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インチキを教えることを正当化するEM擁護の主張

DNDメルマガvol.469 朝日のEM批判記事検証:青森からの現地報告 というものが出た。この内容があまりに酷いので、引用して批判を加えておくことにする。

 
朝日新聞青森総局の長野剛記者が7月3日付と11日付の2回にわたって青森版に書いたEM批判記事には、琉球大学名誉教授、名桜大学教授でEMの開発者、比嘉照夫氏の「談話」が2度使われた。その「談話」は、比嘉教授に取材の申し込みを一切せずに、ネットから引用して「談話」風に仕立てていたことが分かった。引用した「談話」は、ぶつ切りで意味が十分に伝わらないものになっていた。
朝日新聞の記事というのは、7月3日と7月11日に出されたものである。asahi.comのサイトを見に行ったら移動したのか見えなくなっていた。メモのために引用しておいたので、それを使うことにする(7月3日7月11日 )。
 「談話」と書かれているのは、7月3日の記事で
EM菌の効果について、開発者の比嘉照夫・琉球大名誉教授は「重力波と想定される波動によるもの」と主張する。
7月11日の記事で
開発者の比嘉照夫・琉球大名誉教授は、効果は「重力波と想定される波動による」と説明する。
と書かれて居る部分になる。内容はほとんど同じである。これがどこから来たかは、「朝日新聞によるEM批判記事、への反論記事について検討する」の最後の方にまとめられている。
 また、この引用のされかたについては、ごく普通の、カギ括弧でくくっての短いフレーズの引用のみで、比嘉氏の著書あるいは過去の発言を記録したものからただ単に引用されただけのように見え、「「談話」風に仕立て」たようには見えない。
引用した元の文章は、比嘉氏が2007年にゲストでスピーチしたもので、スピーチのテーマが「EMや波動はエセ科学か」だった。根拠のない批判を繰り返す国立大学の准教授を例に挙げて、比嘉氏は確かな検証もせず偏見で決めつけることの軽率さを問題視した内容だった。そういうスピーチの肝心のところは1行も触れない。
2007年のスピーチだけではなく、「朝日新聞によるEM批判記事、への反論記事について検討する」のリストには山ほど効果の原因が重力波だと比嘉氏が主張した証拠が出て来ている。EM情報室ウェブマガジンにおいて比嘉氏は何回もこの主張を繰り返している。従ってこれは比嘉氏の主張のうちの主要な部分とみなしても良いだろう。
 「比嘉氏は確かな検証もせず偏見で決めつけることの軽率さを問題視」とあり、これが「肝心の所」だそうだ。しかし,自然科学において証拠を示すのは、新規なアイデアを提唱する側の仕事である。「検証もせずに決めつけるな」というが、これは、先にとんでもないアイデアを言い張っておいて間違いだと指摘されたら証明してみろと立証責任を他人に押しつける、ニセ科学に典型的なロジックである。つまり「肝心の所」=ニセ科学に典型的なロジック、ということになる。
長野記者は、比嘉氏がこのスピーチで批判した准教授と同じ過ちをやっているのだ。そのことすらも気づかずに引用したのなら、これはある種のパロディですよね。わかって引用したら、悪質だ。もっと最近のスピーチはいくらでもあるのに、なぜ、5年前のものなのだろうか。7月3日付でEM批判のコメントを出した長崎大学の准教授のEM批判のパワーポイントを使うから、こんなおかしなことになってしまうのだろう、と推察する。
引用元が2007年のスピーチであったとしても、その後何度もEM情報室ウェブマガジンに類似のフレーズが登場するのだから、別におかしくはないし作為も 無い。たとえば2009年の「EMの本質的な効果は改めて述べるまでもなく蘇生の法則、すなわちシントロピーを支える抗酸化作用と非イオン作用と重力波と想定される三次元の波動作用によるものです。」を引用していれば文句は無かったということなのだろうか。つまりは重力波だけでは不足なのでもっと効果の説明を増やせということなのか。
長野記者がネットから引用した比嘉氏の「談話」とは、「重力波と想定される波動によるもの」とわずか2行足らずの短い文で、俳句より字数が少ない。これでは意味不明でしょう。それを繰り返し使って、「理論も現代科学と相いれない」として「非科学的」との批判があると断じた。まるでカルト扱いだ。何かしら背筋がひやりとする意図的なものを感じますね。
もし、ウェブマガジンの方からもっと長い内容を引用していたとしても、「理論も現代科学と相容れない」という結論には何の変更もない。「EMの本質的な効果は改めて述べるまでもなく蘇生の法則、すなわちシントロピーを支える抗酸化作用と非イオン作用と重力波と想定される三次元の波動作用によるものです。」などという文言自体、個別の単語は確かに理化学事典あたりに出ているかもしれないが、科学に関する記述としては全く意味不明である。
顔なじみの教授から「非科学的だ」との談話を引き出して、見出しに「非科学的だ」と打つ。これはえげつない誇張だ。阪大教授の菊池誠氏は、EM批判の急先鋒だし、もうひとりコメントを出した長崎大学准教授の長島雅裕氏は、阪大の大学院時代、菊池氏の授業を受けた"教え子"という関係だ。EM批判のコメントをふたり揃えながらEMを擁護する学者のコメントは載せていない。開発者の比嘉氏のコメントでバランスをとったつもりなのだろうが、そのコメントがネットから無断で引用というのだから、著しく公平を欠いた記事と言わざるを得ない。
私は、菊池氏とは師弟関係にあったことなど一度も無い(一時的にウェブサイトを居候させてもらったことならある)ので、堂々と批判に加わることにする。
 急ぎ、青森に行った。記事の検証のため長野記者が取材した現場を回った。「談話」を取材もせずに無断で仕立てるくらいだから、記者の取材ぶりはおおよそ想像がついた。すると、案の定と言うか、もっぱら電話取材に頼っているうえ取材先に不快な思いをさせていた。まず取材先に取材の趣旨を正しく伝えていない。取材と称してEMを使っている学校や自治体に電話をかけては、「EMの効果は科学的に疑問」と触れ回って、窓口の女性教師らにEMの使用を止めるように圧力をかけていたこともわかった。
随分と先入観に満ちた後追いを始められたらしい。この記事の一番最初に「時々、偏向した報道が世間の批判を浴びることになるが、公正な取材を心がけることには誰も異論はなかろう。」と書いておきながら、ご自身は先入観を持って取材を始めたということを書いているわけで、まあ鏡を見ろとしか言いようがない。
プール開きを控えた6月20日に、子供たちと一緒に水を抜いたり、黒ずんだ藻を洗ったり、する。その1ケ月前にプールにEMを流しておくだけだ。汚れが、よく落ちる。軽くこすっただけでも壁面のくすみがきれいになった。EMなら害がないので安心だ、とみんな口にした。塩素系の洗剤の使用も少量で済む。経費もかからないのだ。多賀台小学校のようにプールの清掃をEMで行っている学校は全国に普及し1500ケ所に及んでいる。
これでは、EMを流した場合とそうでなかった場合の比較ができない。また、普及した数を誇っているようだが、たとえばちょっと前には「マイナスイオン」が全国を席巻していた。1500ヶ所程度ではない場所でグッズが使われていたが、結局、宣伝の合理的根拠が示されないままに終わってしまった。数の上ではEM菌はそのマイナスイオンに圧倒的に負けている。受け入れやすいストーリーと宣伝さえあれば、根拠の怪しいものでも使われ始めるので、数を自慢したって意味が無い。
お宅では、EM菌を使った授業をしているが、どうしてEM菌なのか、という。環境を考えるという意味もあってやっています、と言ったら、どういう環境なのか、とたたみかけてきて、岡山県環境保健センターなどの公的機関が出している報告書では、川の浄化でも効果が無いって実証されているのだが、ご存じか、といい、EMの根拠をちゃんと検証しているのかとか、責めたてられた。
「責め立てた」ことを問題にするなら、他に長野記者が何を言ったのか、責め立てたことがわかるようにきちんと書くべきだろう。「知っているのか」「検証しているのか」だけならば、単なる質問に過ぎない。まあ、その程度のことを聞かれただけで責め立てられたと主観的に思う人が居ることは否定しないが、長野記者を批判する目的で取材しても責め立てた具体的内容が書けないのなら、この部分は印象操作とみなすしかない。
そんな検証している場合じゃないですよね、私達はね、この記者は何を言っているんだろうと思ってしまった、という。うち学校では川に流すとか、培養して環境に使うとか、には力は入れていない、と返した。
「環境を考える」ということも考えているが川にもそのほかの環境にも使っていない、と。一体何がしたいのかよくわからない。「そんな検証している場合じゃない」って、そんなに慌ててEMを使わなければならない理由が何かあるのだろうか。
「EMをプールに入れておくときれいになるし掃除が楽ですよ」と説明したら、今度は、「それでほんとにきれいになるんでしょうか」と聞く。「EMを使わなかったプールの掃除の時と、使った時の検証というのは出来ないんじゃないか」って再び否定的に言うので、私の前任校と比べて体験的に知っています、多くの先生方がそう口にされます、と言い返した。そうしたら、記者は、なんといったと思いますか。
それは「否定的」なんじゃなくて、効果の有無を確認する時には当然しておかないといけなかったことである。前任校と比べても条件が違うので、掃除が楽になったとしてもEM菌の効果かどうかはわからないだろう。
「プールの材質が違うんじゃないですか」という。この記者は、なんの取材をしているのか、だんだんあやしくなってきた。自分で、プールの現場も確かめもせず、ただ電話でケチをつけているように感じたので、プールの材質なんかどこも同じでしょ、市がやっているのだから。多賀台だけプールに汚れが落ちやすい特殊な材質を使う訳ないでしょうって、たしなめた。
本当にEMによる効果なのかどうかを知るためには、長野記者の質問は当然の内容だろう。そのような確認はEMを導入する前にしておくべきことである。この質問を「ケチをつけている」と受け取るのであれば、この先生には自然科学の素養やセンスが全く無いことを意味している。
  このような質問があったときにこれこれの効果がありますと答えられるだけの材料をそろえもせずに飛びついたこの先生の方に問題がある。義務教育の場に不確かなものを持ち込んではいけない。
  別の教師の発言はさらにひどい。
「効果があるかって聞かれれば、比較検証していないのであるって明言はできない。ただ、自然環境の中でEMの効果を正確に検証出来るかって言ったら、それはEMの効果かもしれないし、他の効果かもしれない。そんな事僕たちが検証する立場ではない。学校としては、環境教育の一環としてやっていて、EMに効果があるかどうか云々よりは、子供たちの問題解決の力を養うというのが目的なんです。今教えている内容全て正しいか、科学的に検証したか、どうかって言われたら、そんな事を考えたら何も教育の教材に使えないでしょう。近隣に一生懸命やって下さっている善意の方々がいて、僕たちも何かしら環境保全の為にやらなければならないというところを子供たちに伝えたい。それだけですよ。それが違うと言われたら、教育自体の否定になりますから」と、慎重に言葉を選んだ。
つまり効果の検証はできないしするつもりもない代物をつかって環境教育をする、と主要しているのだ。環境教育とは、効果がはっきりしないものを使ってもできるとこの教師は考えている。科学的に検証していない、効果があるかないかわからないものを使う経験をさせたのでは、子供たちに問題解決の力などつくはずがない。こんな教育を受けたら、将来、また別の効果のはっきりしないものに手をだして問題をこじらせるに決まっている。現実と向き合って、効果があることを確認した物や手法を適切に使う、というのでないと環境問題など解決できない。
 さらにいうと善意は間違った行為に対する免罪符にはならない。学校で教えるべきことは、たとえ善意があってもとった方法が間違っていたら被害が広がったり責任を問われたりする、という現実の方ではないか。善意があれば許されるという価値観を教え込むことこそ、知識の軽視であり教育の放棄に他ならない。善意が全てを解決するという妄想は、教育現場にとっては害毒に他ならない。さっさと捨て去っていただきたい。
 義務教育で教える内容には、あやふやな部分があってはいけない。指導要領と検定教科書で内容に縛りをかけているのは、このような教師が現場に居ても、子供たちに十分よく確認された内容を伝えるためである。選別眼が無いなら指導要領以上のことはするべきではない。
 工藤さんは、いやあ、あんな風に書かれるとは夢にも思わなかった。心配して学校に電話したら、学校は記事に気づいていなかった。誰も朝日新聞を取っていなかったね。ネットでみた教員のひとりがコピーして回したら、なんでこんな記事になるの、と多くが首をひねった。学校ではEMへの批判の声はなにもなかった。あったのは、むしろ朝日の記者の取材手法であり、偏向した記事にたいしてだった。
根拠のあやふやなものを義務教育に持ち込むな、ということすらチェックできないほど学校の力が落ちていることの方が問題。
EMの効果かどうか、検証したのか、とか、アホらしいことをいきなり質問するだろうか。大切なことは、この澄み切ったプールで子供たちが、安全にそして元気に水しぶきをあげられるかどうかだろう。清掃が生き届いた清潔なプールは、教育現場にいま何が大切か、を無言のうちに伝えている。百聞は一見に如かず、記事は足で書くことの大切さを教えている。
この部分はこの記事の筆者の意見だが、議論がすりかえられている。義務教育の場に効果のはっきりしないものを検証なしに持ち込むことが問題であって、プールが清掃されているかどうかは関係がない。
 しかも、この筆者は、効果の検証はアホらしいこと、と自分で認めている。つまり、EM菌の効果の検証が大事なことであると思っていないのだろう。薦める側がその程度にしか思っていないものを、何でありがたがって使わなければいけないのか。
長野記者は、このプールをみていない。手を抜いたのではない。EMによる清潔なプールは、長野記者が狙う記事の構成には不都合な素材だったのであろう。だから意図的に記事にはしないのである。これを偏向といったら言い過ぎだろうか。
プールはなるほど綺麗だが、検証が主観のみで終わっているのだから、いくらプールを見たってそれがEM菌の効果だとはいえない。不都合でもなんでもなく、検証がいい加減過ぎて、EM菌の効果を云々するために全く使えないというだけ。
開口一番、記事にあるような「顕著な改善は確認されなかった」とは説明していません、という。伊藤さんらが口にしたのは、「明瞭な傾向は確認できなかった」というものだった。記事は、調査結果と事実が違うのだ。長野記者は、事実を正確にとらえきれていないふしがある。意図的に事実をゆがめたとしたら、これは誤報になる。
記事は編集して書くので、引用ではなく長野記者の言葉で書かれたのならば、内容に違いがなければ誤報とはいえない。明瞭な傾向は確認できなかった、とあるが、目立った効果が無かったことに違いはない。  青森県の報告書に関する記述からは、EMの効果は無視できる程度であることがうかがえる。
うれしいことにねぇ、保護者の大半が継続を訴えてきた。これまでやって子供たちも環境の大切さを体験的に学んでいるんだから、ぜひ、続けてください、と。校長に一任しますという声も届いた。新聞記事なんか、気にすることはない、という励ましも続いた。大内校長は胸がつまった。長くEMを続けよう、という気持ちを強くした。
校長の見せた資料が問題だろう。EMに効果無しとする実験結果や、批判的な意見もきちんと紹介し、対照実験による結果の検証もやってこなかったし、今後もできそうにないことを説明した上での同意なのか。効果のはっきりしないEM菌を川に投入することが、逆に環境負荷を上げている可能性があることまで説明したのか。
 
  EM菌の提唱者の比嘉さんの非科学言説に対しては内部からの批判もせずそのままたれ流し、環境教育に使えるとしつつも本当に効果があるのかどうかの確認は怠り、情緒を優先して教育現場で使うということが本当の問題なのである。こんなものを教材にしたら、説明が非科学で意味不明だろうが効果の確認を怠ろうが情緒さえ認められればいいという人間を養成する結果にしかならない。社会を担っていく人を育てる場所で、これは大変にまずい。
 
 少し前に、義務教育の道徳に「水からの伝言」が入り込んだ。あのときは、「水にありがとうと書いて見せると6角形の結晶ができ、ばかやろうと書いて見せると形のはっきりしない結晶ができる」という与太話を材料に、人間の体にも水がたくさんあるので友達にはきれいな言葉を使いましょう、という教育が行われた。情緒を操るためなら非科学でもオカルトでも使うという教員が居ることがはっきりすることになった。
 
 EM菌も構造は同じで、事実の確認はないがしろにされ、情緒だけを尊重する方向で導入されている。こんなもので教育されたのでは、合理的な思考能力は育たない。
 
 EMが使えるとしたら、提唱者の非科学宣伝をまず切り離し、どのような土壌や条件で使った時にどんな効果があるのか確認した上で、条件を満たすところにのみ適切な量使う、ということが行われた場合だろう。見境なく川にぶち込めばいいというものではない。また、既に他種類の菌が居る環境中に新たにいろんな菌をまぜたものを投入した時に、最終的にどうなるかということの検証をしないで環境で使うということは、たとえば、「撒いた菌がそのままそこで働く」といった微生物相についての誤解を児童に植え付けかねない。
 
 効果のはっきりしない、効果の出る条件がじゅうぶん確認されていない状態でEMを義務教育の場に持ち込むことは、するべきではないことである。