「波動」系水商売を斬るー量子力学の正しい理解のために(2004/11/11)
既に、「TOSSランドへのコメント」にも書いたように、水の結晶写真で水の評価をしたり、水が音楽や言葉を理解したりするかのような宣伝がなされている。この宣伝を行っているのは、江本勝氏で、「水からの伝言」に始まる写真集や書籍を出版している。
最近ではこの話が登場する映画が作られたようである。映画のタイトルは、「What the Bleep Do You Know? 」で、日本では来年3月か4月の公開が予定されているようだ。この映画には、いろんな科学者が登場するが、そのほとんどは、まじめにquantum physicsを語っていているとのことだ(伝聞になっているのは、映画が現在アメリカとカナダで公開中であり、アメリカ在住の方から情報をいただいたからである)。その中に、江本氏の波動の話が混じっていることが大問題なのである。つまり、他の科学者達の信憑性の高い話を背景にして、quantum physicsとは何の関係もないデタラメが、日本で普及する可能性が出てきたからである。おそらく、江本氏も、自説を宣伝するのにこの映画を積極的に使うことが予想される。以下、何がおかしいかについて議論する。
この一連の宣伝の背景にあるのが「波動」である。
「水からの伝言」には,「波動」そのものについてはそんなに詳しい説明が書かれていない。そこで,この本を宣伝している公式ウェブサイトの「波動とは何か」という説明を見てみると、そこには以下のように書かれている。
量子力学という最先端の物理学により物質の根源が分子−原子から、さらに小さい「素粒子」というものであることが説き明かされつつあります。原子や素粒子は微弱ながら絶えず振動しています。
その振動を「波動」と呼び、全ての物質や世の中の現象はこの波動に始まっているといえます。
こんなふうに書かれていると、いかにも、現在の物理学に基づいているような気がしてくる。ところが、この「波動」は,私たちが普段見慣れている波とも,音波とも,電磁波とも違うし,ましてや原子や素粒子を記述する量子力学で出てくる物質の波動性の話とも無関係、それどころか、現在の量子力学の結果と真っ向から矛盾する内容なのだ。なお、量子力学でいうところの波動が物質の性質の元になっていることは確かだが、世の中の現象の元になっているわけではないので、むやみな拡大解釈はしないように。
まず、原子や素粒子の「振動」は,普段、私たちが日常生活で目にするような、バネの振動のようなものではない。
原子や素粒子を記述する方程式は、量子力学の世界では,波動方程式と呼ばれるものである。時間と空間の微分が出てくる微分方程式で、その上複素数がかかっているという、その筋の人以外にとってはあまり見慣れない形をしている。この波動方程式=運動方程式を解くと、波動関数というものが出てくる。その波動関数にも、やっぱり複素数が含まれていて、そのままでは実験結果と結びつかない。量子力学の波には、振動する実体もないし媒体もない。ある粒子の存在確率の分布の様子をあらわしているだけである。
一方、
普通に水面に立っている波を表す方程式を作ると、同じように時間と空間の微分が出てくる方程式になるが、こちらを解いた場合は複素数は出てこないし、解いた結果得られる波動関数は、観測できる波の運動に結びついている。つまり、水のどのあたりで水面が上下するかとか、波の山がどう伝わっていくかということがそのまま出てくる。
このように、「波動方程式」という名前は同じであっても、共通点は「時間と空間の微分が式の中に入っている」こと位で、その実態はまるで違うのだ。
原子や素粒子の波動方程式を解いて得られた波動関数は,普段我々が想像しているような振動を、原子や素粒子が行っていることを意味していない。物理的に意味があるのは実際に測定できる量であって,波動関数そのものではない。物理的に意味があるのは、得られた波動関数を使って計算される,原子や素粒子の運動量やエネルギーの値である。
量子力学は,高校までの物理学には出てこないし,大学でも,理工系の学部に行って、物理や化学や電気電子工学・材料工学といった分野を専攻しないと学ぶことがない。そのため,一般の人が上に引用したような「波動」の説明を読んで,物理学に基づいていると思ってしまうのも無理からぬことである。量子力学の一般向け解説書も出ているが,注意して読まないと,波動関数が数式としては波を記述する形をしていても実数ではなく複素数の波で,普段我々がイメージするような波ではない,ということに気付かないかもしれない。さらに,一般向けの量子力学の解説本では,数式をできるだけ出さなずに説明するという傾向があるから,「波動関数」という名前をみただけで,原子や素粒子に普段知っているような波や振動のようなものが対応するのだと思ってしまうかもしれない。
「波動とは何か」には、さらに、次のように書かれている。
人もまた、自分自身から様々な波動を出しています。「あの人とは気が合う」などという場合は、相手があなたと同じような波動を持っているということになります。科学とは何の関係もないたとえ話が出ている。確かに,人それぞれ個性が違うから,気の合う人とそうでない人がいることは確かである。しかし,それを,「波動」というものを持ちだして説明することは,人付き合いする上でも適切ではない。人の個性は物理現象ではないし,ましてや測定して数値で表せるものでも方程式で書けるものでもない。
さらに,この「波動」が、最初に書かれているような量子力学で出てくる波動のことだとすると,そもそも人には適用できない。粒子の波動性が問題になるのは,素粒子のサイズ程度のミクロなスケールで観測したときだけである。(正確に言うと、量子力学的な効果がマクロなスケールで見える例外に,超伝導と超流動がある。しかし,これらの現象でも,物質が振動しているわけではない。)「人が波動を出している」というときの「人」とは人体そのもののことだから,これは物理学的にはマクロな系ということになる。人体をそのまま見たり,人と人の関わりを考えている限り,量子力学で出てくる物質の波動性があらわれることはない。
同じサイト内での,水に関する記述はこんな具合だ。この考え方が,一連の結晶写真集や解説書のもとになっている。
生命は水から誕生したと言われるように、水のない所には生命が存在し得ません。
水は、私たちの最も身近な存在にもかかわらず、その本質的なことが解明されてない物質です。 しかし、水の科学の最前線では、水はただ単に物質を溶かし運ぶ、という受動的なものではなくエネルギーや情報を積極的に媒介するものであるということが分かってきました。
つまり水は、波動情報を記憶させるのに最も適した物質であり、生命生体の波動をコントロールする大きな役割を担っています。
水は,他の液体と比べると変わった性質をたくさん持っている。たとえば,水が0℃で凍って100℃で沸騰するが,水の分子が小さいことを考えると,沸点は0℃以下になり,融点もマイナス数十℃になってもおかしくはない。実際、水と似た化合物では、沸点や融点は0℃よりずっと低い。水が0℃で凍って100℃で沸騰するのは,水の分子の間に強い相互作用があるからだ。この相互作用が他の液体に比べて極端に強いことが,水を完全に記述することが難しい理由の1つである。また,氷が水に浮くということも,変わった性質の1つである。他の液体では,温度を下げて液体の一部が固体になると,できた固体は液体の底に沈んでしまう。
しかし,いくら水が変わった性質を持つといっても,それは、通常の科学を逸脱するようなものではない。変わり具合は,これまでに我々が知っている科学で説明可能な範囲にある。今までのところ、水の変わった性質を説明するために,科学の枠組み自体を変えなければならないという実験的証拠は何もない。
第一、水の科学の最前線では,水が,エネルギーや情報を積極的に媒介するという実験結果は報告されていない。私も、水や液体の研究を続けているが、まともな学会や論文誌でこんな話が出たのは見たことがない。この「最前線」って一体ドコのことなんだろうと思う。
私たちの体の中で起きているさまざまな化学反応には水が使われているし,生き物が作り出す蛋白質は水分子がくっつくことで,構造を保って機能を発揮ししている。この意味では,水が,物質を溶かし運ぶ以上の役割をしている。これらの性質は,水がH2O分子であることによって出てきている。つまり,その水分子の形や分子内の電気的偏りから,他の分子とどんなふうにくっつきやすいかが決まっている。また、水が酸素と水素からできていて,ばらばらにするのには特定の化学反応を起こさせなければならないという性質を持つことから,水がどんな化学反応に関与できるかが決まってしまう。水はどこまでいってもH2Oでしかない。この化学式から決まる形,大きさ,電荷の偏り,酸素と水素の結合の強さなどによって性質が決まっている。
水分子H2Oは,すべて同じ性質を持っている。きれいなわき水の水分子も下水の水分子も,日本の水もアメリカの水も,水分子の周りに他に何があるかという違いだけで,水分子そのものは全く同じ形と大きさと質量を持ち,物理的・化学的性質も同じである。これは,水を構成している原子の性質が,世界中どこででも同じであることによる。日本の水素原子とアメリカの水素原子には何の違いもないし,酸素原子についても同じである。分子を構成している原子が,それぞれ全く同じ性質を持つから,原子の組み合わせでできている分子の性質も,世界中どこででも同じになる。
ここで、「同じ」「区別する」ということの意味を少し考えてみよう。
同じ大きさと図案のコーヒーカップのセットから、カップを2つ選んで、「細部まで全く同じ」かどうかを確認せよと言われたらどうすればいいだろう?重さを精密に測るとか、拡大してみて微妙な歪みや表面の傷が違っていないか調べるとか、図案の印刷がちょっとだけずれたりかすれたりしていないか丁寧に比べるといった方法が考えられる。こういう方法で比較すると、必ずどこかに違いが見つかるだろう。表面についたわずかな傷のパターンまで完全に同一だということは、コーヒーカップ程度の大きさのものになってくると、まずあり得ないことである。これが、人間を区別しようということになると、もっと楽で、見た目(顔つき、体つき)を見たり、体内の構造(骨の形とか組織の細胞のつながり具合とか)を見たり、記憶(固有の情報)を調べれば、容易に区別できる。
一方、電子や原子が2つあった場合には、どうやって区別できるだろうか。まず、電子、陽子、中性子といった粒子の区別をするには、それぞれの質量、電荷、スピン、といった量を比較するしかない。これらの量は粒子固有の量であり、違った値であれば粒子の種類が違うことになる。原子核の場合も同じで、質量、電荷、スピンが違っていれば、違う元素だったり、同じ元素でも同位体という別のものになってしまう。
原子を比べる場合は、原子核が同じなら、電子の状態で区別するしかない。ところが、電子は、エネルギーだけで決まる励起状態や基底状態の違いがあるだけだ。外からうまくエネルギーを与えると励起状態になるが、これをそのまま保つ方法は存在せず、放っておくとすぐ元の基底状態に戻ってしまう。とても、何かの情報を蓄えることなどできない。
では、分子を持ってきたらどうか。
ある分子と別の同種の分子を構成する原子間の距離や角度は、原子や電子の種類によって決まっており、どの分子でも同じである。だから、「情報・記憶」によって変わるものではない。(注:もし、分子自身に情報を記録することができるとしたら、もともと、2種類以上の構造をとれるように設計された分子が、その構造を変えるという方法でなら可能だろう。しかしこれは、水の場合には全く当てはまらない)
分子単独ではできないのなら、複数の分子の配列によって情報を記憶することを考えたらどうなるだろうか。水の場合を考えると、分子間水素結合のネットワークは1ピコ秒のオーダーで生成・消滅しているから、構造を保持できない。むしろ、すぐに以前の状態を忘れてしまうものだといってよい。
もともと、原子や分子には、「情報・記憶」を保持するような自由度が無いのだ。
原子や分子において、違いを記述するための自由度が元々少ない理由は、ミクロな世界では不確定性関係というものがあって、あるスケール以下のことがらを測定して区別できないということによる。この、不確定であるということは、物質が波動性を持つということそのものである。
原子や素粒子がどういう状態かを知るには,それがどこに存在していて,どんなふうに動いているかをまず調べる必要がある。ところが,原子や素粒子は,存在場所(位置)と動き(運動量)を同時に決めることができないことがわかっている。これは、日常の経験に反することである。
例えば、野球のボールの運動を知るには,明るいところで精密なカメラを使って測定すればわかる。測定をしたことで,野球のボールの運動に変化は起きないから,位置や速度を両方とも求められる。しかし,原子や素粒子の世界では状況が異なっている。原子のまわりの電子がどうなっているか知るために,まずは見てみようと思って光を当てたとすると,電子の運動が変わってしまい,原子の外に飛び出してしまうことすら起きる。つまり,見ようとして測定したことによって,見たいものの状態が変わってしまうのだ。このように,位置と運動量を同時に正確に測定することができないという性質は,原子や素粒子すべてに共通のものなので,この性質を示すことを不確定性原理、あるいは不確定性関係と呼んでいる。
原子や電子といった素粒子の状態が波動方程式で書ける、すなわち波としての性質を持つということと、ある空間範囲に広がって存在するためそれより細かい精度で測定しても違いが出てこないということは、同じことの別の表現である。
結局、
原子や素粒子の状態を記述するときには,「ある空間的範囲に存在していて,ある大きさ前後の運動量を持つ」という,ちょっと曖昧な表し方しかできないのだ(これ以外にも,エネルギーと時間を同時に正確に測定できない,という不確定性関係が成り立つことが知られている)。そして,このような不確定性があることによって,不確定性の幅より小さな違いは測定しても何も見えないから,その結果として,何をどんな方法で測定しても,測定条件が同じなら全ての同種の元素の原子は同一の性質を示すことになる。
江本氏が主張している「波動」のもとになっているのは,量子力学の成果である「原子や素粒子が波であるという性質」である。ところが、波であるということは,存在場所が1点に決まらないということを意味している。つまり,存在がある空間範囲に広がっていることになる。原子や素粒子を波であらわすということは,不確定性関係が成り立つことを別の表現で言っているに過ぎない。原子や素粒子が波であらわされると主張した,まさにそのことによって,不確定性の幅より小さな構造を持つ「振動」を考えることは無意味となり,個別の原子は区別できず全て同一の性質を持つことになり,その結果,水分子も全て同一の性質を持つことになる。
仮に,水分子が何らかの情報を記憶するのであれば,情報を記憶した水分子とそうでない水分子を測定したときに何か違いが出てこなければおかしい。水分子を構成している原子の大きさや形は同じだから,情報を記憶するメカニズムがあるとするならば,それよりも小さな構造の部分に違いがあるはずだということになる。ところが,そのような違いが無いことは,原子や素粒子が波としての性質を持つことによって保証されている。原子や素粒子の波動性がある限り,いかなる意味でも水分子が何らかの情報を記憶することはない。
量子力学を引用し,原子や素粒子の波動性からの連想で,「波動」を人がやりとりしたり水に記憶させたりできると考えた江本氏の論理は,それ自体が内部矛盾したものであり、破綻しているといってよい。
液体としての水は,熱運動によって分子の位置も速度も乱雑に変わっている。10のマイナス12乗秒以上にわたって安定に保たれるような水分子の配置はない。水分子の集合である液体としての水が何らかの情報を記憶することもない。
これを書くきっかけになったのは、最近、江本氏が、水結晶の映画を作って海外でプロモーションしているという情報をメールでいただいたことによる。話によれば、映画には、いろんな科学者に対するインタビューが含まれているらしい。注意しておきたいのは、たとえどういう有名な人にインタビューをしたとしても、江本氏の「波動」の理論そのものが科学的に正しいかどうかとは全く無関係であるということだ。あるいは、まともな科学者であっても、あまりよく考えずに映画に登場したりすることがあるという教訓を得ることになるのかもしれない。