産学連携発の誤解?(2006/01/13)
問題の所在
現在、全国の大学で産学連携が進められている。そのこと自体は良いのだが、数が増えてくると、中にはおかしなものも出てくる。
まず、2006/01/13付けの北海道新聞の記事を引用する。赤字の部分は私が色をつけた。
道内保健所、岩盤浴の効能広告に「待った」 薬事法に抵触の恐れ 2006/01/13 09:04
岩盤浴の鉱石として知られる「ブラックシリカ」の販売広告をめぐり、札幌市保健所や江差保健所が、主要産地の桧山管内上ノ国町に全国唯一の採掘権を持つ札幌市内の土木業者や、同町の第3セクター「上ノ国町観光振興公社」(社長・工藤昇町長)に対し、未承認なのに医療効果をうたったとして、薬事法に基づき宣伝内容を修正するよう指導していたことが、12日分かった。
ほかにも、札幌市東区のホテル業者が同法違反容疑で道警に逮捕された昨年十一月以降、同市内などの少なくとも五業者が、広告の表現が違反している可能性があるとして自主的に道などへ相談していたことが判明。ブラックシリカをめぐり、行き過ぎ広告が横行していた実態が浮き彫りとなった。道は「多くの業者が、薬事法について認識不足。不安がある場合は、広告の掲載前に相談して」と話している。
道によると、シリカは厚生労働省から医療機器として承認を得ておらず、具体的な病名や体の組織機能に効果があるような広告表現などは禁止されている。
だが、採掘権を持つ札幌の土木業者は、インターネットのホームページ(HP)で、シリカの説明について「免疫機能を高め、自律神経の働きの向上や細胞の新陳代謝を活発化する」などと記載。HPには、原石のほか、加工したネックレス、サポーターなど商品を紹介するページもあり、ネットで購入できる仕組みだった。
また、観光公社は、札幌の土木業者からシリカを仕入れて販売。二○○四年ごろから、公社のHPで、シリカの「正規取扱店」と掲載し、商品注文のページでは、体に当てるシートについて「肩こり、腰痛、片頭痛など痛みのある部分に直接あててください」などと書かれていた。
北海道新聞の取材に対して、土木業者は「コメントできない」とし、観光公社は「違法の認識はなかった」と話した。
道医務薬務課によると、摘発直後に相談した業者のほとんどが、アクセサリーなどのチラシの表現に違反があったといい、相談後に内容を修正したとみられる。広告内容で違法とされたのは、シリカが発する遠赤外線と効能を結びつけたケースが多かった。
シリカの性質について詳しい北大の荒磯恒久教授は「遠赤外線が水の構造に変化を与えることは証明されているが、医学的な効果は証明されていない」と指摘したうえで、「国や自治体が医学的な効能を実証する必要がある」と強調している。
業界関係者によると、シリカは二○○三年ごろから、岩盤浴用の鉱石としてブームとなった。岩盤浴の施設は、全国に約七百施設、うち道内に約百五十施設あり、道内の多くでシリカが使われているという。医療効果を宣伝しない限り、利用することに問題はない。
薬事法云々はお役所の仕事だからここでは議論しない。問題は、北大の荒磯教授が「遠赤外線が水の構造に変化を与える」という、根拠のないことを堂々と地元新聞に向かってコメントしているということにある。報道が事実であれば、ご本人は間違ったことを素で信じているということになる。ただ、いつぞやの京都新聞のマイナスイオン報道の件もあるから、新聞記事がおかしいのか荒磯教授がおかしいのかの判断は留保し、新たな情報があればこの文書を訂正することにしたい。
遠赤外線が水の構造に変化を与えている様子がないことの根拠は、広く行われている水の分光実験から言えることである。
文中の「遠赤外線」が具体的にどの波長の範囲を指すのかはっきりしないので、広い方だと考えることにする。遠赤外線協会の定義では、分光実験では赤外領域である水のOH変角振動の領域までを「遠赤外線」と呼んでいるので、とりあえずこの範囲だとしよう。
これまでに、水の赤外吸収の実験は世界中で行われてきた。赤外吸収(FT-IR)は、分析化学の分野では非常にポピュラーな測定方法で、溶媒を問わず日常的に使われている。吸収測定であるから、実際に赤外線を発生させ、水に当てて測定することになる。もし、水の構造が赤外線で変わるのであれば、赤外吸収測定で得られたデータと、赤外線を照射しない別の方法で得られたデータに矛盾が生じるはずであるが、そのような報告はどこにもない。さらに、最近では遠赤外線領域(THz領域)の光源と検出法の開発が進んでおり、この周波数帯での水の測定も行われている。この実験でも、水に遠赤外線を照射して測定するが、他の実験に比べて異常な結果が出たという報告はこれまでのところないし、遠赤外線の強度や当てる時間によって測定結果が違ってきたという話も無い。
荒磯教授が一体何から情報を得たのかは不明だが、遠赤外線が水の構造に変化を与えるということを支持するまともな実験結果は、これまでのところ、液体の研究分野では何一つ出ていない。ただし、この後に示すように、北大のグループからどう見ても変な論文がJJAPのレターとして出されてはいる。
荒磯教授の経歴を見ると、専門分野が「産学連携学、生物物理学」、これまでの研究が「レーザー分光による生体膜・分子膜の動的性質の研究」「産学連携学の構造と実践への応用に関する研究」となっている。私の専門が「レーザー分光による(低分子の)液体の動的構造の研究」だから、分野としては比較的近い。生体膜・分子膜に対しては、水を含んだ系のFTーIRによる測定も行われているはずで、荒磯教授の実験手法がレーザー分光であったとしても、当然赤外吸収の文献には目を通しているはずである。もし、遠赤外線が水の構造に変化を与えるのであれば「水を含んだ生体膜や分子膜の系の赤外・遠赤外分光実験の結果はすべて、水の構造が変わった後のものを見ている」ことになるのだが、果たして本気でそう考えているのだろうか。私は、高分子の系には手出しをしていないが、少なくとも、「赤外線や遠赤外線で水を含んだ試料を測った結果は水の構造が変わった後のものを見ているから、結果の解釈はそのことをふまえて行え」などという議論がなされているという話は聞いたことがない。
もし、荒磯教授が、遠赤外線が水の構造を変えると考え、かつ自身の研究でもそのことを主張しているのであれば、それは仕方がない。ただし、その考え方では研究が間違った方に行くだろうという忠告をすると同時に、研究途上の確定していない話を研究者のコミュニティから一般社会に出すなというだけのことである。
なお、「国や自治体が医学的な効能を実証する必要がある」は、大学の人間の発言としてあまりにも情けない。北大には医学部があるのだから、自分のところの医学部で医学的な効能を実証するプロジェクトを立ち上げるのが筋である。社会から大学に求められているのは、まさにそこだろうと思うわけで……。
原因はおそらく……
この節の議論はかなり専門的になるので、何のことやらわからないという人は読み飛ばしてもらってかまわない。この節の内容を理解するには、論文のコピーと、液体のX線回折に関する専門書(参考文献に挙げる)が必要である。
「遠赤外線が水の構造を変える」の元ネタは、"Clathlate-like Ordering in Liquid Water Induced by Infrared Irradiation", Jpn. J. Appl. Phys. vol.43 No.11A 2004 pp L 1436-L 1438ではないかと思われる。この論文の共著者の水野氏は、北大工学部所属で、かつては常温核融合の研究をしていた(今もしているかもしれないが)。工学部つながりで、荒磯教授にこの情報が伝わったのではないかと思われる。
実は、液体の研究者からみると、この論文には問題がある。というか問題しかない。おそらく、液体の専門誌に出したら、掲載されることは無かったのではないかと思う。
著者らは、赤外線を当てた水とそうでない水に対して、θー2θ散乱を測定している。2θは40度までである。論文に掲載されたデータを見ると、20度から25度の間に鋭いピークがあり、それ以外の部分の散乱強度は、なだらかな角度依存性を示している。なだらかな部分の強度が、赤外線を当てたものとそうでないもので倍以上も違っている。著者らは、θー2θ散乱のチャートからそのまま、特定の角度と核間距離を対応づけて、水の構造を議論している。
θー2θ散乱の特定の角度がある面からの反射に対応するというのは、固体結晶の場合の話である。液体ではこの考え方は全く通用しない。固体であれば、周期構造を持っているから、特定の散乱角度に出てくるピークが、面間隔と直接対応する。だから、チャートの一部分だけを取り出して議論することができる。しかし、液体の場合は、空間構造が乱雑であるため空間構造の情報が全散乱角度にばらまかれた形で測定結果が得られる。そこから空間構造を得るには、散乱のチャートをそのまま読んだのではだめで、動径分布関数に直す必要がある。その際、情報が抜けるのを防ぐため、可能な限り広い角度範囲で測定をすることが重要である。ともかく、液体のX線回折の実験から構造を議論している論文で、グラフの横軸が角度のまま出ているものは見たことがない。
実は、この論文の共著者の一人に会ったことがある。たまたま北大の研究会に行ったら、上の論文を配っていた。そこで、「もっと広い角度範囲で測定して動径分布関数に直す必要がある。そうでないとまともな結果が出ない」と言ったら「そんな広い範囲で測定する必要はない」という答が返ってきた。このことだけでも、液体のX線回折をまるで理解しておらず、固体結晶の場合と同じに扱っていることがはっきりした。
さらに、散乱強度にも問題がある。X線散乱の散乱強度は電子密度に比例する。論文に掲載された測定範囲では、赤外線を照射した水の散乱強度は、一番大きいもので、そうでない水の散乱強度の倍以上である。鋭いピーク部分はいずれも似たようなふるまいだが、それ以外の部分で全体にわたって倍以上である。無いデータを外挿するのは良くないが、もし、もっと広い角度まで測っても、強度の関係は変わらないのではないかと思いたくなるようなデータが出ている。もし、広い角度まで測って、「全範囲での散乱強度の積分値が赤外線を照射した水ではそうでない水の倍以上」ということになれば、それはそのまま「赤外線を照射したら水の中の電子密度が倍以上に増えた」ことを意味する。これは非現実的である。論文では、この非現実的なデータの強度から、水の構造の変化を議論している。もちろんこんなことはすべきではない。
なお、水のX線回折をやっている人に確認したら、全体の強度が違う理由は光学系の調整が甘かったからではないか?という返事だった。試料の置き方の微妙な違いで簡単に強度が違ってくるのだそうだ。彼らが実際にどういう実験をしたのかわからないから何とも言えない。しかし、私だったら、水の電子密度が何割も変わったことを意味するようなデータを見たら、真っ先に自分の測定を疑う。
なぜこんな論文がJJAPのLetterに通ったのかだが、おそらく、レフェリーが固体のX線回折しか知らなかったから、ということではないかと思う。
いずれにしても、北大のこのグループの実験は、今後「広い角度範囲で測定して動径分布関数になおした結果が提示され」かつ「元データの散乱強度の違いが現実的な範囲に収まっている」ことが確認されるまでは、何かの判断に使ってはいけない。
本来なら、JJAPにComment On...を出すべきなのだが、そこまで手が回らない上、この論文が製品の宣伝に使われ始めたという連絡も以前からあり、今回、北大の産学連携の中心から素で信じる人が出てきた北大の産学連携の担当者がこの論文の共著者なので、まずは、敢えてウェブで問題点を指摘しておく。この先、北大の産学連携の活動を通じて、「赤外線が水の構造を変える」という珍説が産業界に広まる可能性がある。この話を使いたい産業界の方々は、液体の研究者にセカンドオピニオンを求めて欲しい。国内の液体の研究者は、溶液化学研究会に集まっている。
参考文献
- "X-RAY DIFFRACTION of IONS in AQUEOUS SOLUTIONS: HYDRATION and COMPLEX FORMATION", Mauro Magini, CRC Press, ISBN 0-8493-6945-2
- 「水・水溶液系の構造と物性」荒川洌 北海道大学図書刊行会
残念ながら、両方とも品切れ絶版なので、図書館をあたってみてほしい。特に後の方は「お前らの大学で出した本をまずちゃんと読んで勉強しろ」と、例の論文の著者に言いたくなるような内容である。
結論
産学連携を進めるのは結構なことだが、油断していると、今回の遠赤外線話のようなものが世の中に出回ることになる。また、大学の先生の方が油断していて、名前だけちゃっかり使われることもある。自治体、企業を問わず、大学に相談を持ちかける時は相手をよく選ぶべきである。
追記(2006/01/14)
掲示板の方で情報提供があった。関連論文として、"Effect of Far-Infrared Light Irradiation on Water as Observed by X-Ray Diffraction Measurements", Jpn. J. Appl. Phys. Vol. 43, No. 4B, 2004, pp. L545-L547が出ていて、この著者がShigezo Shimokawa, Tetsuro Yokono, Tadahiko Mizuno, Hiroki Tamura, Tomoki Erata and Tsunehisa Araisoである。つまり、記者の誤報でもなんでもなく、荒磯教授は、「赤外線が水の構造を変える」という論文、しかも液体のX線散乱としては間違っている内容のものの共著者をしている。水そのものを変えたという主張で商売をしたい人たちの数は多いので、今後、この話が広まってあちこちで使われる可能性がある。
今回は、JJAPのレターが出版されてしまっているので、間違いに気付くのは、他の水商売理論より難しいだろう。こんな論文を通したJJAPのレフェリーは一体何をしていたのか、大いに疑問である。