一つは、あれですね。時代劇などであるじゃないですか。村に迷惑をかけた罪人が縄を掛けられただけで満足せず、村の中を引き回す、土下座させる、皆が石を投げる。上申書を見て、ぞっとした。」

と記載している(甲第17号証)。しかしながら、原告が環境ホルモン学会の機関誌への謝罪広告の掲載を求めたのは、原告の研究分野、特に環境ホルモンの研究者たちに、原告が「環境ホルモンは終わった。次はナノ粒子の有害性だ」という旨の発言をし、ナノ粒子の有害性を主張するために、原論文も読まずに新聞記事のみを示したという本件記事が、いかに事実に反するものであるかということを、本件謝罪広告を掲載して知らせることによって、原告の名誉回復を図るためである。このことは、訴状にも記載してあるとおりである。にもかかわらず、被告は、またしても、訴状をよく読まずに、「憶測の域を出ない」との前書きの下に、上記のような、どのような事実からそんな憶測ができるのかと疑わざるを得ないような、独善的な思い込みに基づく記述をしているのである。このような記述は、原告はもとより、環境ホルモン学会の信用にもかかわる極めて問題のあるものであると言わざるを得ない。
 もちろん、原告は、環境ホルモン学会に対して、本件訴訟の支援を依頼したことなど一切ないし、当然のことながら、環境ホルモン学会が支援した事実もない。そもそも、学会が、学会自身の名誉が毀損された揚合であれば格別、例え副会長であれ、一会員の名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟を支援するなどということは、常識的にも考えられないことである。しかし、前述のとおり、どうも被告には、世の中の常識が全く通用しないようである。被告が非常識で、独善的な推測をするのは自由であるが、それを、さも正当な推測であるかのように公開のホームページで書かれると、その風評が流布され、名指しで非難の対象とされた者は多大な迷惑を蒙るのである。現に、この記事に基づいて、環境ホルモン学会に対していくつか質問が寄せられたため、環境ホルモン学会は、それに対する回答をホームページ上で表明せざるを得なくなったのである(甲第1、8号証の1・2)。
(3)さらに、被告の答弁書の「新聞は、往々にして、ニュース性のあるものを優先して、しかも刺激的な見出しを付けて掲載するのであるから、・・・」との主張自体も、極めて一面的な被告の見方に基づくものであって、新聞報道関係者に対するいわれなき批判と言わざるを得ないことは、原告の準備書面(1)で指摘したとおりである。そうした事実に基づかない批判は、意見の形式を用いていたとしても、本件と同様、事実の摘示による名誉毀損を構成するものと解される。
(4)これまで詳しく検証してきたように、被告のやり方は、いずれも、意見ないし論評の形式を用いてはいるが、黙示的に、自己の一方的な思い込み、憶測、ないしは根拠のない主観的な想像に基づく真実ではない事実(一部事実ではあっても、重要な点において真実ではない場合を含む)を摘示し、その真実でない前提事実に基づいて他者を批判することによって、相手の社会的評価を低下させるというもので、巧妙かつ悪質なやり方であると言わざると得ない。もちろん、本件名誉毀損行為も、それと共通している。
 こうした行為は、いずれも被告が自らの表現行為の問題性を認識できていないことから発生している。つまり、被告は、自己の行為を客観化することさえできないのである。自己の行為を客観化することができなければ、自己の非を認めて反省することができない。自己を反省することができなければ自己責任を逃れようとするあまり、攻撃の矛先が再び他者へと向かうことになる。こうして被告は、これまで縷々述べたように、次々と同じ過ちを繰り返しているのである。
 さらに、被告は、およそ科学者らしからぬ、極めて独善的で自己中心的な、思い込みの激しい人間であると言わざるを得ない。それは、前述のホームページ記事の内容にもよく現れている。被告が自己反省できなければ、被告は、今後も、意見ないし論評の形式を借りながら、一方的な思い込みに基づいて、誤った事実を前提に、自己のホームページ上で他者を一方的に批判し、その名誉を侵害するという行為を繰り返すに違いない。こうした一方的な名誉毀損は、まさに「言葉の暴力」に他ならない。そのことを自覚さえできない被告は、このような言葉の暴力を繰り返しているのである。このように、本件名誉毀損行為には常習性があり、極めて悪質であると言わざるを得ない。

以上