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敵と戦うためには正直であるべきだ

Posted on 7月 4th, 2006 in 倉庫 by apj

 早稲田の不正経理&データ捏造をネタにしていたら、ウチでも発覚した模様

山形大医学部の医師が論文捏造 「教授に指示された」
2006年07月03日20時38分

 山形大学医学部(山形市)の麻酔科の医師が学会誌に発表した論文で、一部データを捏造(ねつぞう)していたことが3日、分かった。論文の筆頭執筆者の20代の女性医師は、学部内の調査委員会の聴取に対しデータの捏造を認めたうえで、「当時の麻酔科の指導教授から指示された」と話している。

 論文は婦人科の悪性腫瘍(しゅよう)手術をした82人の患者のうち、大動脈周辺のリンパ節を切除した人の方が、しなかった人よりも、「血清アミラーゼ」の値が高くなり、膵臓(すいぞう)に障害が出る可能性があることを示した。

 論文は「婦人科手術における傍大動脈(ぼうだいどうみゃく)リンパ節郭清が膵(すい)機能に与える影響」。女性医師が大学の医局で医員だった04年に執筆。指導教授ら医局員5人も共同執筆者として名を連ね、05年4月に日本麻酔科学会の準機関誌「麻酔」に掲載された。

 データはいずれも患者のカルテから集めたが、術前のデータが全員分そろわなかったため、一部、正常値に近い値を入れてうめたという。女性医師は「指導教授にデータがないことを相談すると、『正常値を使っておくように』と指示された」と話している。

 同大は学部長ら7人でつくる調査委員会で、事実関係を調べる。

 捏造が倫理的にまずいということは明らかだが、そのことを繰り返し論じても何の抑止力にもならなさそうなので、別の観点から考えてみる。
 すると、ズルをすることによって生じるコストに関する意識が抜けているのではないか?ということに気づく。
 一瞬だけズルをすること、これは誰にでも簡単にできる。ところが、ゴマカシ通すことは難しい。自分一人だけでやって発表する研究なら、ズルをしても滅多にバレることはないだろうし、追究されても過失だと言い張ってごまかせるかもしれないが、学生や院生や共同研究者とやってるときにズルをすると、バレる可能性がかなり高くなる。で、バレたら研究者としては致命傷になるから、リスクは相当に大きい。
 人間、利益が一致している間は裏切らないものである。誰かを巻き込んでズルをしたら、そいつとは将来にわたって絶対に敵対できなくなる。それどころか、味方にしておくだけのエサを与え続ける必要がある。これは相当に神経を使うしコストもかかる。特定の誰かを味方につけたままキープしなければならないという拘束条件は、将来、どこでどういう足かせになるかわかったものではない。敵の多い商売をやっていて、場合によっては手段を選ばず相手を攻撃しなければならないということに気づけば、正直である方が結局コストが安いという結論が出るはずだ。
 報道から見る限り、松本教授のところでは、大勢の部下(院生、ポスドクなど)を抱えた状態で、下が不満を持つような研究室運営をしつつ、不正を同時にやっていたということである。これでは、足を掬ってくれと言っているようなものである。不正行為をやったことが知られているときに、不満分子を抱え込むと、次に何が起きるかは誰にでもわかるだろう。

 私だって、過去に博士論文のテーマ変えで揉めた時、もし教授が最後までテーマ変更を認めなかったら、最後は、教授の研究費目的外利用を公表するぞというカードを切るつもりでいた。指導教員の「弱み」は自分の身を守る手段になり得るというのが、大学院の経験で学んだことである。(だから、内部告発があったとき、告発するよりは教授に圧力をかけて交渉した方が利益を得られたのではないかと思っていた)

 データの捏造をやるというのは、臨戦態勢にあるという自覚が抜けているとしか思えない。

 どうも、正直で誠実であれと説得するためには、「内部と外部に敵がいる」というモデルが効果的なのではないかと思う。道徳ではなく功利的に動けということである。

 これをさらに進めると、次は、「データ捏造の濡れ衣を着せられたときに裁判所で証明できるだけの証拠能力のあるノート・ログの残し方」を追究することになる。

 まあ、もうちょっと倫理や道徳をつかって穏やかにいけるならその方がいいんだけど、それが有効でないとするなら、こういう考え方をしてもいいのではないか。


ここからは旧ブログのコメントです。


by 山本弘 at 2006-07-56 21:39:56
Re:敵と戦うためには正直であるべきだ

 研究の捏造の件、前から同様のことを考えておりました。誰かが追試すればバレる可能性が高いのに、頭のいいはずの学者や研究者がなぜやるんだろうかと。短期的な栄誉さえ得られれば、将来的なリスクなんかどうでもいいと思っているなら、倫理だけでなく論理も欠如してますよね。
 これ、論文捏造だけじゃなく、犯罪など不正行為全般にも当てはまると思います。確かに罪を逃れる人間も一部にはいるけど、発覚して捕まる確率の高さ、それによって蒙る大きな不利益を考えると、正直に生きる方が賢いはず。
 それとも悪いことをする奴は、「バレるはずがない」「自分だけは決して捕まらない」という根拠のない確信を抱いてるんでしょうか。

 学校でもっとゲーム理論を教えれば、犯罪抑止になるかなあ……。


by zorori at 2006-07-10 22:03:10
Re:敵と戦うためには正直であるべきだ

善悪よりも、損得の方が基本的であると私も思います。
衣食足りて礼節を知る。

学問的不正に関する本に出てくる事例は、医学バイオ関係が多いように見えます。もちろん統計があるわけではありませんが。
成功の報酬の多い分野では、失敗のリスクを冒すものが増えるのは、自然な傾向に思えます。
割にあわない不正のようにも、見えますが発覚していない不正もたくさんあるかもしれません。一概に功利的にもばかげた行為とも言えないかもしれません。

不正防止には、報酬に応じた罰ということも必要かと思います。


by HDK at 2006-07-44 22:41:44
Re:敵と戦うためには正直であるべきだ

加賀乙彦「死刑囚の記録」という本には、死刑確定囚145人に対し聞き取り調査を行なっていて、それによると
罪を犯す際に「これをやったら死刑になるかも」と思った囚人はいなかった
とのこと。このことから加賀氏は死刑のいわゆる「一般予防効果」(死刑にあうことを考慮して犯罪を躊躇するだろうと考えること)はない–と結論しています。
この手のことは、サンプル数も少ないし、研究者も少ないのでにわかに受け入れていいものかは疑問がありますけど…

不謹慎極まりないですが、中西先生のリスク分析を犯罪に適用すれば少なくとも殺人と誘拐(未成年者略取などを含む)に関しては、まず冒すリスクに対して得るベネフィットは少ないのではないかと。


by zorori at 2006-07-10 02:33:10
Re:敵と戦うためには正直であるべきだ

>罪を犯す際に「これをやったら死刑になるかも」と思った囚人はいなかったとのこと。このことから加賀氏は死刑のいわゆる「一般予防効果」(死刑にあうことを考慮して犯罪を躊躇するだろうと考えること)はない–と結論しています。

その本は知らないのですが、「死刑になるかも」と犯罪を思いとどまった人の調査もしているのでしょうか?死刑囚だけの調査では結論は出ませんね。
でも、確かに殺人のような犯罪は衝動的なものが多いでしょうから、「一般予防効果」とやらはあまりないのかもしれません。
学者の不正行為程度なら、刑罰を重くすることでの抑止効果はあるような気がします。


by さくま at 2006-07-34 06:28:34
Re:敵と戦うためには正直であるべきだ

>「死刑になるかも」と犯罪を思いとどまった人の調査もしているのでしょうか?

 これは、サンプリング条件の決定がきわめて困難だと思います。『誰しも殺したいやつの一人や二人はいるもんだ』という決まり文句があるくらいですから、極端な話、「死刑になるかも」と犯罪を思い止まった人の数は、死刑になった人の補集合ということにもなりかねませんし。


by 越後屋遼 at 2006-07-23 07:07:23
Re:敵と戦うためには正直であるべきだ

>それとも悪いことをする奴は、「バレるはずがない」「自分だけは決して捕まらない」という根拠のない確信を抱いてるんでしょうか。

そういう人もいるでしょうけど、マンションの耐震偽装のあの人とか、異性に貢ぐために口座のお金を着服した人たちなどは、とてもそういう心理で行動しているとは思えません。

個人的には「ご利用は計画的に」な金融機関を利用して、計画が頓挫してしまう成り行きに近いのではないかと想像する。


by apj at 2006-07-47 07:25:47
Re:敵と戦うためには正直であるべきだ

 死刑になるような犯罪の場合は、「自分が死刑になってもいいからコイツを殺したい」って思う場合もあるんじゃないかと。
 はずみでやっちゃったというのでなければ、それなりに恨みというか情念がないとなかなか殺人は難しい気がするんですが。

 とことん行き当たりばったりだったというのはありそうな話ですよねぇ。


by 杉山真大 at 2006-07-24 07:36:24
Re:敵と戦うためには正直であるべきだ

死刑と言えば、池田小児童殺傷事件の犯人は「死刑になるために沢山子どもを殺した」なんて言ってましたよね。死刑を犯罪抑止のために支持するという面々は、死刑になりたいがために凶悪犯罪を犯す犯罪者も現に存在するという事実をどう見ているのでしょうかね?


by zorori at 2006-07-17 02:40:17
Re:敵と戦うためには正直であるべきだ

>これは、サンプリング条件の決定が極めて困難だと思います。

まあ、そうですよね。読まずに批判するのは気が引けるのですが、HDKさんの紹介の範囲では無意味な調査だと思いました。

A.殺人実行、死刑を考えた(0)
B.殺人実行、死刑は考えなかった(145)
C.殺人を思いとどまった、死刑を考えた(?)
D.殺人を思いとどまった、死刑は考えなかった(?)

A.とB.だけ調査したって、抑止効果について何の知見も得られませんね。たとえば、A.が145人でも抑止効果ありとは言えません。
あえて考えれば、A.が多ければ、刑を重くすることでの抑止効果の可能性が考えられるとは言えるかもしれません。よって、A.が0ということは、その可能性も否定したと言いたいのかな。でも、残念ながら死刑より重い刑はありませんしね。


by 田部勝也 at 2006-07-16 02:50:16
Re:敵と戦うためには正直であるべきだ

死刑の抑止効果についてですけど……。
そもそも、一般の人で、刑罰を犯罪抑止の為のモノと考えている人は、日本では極めて少数派だと感じます。むしろ、被害者の恨みを晴らす仕組みという位置付けなのではないのかなぁ……。

そういえば、TVニュースで、明石市砂浜陥没事故で関係者に無罪判決が出た事について、みのもんた氏が、被害者がいかに苦しんで死んでいったかを激しく熱弁して、この件で誰も罰を受けないのはおかしい、異常だ──と、強く訴えていました。
特に日本のマスコミは、とかく、誰かを晒し挙げ、視聴者の怒りを扇動し、その個人への制裁の形で被害者の恨みを晴らす事を最優先する傾向が強いですよね。どんな事象に対しても、「悪者」である個人を見つけ出し、そいつを叩き潰す事で一件落着とする流れが出来上がってるように見えます。
(余談ですけど、そのお陰で、航空事故調査のような考え方でシステム自体の改善を目指す動きが全く期待できないのが、なんともかんとも……なにか不祥事が起きたときのマスコミの決まり文句は「倫理観がうんぬん」ですからね──倫理観の欠如した人が紛れ込んでも崩壊しない頑健なシステムを構築する事しか問題の解決はないんじゃないのかなぁと思うのですけど)

こういう傾向が隠蔽体質に繋がるわけですけど、こんな社会の価値観にどっぷり浸かった人たちには、単純に「敵と戦うためには正直であるべきだ」と言われても納得しづらいんじゃないかなぁ……とは思います。「目には目を」ならまだしも、「知らないうちに虫を踏み潰していても報復を」になりかねないわけですから。

さて、前置きはこのくらいにして、本題。
apj氏のゲーム理論的な考え方による捏造防止に異論はないのですけど(むしろ激しく共感するのですけど)、内部告発のコストって、どの程度になるものなのでしょうか。

ズルをする人に、ズルをする事によって生じるコストに関する意識が欠如しているのは間違いないと思うのですけど、内部告発をする人は、内部告発をする事によって生じるコストを考えないわけにはいかないですよね。

たとえば、告発者も、世間からは「あいつもグルだった」または逆に「あいつと一緒に仕事をしないほうがいい」といった目で見られる事のほうが多いんじゃないかとか、告発者の将来を危惧しちゃいます。また、ヘタしたら、意識的無意識的にズルに関わってしまっている人たちが束になって潰しにかかるかも知れない(「ちょっと一緒の研究室にいて黙っていたってだけなのに、俺まで同じ吊し上げを食って過剰な制裁を受けたらたまらない」とか思う人たちがいっぱいいてもおかしくない気がする……)。司法はちゃんと守ってくれるか分からない。もちろん、そういった事情は、ズルをする主犯もよく分かっている……。
そうなると、「告発してもうまく立ち回れるか自信がないから、今はおとなしくしておこう。早くここから抜け出せたらイイなぁ……」とか思う弱い人間が大半だとしても、心から非難できない気分なんですよね……。

今の世の中だと、内部告発をしたり、「告発するよりは教授に圧力をかけて交渉(apj氏)」したりするよりも、おとなしく黙ってその場を去る機会をうかがっているほうが、(ゲーム理論的な)得点が高いように思えてしまうのですけど、実際のところ、どんなものなのでしょうか。
そして、こんな唾棄すべき考えを持ってしまうような人が皆無な社会とは、どんなものなのでしょうか。


by zorori at 2006-07-25 02:35:25
Re:敵と戦うためには正直であるべきだ

>被害者の恨みを晴らす仕組みという位置付けなのではないかなぁ・・・・・・。

呉智英氏は、仇討ち復活を主張してますね。もちろん実現の可能性はありませんが、本気で被害者の恨みや命の重さとか考えているのかを知る思考実験にはなります。

本題の内部告発ですが、これができるのは限られたエリートという階級社会的考えが有るのかもしれません。内部告発は医師の職業倫理と関係していて、「私利私欲よりも患者の利益を優先する」というあたりから発展しているようです。現代では専門家が「自分や会社の利益よりも、社会的利益を優先する」となりますが、そんなことは一般庶民には無理で、貴族的エリートだからできるのでしょう。理不尽な特権を得ているエリートなら、理不尽な滅私も釣り合うかもしれません。
でも現代日本社会ではどうなんでしょうかね?私も田部勝也さんがおっしゃるように、不正も内部告発もしないのが、最も安全となるように思います。今だ、「たれこみ」という受け取られ方が強いかもしれません。
内部告発を期待するには、もう少し制度の整備が必要かと思います。