パーソナルツール
現在位置: 科学とニセ科学 / ニセ科学についての議論 / ニセ科学の定義と判定について考える
 

ニセ科学の定義と判定について考える

旧blogの記事だが、消えてしまっているようなので再投稿する。戴いたコメントも編集して載せた。

 目下のところ、「ニセ科学」の定義としては、

(1)科学を装う

(2)科学でない

の2つを同時に満たすものとしている。

 ところが、この2つの条件を満たしているかどうかを判定するとき、(1)と(2)ではかなり異なった基準を用いることになる。ニセ科学批判やその批判をめぐる混乱は、全く違う基準が必要であることがうまく認識されていない、あるいは意図的な混同がなされているからではないかと考えたので、少しまとめてみる。もっと私の考察が進めばより洗練されるかもしれないし、訂正が必要になったりするかもしれないので、これは暫定版である。

 

 従来の科学哲学や擬似科学批判に馴染みが深いのは(2)の方である。実は、(2)の一般的な基準を立てるのはとてつもなく難しい。一般的な意味で(2)を厳密に判定するには、「科学とは何か」ということについてまず合意を得なければならないが、これについては未だに成功していない。一般論として(2)の基準について議論するのは、メタな内容で議論ぽい議論ができるという点では魅力的かもしれないが、科学の専門家が参加したとしても得るものはおそらく少ない。

 ところが、個別の具体的な科学っぽい主張についてであれば、多少理科の素養のある人から科学の専門家まで、何が科学として間違っているかを指摘することができる。間違いがどの程度であるかを評価する時には、基準として使った科学の内容の確定の度合いによって差が生じるので、必ずグレーゾーンが存在する。それでも、ある狭い内容の主張を受け入れた場合に、ほぼ確定した科学の内容を広範囲に否定する結果が生じ、かつその否定部分についての合理的な代替案が全く提供されない場合には、その狭い主張は科学として間違いと断言しても差し支えない。ある主張を支えている根拠やその立証課程に、大きな間違いが含まれている場合や、通常の科学で行われる手続きを無視している場合も、科学でないと判断することになる。

 

 (1)を判断するときは、自然科学の素養ではなく、むしろ法律の素養の方が必要になる。

 「装う」相手が科学の専門家だとした場合、装う行為のほとんど全てが只の間違いと判定されてしまうに違いない。科学のプロの前で「科学を装う」のは、かなり難しい(あまりに手が込んでいると捏造になるが……)。専門家ではない一般人の通常の受け止め方に対して「装う」のだと考えないと、定義として意味をなさない。

 次に、何をどこまでしたら「装う」に該当するのかということが問題となる。これは、通常人の常識で見ると科学(あるいは科学的根拠がある)と誤認することがある、という程度で足りる。「装う」の具体的内容が、社会にどのように受容されているかということも判断の際に考慮する。この判断をするのに参考となる基準は、例えば、公正取引委員会がどのような表示を優良誤認と判断したか、薬事法でどんな表示を規制しているか、といったものになる。客観的証拠があるかのように装っていたが根拠がなかった、というケースが蓄積されているからである。

 

 ある特定の言説を「ニセ科学」に分類するときには、その言説の内容が単に科学的に間違っているというだけではなく、人を騙すものであるという要素を必要とする。「装う」という条件を入れることで、単なる「非科学」ではなく敢えて「ニセ科学」と呼ぶことにしたのは、「人を騙すのはよくないことである」という、より一般的な倫理的価値基準の存在を背景としているからである。正規品のフリをして人を騙すものを、ニセ札、ニセブランド品などと呼ぶのであるから、それと同様にニセ科学と呼ぶだけのことである。科学だからといって特別扱いしなければならない理由はどこにもない。また、たまたま騙されなかった人が居るからといって、ニセに分類しない理由にはならないのも、他のニセモノの場合と同じである。

 

 法律の適用のあり方を参考にして分類するのであるから、(1)(2)を満たすものを、まずは原則として「ニセ科学」と呼ぶべきである。(2)の判定結果が、科学として間違っているか、まだ科学になっていない(未科学)であるにもかかわらず、科学であるかのように装ったものがニセ科学ということになる。その上で、分類にあてはまらないものについては、個別に「装う」の態様に応じて、「○○はニセ科学ではない、その理由は××だからである」のように、例外として定めればよい。個別の態様に応じて判断、というのは、もともと科学としてグレーゾーンで、「装う」ことによる科学の現状からのズレが軽微なものである場合も考えられるからで、つまりは程度問題ということである。

 

 ここまで考えると、ニセ科学について考える時に陥りやすい間違いとその対策が見えてくる。

◆(1)(2)は全く違う基準であるので、(2)の基準で主に使われる自然科学的判定基準でもって(1)を定めようとしてはいけない。逆も同様。

◆(2)の一般論に踏み込んでも労多くして実りは少ない。今の段階では、個別の言説について検討する以上のことはできない。

◆ある言説がニセ科学になるかどうかを考えるにあたって、同じカテゴリーにニセ科学とは呼べない例外が存在するからという理由で、その言説をニセ科学に分類することを妨げてはならない。例外であることの立証は、それを主張する側が行う(これは科学の基準ではなく、法律の運用の一般原則である)。例外の存在で判定を覆せると勘違いしている人を時々見かけるが、原則を定めた上で例外を例示列挙しようとしているのだから、そんな議論は無意味である。

◆言説をニセ科学に分類することが科学かどうかなどという議論にも意味はない。(2)は科学を適用して判断、(1)はむしろ法的判断に近いセンスが必要とされる。

◆原則と例外を同じウェイトで扱おうとする議論は、いずれにしてもミスリーディングである。

◆その言説を主張する人の故意・過失は問わない。

 

 モノが科学であろうが別の何かの商品であろうが、ニセ物や粗悪品が流通して被害を受けるのは、いつだって正規品の提供元とユーザーである。

 

 科学の方では一応専門家、法律は素人だがそれなりに独学した経験から言うと、科学の判定基準と法的判定基準は、アプローチの仕方が相当に異なるというか、むしろ完全に別世界である。自然科学的な意味での定義と、原則を決めて例外を例示列挙というやり方は相容れない。(1)(2)をきちんと考えようとすると、全く違うものの見方が同時に必要になる。多分片方だけではうまくいかない。(2)があるから自然科学的な定義だけ考えれば済むのだろうなどと思っていると、議論も結論も間違えることになる。

 

 まだうまく説明できないが、ニセ科学関連の議論をするときに、科学に対する過剰な思い入れや思いこみが思考の邪魔をしていることがあるように見える。理由がよく分からないのだが……。ニセ札、ニセブランド品、ニセ科学、などと同じ種類のものとして並べてみると少しは違った印象になるかもしれないが、どうだろう。

 

 

【追記】

 元々人を騙す性質をもっているニセ科学言説を、人を騙さない形で提示するのは難しい。「この話はネタです」「科学ではありません」程度の注意喚起をしただけではとても足りない。

 例えば、「水からの伝言」について。私は、教養教育で180人程度を相手に、信じさせないやり方で話をしている。まず、氷の結晶多型やら中谷ダイヤグラムやら雪結晶の写真やらを見せて科学の方の説明したあとで、実はこんな話が……と水伝を提示し、続いて何がどうおかしいかを指摘している。ここまでやっても、1人か2人は、言葉で結晶が変わるという話の方を信じたらしいコメントを出してくる。教師をからかっているのならまだ良いのだが……。現実問題として、水伝の話を使って初等中等教育で授業をして、話を聞いた生徒全員に内容を信じさせないようにするのはほとんど不可能だろう。

【追記その2】

 きくちさんやたざきさんは、水伝が道徳教育で使われたということがきっかけで積極的に批判するようになったように見える。私個人についていえば、授業とは関係なく、もっと前から水伝は科学ではないことを指摘していた。浄水器や活水器の宣伝に登場したからである。科学と一緒に並べて宣伝に使うということがなされているのだから、水伝はニセ科学、と言ってもかまわない。直前の追記で書いたような、「ニセであることを説明する例として使う場合に限り、水伝の内容を紹介してもニセ科学ではない」と例外として扱えばよい。水伝の背後にあるのが、「水に"波動"を記憶させることができる」というオカルトであり、そのオカルトがもっともらしい「波動転写装置」として科学的根拠があるかのように装って販売され(「現代の科学が追いついていないだけで科学の仲間である」ことをわざわざ示して)、消費者被害を発生させているのだから、思想的背景がオカルトであるという理由をもって、ニセ科学に入れないという理由にはならない。

 


ひろのぶ

その定義を読んでいると、ニセ科学というより、ウソ科学といったほうが言葉としてしっくりくる。あと病的科学を進めている科学者のおかげで、ずいぶんニセ科学も楽をして科学のフリができるような気がする。


apj

ひろのぶさん、

 「ウソ科学」とまで言ってしまうと、科学を装う部分に故意が必要になりそうだけど、故意があるかどうかの立証は大変だから、「装う」という外見だけでもって判断し、呼称も「ニセ科学」にとどめておいた方が良いかと。

ひろのぶ

そうなんだろうけど、天然ボケでそこまで上手な「ニセ」は作れないでしょ。チンパンジーがタイプライターをでたらめに打ってシェークスピアをつくり出さないのと同じで。

apj

最初に言説を作った人には故意があっても、その言説を素で信じてひろめちゃってる人の方は過失だって場合があるから。

 やりたいことは言説自体の評価なので、主張してる人の故意・過失は問わないわけで。

apj

ふじさん、

>ニセ科学批判を安易にやると却ってそのニセ科学を信じる人が出てくるということだと、有効な批判は非常に難しい作業ですね

 

 ですね。多分、簡単な注意書きや但し書きでは済まない。

でも、繰り返し批判することによって、うっかりさんにも正しい情報が伝わっていくだろうから、方法の改良は必要だけど、批判することそのものについてはあきらめない方が良いかと。

TAKESAN

今晩は。

 

ひろのぶさん

 >そうなんだろうけど、天然ボケでそこまで上手な

 >「ニセ」は作れないでしょ。

これって、受け取る側の知識とか認識力に、かなりの程度依存しますよね。

ゲーム脳なんかは、明らかにおかしい説ですが、そこに気付かない人は多くいる訳で。で、主唱者は本気っぽいんですよね。明らかに、科学的に妥当な説であると信じ切っている風です。もちろん、断定は出来ませんけれど。

 

apjさんが仰るように、「ウソ科学」だと、故意であるという意味が含まれてしまうので、ちょっとニュアンスが出てくる気がします。

技術開発者

こんにちは、apjさん。かなりすっきりとまとめられたと思います。

 

私は悪徳商法批判などをしていました。そんな中で「社会ルールのリテラシーの衰弱」ということをずっと感じていたわけです。悪徳商法にひっかかる人の理解不足なんてのは当然のことなので驚きも嘆きもしないわけですが、「自分は社会ルールをわきまえている」と思い上がっている普通の人のなんと社会ルールに対する理解が乏しいことかと嘆いていたわけです。

 

たとえば、TVのバラエティ番組の身の上相談で「親の借金を働いて返したの、それは偉いねぇ」なんて平気で言う。何が偉いものか、家族の別財産制度を崩しているだけのことではないか。家族の別産制度を作り上げるのにどれほどの社会的思索が積み重ねられてきたのか、それを崩してもかまわないという思索の果てに「偉いね」と言っているのか・・・とかね。

 

理解されていないことを挙げると

 

「ローンだけが残りました」と泣く被害者の映像で終わるニュース特番。割賦販売法に「抗弁権の接続」という規定を入れるためにどれほどの努力がなされていようと、TV番組は「絵になる」とここで終わりたがる。

 

「被害者にも非がある」と気楽にのたまうコメンテーター。非のない被害者なんているものか。ただ「責任は分割され、割り振られる」だけの話にすぎない。当てられの交通事故だって走っていれば2割が相場だ。この分割と割り振りをきちんと言ってくれ。

 

それ以外にも、民事と刑事の区別がつかない人もたくさんいる訳です。時々、「テメエら法治国家に生きる資格なんてない」と叫びだしたくなるような焦燥感に駆られたりしたものです。

apj

 主張する人の故意・過失を問わない、というのを入れてみました。

酔うぞ

やはり被害の程度によって判断するしかないですよねぇ。

 

主張するのは勝手というか止めることが出来ないし、故意も過失も無いわけで、それが科学的であることも言い方としては無くならない。

 

個人的には「科学的宗教」なんてのはどうにかならないかとは思ってますが・・・・。

 

だから、「ニセ科学に関わる発言」が出てくること自体を止めることが出来ないのだから、「ニセ科学発言の被害(の可能性を含む)」を評価」するしかないと思うのです。

 

で「被害とは何か?」ですが、これは「質×量」という面積で考えるべきなのだろう倒思っています。

 

質的に究めて深刻なニセ(科学)情報が少数出てきた場合と、質的にはあまり大したことではないけど、極めて広範囲に流布された場合、はどちらも重大な問題である、と考えようという意味です。

 

水伝は、質的に深刻な問題、学校で取り上げるという広範囲にバラ撒かれた、極めて深刻な事例と評価することが出来ます。

 

ちょっと例として限定して示しますが、工作機械用の切削液の清浄化のために「遠赤外線放射セラミック」というのが15年ぐらい前にありました。

これは話としてはどう考えても大嘘ですが、効果は無いのだから被害も無いわけで、元々工作機械の切削液という極端に限定的な範囲にしか影響しない。

これは、質も量も極めて小さくニセ科学問題というよりもトンデモグッズに近いでしょう。

 

というわけで「被害の発生あるいは発生する可能性」を評価するしかないと思うのです。

newKamer

> 「被害の発生あるいは発生する可能性」を評価するしかない

 

 いや、敢えてそういった(混乱を招く)価値判断を持ち込む必要はないんじゃないでしょうか。批判をするかしないかという"個人的な"基準にそういったものを持ち込むのは大変結構なことだと思いますが、被害がないからといって批判しないと決める必要もないと思います。

 ましてや、「ニセ科学である」という判断基準に被害の程度などという曖昧な基準を持ち込むのは害悪だと思います。

 

 主張するのも自由(当然、責任を伴うが)、批判するのも自由。優先度は個々の人間が自分の都合でやるということで、被害の程度は今回の場合関係ないと思います。

 

-----

 むしかえしますが、私は今回のエントリのような、比較的明確な基準をもってしても「温泉もニセ科学」といえると思います。温泉の効能書きは優良誤認のレベルの主張が認められていると考えるためです。なんらかの機関がその表示を認めているかいないかは、ニセ科学性の判断とは別問題であるということも含めて主張します。

酔うぞ

ニセ科学かどうかを白黒付けるのは有馬意味がないと考えています。

というよりも「科学的にシロクロが付かない」というのは避けることが出来ない。

分からないから研究している、実験しているというのは幾らでもあるし、それが新しい用途の発見になった例はたくさんあります。

 

あ、わたしは「ニセ科学」という表現の中には「ニセ技術」も含めています。

「技術的に間違っている」というがひっくり返った例も、正しい技術展順だとされていたのが実は副次的な効果の産物であった、なんて例もたくさんあります。

 

第一技術的難関が何によって生じているのかは分からないから、打破できないのがほとんどで、理由は分かっているが打破できないというのは随分と研究が進んだ結果です。

その段階までは「誠にアイマイで、オマジナイでもするか」なんて異なる。

 

つまりは絶対的な評価は出来ない。

絶対的な評価は本質的に「過去の見解」なのだから、それ自体が進歩という観点から危険な要素を含んでいる、と謙虚に新たな発表を見ることは必要でしょう。

 

その上で「これは以前からある問題だ」と指摘するのも当然で、特許では永久機関の発明は受け付けられない。

 

こうして考えてみると、わたしはnewKamerさんとは全く逆で「ニセ科学性が独立して存在するとは考えない」となりますね。

TAKESAN

今日は。

 

apjさん

 >1人か2人は、言葉で結晶が変わるという話の方を信

 >じたしいコメントを出してくる。

この学生さんに、「どういう過程で信じたの?」と訊いてみたいですねえ。まず科学の説明をしたにも拘わらず、水伝的なものを信じてしまった、って事は、科学の説明は全然聞いていなくて、言葉が影響を与えるという所だけ切り取ってしまったのか…。もし最初の説明を聞いていたとして、じゃあ、何でそれを聞いたのに、明らかにそれとは相容れない水伝を信じたのだろう、とか。

 

------

 

ちょっと酔うぞさんにお伺いしたいのですが。

 >というわけで「被害の発生あるいは発生する可能性」

 >を評価

これって、”「ニセ科学である」と判断する”基準とする、という意味なのでしょうか。それとも、ニセ科学の中でも重要なものであると判断する、という事についての基準、なのでしょうか。

ちょっと読み取れなかったもので…。

 

------

 

私自身の、ニセ科学についての認識は、newKamerさんが書かれている事に近いかな、と思っています。

TAKESAN

あ、すみません。上の私のコメントは、酔うぞさんのコメントを読む前に書きました。

apj

酔うぞさん、

 グレーゾーンがあることは織り込み済みです。

ただ、グレーといっても殆ど黒から殆ど白まで幅があって、ほとんど黒のものについてはニセだと言ってもかまわないでしょう。

 

 発展途上の技術はあくまでも発展途上の技術ですが、技術効果の確認が科学的手順を踏んでいるのならば、メカニズムが不明でも利用することには何ら問題がない。

 ところが、その際に「科学的原理はわかっていて実はこうだ」などと、解っていないことを解ったかのように言えば、その部分についてはニセ科学と言われても仕方がないでしょう。また、もっとインチキなケースで、効果の確認を怠っているのに、「効果の確認は科学的手法でやりました」などと言うと、やっぱりニセと呼ぶしかない。

 

 解らないから研究しているというのは、普通の科学の営みです。ただ、解らないから研究している途中なのに、ウソの理屈を付けてさも解決済みであるかのように装うとやっぱりニセになる。

newKamerj

> 分からないから研究している、実験しているというのは幾らでもあるし、それが新しい用途の発見になった例はたくさんあります。

 

 コレに関しては、「ニセ科学批判」批判のFAQとして言及されてもいいぐらいの話で、簡単に言えば「未科学とニセ科学は違います」ということになります。酔うぞさんの想定しているのは未科学に分類されます。

#さらに病的科学という専門用語もあって、これもまた異なる概念です

 

 また、このエントリでも触れられているように、線引き問題は既に議論の対象になっています。今のところの結論は、詳しく知りたい場合は『疑似科学と科学の哲学』伊勢田 哲治著を読んでくださいというのが最も適切かと。

heisan

よくまとまった解説をありがとうございます。

 

> まだうまく説明できないが、

 

もう十分うまく説明されているかと(^^)。

 

> ニセ科学関連の議論をするときに、科学に対する過剰な思い入れや思いこみが思考の邪魔をしていることがあるように見える。

 

その通りですね。

 

> 理由がよく分からないのだが……。

 

自分が長年やってきたことに対する愛着,でしょう。

 

 

> 元々人を騙す性質をもっているニセ科学言説を、人を騙さない形で提示するのは難しい。

 

「科学」と「非科学」の境界を決めるのが難しいのと同じくらい,「騙した」「騙してない」の境界を決めることもまた難しい。

 

> 「この話はネタです」「科学ではありません」程度の注意喚起をしただけではとても足りない。

 

「私たちはあなたを決して騙しません」と書いてあればいいのですけれどね(笑

(「騙すつもりはありません」だと,「いやいや,あれは過失でして……」という具合に,逃げ道を用意していることになる。)

草葉の陰のスピノザ

「1人か2人は、言葉で結晶が変わるという話の方を信じたらしいコメントを出してくる。教師をからかっているのならまだ良いのだが……。」

なんとなく・・・・・そのご主張には、

科学ファシズムのにおいがするのですが。

学生がからかっているわけがありますまいに。

本気にきまってますよ[:かえる:]www。

科学ファシズムの雰囲気で答えありきの講義をされて、

単位の”おどし”(失礼)がある中で、

どうして学生がほんとうのことを言えましょうかね?

失礼ながら、分析があまい気がしてなりません[:ふぐ:]。

apj

>> 理由がよく分からないのだが……。

>自分が長年やってきたことに対する愛着,でしょう。

 

 それでも科学を特別扱いする理由にならないんですよね。

ニセ札、ニセブランド品、ニセ科学、と並列に並ぶ話に過ぎないわけで。

 

草葉の陰のスピノザさん、

 

>科学ファシズムの雰囲気

 こういうのが認識不足の典型例でして。

 ニセヴィトンバッグはけしからんと言ったとしてブランド品ファシズムとは普通言わないのに、なぜ科学だとファシズムが付くのか、おかしいですよね。

katsuya

ニセ科学の特徴付けについて言えば、菊池誠さんも「科学であるかのように装っているが、実は科学とはよべないもの」と規定されています(例:日本物理学会2006年年会「ニセ科学とどう向き合っていくか」)ので、字義上はapjさんの定義とほぼ同じだと思います。

 

apjさんの言葉を採用するなら、「科学でないのに、科学を装う」という短い形になるかと思いますが、「科学でない」とは独立に「科学を装う」というところの判断の基準を強調されたいのが趣旨だと受け止めています。

 

ところが、「科学を装う」という部分は、意図的な場合(本人が「信じていない」場合)を除けば、主張者が「科学である」と信じている(錯誤している)ことの自然な帰結なので、主張者でない中立的な立場の者から見た「科学でない」という判断が要請されると思います。

 

そうなると結局のところ、社会的に「科学の権威」と認知される専門家(結局のところ科学者)が、「科学でない」と判断しているというのが、基準に成らざるを得ないと考えます。

(具体例としてアーカンソー州授業時間均等法裁判などを念頭においています)

 

ですので、多くの議論が「科学でない」という判断に関するものに集中しがちに成るのは、それが争点であるが故に仕方のないことだと思います。

 

私としてはむしろ、「科学でない」という判定を哲学的なメタな議論ではなく、実際の科学者集団がどのような判断をしているかという(社会学的な)認知を基盤とする、ように議論を形成すべきだと思うのです。

 

あまりまとまりませんがご参考まで。

Kaey

↑真摯で興味深い議論が展開されていますが、こんなに一所懸命な議論の一方で、ニセ科学利用者は問題の核心とは違うところで活動しているように思えます。

ある信念を持って本気でニセ科学を信じていたり主張していたりする人々を別にすると、社会的悪影響を及ぼしたり、害悪を生み出していたりする人々の活動には、「利益」や「欲」が絡んでいると思います。

ニセ科学を利用して詐欺を働く人はその典型です。

また、本人に悪気がなくても、ニセ科学を信じて利用し、結果的にインチキ商品を売ってしまう人もいます。

「ニセ科学批判」は純粋な科学論に留まらず、むしろ、詐欺的な社会悪と関わらざるを得なくなったところに、批判者の困難があると思います。

 

詐欺に引っかかる危険は、「欲」らしいですね。金銭的その他の卑俗な欲は、科学も曇らすと言うことです。

apj

katsuyaさん、

 故意が無い場合でも、「信じている」まではいかなくて、「考えるのが面倒だから出回っている説をコピーして使う」というのもありそうです。

 

 それはともかく、哲学的なメタな議論では得るものがなさそうなので、私がこれまでに言及した中から少し例を挙げてみます。

・マイナスイオン:物質が何かわからないから、そもそも科学を使って調べようがない。電荷だけを問題にすることにしても、発生方法が全く違うものを一緒くたにしたのでは話が始まらない。

・水からの伝言:水蒸気からの結晶成長はナカヤ・ダイヤグラムで解決済み。江本氏の実験の精度は著しく悪い(温度や湿度の制御ができないやり方で、偶然に頼った写真の撮り方をしている)。水が言葉を理解するということを採用すると、今まで積み重ねて来た科学の広範囲な否定になるが、代わりのものはない。江本氏自身はポエムだと言ってる上、イメージにあった写真を選んでいるとも書いている(つまり江本氏の表現活動ではあるが、科学ではない)。

・「波動」:説明に使われている量子力学の説明が間違っている。今の科学ではわからないはずなのに測定器がある不思議。

・水のクラスター:言い出しっぺがNMRの測定方法を誤解していた。

・磁石で水を活性化:「活性化」が本来の科学用語とは明らかに別の意味になっているし、水は反磁性体で、反磁性磁化率は小さいので、磁場の影響が後まで残るメカニズムが無い。他のさまざまな実験もそれを裏付けている。

・遠赤外線を出すセラミックス:ヒーターは別として、室温で勝手に遠赤外線を出しまくることはない。周りの環境と一定以上の温度差が無いと、輻射の源にはならない。熱の伝わり方の問題。

 

 個別に実験で確認済みのことと照らし合わせるとはっきり間違いだったり、科学の手続きにのせる以前で止まってたり……。

apj

Kaeyさん、

 欲だけではなく、恐怖というのもありますし。

 

 「水道の水を飲むと病気になる」などといわれのない不安を煽られ、試薬やらインチキ電気分解装置やらで「ほらこんなに……」と実験モドキを目に見えるようにわかりやすく見せられ、ぼったくり価格で浄水器を売りつけられた被害者なんて大勢いるわけですが、欲というよりは不安感を利用された面が強いような。

 マルチ販売に加わるような場合は「欲」なんでしょうけども。

技術開発者

こんにちは、皆さん。

 

技術の世界には、「理屈は分からないけどうまく行くから採用する」ということは有るのですが、実のところこの「うまくいく」をやはり科学的態度できちんと押さえるということは必要です。例えば、ある工場で「この機械のこの部分にこの薬剤を少し塗りつけておくと、作業がとてもやりやすくなって、作業効率が良くなる」ということを見つけた工員さんがいたとします。きちんと技術開発のところに報告して貰えると、「何故うまくいくのだろう」という検討ばかりでなく、「そんなところに薬剤を塗って、製品の品質は大丈夫か?」とか、「装置の耐用年数に影響は出ないか?」とかの、単に作業効率だけでは無い、複数の視点からのチェックがはいるわけです。ところが、「技術に報告すると色々五月蠅いから」と工員さんのノウハウみたいにしてやり続けられていると、ある日突然、お得意様から「製品が保証期間より早く劣化した。原因はどう考えても製品にある。リコールだ。」なんて連絡がはいって、大量のリコールに泣かされたりするわけですね。最近の事業者間取引では、単に不良品のリコールという事ばかりでなく、「原因を究明して対策を報告しないと今後の取引は行わない」なんて事も多いのです。その時でも、「うまくいく」と工員さんのノウハウとしてやられていた事などは、表になかなか出てきませんので、技術部が原因究明ができずにお得意様を失ったりするわけです。

 

技術の世界で「うまく行くなら何でもOK」なんて事は、とても怖いことなんです。

FC

言わんとしていることはわかりますし、その意図も基本的には同意なのですが、(1)について、法的なアプローチもしくはそうした視点のみにならないほうがいいのでは? と思うのです。

 

わたしの理解では「裁判とは社会常識を測る装置」です。ですから

>「装う」の具体的内容が、社会にどのように受容されているかということも判断の際に考慮する。

という側面が、実は、ニセ科学側を補完するように作用してしまうと思うのですね。

 

ひとことで言えば、マジョリティ側に有利、という話ですから。

酔うぞ

>TAKESANさん

 

    ちょっと酔うぞさんにお伺いしたいのですが。

    >というわけで「被害の発生あるいは発生する可能性」

    

    >を評価

    これって、”「ニセ科学である」と判断する”基準とする、

    という意味なのでしょうか。

    それとも、ニセ科学の中でも重要なものであると判断する、

    という事についての基準、なのでしょうか。

    ちょっと読み取れなかったもので…。

 

わたし自身もあまり明確になっていないのですが、いわば「現実の説明」とでも言うところです。

 

「ニセ科学であると判断する」以前に「ニセ科学かどうか話題になる」あるいは「判断しようとまな板に載せる必要がある」といった段階があると思うのです。

この段階では、話題になる理由があるはずで理由としては何が多いか?

それが「被害」ではないかと考えました。

 

ただし「被害」を精密に立証するという趣旨ではありません。

なんでも良いわけで「悪いとされる」「良いとされる」「無害である」なんでも良いわけです。社会に影響すること自体を「被害」としても良いのかもしれません。

 

その大きさを「面積」として考えるべきだろう。

ということです。

 

だから、判断の基準ではなくて、判断に取りかかる基準といったところです。

 

なぜ、こんなことを言い出したのか?と言うと

「社会的に無関係なのにタメにする議論をどうする?」と考えたからです。

例えば「以前、トンデモ理論を出したから、何をやっても信用するべきでない」といった言い方は賛成できない、といったときですね。

 

 

こう書いてもみると「社会的に影響がないのなら、ニセ科学を是認するのか?」ということになりますが、社会的に影響がないのであれば「ニセ科学もヘチマも無い」ということですね。

考えることすら必要ない。

酔うぞ

apjさん

 

     グレーゾーンがあることは織り込み済みです。

    ただ、グレーといっても殆ど黒から殆ど白まで幅があって、

    ほとんど黒のものについてはニセだと言ってもかまわないでしょう。

 

もし、apj さんの考える「シロ・クロ」がわたしの考える「質」を意味するのであれば、わたしの考え方では「シロ・クロだけでは言うか言わないかは未決定」となりますね。

 

社会的に影響するから「ニセ科学」と言われるわけであって、影響がないいわば一人言で誰も聞いていないようなもの、であれば「ニセ科学と言うか言わないのか」ということにたどり着かないでしょう。

 

では、非常に黒に近いグレーで、範囲が限定している場合と、非常に白に近いグレーで極めて広く流布されている場合のどちらが問題か?と考えて「対応」するときにどう考えるのか?

これが問題だろう、と思ったわけです。そこで「質×量」で考えるべきであろう。と。

 

ここまで、書いて「こういう事なのか?」と思いつきましたが・・・・・

例えば、永久機関は特許申請が受け付けられませんが、それでも特許申請する人が居るのでしょう。(実態は知らない)

そこで「永久機関が特許申請出来ないことを知らない発明者は問題だ」と指摘すること。

に相当することが「ニセ科学と言う」事なのでしょうか?

つまり、「既知の科学として確定していることに反する事は、事の大小や社会に対する影響力とは無関係にニセ科学とするべきだ」

別の言い方をすると「過去にニセ科学定義になったものはやってはいけない」

 

う〜ん・・・・・、実務的には分かりますが、実務なのか思索なのか・・・・。

酔うぞ

newKamerさん

 

    > 分からないから研究している、実験しているというのは

    幾らでもあるし、それが新しい用途の発見になった例はた

    くさんあります。

    

    コレに関しては、「ニセ科学批判」批判のFAQとして

    言及されてもいいぐらいの話で、

    簡単に言えば「未科学とニセ科学は違います」

    ということになります。酔うぞさんの想定しているのは

    未科学に分類されます。

 

その通りです。

 

未科学の段階からニセ科学とするのにどうする?

と考えています。

 

わたしには未科学と科学・ニセ科学の判断の基準が分からない。

 

例えば「科学的でない」と「宗教の領域だ」とか「個人の思索だ」はおそらくは両立するでしょう。

これなら、明らかに「未科学」と言って良いですね。

 

それが「どこかで科学(ニセかもしれない)」になる。

それは決定出来るのか?

 

 

「これは科学です」と宣言している場合に「ニセ科学判定の対象にする」というのでは、いささか頼りない。

 

横浜市が関わった「ビジネス・グランプリ」なるコンテストに出てきた「水の機器」は一等賞で賞金を取っていきましたが講評ですら「原理が分からない」でした。

こんなものは排除したいわけですが、最初から「原理は分かりませんが、効果はあります」として出てくる「発明品」に対してはどうするのか?

 

現実として「科学的証明が無いから」から「ニセ科学」となるか「トンデモ商品」となるのか「未科学的商品」となるのか、どうでも良いわけですがお金が動くのであって、何らかの被害を出すと考えるべきでしょう。

 

こういう現実にどう対応するのか?が気になるのです。

酔うぞ

apj さん

 

    それでも科学を特別扱いする理由にならないんですよね。

    ニセ札、ニセブランド品、ニセ科学、

    と並列に並ぶ話に過ぎないわけで。

 

これはわたしが考えていることに極めて近いです。

 

ニセ札というのは「コピーしただけでアウト」なんですよね。つまり極めて重大な「ニセ」です。

ニセブランド品だと、売ってしまうと犯罪だし、売らないでも外部に配ったら大騒動になります。

しかし、芸術作品としてのパロディは社会的に許され得るでしょう。

 

「ニセ物を作る」だけでは決定的でない、と言いたいのです。

パロディでは作っている段階ではニセモノではなくて作品なのですね、社会が「パロディと名乗っているがニセモノだ」と判定することをあるでしょう。

酔うぞ

katsuyaさん

 

    「科学でない」という判定を哲学的なメタな議論ではなく、

    実際の科学者集団がどのような判断をしているかという

    (社会学的な)認知を基盤とする、ように

    議論を形成すべきだと思うのです。

 

これは相手が「科学であるとは言っていない」となったときに対応出来なくなるんじゃないですかね?

 

わたしが問題にしている社会的な被害として「科学的である」と言った場合と言わない場合で本質的に変わらないわけで、なんか機械的な装置(科学に見える)物が及ぼす経済的な被害とお守り札が及ぼす経済的な被害は同じです。

 

確かにお守り札を「科学的」と思う人は少ないでしょうが、機械装置を「これはお守り札と同じで科学じゃありません」と主張されたらどうしましょう。

 

別項に紹介したように「ビジネスグランプリを受賞した装置の原理が分からない」で通用しちゃうのが現実なのです。

 

「科学的な主張」だけでなく「科学的と誤解させる」も含めないと社会的な損失防止と言う観点からは不十分となりますし、科学的と宣言しているものに対抗するとする考えたで臨む場合には、別途「科学と誤解させるもの」に対する方策を考えないといけない。

 

これは「水伝」で起きたことですよね。

最初は科学と誤解させて、追求されたら「ファンタジーです」となった。

しかしどう考えても「なんかの被害はあった」と言えるでしょう。

こういうのは枚挙にいとまがないです。

むしろ「純正のニセ科学(科学と宣言しているがニセ)」方が少ないような気がする。

あしま

>>科学ファシズムの雰囲気

> こういうのが認識不足の典型例でして。

> ニセヴィトンバッグはけしからんと言ったとしてブランド

>品ファシズムとは普通言わないのに、なぜ科学だとファ

>シズムが付くのか、おかしいですよね。

 

普段ROMしているものですが、実は私もこの部分には違

和感があります。

「何が科学か」という(メタな)定義、いわゆる科学の線引き

問題はとりあえず置いておく、ということだと、ニセブランド

やニセ札は、例えとしては違和感を感じます。

 

一般的にニセブランド品やニセ札にはグレーゾーンは存在

しません。

「これがホンモノ」ということを確実に言い切れる主体(ホン

モノのメーカや国家)が存在するからです。

 

>個別の具体的な科学っぽい主張についてであれば、

>多少理科の素養のある人から科学の専門家まで、

>何が科学として間違っているかを指摘することができる。

 

このあたりの段落の、「間違っている」→「ニセというラベ

ル付け」部分に多少飛躍が感じられるのです。

「その主張は既知の知見と矛盾している」と指摘する

ことと、「だからニセ科学だ」とラベルをつけることの間には

心 情 的 にはかなり違いがあるように思えます。

 

「何が科学か」(何が正しいブランドか)にグレーゾーンが

あるのなら、「ニセ科学」というラベル付け・分類をあえて

する 必 要 性 がわかりません(「ウチの製品の方がす

ぐれてますよ」とかならわかりますが)。

 

もしかしたら「ニセ科学」というのは一種のスローガン?

スローガンということなら、わざわざ「ニセ科学」という言葉

の定義などはしなくてもいいのでは? …というあたりを過

激に言うと「ファシズム」という言葉になるのかもしれない、

と思いました:-)。

 

単なる素人の感想文でお目汚し失礼致しました。また

ROMに戻ります。

TAKESAN

お早うございます。

 

酔うぞさんは、「ニセ科学」と判定する事そのものは、科学的方法に則っているかどうか、というのを基準にすれば良いが、それを積極的に批判する際には、被害という観点を考慮すべきである、というお考えなのでしょうか。

 

私は、この文脈での、”「ニセ物を作る」だけ”というのが、ちょっとよく解らないのですね。誰かの目に触れるかたちで発表している時点で、「これは科学だ」と誤解させている訳ですよね。故意にしろ過失にしろ。それ自体が、批判されるに充分な条件となるのではないかと思います。そして、その際に、「ニセ科学」という語を使うのは、妥当であると考えます。

後は、どうしてそれを批判するのか、という、個別の動機なりがあって、そこで、被害の観点が入ってくるのではないかな、と。

 

もしかすると、こちらの誤読かも知れませんが——酔うぞさんがお使いの「判断」の語が、多義的である気がします。すなわち、まず、科学の基準に照らして「科学を装っている」、と判断するのを「ニセ科学と判断」する、とし、「ある言説をニセ科学として紹介、あるいは批判する」、という事をも、「ニセ科学と判断する」、と仰っているように見えます。私が書いている「判断」は、前者の意味ですね。

キタヤマ

いろいろと興味深い、コメントがあり、いろいろと考えされられているのですが、科学リテラシー教育という観点から、

ニセブランド品(バッグ)を買う人のことを考えてみました。

1、ニセだと知らずに(本物と信じて)、買う。

2、ニセだと知りつつ(あるいは、ニセかもしれないと思いつつ)、安いから、買う。

3、ブランド品の模倣だと知らずに、そのバッグが気に入ったから買う。

1の人は、騙されたことを悔しいと思い、次は騙されたくないと思うので、そのための知識を得ようという意欲がある。科学リテラシー教育の効果が期待できるグループ。

2の人は、ブランド品だからということが判断基準になっているだけで、そのバッグが欲しいというより、周りの人が持っているものが欲しいだけなので、Aブランドのバッグでも、Bブランドのバッグでもいい。マイナスイオン、ゲルマニウムなんでもいい。それどころか、「科学的に効果が認められた」でも「有名人のAさんがいいと言ったから」という理由でもいい。(科学というブランドと有名人のAさんというブランドが等価。)科学的にどうなのかを知りたいわけではない。自分から科学的知識やクリティカルシンキングを学ぼうとは思わない。意欲が伴わないと、科学リテラシー教育の効果は、疑問。

3の人、ただそれが気に入ったから、買ったのだから、ニセブランド品でも自分は気にしない。ニセブランド品の社会的影響ということは、思いつかない。ブランド(科学)には、興味がない。信じたいものを信じる。聞く耳を持たない人には何を言っても・・・・・。

2の人に効果がある、科学リテラシー教育って、どんなものなのでしょう?

(現実が上記のようであるということを主張したいのではなく、ご参考になるかどうか分かりませんが、私は、こんな風に感じていますということです。)

katsuya

酔うぞさん、

 

>相手が「科学であるとは言っていない」となったときに対応出来なくなるんじゃないですかね?<

 

科学を装っていなくても公序良俗に反しているようなものなら、それはそれとして糾弾すれば良いのではないでしょうか?

オカルトであろうとファンタジーであろうと宗教であろうと、実害のあるものに関しては「科学でない」ことは(社会的には)免罪符とはならないように思います。

 

芸術作品に関して言えば、贋作と模写やレプリカは基本的には別物扱いです。ニセ科学は事の性質上、贋作に類するものと見なすべきだと思いますが、如何でしょうか?

LS

apjさんが書かれた、まるで法律の教科書の一文のような次の一節

 

「何をどこまでしたら「装う」に該当するのかということが問題となる。これは、通常人の常識で見ると科学(あるいは科学的根拠がある)と誤認することがある、という程度で足りる。」

 

この文章の意味がうまく伝わっていないように見受けられます。

 

こういう「通常人」の想定の仕方は、法解釈の技術としてよく現れるやり方でして、誤解を恐れずに簡明に言えば「中立の立場にある判定者(=裁判官)の頭の中にしか存在しない人」なわけです。

 

つまり「通常人」というのは、判断のための便宜上仮想されている概念であって、具体的にどこのなに兵衛さんと指摘できる人ではないのです。ですから「装っている側の主観」(これはポエムですから、とか)をいくら述べ立てても、この「通常人」の誤認を解くことはできません。

 

また、「通常人」の枠にはまらない人が存在するということをもって、上記の定義を揺るがすこともできません。むしろ、「通常人」の目から見ると、「科学じゃないぞ」と見破っているくせにそれに荷担する人は、はっきり「共犯」であり、「科学かどうかは関係ない」と言っている人も、「未必の故意」による共犯の疑いが濃い。リテラシーはあるのに、その能力を身勝手に使っているわけです。

 

反対に、通常人に科学と誤認されることはないのなら、いくら「装う側」がこれは科学であると喧伝するような振る舞いをしていても、それは定義上「装う」には当たらない、ということになります。

 


apj

katsuyaさん、

 確かにニセ科学は贋作に近いかもしれません。

 今朝頃は、価値ある骨董品とがらくたの見分け方みたいなのを想像してたんですが。目利きでないと見破れないことがある、というのが、専門家でないと見破れないことがある、というのに似ている気がしたもので。

 

LSさん、

 丁寧な補足説明ありがとうございました。

 法律については現在独学であれこれ勉強中でして、通った所しか見えていない状態です。ですから、この部分の説明が足りないからしなきゃいけないとか、他人にここまで言わないとわからないだろう、といったことに気付かないことが多いので、助かりました。

 確かにおっしゃるような意味で通常人を使っています。

 

 「装う」のところに意識的に法律の教科書のような定義を持ち込んで論じている理由は、ニセ科学批判(個別のケースの総称として敢えてこう括ってみます)の言説を維持できるかどうかを最終的に決めるとしたら、それは裁判所での争いになるだろうと考えているからです。何て言うか、私は、批判側の最終防衛ラインが法的紛争になるだろうと思っているんですよ。他に、批判をしている人も、いわゆるニセ科学批判批判の人も、あんまりこのことを意識していないかもしれませんけども。

 まあ、直接ニセ科学裁判をやるのは難しいですし、科学的真実かどうかを裁判で決めるというのは考えがたいのですが、批判が誰かの利害に差し障った時に、「どの程度で誤解が生じるか」といったことの立証が必要になることはあるだろうと考えています。

apj

 これまでの擬似科学批判は、知の欺瞞や相対論は間違っているといったものがあって、線引き問題が出たりして、どちらかというと哲学的構成をめざしていたように思えます。ここからは哲学的なメタな議論が出てきやすい。

 で、どうも、私が以前から目指しているものは、哲学的構成ではなくて、法学的構成というか法解釈学的構成のようなものではないかと思えてきました。

 「通常人の常識」を「装う」かどうかの判定基準に使うのであれば、「専門家の常識」が科学であるかどうかの判定基準になるかもしれない。「通常人」が仮想的なものであったのと同様に、「専門家」も個別の誰それ教授を指すわけではなく、やはり仮想的なものになる。ただ、仮想的ではあっても基準となりうるわけで、それを支えているのが、個別の事例についてどう判断したかという積み重ねなのだろうと。

技術開発者

こんにちは、キタヤマさん。

 

>3の人、ただそれが気に入ったから、買ったのだから、ニセブランド品でも自分は気にしない。ニセブランド品の社会的影響ということは、思いつかない。ブランド(科学)には、興味がない。信じたいものを信じる。聞く耳を持たない人には何を言っても・・・・・。

 

おそらく、この部分に人間の社会性というか社会の成り立ちの理解という部分の問題があると思うんです。歴史のあるブランド品がブランドとして成り立つために、過去にから現在に至るまでの地道な努力がなされている事への理解と、そういう地道な努力がこれから自分が生きていく社会でも大事になされて欲しいと思うかどうかだろうと思います。

 

エルメスにしろルイ・ヴィトンにしろ。目の肥えた上流階級相手に洗練されたデザインと堅牢さやアフターサービスに並々ならぬ努力を重ねた事で今のブランドを築いてきたわけです。形だけその商品をまねるニセ物には、その「人の努力の成果だけを盗もう」とする心の卑しさがあるわけです。その卑しい商品を「自分はブランドには興味がないが、これは気に入ったから買って使う」という事そのものが「品性の卑しい生き方を自分はする」という事である事に気が付かないという事に思える訳です。

 

「科学的」という事をきちんと言われようとあるいは暗黙裏に示されようと、その時に多くの人の心には「確かなのだろう」という意識が量的には様々でも生ずると思います。なぜ、そのような意識が生ずるのか、それは過去の科学者や技術者が「確かな事を世に出そう」と努力し続けたからこそできあがった「科学的=qなこと」という一種のブランドがあるわけです。「そんなことには興味がない、自分が気に入るからコレでよいのだ」というのは、やはり、そういう社会の成り立ちへの無理解があると思うのですよ。

酔うぞ

TAKESANさん

 

    酔うぞさんは、

    「ニセ科学」と判定する事そのものは、科学的方法に則っているかどうか、

    というのを基準にすれば良いが、

    それを積極的に批判する際には、被害という観点を考慮すべきである、

    というお考えなのでしょうか。

 

ほぼ、その通りです。

 

「科学的法則に則っているのか」はわたしは「質の問題」としたわけです。

科学的に法則に・・・にという部分だけに注目しても、明らかに真っ黒から、表現不足で子細に見るとシロまでばらつくでしょうから、これは質という表現でも構わないでしょう。

 

それを批判するのは、社会に対する影響力を考慮するのは当然だし、第一に「批判して何を得るのか」を考えると「より良い社会を作るため」になると思います。

当然ですが「批判する」とは「批判する考え方(思索)」ではなくて「批判して社会的に行動する」こととしています。

 

そこで「批判する価値があるか」とか「批判するべきか」という問題が別途生じるだろうと考えると、それは「質の問題なのか」となります。

 

そこで「質×量」で考えるのどうか、と思っています。

 

 

わたしは、ニセ科学と判断すること自体は批判し行動するためのエンジンのような位置づけと見ています。

目的は「行動」であって、エンジンの性能は重要ではあるが動かないことには評価は出来ない。

 

これは質的問題と見ざるを得ないと思うのですよね。

科学的な正確さについて非常に軽微なミスや誤解でも、見逃せないほど社会に影響している場合もあるでしょうし、その逆に科学的正確さとか科学的思考といったものに全く反する考え方であっても、社会的に全く影響がない一人だけの思索というのもあるでしょう。

 

これでは「科学的な正確さ」だけを基準にして「社会的な観点から批判運動に広げる」ことは決められない。

 

「どういう基準で批判運動に広げるべきか」を考えよう、というところです。

酔うぞ

katsuyaさん

 

    科学を装っていなくても公序良俗に反しているようなものなら、

    それはそれとして糾弾すれば良いのではないでしょうか?

 

ここでの議論としては「多少は科学のように見える(見せている)」を前提としましょうよ。

 

法的な意味で「公序良俗に反する」を持ち出してきたら、時代によっても場所(国)によっても評価が変わって当然ですから、社会的安定性という意味ではいわば最終兵器ですよ。

 

「科学的には正しいが、公序良俗に反する」でなんの問題もない。

 

公序良俗に反するという非常に広い網もかいくぐる「ニセ科学」があるよ、という前提で議論しているのだと思っています。

 

「科学的な宗教」というどういうことか意味の分からない説明は、オウム真理教と幸福の科学で大きく言われていました。

宗教が「科学的な宗教」と名乗るのはわたしには「科学」という言葉の意図的な誤用であって,それなりの被害を生み出しているのだから「ニセ科学かどうか」という判断基準には明らかに抵触しませんが、社会的に大いに非難するのが当然だろうと思っています。

newKamer

 酔うぞさんの考え方は、自身の行動の指針に留めるべきことでしかありません。

 

 批判をする対象に順位付けするような必要などありません。社会的な効率を重んじる必要もない。「自分のやれる範囲のことをやる」それでいいのではないでしょうか?

 

 これは、さんざん議論されてきた「優先順位付け」の問題です。

 

 それとは別に「批判運動」という表現が気になりました。ニセ科学批判者はそれぞれ独立した批判者であり、社会運動家ではありません。

酔うぞ

技術開発者さん

 

    なぜ、そのような意識が生ずるのか、

    それは過去の科学者や技術者が「確かな事を世に出そう」と

    努力し続けたからこそできあがった「科学的=qなこと」という

    一種のブランドがあるわけです。

    「そんなことには興味がない、自分が気に入るからコレでよいのだ」

    というのは、

    やはり、そういう社会の成り立ちへの無理解があると思うのですよ。

 

わたしがよく使うのは「畏れ」という言葉です。

先人の努力とか社会を維持するための努力といったものにどう向き合うのか、は「畏れ」がふさわしいと考えています。

 

apjさんが「法的な問題になった場合・・・・」といった観点でニセ科学問題を論じるきっかけを作ったのですが、法的というのは社会であり社会を形作っている歴史でもあるわけです。

 

「歴史なんて関係ない」と考えれば、ニセブランド品が出てくるわけですが、その一方で機械屋の世界では「技能(工作技術)を盗む」のは業界内では一般的な常識としてある程度以上許されています。

(ここの感覚は業界内の人にしか分からないだろうし、業界内部の人でも説明は出来ないだろう)

 

こうなると「社会的評価」しかモノサシが無いですよね。

その中に「ニセ科学のモノサシ」を作る、ということになるのかな?

キタヤマ

こんにちは。apjさんの

>何て言うか、私は、批判側の最終防衛ラインが法的紛争になるだろうと思っているんですよ。

>どうも、私が以前から目指しているものは、哲学的構成ではなくて、法学的構成というか法解釈学的構成のようなものではないかと思えてきました。

を読んで、やっとこのスレッドの意味が分かりました。だいぶずれたコメントを書いてしまって、気が引けるのですが、コメントをいただきましたので簡単に返信させていただきます。

 

技術開発者さん

>「科学的=qなこと」

の意味が分かりませんでした。

「3」は、科学的には真でないといわれても、「水からの伝言」を信じたい人や、創造説を信じたい人を想定したのですが、言い方に気をつけないと、ファンタジーや宗教を否定する「科学ファシズム」と受け取られてしまいそうで、難しいなぁと感じています。

現在の科学者については、

>「確かな事を世に出そう」と努力し続け

というよりも、(社会に急かされているのでしょうが)特許競争に追われてしまっているように見える部分が多々あります。はっきりとは科学的と言っていないことが、そう受け取られることに、寛容になっている方も見受けられるように思います。科学的でない者が装い易くなっている部分があるのではないでしょうか。

また、「確かな事」というのは、誤解の部分もあったにもかかわらず、誤解されることが(ある種の人にとって)都合のいい場合もあって、「科学=確かな事」というイメージを放置してしまった場合もあったように思います。その結果、「確かな事である科学」に過度に依存してしまっている人もいるように思います。

技術開発者

こんにちは、キタヤマさん。

 

>>「科学的=qなこと」

>の意味が分かりませんでした。

 

推敲不足でごめんなさい。「科学的=確かなこと」です。

 

>ファンタジーや宗教を否定する「科学ファシズム」と受け取られてしまいそうで、難しいなぁと感じています。

 

別な所にも書いたたとえ話だけど、

 

質問者:「将軍様をどう思いますか?」

一同:「偉大な我々の指導者です」

質問者:「政治体制に洗脳されているなぁ〜」

 

質問者:「痛い目に遭いたいですか?」

一同:「嫌です」

質問者:「『痛い思いをしたくない教』に洗脳されているなぁ〜」

 

この2つはどこがどう違うかを考えてみて欲しいのです。前者は、本来人間の性質にあるバリエーションを失う事により答えが揃っているのに対し、後者は本来人間の持つ共通の性質に基づいて答えが揃っているわけです。

 

私は「騙されるのは嫌だ」という部分に人間の共通性はあると思っています。もちろん「痛い思いは嫌だ」という生理的な共通性よりももう少し上の知性レベルなので、バラツキも大きいとは思いますが、政治体制の批判などのバラツキに比べれば、かなり狭い形で共通性があると思っています。ニセ科学の定義でいうと「科学を装う」という要素が入ることで、本来、この共通的な要素への働きかけが生ずるので、「良くないことだね」という反応の共通性は生まれるだろうと思います。反応が揃うことのみに意識が向く人は、上の2つの話は同じに捉えられる可能性はあります。現実にそのようなニセ科学批判批判も目にした事があります。そういう意味では、プロセスを考慮する事ができず結果しか見ないという部分で様々な事柄に共通の要素を感じで居ます。

酔うぞ

newKamerさん

 

    批判をする対象に順位付けするような必要などありません。

    社会的な効率を重んじる必要もない。

    「自分のやれる範囲のことをやる」それでいいのではないでしょうか?

 

これは「社会的視点を(ニセ科学)批判に持ち込む必要はない」ですよね?

 

自分だけの視点からでは「批判」ではなくて反論でしょう?

 

    それとは別に「批判運動」という表現が気になりました。

    ニセ科学批判者はそれぞれ独立した批判者であり、

    社会運動家ではありません。

 

 

批判というのは社会的な共同行動そのものだと思ってましたが。

FC

批判運動にしろ、消費者運動にしろ、環境保護運動にしろ・・・・

なんらや「運動」ってのは、とかく本筋離れがちですよね。

なので、newKamerさんの見解に私は近いですね。

 

批判運動なんていう共同作業する必要もない。

各自がきちんと啓発されていれば、

啓発・教育された人は常識的なところに収斂するはずですから。

apj

酔うぞさん、

 

>批判というのは社会的な共同行動そのものだと思ってましたが。

 

 基本は個別の活動ではないかと。個別の行動の結果が偶発的に共同行動になってしまうということはあるかもしれませんが、それでも何とか運動をしているわけではない。

 

 むしろ、攻殻機動隊のStand Alone Complexてのに近い気がする^^;)

 

 


かも ひろやす

>批判というのは社会的な共同行動そのものだと思ってましたが。

 

私はときどき不完全性定理濫用系を批判していますが、濫用系の連中の濫用が私に迷惑であるからであって、別に「社会的な共同行動」ではありません。同じ背景を持つ人が同じ連中から同じ迷惑を被って結果的に同じ批判をすることはありますし、その時は労力の節約のために互いの主張を引用したりもしますが、共同行動ではありません。

酔うぞ

aojさん

 

    >批判というのは社会的な共同行動そのものだと思ってましたが。

    

    基本は個別の活動ではないかと。

    個別の行動の結果が偶発的に共同行動になってしまう

    ということはあるかもしれませんが、

    それでも何とか運動をしているわけではない。

 

あ〜どうもうまく伝わってなかったようです。

 

共同行動を目的として捉えると、まるで意味が違ってしまうでしょうから、ここは完全にわたしの言葉不足のところです

 

「批判」とは自分自身だけの問題とは言えないだろう。という意見です。

意図するかしないかは別にして、批判とは他人に働きかけるものではないか?

批判する考え・気持ち・心といったものと、批判行動は別物だとなりますね。

 

個別の「活動」は社会的に働きかけるものでしょうから、わたしの考えではその時点で「共同行動」となるわけです。あるいは「運動」(使いたくないですが)

 

そうでない場合、他に人働きかけないとは「全く批判的意見を述べない」ということだと考えています。

自分一人の思索として「ニセ科学だ」と思うのも自由ですから、これはある。

ただそれでは「批判した」とは言いがたい。

「批判的に考えていた」と言ったところになるでしょう。

 

結局は「批判」は「批判的に考える」と「批判して行動した」に分かれてしまう。

わたしは「批判」は「批判すること」の省略形だと考えていましたから当然「行動する」→「他人に働きかける」=共同行動、と表現しました。

酔うぞ

    主張する人の故意・過失を問わない、

    というのを入れてみました。

    by apj

 

「ニセ科学を主張する」というのがキーポイントかな?

 

主張していないニセ科学ってあるかな?

 

普通の科学的な常識の範囲は「主張」しませんよね。

なんかテレビショッピングの画面が頭の中に湧いてくる(^_^;)

FC

酔うぞさんの論理は、ある意味、おっかないのですが・・・。

というのは、ここに3人の人間がいて、

それぞれ、個別に、相談することもなく、ある批判活動をすると、

それを、酔うぞさんは「共同行動を取る」と判断するわけです。

 

これって、普通は「難癖を付ける」と表現するような・・・・。 

それに、これって、以前、どなたかが

菊池さんとか、小波さんと、apjさんが結託して活動している。。。

と的はずれな批判をして、apjさんが

みんな個別の活動ですよ・・・・と受け流した話と同じようにみえますが。。。

tokisaka006

FCさん、

 

>それぞれ、個別に、相談することもなく、ある批判活動をすると、

それを、酔うぞさんは「共同行動を取る」と判断するわけです。

 

これは誤解でしょう。

酔うぞさんの仰る「共同行動」は、「ニセ科学批判者同士の連帯・協調」の意味ではなく、「批判という行動は、批判する相手や、それを見る第三者を想定して行うものだから、共同体=社会という枠組みにおいて意味を有する」という意味でしょう。「共同体的行動」というか。

FC

> tokisaka006 さん

 

酔うぞさんの書き込みは、最初と最近のものでは変わってきていますし、詭弁的です。

 

そもそも「共同行動」といったら、お互いに相談や連絡取り合って一緒に行動する、と考えるのが自然ではないでしょうか? 普段、そうやって言葉を使っていませんか?

 

行動している人ばバラバラにいる、でも、それを離れた位置から見れば、一種の共同体のように見える、というのならわかります。でもそれなら、そのように最初から表現すべきでしょう。

 

それに、共同行動と、一種の共同体のように見える、は、別ものですから

apj

 引用の要件を満たしていない投稿、つまり引用部分を改変した投稿がなされたのでコメントを削除しました。

 

あしまさん、

 

>このあたりの段落の、「間違っている」→「ニセというラベ

>ル付け」部分に多少飛躍が感じられるのです。

>「その主張は既知の知見と矛盾している」と指摘する

>ことと、「だからニセ科学だ」とラベルをつけることの間には

>心 情 的 にはかなり違いがあるように思えます。

 

 出発点が違います。

 

 まず、誰かが、科学ではないものに対して「これは科学である」という間違ったレッテルを貼ったという現実が先にあるのです。

 ですから、何かを「ニセ科学だ」と呼ぶことは、「ニセ科学だ」というラベルをつけることではありません。先に貼ってある「これは科学である」というラベルを剥がすとか、×印を付けるとか、訂正のためのラベルを上から貼る、という行為なんです。

 先に「科学である」というラベルが貼ってないものに対して、「ニセ科学」というラベルを貼ってまわるなどということはありません。

 

 感じておられる飛躍は、先に「科学である」という間違ったラベルを貼った人がいる、という前提を見逃しているから感じたことだと思います。

酔うぞ

FCさん

 

>行動している人ばバラバラにいる、でも、それを離れた位置から見れば、一種の共同体のように見える、というのならわかります。でもそれなら、そのように最初から表現すべきでしょう。

 

いや、その通りなのです。

ただ、うまい表現が出来なかった。

 

逆にいえば「批判的に思っていて、発言しないこと」と「批判を発言すること」をどうやって区別するのか?

という事なのです。

 

個人的に「批判的に思っているのだが、全く発言しない」のは明らかに社会的な影響力がない、あるいは社会的な影響力を行使したくないから発言しないでしょう。

 

となると「社会的に影響力を行使する」とはどういうことか?

それを「批判と呼ぶのではないのか?」ということです。

技術開発者

こんにちは、酔うぞさん。

 

別なブログに変な話を書いてみたのですが、現代の日本というのは、「何かに触発されて同じ行動を取る」という事に妙な危機感があるように感じます。というか、そういう意識の行きすぎにより、本来社会秩序が維持されるために必要な「社会的に良いことなら、誰かが先頭をきって行動し、それに追随する者がいることで、多勢に無勢の状況が生じてかまわない」という事がおこらなくなり、「自分が先頭を切ったら周りは見殺しにはしないだろう」なんて信頼関係もまた失われているので、何か危険が少しでもあるなら、誰も行動をおこさないという事も起こっている気がします。

 

http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2008-01-05-1

 

もちろん、付和雷同型の行動というのは、間違った方向への集団暴走という危険性をはらみます。だからといって、「付和雷同型行為はすべからく危険である」とするなら、社会の秩序は保たれない気がする訳です。

酔うぞ

技術開発者さん

 

    現代の日本というのは、「何かに触発されて同じ行動を取る」

    という事に妙な危機感があるように感じます。

    というか、そういう意識の行きすぎにより、

    本来社会秩序が維持されるために必要な

    「社会的に良いことなら、誰かが先頭をきって行動し、

    それに追随する者がいることで、多勢に無勢の状況が生じてかまわない」

    という事がおこらなくなり、

    「自分が先頭を切ったら周りは見殺しにはしないだろう」

    なんて信頼関係もまた失われているので、何か危険が少しでもあるなら、

    誰も行動をおこさないという事も起こっている気がします。

 

う〜ん、確かにそうなんですけどね。

 

大昔に有名な「現代思想フォーラム裁判」というのに注目していました。

(わたしはNIFTY-ServeのSYSOPでした)

 

フォーラムというかNIFTY-Serve(当時は事実上のネット全体)世論としては

「被告を応援しよう」「原告は卑怯だ」といったところでした。

そのために裁判には、ネット上の住人のメッセージが多量に出るところだったのですが

「証人として証言できるのなら採用」ということで、ほとんどが出せなかった。

 

つまり裁判といった場では「その場の雰囲気だけでは決まらない」とも言えます。

 

現在では、裁判所もネットワークのことを良く理解していますから

大げさに言えば「ネットワークの世論としては」という話が全く通らない

ということはないでしょう。

 

こうして書いてみると、問題が社会的に顕在化するところでは、雰囲気はあっても

それを現実の解決策に結びつけるためには、雰囲気などではない具体的な行動

が必要なのでしょうね。

 

リンク先にある列車内レイプ事件に関する会話は、まさにこの部分なのでしょう。

 

なんかうまく説明出来ないのですが、厳密な論理構成で確立させることと、

社会に対して影響する事の間には、微妙にずれがあると感じます。

 

もちろん「厳密にやる」ことが社会に全く影響がないわけがないから

関係ないなどとは言えないのですが、社会に対する影響力が比例するとも

思えないのです。

 

ちょっと悩ましい。

技術開発者

こんにちは、酔うぞさん。

 

>こうして書いてみると、問題が社会的に顕在化するところでは、雰囲気はあっても

>それを現実の解決策に結びつけるためには、雰囲気などではない具体的な行動

>が必要なのでしょうね。

 

 酔うぞさんもご存じのように、私はニセ科学批判者と成る前はネットで結構ハンドル名の通った悪徳商法批判者であったわけです。それも、現実の被害者が現実の行動を取るようにしむける者であり、現実として悪徳商法をやっている人たちにとっては怒りや憎しみの対象と成り得たのだろうと思います。悪マニで「TVチャンピオンに悪徳商法マニア選手権でもやらせたら、ここの常連がチャンピオンになるかも」なんて馬鹿話をしていて、「収録が終わってTV局から出てきたら闇討ち食らうかも」なんて話が出ると、必ずしも冗談とばかりは言えない面があったわけです。だからこそ、ずっと匿名でやっていたわけです。「メールで相談したい」なんて書かれても「それはできません」なんて断りながらね。実際、扱ってきた悪徳商法のうちの幾つかはヤクザのしのぎとしか思えないものも有ったわけですからね。まあ、Beyond氏の正体が暴かれても、まだ東京湾に沈んでいないからから、杞憂と言えるのかも知れませんけどね。でもね怖かった面はあるんですよ、名誉毀損訴訟なんて比較にならないくらいにね(笑)。

 

だからこそ、リンク先に書いた話はよく考えてみて欲しいのですよ。自分の心の中に「見て見ぬふりするなんて許せない」という意識もあれば、「自分がその時の周りの乗客なら止めに入れるか」「自分の子供に止めに入れと教えられるか」なんて問いかけに「とてもできない」としか言えない面もあるわけです。我々人間はそういうジレンマを抱えた生き物なんだろうと思うわけです。そして大事なことは、そういう自分自身の持つジレンマから目をそらさない事だろうともうのです。

 

なんとなくニセ科学批判批判を読んでいると、そのジレンマの直視そのものに耐えられない事から発生している様に見える部分があるんですね。世の中に「科学的で無いことなのに、なんとなく科学的な正しさの雰囲気で蔓延する物がある」という事を認識すると「そういう事を面白がっていた自分を否定しなくてはならない」みたいな「そういう事を自分も批判しなくてはならない」みたいな意識が発生して「面白がっていた(実は今も面白がっている)自分」やら「批判もしない自分」を責めなきゃ成らないようなジレンマかな。

 

特急列車内のレイプ事件みたいな悲惨な話になったら、なかなか「見て見ぬふりしたっていいじゃないか、しょうがないじゃないか」にはならなくて逆に「自分は止められるか」「子供に止めろと教えられるか」という想像の方が封印されやすいのだけと、まあニセ科学なんてのは、今のところ、何十万円かのニセ科学商品が売りやすくなったり、人事でわずかに血液型差別が起こったりする程度の話だからジレンマからの逃げが「そんなに批判することかな」の方に向いてしまう面があるように思えるのですよ

技術開発者

こんにちは、皆さん。

 

ニセ科学の批判をしているとSF小説とかファンタジー小説とかとの関連はどうしてもでてきますね。

 

私に言えるのは、優れたSF小説やファンタジー小説に共通するのは、「非科学的な前提」を描きたいのではではなく、その前提の上で、「人間や人間の構築する社会」ょ描きたいという部分だと思っています。

 

私はアシモフのファンデーションシリーズを若い時に読んでから、社会学や経済学に興味が沸いたりしましたし、最近では上橋菜穂子の「夢の守り人」の中の「人間てっのは生きるのに理屈が必要な変な生き物」なんて表現からいろいろと思索を巡らしたりもしました。

 

なんていうか、SF小説やファンタジーが非科学的な世界を描くことのみを意識するなら、もともとフィクションというのは全て疑似であるわけです。ただ「優れた」小説と言われるものにおいて、そのフィクション部分は「道具」にすぎないわけです。なんのためかの道具かというと「人間や人間の作り出す社会」について何か解き明かそうとするための道具であると言えると思います。

 

リスクとベネフィットなんて言葉がありますが、単に架空の背を描くだけでそこに「人間や社会」に対するメッセージの何もないSF小説やファンタジー小説というのは果たしておもしろい小説なのでしょうか?あり得ない前提であるけど、それがあるものとして一つの社会を描き、そのことにより我々人間や人間の作り出す社会に関する何らかのメッセージを際だ出せるというベネフィット持つことで、架空の世界をあるもののごどく描くというリスクを上回るから、SF小説やファンタジー小説は価値を持つのでは無いかと思ったりします。

apj

 技術開発者さんat 2008/01/08 20:29:45の直前の投稿は、kikulogにもマルチポストされているようなので、荒らしとみなして削除しますね。

 すると、フィクションの議論が唐突に出てきてしまったように見えてしまうわけですが、特に誰かのコメントにレスというよりは、独立した読み物として読める内容なので、まあ大丈夫かな、と。