手札を良い状態に保つ
「裁判」カテゴリーにするかニセ科学の話題にするかで迷ったのだが、前日のエントリーとの関連もあるのでニセ科学の方に書いておく。
向こうの掲示板で「正義は勝つのだ!」という、応援投稿がなされた。気持ちはありがたく受け取るが、実のところ、これは民事訴訟にはとことんそぐわないフレーズである。
民事訴訟の目的は正義の実現ではなく、私的紛争の解決である。その途中経過として真実が明らかになったり、結果として正しい方が勝つこともあるが、それは、たまたま「正しい方」が「真実を立証する活動をした」ことが認められたからに過ぎない。裁判所は積極的に真実を明らかにすることはない。真実を明らかにするのは、争う当事者の責任である。主張がいくら正しくても、立証が不十分なら敗訴する。そして、一旦判決が確定すると、それは、社会において「正しいもの」とされるという約束になっている。
教科書が何と書こうが評論家が何と言おうが、権利が自動的に保証されるわけではない。侵害者相手に不断の闘争をする以外に、権利を実現する方法はない。また、権利が法的闘争によって作られるという面もある。権利のために紛争を行うことは、自分自身に対する義務であると同時に、社会に対する義務でもある。
とはいえ、現実の訴訟は社会のリソースの一部を使うことになるし、当事者のリソースも食われることになる。何でもかんでも訴えればいいというものでもない。
さて、黒猫亭さんのところのコメントについて、少し補足を書いておく。
潜在的に訴訟に発展する可能性を常に有しているわけですが、勿論、実際の訴訟は無駄な公費を遣わない為に訴訟が成立しないような強引な提訴を門前払いするわけだし、無理矢理提訴してもまず負けることはないから「訴えられる」ということを過剰に恐れる必要はない。
後半についてはほぼその通りなのだけど、前半については違う。法的救済の門戸を閉ざさないため、提訴するための敷居は相当低いし、門前払いされることは現実には滅多にない。
前日のエントリで、ニセ科学批判のためのガイドラインを書いたが、それなりに機能しているとしたら、おそらく、ガイドライン通りにやると正当な論評の範囲に収まるから、という理由だけではない。宣伝中のニセ科学に対する批判が的確であった場合は、批判された当該表示について、業者自身も根拠となる資料を持っていないはずである。すると、仮に訴えたとして、裁判所で合理的根拠を示せなかった場合、敗訴だけでは済まず、不実証広告だとか優良誤認表示であるということを広く知らしめる結果になる。
まあ、普通に見て科学として全く間違っていれば、合理的な証拠を集める実験やら調査やらを考えるコト自体が不可能なので、証拠は持ってないだろうという見当は付くことが多い。
裁判だって、手札が悪いと多少技術が良くたってどうにもならない(ってか麻雀に似てるそうな。by絵里タン)。相手の手札が悪く、自分の手札が良い状態を維持することが、提訴を防ぐことにつながるのではないか。それでも、嫌がらせや八つ当たりの提訴を防ぐことができないので、この部分についてまで訴訟を怖がる必要はない。
なお、年末から訴訟が増えているのは、やむを得ずそうなったに過ぎない。特に名誉毀損関係については、私はむしろ訴えない方である。提訴で言論と表現を萎縮させるよりは、ネット上の対抗言論で名誉の回復を図る方が健全だと思うからである。実際、吉岡氏が「水は変わる」を出た時から、それが私に対する名誉毀損文書であることを認識していながら、2年も何もしなかった。吉岡氏がお茶の水大を訴えたりしなければ、私も吉岡氏を名誉毀損で提訴することはしないつもりだった。また、削除要求に対する提訴にしても、吉岡氏がお茶の水大でなく私を訴えていたならば、特にする必要が無かったものである(∵訴えられるのをのんびり待っていればそれでよいし、訴えてくるとは限らないから)。
ここからは旧ブログのコメントです。
by 技術開発者 at 2008-01-32 17:26:32
Re:手札を良い状態に保つ
こんにちは、皆さん。悪徳商法批判などをしているといろいろと珍しい判決に出会うこともあるので、そういう実例を含めてapjさんの話をもう少し説明してみたいと思います。
>裁判所は積極的に真実を明らかにすることはない。真実を明らかにするのは、争う当事者の責任である。主張がいくら正しくても、立証が不十分なら敗訴する。そして、一旦判決が確定すると、それは、社会において「正しいもの」とされるという約束になっている。
数年前に、大阪だったと思いますが、浄水器をお買いに成った方が「水がおいしくならない」と裁判をされて敗訴された事件がありました。詳しい経緯まで覚えていないのですが、たしか結構高額な浄水器でして、どうみても「水が美味しくなる」という説明だけでお買い求めになるような金額の商品ではなかったわけです。私の様なものの目から見ると、おそらく、「今の水道水を直接飲んだら身体に悪い」などの健康不安を煽るようなトークもあったであろうし、「お茶やコーヒーがとんでもなく美味しくなる」などの著しい優良誤認を引き起こす様なトークもあったのでは無いかと思われる事例でした。ところが、この購入者の方は、そういう販売トークによって引き起こされた優良誤認との対比としての「美味しくならない」ではなくて、単に一般論としての「美味しくならない」を主張されたらしいのです。そのため、裁判所としては「おいしい、おいしくないというのは主観的判断であり、そのような判断による商品の瑕疵は認められず、契約の取消はできない」と判決せざるを得なかった訳ですね。ただ、この判決が意味している規範性としては、「一般論としての『おいしい、おいしくない』では契約の取消はできない」という事でして、優良誤認を引き起こす販売説明としての「おいしくなる」とうまく対比するなら、別な判決もあり得る事を意味しています。
もう一つ別な事業者が負けた裁判の判決では、事業者が「クーリングオフの意思表示は書面で為されなければならない」にこだわり、裁判官の前で「期間内に口頭でクーリングオフの申し入れは有りましたが受け入れませんでした」と陳述したなんてのがあります。法令でクーリングオフの意思表示を書面でと定めているのは、意思表示の到達の不完全さを懸念しての事ですから、裁判官の前で陳述したら、その時に書面で意思表示したのと同じ効力が発生します。これは「裁判上の自白」そのものでして、裁判官の前で陳述した事で意思表示は完全に到達していた事が確認されますので、この事業者は相手方欠席の裁判にもかかわらずクーリングオフが成立するという判決、つまり敗訴の判決を貰ってしまったわけです。この場合も裁判の規範性としては、「わざわざ自分の不利に成ることを言えば負ける」というだけのことです。
このように、裁判というのはきちんと裁判の作法に従って対処しないと負けてしまうわけです。しかし、その裁判の判決をきちんと読みこなすなら、「負けるように持って行っているから負ける」という事以外にはあまり教訓はありません。
by 酔うぞ at 2008-01-16 19:43:16
Re:手札を良い状態に保つ
先日、高校生にしゃべったことをそのまま書きますと。
刑事裁判は社会的な立場で罰する。つまり正義の実現。
民事裁判は社会が争っているどちらが勝ちかを決める裁判。
だから同じような事件でもカツ場合も負ける場合もあるし、そもそも裁判にしない例も多い。
だから民事裁判は正義の追求とは言えない。
なんて断言しちゃいました。
mixi の法律相談コミュニティでも、ここらの混乱はかなり多く(見方によっては、ほとんど)「訴えれば、裁判所(社会)が自動的に正しい側を勝たせてくれる」と思っている人が多いですね。
by 技術開発者 at 2008-01-02 21:47:02
Re:手札を良い状態に保つ
こんにちは、酔うぞさん。
>だから民事裁判は正義の追求とは言えない。
>なんて断言しちゃいました。
少し、高校生に話すには「端折り過ぎ」かも知れませんが、私もそう言わないという保証はないです(笑)。ただ。民事訴訟というのは法治国家が「自力救済の禁止」を行う事の代償措置であるわけです。そして自力救済の禁止を行うことの意義の中には、「報復救済の連鎖拡大の防止」と「救済力の不均衡の是正」という事があり、これらの意義の中には「正義の実現」という思想が無いわけでは無いのです。できれば、そこまで教えて欲しいという希望はあります。
by apj at 2008-01-23 22:10:23
Re:手札を良い状態に保つ
技術開発者さん、
コメントを参考にして、昨日、訴訟掲示板の方に1つ簡単な意見を書きました。
神戸の裁判で、吉岡氏が、大学は影響力が大きいので通常よりも情報発信の内容に対する注意義務がある、と訴状で主張しているのが、最初からどうにもしっくりこなかったんですね。情報発信の影響力という点では、大学なんかより大手マスコミの方がずっと大きいわけですが、それでも、規模の大きさによって注意義務が課されるとされた例はないわけです。
これを、例がないよなぁ、などと思っていたのですが、昨日も考えていて、そもそも名誉毀損訴訟自体が影響力のある人が被告になるという歴史を積んできているよなあ、と思い当たりました。
昔は、「公然と」表現するには、たくさん印刷して出版するといったことが必要でしたから、名誉毀損する側は力があるマスコミだったわけです。つまり、力がないと「公然」が実現しなかった。批判される側は政治家だったりしたわけです。こんな経緯もあってか、名誉毀損については、他の不法行為と異なり、被告が、真実性や真実相当性や公益性を立証しないと負けるという形になっています。立証責任の配分は、被告にとって過酷なのです。つまり、救済力の不均衡の是正が最初から司法判断の基準に盛り込まれていることになります。
そうであるなら、大学であるからより注意義務を課すというのは、屋上屋を重ねる不均衡の是正ということで、逆に不均衡を作り出すことになるだろうと思うわけです。このように考えると、吉岡氏の主張はやっぱりおかしいんですよね。
by 技術開発者 at 2008-01-36 22:46:36
Re:手札を良い状態に保つ
こんにちは、apjさん。
私は「消費者と事業者の責任の違い」という事をよく説明して来たわけですが、多くの人が「能力の違い」とか「影響力の違い」に目を向けてしまうわけです。まあ、それらも当然、考慮すべき事項ではあるのですが、もっと根底にある「選択によりなる立場の違い」というのがあるんですね。
現代社会に生まれますと、なかなか自給自足なんて生活はできませんので、否応なしに消費者にならされるわけです。それに対して事業者というのは「こういう事業を興そう」とかいう選択の結果としてなる立場だという事なんですね。つまり、事業者であるということには「自分の選択」が入っているために責任が重くなるという考え方なんです。私は歩行者と運転者の責任の違いなんて話で説明したりするわけです。道路を歩いたり走ったりするときには、もちろん、人にぶつかって怪我をさせたりしないように心がけて行わなければ成らないのですが、運悪く人にぶつかって怪我をさせても「過失傷害」であるわけです。人は道路を通行するということは嫌でもしなくてはなりませんからね。でも自動車の運転となると人に怪我をさせると「業務上過失傷害」という過失傷害よりはるかに重い罪になりますでしょ。これは、車両の運転というのは、本人が選択して行っているという事が大きいわけです。この本人が「継続的に反復して行う」という自らの選択の部分が「業務上」という言葉に含まれている訳です。
こういう前振りをしておいて、吉岡氏の行っているマルチ商法の話に入りますと、悪徳商法批判者の時代にずいぶんとマルチ商法を巡る議論をしたのですが、多くの参加者に「自分が選択して責任のある事業者の立場を選んでいる」という感覚が欠如している訳です。つまり一消費者としてなら「この製品良いわよ」と人に勧めて、そのトークに正しくない事があっても、まあそうそう簡単に罪になることは無いわけですが、マルチ商法の従事者や勧誘者となると、特定商取引法の禁止行為違反として最高懲役2年の罪なんですが、そういう重い罪が用意されているという意識が無いわけです。でもって、マルチ商法の統括者が参加者に「事業者である」という事を意識させるかというと、まあ大抵が「簡単に事業者になれます」と立場を選択するという事の重さをわざわざ感じさせない様にして勧誘する訳です。自己選択を意識させるのは「話と違って儲からない」なんて苦情が出たときだけなんてのがマルチ商法の一般的な統括者の態度です。
そういう意味では、マルチ商法そのものが「イメージの良いとこ取り」を根底におき、その責任とか責任が生ずる元になる立場の選択とか言うことをあえて隠すことで成り立っている面があるわけです。そういう意味では、立場責任の様なものを、その根底にある「その立場を選んだ」という部分よりも「影響力の大きさ」に特化して認識するのは、素直なながれなのかも知れません。
by 技術開発者 at 2008-01-12 03:12:12
Re:手札を良い状態に保つ
こんにちは、なかなか良い事例が思い浮かばなくて、少しピント外れのコメントを書いてしまったのかなと思います。
民事訴訟の賠償というのは、被害者の救済の部分と共に社会的には抑止力として働く面もあることはあるんですね。「交通事故をして、若い医者でも殺してしまうと、とんでもない賠償になるから気を付けよう」なんてね(保険に入っているか大丈夫と思う人もいるかも:笑)。ただね、抑止力として働く部分というのは、民事訴訟における賠償額の大小という形で反映される訳です。
本件に関しても、大学という所を通じての情報発信が「影響力が大きい」とすると、その影響によって生じた損害が大きくなり賠償額が膨らむという形で反映される訳です。大きい賠償金は少ない賠償金よりも払いたくありませんから、大学が「不法行為となる様な情報発信は控えよう」とする意識は、影響力の少ない個人の情報発信よりも強くなるだろうということは予想される訳です。
ここで間違えて欲しくないのは、不法行為であるかどうかを決める際には、影響力の大きさというのはあまり関係しないわけです。洪水関係の行政訴訟なんかでは、千軒くらいが漬かった訴訟もあれば、数件が漬かった訴訟もある訳ですが、問題になるのは「対策に対する瑕疵」なのか「予想し得ない天災による不可抗力なのか」であって、被害を受ける人が多い場所だから特別に他より強い堤防を築くべきかどうかという議論にはならないわけです。
このあたり、あまり巧みではないけどスリカエの議論がありそうです。つまり、apjさんの発言が大学でないサイトから発信されていて、影響力が少なかったら、相手方の要求している損害賠償額がもっと少ない金額であったというだけの事の様に思えます。実際に影響力があるから、今請求しているだけの金額になっている訳で、影響力の違いは既に訴状に反映されている訳です。そういう本来請求金額に反映されている影響力を「不法行為かどうか」という判定基準の話にすり替えているだけの様に思えます。
by 技術開発者 at 2008-01-49 21:29:49
Re:手札を良い状態に保つ
こんにちは、皆さん。
こういう「影響力の大きさに合わせて判断基準を変えろ」みたいなスリカエ議論が出て、それに対して「そうかな」なんて思う人がでると言うことに背筋の寒くなる思いがあります。
例えば、失火類焼賠償の免責なんていうのがあります。過失で火事を出した時に、その火事が大きくなって他人の家まで焼いてしまったとするでしょ。日本の法律では「普通の過失」だとこの類焼分の賠償責任は免責されることになっているのね。まあ、誰もが可能性のある失火でそこまでの賠償を求めるのは酷だみたいなことで決まっているのですけどね。ただ、「重過失」の場合は免責されないのね。例えば、「蚊取り線香に布団が掛かって」なんてのは普通の過失だから免責されるけど、「家の中で花火遊びをしていて」だと免責されない訳です。
この過失と重過失の判断基準っていうのは、類焼の起こりやすい所に家があったかどうかは影響されない訳です。下町の木造家屋が密集している、つまり失火の影響力が大きいところの住人でも「蚊取り線香に布団が」だったら免責されるし、家が比較的離れていてあまり隣に燃え移りそうで無い所でも「家の中で花火遊び」で火事を出して、たまたま近所に燃え移ったら、その類焼の責任は免責されないから、賠償しないとならない訳ですね。
「影響力が大きいから判断基準も変えるべきだ」なんて事を真面目に取り上げる人は、貧しくて木造アパートが密集する地域に住んでいる人は、蚊取り線香に布団が掛かったような火事でも類焼の賠償責任が免責されなくて、あまり類焼しそうにない所に住んでいる比較的裕福な人は「家の中の花火」でも類焼の賠償は免責するみたいな国に住みたい人なんだろうなと思います。まあ、いろんな格差を「望まれている」のがこの国の国民みたいですから、いずれそうなるのかも知れませんね。
by apj at 2008-01-37 21:40:37
Re:手札を良い状態に保つ
技術開発者さん、
私の名誉毀損の説明で、影響力、と書いたのですが、それだと誤解されてしまいますね。力の差があることは確かなので、
・結果としての影響力によって判断に差をつけることはない。
・調査能力や法的救済に際しての能力には差があり、そのことが、立証責任の振り分けによって調整されている。
とすべきではないかと思いました。
by 技術開発者 at 2008-01-11 01:58:11
Re:手札を良い状態に保つ
こんにちは、apjさん。
>・結果としての影響力によって判断に差をつけることはない。
少なくとも民事訴訟の「不法行為かどうか」の判断基準に差は付かなくて、その代わり「不法行為であるから賠償せよ」と判断された後の賠償額に反映されるべきものだろうと思います。日に1万個のプリンを製造する工場が食中毒の原因になれば何千人もの被害者が出ますから賠償額は億単位になるのに対し、日に50個製造する巷のケーキ屋が食中毒を出せば数十人の被害者で百万円単位の賠償でしょう。これはこれで充分に、大工場が巷のケーキ屋よりも食品衛生管理に努力する動機付けにはなるわけです。だから賠償額にはきちんと反映させるけども、「賠償すべきかどうか」という判断の時には、「食品衛生管理にどのような瑕疵があり、それはどのようにしていれば防ぎ得たか」という部分での判断になるという点は変えるべきではないわけです。
もちろん、大きな工場には食品衛生の専門家も居るし、衛生マニアルもきちんと整備されていなくてはならないので、製造工程の瑕疵を判断するのは巷のケーキ屋の手抜きを判断するよりも容易にはなるわけです。容易に判断出来るから厳しめの判決に成りやすいことはあるけれど、それは別に判断基準が厳しめになっている訳ではないということだろうと思います。