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別の意味で道徳と科学は別でないと困る

Posted on 2月 13th, 2009 in 倉庫 by apj

 msn産経ニュースの記事より。

他人の不幸 科学的にも蜜の味だった2009.2.13 07:38
このニュースのトピックス:科学

 他人の成功や長所を妬(ねた)んだり、他人の不幸を喜んだりする感情にかかわる脳内のメカニズムが、放射線医学総合研究所や東京医科歯科大、日本医科大、慶応大の共同研究でわかった。妬ましい人物に不幸が訪れると、報酬を受けたときの心地よさにかかわる脳の部位が働くという。13日付の米科学誌「サイエンス」に発表した。

 研究チームは、健康な大学生の男女19人にシナリオを渡して平凡な主人公になりきってもらい、ほかの登場人物に対する脳の反応を磁気共鳴画像装置(fMRI)で調べた。主人公は志望企業に就職できず、賃貸アパートに住みながら中古の自動車を所有するという設定。大企業に就職し、高級外車を乗り回す「妬ましい」人物が登場すると、身体の痛みにかかわるの「前部帯状回」という脳の部位が活発化した。自分と同じく平凡な人生を歩んでいる登場人物には、この活発化が見られなかった。

 次に「妬ましい」人物を襲った「会社の経営危機」や「自動車のトラブル」などの不幸を示したところ、報酬を受け取ったときの心地よさにかかわる「線条体」が強く反応。この反応は、平凡な友人の不幸では見られなかった。また、妬みの感情が強いほど、不幸が訪れたときの反応が活発だった。

 放医研の高橋英彦主任研究員は「線条体はおいしいものを食べたときにも働くことが知られる。他人の不幸は文字通り“みつの味”のようだ」と話している。

 だからといって、他人の不幸を喜ぶのが当然とか、それが自然の摂理だからどんどん妬ましい人の不幸を味わうのが当然で正しい、という内容の「道徳」や「倫理的な規範」を作るべきだとは、普通は考えないだろう。諺として「他人の不幸は蜜の味」というのがあったとしても。
 道徳や倫理は、科学とは別に立ち上げるべきもので、科学に根拠を求めてはやっぱりまずいことになる。

【追記】
 これだけだと何の話か見てわからないこともありそうなので、書き足しておく。今朝、エントリーを上げてからほとんど休み無しに院生の公聴会に出ていなければならなくて、十分な説明もできなかったので……。

 ちょっと前から、「水からの伝言」をいろんな面から批判してきた。「水からの伝言」は、水にいろんな言葉を見せたり音楽を聴かせたりしてから凍らせて結晶を作って写真を撮ったものである。「ありがとう」というのを見せると対称性の良い六角形の樹枝状結晶ができ、「ばかやろう」というのを見せると見た目がきれいな結晶にならない、という話が語られた。シャーレに入れた水を凍らせてから、照明を当てながら顕微鏡で観察するというもので、低温の氷の表面に水蒸気から水の結晶が成長するものを見ているだけである。
 水が言葉を判定するかのような主張は、もちろん、科学としては完全な間違いである。水蒸気から結晶成長するとき、どういう条件の時にどんな形の結晶ができるかは、60年ほど前に中谷宇吉郎が解明して、ナカヤ・ダイヤグラムとしてまとめた。雪結晶の研究としては世界的に有名な業績である。

 この「水からの伝言」が、学校教育で使われるという問題が起きたので、私も批判しているし、気付いた他の人達もあちこちで批判の声を上げている。

 「水からの伝言」を使った道徳の授業では、まず、「ありがとう」を見せた水がきれいな結晶になり、「ばかやろう」を見せた水が汚い結晶になる、ということが、科学的には間違いであるにもかかわらず、正しい科学的事実として提示される。次に、人の体の8割が水だという、正しい科学的事実が提示される。そのあと、水の結晶がきれいになるのだから友達に「ありがとう」と言いましょう、と教えられる。
 この教材は、科学としても間違っているが道徳教育の面からも国語教育の面からも、教えてはいけない内容である。まず、道徳的に正しいことと対称性の良い結晶とをむすびつけている。これは、善=美であると教えることに他ならない。しかし、道徳では、たとえば「人を見かけで判断するな」と教えたりしている。道徳的な善と芸術的な意味での美を結びつけてはいけないのである。さらに、どんな言葉を使うかを水に訊いて決めるという、大変奇妙な話になっている。どういう言葉を使うかは、他人とどう関わるかによって決めるべきことで、そもそも水に訊くことではない。この話で道徳を教えると、他人の存在はどうでもよいということを肯定することになってしまう。
 さらに、文脈を無視して、良い言葉と悪い言葉に単語を分類するというのは、全くナンセンスである。「ばかやろう」の一言にだっていろんな意味を持たせられる。言葉の使い方の深みを知りたければ、文学をしっかり読むべきで、水に判定してもらおうなどというサボリ根性を出してはいけない。

 他人といかに関わるべきかといったことや、人としてどうあるべきかということの答えを、科学に求めるのが間違っている。科学に道徳の裏付けをさせるというのは、人の存在を無視して道徳の内容を決めてもかまわないということになるので、時として非常に不道徳な結果になる。このことを、水伝批判においては、繰り返し説明してきた。
 しかし、「水からの伝言」では、結論が「きれいな言葉を使いましょう」「友達を罵ってはいけない」といった、道徳的にも受け入れやすいものになっていたため、説明の過程で安易に科学モドキを持ち込むことの不道徳さを説明しても、なかなか気付いてもらえないという面があった。

 今回の新聞記事は、他人の不幸を喜ぶ性質が人にあることが科学的手続で確認された、というものである。他人の不幸を嬉しく思うのは科学的に当たり前で妬みがあれば嬉しさも増加、という話である。これは、道徳や倫理としては受け入れがたいのが普通だろう。
 少なくとも私は「他人の不幸はどんどん喜びましょう。それが自然だと科学で証明されてますから」などということを受け入れたいとは思わない。
 誰だって不運・不遇な時があるし、他人をうらやんだり妬んだりする気持ちを持つこともあるし、他人の不幸を嬉しく思うことだってあるだろう。聖人君子じゃないんだから。そう思うことが人の生理としてあるのだとしても、人には知恵がある。他人を妬んだりうらやんだり他人の失敗を喜んだりしたって、客観的に自分の置かれている状況が良くなるわけではないし、妬みからは何も生まれないということに早々に気付くだろう。だから「他人を妬むのはやめましょう」「他人の不幸を喜ぶのは人として良くない」という道徳を語ることには意味がある。その先は、妬まずに自分も努力しましょう、でもいいし、うまくやった人に向かってお裾分けを頂戴、というのだって有りだろう。きっといろんなやり方や考え方がある。

 道徳の根拠を科学に求めるのであれば、引用した記事に基づいて「他人の不幸を喜ぶのは正しいことだ」ということを受け入れなければならなくなる。科学(実は科学っぽいインチキだが)の裏付けがあるからという理由で、安心して「水からの伝言」を受け入れている人達は、このことに気付くべきだ。

 科学がどういう結論を出そうと、人として他人とどう関わるか、人としてどう考え、どう振る舞うのが価値あることかを決めるのは、人が培った倫理であり道徳である。倫理や道徳を考える時には、人と向き合って立ち上げる以外に方法はない。安易に科学になんかに頼っちゃいけないのだ。


ここからは旧ブログのコメントです。


by 高橋芳広 at 2009-02-33 21:13:33
道徳とは自然に反するものでは

こんにちは

道徳や倫理の根拠を科学に求めるのは、端から筋違いではないでしょうか。
自然に振舞うとトラブルばかりで、社会が成り立たないので、明文化されていない規則ができた。それが道徳や倫理が出自だと思います。


by apj at 2009-02-50 21:26:50
一方に水伝があるわけで

高橋芳広さん、

 ところが、一方で「水からの伝言」のようなものがあって、一見受け入れやすい道徳的な内容(ありがとうと言いましょう、といった言明)に、科学のお墨付きがあるかのような装いがなされることで、広く受け入れられているという現実があるわけです。
 道徳の根拠を科学に求めるなといっても、一見受け入れやすい結論を支持する恰好になっているわけで、なかなか理解してもらえないんです。
 今回のように、道徳的に受け入れにくい結論を科学が支持するということになれば、別物であるということを意識するきっかけになるのではないかと思いました。


by 高橋芳広 at 2009-02-36 00:23:36
なるほど理解しました

apjさん。失礼しました。
発言の背景まで考えが及ばず、発言の意図を理解していなかったようです。

ただ、もっともらしい結論の根拠にされるのは、科学・疑似科学だけでなく、なんでもありのように見受けられます。
血液型、占い、霊感etc.
分からないものは、分からないとしておく、判断保留ができないため、なにかに無垢に縋ってしまう。その一つが科学なのではないでしょうか?
ですので、とりわけ科学だけが誤用されているという訳でもないと思います。(ただし、他の方法論は科学と違って誤用と呼べるほど厳格ではないとは思いますが…)


by 宵こよい at 2009-02-29 06:41:29
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

初めまして
水からの伝言というのを初めて聞きました。
近頃はそんな授業があるんですねぇ~
言われるように、道徳と科学?は全く相入れないモノですね。
道徳は経験の蓄積と理想ですよね。
科学は事象の説明でしょうか?
妬む心は、他人の不幸を望むので止めましょう、という結論ごもっとも!です。


by apj at 2009-02-40 09:52:40
知らない方が幸せかもしれません

宵こよいさん、

 初めまして。

 「水からの伝言」に遭遇していないのなら、それはラッキーかもしれません。もともと、インチキ「波動」なるものを広めていた人が水に手を出してやっぱりインチキを振りまいているという代物ですので。時々、浄水器の怪しい宣伝にも使われています。「波動」の方はこの間、高額で転写装置等を売りつけていた会社が摘発されましたが。

 道徳は人のものです。他人や社会とどう関わるかを考えるところが出発点です。ですから、人を離れての道徳はあり得ないと思います。
 科学は、自然現象を記述する方法論とその成果ですから、人の都合は関係が無いんですよ。


by zorori at 2009-02-21 18:54:21
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

道徳や倫理というのは、やりがちな行為を規制したり、やりたくないことをさせるためにあるんじゃないでしょうか。「水は飲まなければならない」なんて道徳はないわけで。

だから、道徳に反する行為をやりがちだという科学的根拠があっても、道徳にはなんの影響もないと思います。

道徳が形成される理由には、科学的根拠が全くないというわけでもないと思います。しかし、それはごく一部にすぎないわけで、同じ科学的根拠でも社会の価値観で全く逆の道徳になったりするわけですよね。

比較的、ストレートに科学的根拠と結びついていて、社会によってあまり違いのない倫理は「近親相姦忌避」ぐらいかなと思います。それにしても、いとこ同士の結婚は日本では許容範囲みたいですけど、そうではない社会も多いわけで。


by apj at 2009-02-45 19:50:45
分かってる人は分かってるのだけど

zororiさん、
 道徳と科学をごっちゃにしない、ということは、分かってる人は分かってることなのだけど、分かってない人が大量に居たから、全国各地の学校で水からの伝言を使った授業が行われたわけで……。
 ですから、繰り返し言っておかないとまずいんじゃないかと思っています。


by カータン。 at 2009-02-40 01:49:40
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

この間聞いたのですが…

クリオネという生物は「流氷の妖精」などといわれていますが、口が頭にあって、そこが割れて捕食を行います。その写真を掲載した雑誌に、「子どもの夢を壊すな」と抗議があったそう。

どうも「自然は美しい」という幻想を持っている人、もしくは、持ちたい人が多く、だから「水からの伝言」のような、「自然は美しくかつ正しい」的なことを信じたがる人が多いような気がします。

人間の脳の件は、自然は人間の善悪を超越したものだという一例。そういうことや、自然は美しいばかりではないということを、教育していく必要が今の日本にはあるような感覚を持っています。

(実は特に「食」に関してなのですが。「自然=安全」神話はちょっと…)


by Seagul-X at 2009-02-09 22:00:09
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

>(実は特に「食」に関してなのですが。「自然=安全」神話はちょっと…)

日経のサイト Tech-On! に興味深いコラムが載ってました。

http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20090212/165571/

化学防衛については以前からちょっと聞いていましたが、そうか、アレルゲンにもなるんだ、と感心。他人への説明で紹介するのにいいかな、と思いました。


by キタヤマ at 2009-02-00 05:09:00
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

apjさんのおっしゃることも、他の方のコメントもよく分かるのですが、「道徳の根拠を科学に求めるな。」との言い方には違和感があります。今回の実験が明らかにした、「妬ましいという気持ちは、特定の人にだけあるのではなく、状況によって誰にでも起こりうるものらしい」「他人の不幸は蜜の味」という人間の生理、を知ることは、「どのような行動が望ましいか」を考える上で、有用だと思います。
自分が「他人を妬んだり、他人の不幸をうれしく思ってしまった。」からといって過度に落ち込むことはないし、「他人の不幸をうれしく思ってしまった」他人を過度に責めることもない。(褒められることではありませんが。)
「他人を妬むのは止めましょう」だけでなく、「他人の妬みを助長するような行動を慎みましょう」という考え方も出てくるでしょう。ノブレスオブリージュとか、「(昔の話ですが)建前に餅やみかんをまく。」というのも、「蜜を求める気持ち」を芽のうちに摘むようにしようという先人の知恵だったのかと思います。「他人の不幸は蜜の味」を科学が明らかにしなくても、経験的に知っていたわけですが、科学的にそれ(「他人の不幸は蜜の味」)が確認されたなら、それを考慮して道徳(行動のしかた)を考えるのは当然のように思います。


by apj at 2009-02-37 07:06:37
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

キタヤマさん、

>「他人の不幸は蜜の味」を科学が明らかにしなくても、経験的に知っていたわけですが、科学的にそれ(「他人の不幸は蜜の味」)が確認されたなら、それを考慮して道徳(行動のしかた)を考えるのは当然のように思います。

 私もそう考えています。ただ、この「当然」のことを敢えて言わなければ、ぐだぐだになりそうな状況だということも考えるしかないんですよ。

 水伝が流行ったりしなければ、言わずもがなのことだったのは確かだと思います。


by 田部勝也 at 2009-02-07 04:21:07
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

キタヤマさんがなぜ「道徳の根拠を科学に求めるな」に違和感を抱くのかが、キタヤマさんの文章からは良く分かりません。思うに、キタヤマさんは「道徳」と「その道徳を身につけさせるための“しつけ”の方法」を混同しているのではないでしょうか。
キタヤマさんは、今回の実験を受け「他人の成功や長所を褒めるなんてやっぱり間違っている。他人の成功や長所は否定し貶(おとし)めるべきだし、他人を不幸に誘導するような言動は積極的にすべきだ」という「道徳観」を表明する人に、どのように対抗できるのでしょうか。
これは決して強引な妄想ではないと私は思っています。実際、たとえば、アドルフ・ヒトラーは正しい科学的事実(特に動物の行動学の知見)を根拠として自身の「道徳観」を主張していました。

ついでに、昔、『kikulog』のエントリ記事「道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない」のコメント欄へ書いた文章へのリンクを張っておきます(↓)。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1170020654


by zorori at 2009-02-21 18:58:21
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

報道の仕方の問題じゃないかという気がします。
ある行為を行いやすいことに科学的根拠があることを、その行動を推奨するかのように報道するからいけないんでしょう。

心理学の人の悪い実験では、人間には嫌な面があることをいろいろと明らかにしてくれますが、決して厭味な人間になることを推奨しているわけではありませんし。


by キタヤマ at 2009-02-45 22:43:45
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

田部さん、確かに分かりにくい文章ですね。(笑)すみません。
「道徳の根拠を科学に求めるな」というのを、田部さんがおっしゃるヒトラーの例に当てはめるなら分かります。しかし、「水からの伝言を使った道徳の授業」をした教師が、「科学的事実イコール道徳的規範」との信念を持っているとは思えません。教師がするべきと考えたしつけの理由づけを「科学的事実」に求めただけで、しつけの内容自体は、(社会との関わりの中で形成された)教師の道徳観に基づくものだったと思います。
そのような人が今回の実験にどう反応するかを考えたら、先のような内容になりました。

apjさんは、
>諺として「他人の不幸は蜜の味」というのがあったとしても。 道徳や倫理は、科学とは別に立ち上げるべきもので、科学に根拠を求めてはやっぱりまずいことになる。
 >道徳の根拠を科学に求めるのであれば、引用した記事に基づいて「他人の不幸を喜ぶのは正しいことだ」ということを受け入れなければならなくなる。科学(実は科学っぽいインチキだが)の裏付けがあるからという理由で、安心して「水からの伝言」を受け入れている人達は、このことに気付くべきだ。
と、おっしゃっていますが、もともと「科学的事実イコール道徳的規範」と思っていない人には、どう届くかなあと思いました。

もう1つ思ったことは、
>人として他人とどう関わるか、人としてどう考え、どう振る舞うのが価値あることかを決めるのは、人が培った倫理であり道徳である。
と、私も思いますが、
>倫理や道徳を考える時には、人と向き合って立ち上げる以外に方法はない。安易に科学になんかに頼っちゃいけないのだ。
ということですが、人の生理として無理なことを過度に要求してもうまくいかないので、まずは、生物としてのヒトを知るためにこのような実験が行われ、その結果は無視できないだろうということです。


by 田部勝也 at 2009-02-17 10:26:17
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

>キタヤマさん

ごめんなさい。余計に分かりません。私の理解では、
●「良い言葉遣いをすべきだ」→「理由は“水からの伝言の主張”である」
●「弱者は強者に服従し搾取されるべきだ」→「理由は“動物の行動学の知見”である」
●「他人の不幸を喜ぶのは正しいことだ」→「理由は“脳神経科学の知見”である」
――というのは、「道徳の根拠を科学に求めている」と言うべきだと思います。でも一方で、
●「他人を妬むべきではない」→「科学的事実は“他人の不幸は蜜の味”である」→「ではどのように“他人を妬むべきではない”という道徳的規範を皆に実践させるのか」
●「“他人の不幸は蜜の味”という科学的事実がある」→「しかし自分は“他人を妬むべきではない”という道徳的規範を持っている」→「ではどのように“他人を妬むべきではない”という道徳的規範を皆に身につけさせるのか」
――というのを、「道徳の根拠を科学に求めている」という問題と同列に論じる事に強い違和感を抱きます。先のコメントで『「道徳」と「その道徳を身につけさせるための“しつけ”の方法」を混同しているのではないでしょうか』と書いたのは、あくまでそういう意味です。
「道徳の正当性」は「科学的事実」からは論じられないという事は皆さんがすでに繰り返している通りですが、「道徳の適用・運用」に「科学的事実」が用いられるのは自然な事だと思います。

「科学的事実イコール道徳的規範」という話は(私は)していません。私が「道徳の根拠を科学に求めるな」と言うときには、自分の持つ道徳的規範と科学的事実を結びつける際の姿勢――端的に言えば、自分の持つ道徳的規範の正当性を問われたときに、科学的事実を持ち出す態度――を問題にしています。

なお、「“道徳の根拠を科学に求めるな”という言い方は不当ではないか」という点を除けば、キタヤマさんの一連のコメントに異論はまったくありません。私がこだわっているのは、あくまでこの1点のみです。
私が「道徳」という言葉に付与している意味内容は、キタヤマさんをはじめとする一般の人とはかなり乖離があるという事なのでしょうか。


by zorori at 2009-02-01 18:50:01
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

横から、失礼します。

キタヤマさんと田部勝也さんの食い違いは「道徳の根拠を科学に求めるな」というキャッチコピーから連想するイメージの違いではないかという気がします。そのイメージを詳細に説明されている内容を拝見すると意見の食い違いは無いように見えます。

科学には価値観が含まれませんから、道徳=科学的根拠 にはならないことに異論のある人は少ないと思いますが、科学的事実が道徳の判断材料になることは十分あり得るわけで、これも異論は少ないと思います。
キタヤマさんが「道徳の根拠を科学に求めるな」に違和感を感じるのは、判断材料にすることまで否定しているような印象があるからと私は思いました。実際に「電車内では携帯電話の電源を切るべきだという道徳には、ペースメーカーに悪影響を与えるという科学的根拠がある」という難癖をつけた輩もいましたよね。

「他人の不幸は蜜の味」という科学的事実からは、「価値観」次第で「他人の不幸を望むべきだ」という道徳も「知らず知らずの内に他人の不幸を望むようになりがちだから注意しなさい」という道徳も引き出せます。前者に短絡思考してはいけないというのがキャッチコピーの趣旨だと思うのですが、そう受け取らない人もいるということだと思います。

要するに、短い必要があるキャッチコピーの生み出す誤解ではないかという気がします。


by apj at 2009-02-27 19:20:27
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

 私の方からも補足です。

 ペースメーカーの例だと、まず「他人に迷惑をかけない方が良い」という道徳的規範が先にあって、「たまたま科学・技術的問題で迷惑がかかってしまうシチュエーションが生じた」という話ですよね。
 だから、「他人に迷惑をかけない」という規範を、科学的根拠で説明するあるいは補強するという構造にはなってないと思います。

 水からの伝言の場合は、「他人を罵ったりしてはいけない」とい道徳的規範に対して、この規範ができた理由の説明あるいは規範の説明の補強として水結晶の話が使われているわけです。

 すると、今回取り上げた「他人の不幸は蜜の味」がどちらに近いかというと、水伝と同じ構造になり得る話かな、と思ったので、水伝と並べて取り上げたんです。


by zorori at 2009-02-59 03:34:59
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

> 水からの伝言の場合は、「他人を罵ったりしてはいけない」とい道徳的規範に対して、この規範ができた理由の説明あるいは規範の説明の補強として水結晶の話が使われているわけです。

なるほど、「水伝」や「他人の不幸は蜜の味」は直接、人間の心理を扱っていますね。

さらに、「水伝」と「他人の不幸は蜜の味」の違いをいうと、前者は価値観が入っているけど、後者はそうではないので科学の土俵に乗っていると思います。

「水伝」の価値観とは、単に「ありがとう」という文字や音声が水に影響するという説ではなくて、「良い言葉」が影響するというところだと思います。


by 高橋芳広 at 2009-02-54 05:37:54
別の面でもいいかも

話は変わりますが、人間の本質には道徳や倫理に反することがあることに科学的な説明がつくことは、道徳や倫理を向上することに役に立つのではないかと思います。

いじめや、不正、戦争を含めた争いは、悪いことだと判っていてもなくならない。何故無くならないなくならないかというと、道徳や倫理で「有ってはならないもの」だと、されているからだと考えます。

「有ってはならないもの」だから、見ても見ないふりをし、見つけても隠そうとする。そして、無くそうとする努力もしない。

そこで、科学的に人間の本性には、いじめや、不正、争いなどをしてしまうということを説明できれば、「有ってはならないもの」と言う幻想を払拭できるのではないかと思います。

今回のような科学的知見が「有ってはならないもの」から「有るから、なくすべき努力をしなければならないもの」へ、認識を変えることに役立つのではないかと考えます。


by キタヤマ at 2009-02-37 01:35:37
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

毎度分かりにくくて、すみません。以下のようなことを書くとますます分からなくなるかもしれませんが、このエントリーが、気に掛かってしまった理由を書かせて下さい。
私が、以前書いたことから推測すると、この実験を支持しているように思われるでしょうが、この記事を読んだ時には、「何でこんな実験やってるの?」と思いました。
1つには、zororiさんがおっしゃるように
>報道の仕方の問題じゃないかという気がします。
ある行為を行いやすいことに科学的根拠があることを、その行動を推奨するかのように報道するから
ということです。
もう1つには、apjさんがおっしゃるように
>倫理や道徳を考える時には、人と向き合って立ち上げる以外に方法はない。安易に科学になんかに頼っちゃいけないのだ。
という気持ちが潜在的にあったからだと思います。
何でこんな実験やっているのかと思って、放医研のサイトを見たら、「本研究の成果と今後の展望」の項に「(前略)カウンセリングと薬物を統合した心の痛みに対する科学的治療法の確立を目指す予定です。(中略)、分子イメージング技術を脳科学研究に応用し、これまで解明が困難であった様々な人の精神活動を分子レベルで明らかにしていきます。」とありました。
この種の研究に期待する気持ちと、マニュアルなんかに頼らずに
>倫理や道徳を考える時には、人と向き合って立ち上げる以外に方法はない。安易に科学になんかに頼っちゃいけないのだ。
という決意で、周りの人と向き合うことこそ大事という気持ち、の間で揺れています。


by 田部勝也 at 2009-02-53 04:58:53
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

キタヤマさんの次のコメント(↓)
——————–
この種の研究に期待する気持ちと、マニュアルなんかに頼らずに
>倫理や道徳を考える時には、人と向き合って立ち上げる以外に方法はない。安易に科学になんかに頼っちゃいけないのだ。
という決意で、周りの人と向き合うことこそ大事という気持ち、の間で揺れています。
——————–

それこそ理解できません。なぜ揺れる必要があるのでしょうか。「この種の研究」と「周りの人と向き合うことこそ大事という気持ち」が両立不可能だとほんの少しでも思われる心理が分かりません(むしろ興味深いくらいです)。「周りの人と向き合うことこそ大事という気持ち」を持っているからこそ「この種の研究」を期待する――と考えるのが、自然だと思うのですけど……。
apjさんも高橋芳広さんも述べていますけど、キタヤマさんは「他人の幸せを喜べる、他人の不幸を悲しめる人間になるべきだ」という道徳観について、「なんらかの科学研究の結果によっては、自分はその道徳観を喜んで破棄してしまうようになるかも知れない。そんな恐るべき結果をもたらしうるような研究を支持しても良いのかどうか悩ましい」とでも考えているのでしょうか。よく分かりません。


by キタヤマ at 2009-02-17 19:16:17
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

apjさん、どんどん横道に、それて行くようで、すみません。どこか繋がっているような気もしますので、もう少しだけ書かせて下さい。
気持ちが揺れる理由の1つは、この種の研究結果の使い方は難しいと思うから。マニュアル化されたものを絶対視して、人と向き合うことが疎かになってしまいがちで、その結果、「人と向き合って立ち上げる」力が衰えてしまうのではないかと危惧するから。例えて言えば、「エスカレーターが必要な人がいるから設置すると、階段を使える人までも利用して、その結果、メタボになってしまう。階段を使えばいいと思っていても、つい楽をしてしまう。」
Seagul-Xさんが紹介された「奇跡のりんご」って「人と向き合って立ち上げる以外に方法はない。安易に科学になんかに頼っちゃいけないのだ。」なのかもしれない。「りんごの木と土と、とことん向き合っていれば、農薬や化学肥料なんかなくても、りんごはできる。」というところが、受けているのかもしれない。(勿論、アレルゲンのことを知らないというのは、大きいと思います。)農薬や化学肥料、あるいは、遺伝子組み換え技術に抵抗を感じるのは、ただ単に、過去の健康被害が連想されるからだけでもないような気がします。
「水からの伝言」に嵌る人は、今回の放医研の研究のようなものに飛びつくようにも思えますが、意識下では、こういうものを嫌っているようにも思え、どちらなのかよくわかりません。


by 田部勝也 at 2009-02-36 08:13:36
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

まだ良く分からないのですけど、キタヤマさんのおっしゃりたい事は次のような主旨でしょうか。
——————–
私は「他人の幸せを喜べる、他人の不幸を悲しめる人間になるべきだ」という道徳観を持っていて、どのような研究結果があろうと私がその道徳観を変える事はないと信じている。しかし、私でない誰かが何らかの研究結果を盾に私のこの道徳観を非難したり、否定するような言動を平気でするようになる事があるかも知れない。そのように悪用されうる成果を生じる危険性のあるような研究を推進する事を危惧している。
——————–
もしもそうなのだとしたら、なおのこと、声を大にして「道徳の根拠を科学に求めるな」と主張しなければならないのではないでしょうか。


by キタヤマ at 2009-02-49 01:02:49
Re:別の意味で道徳と科学は別でないと困る

うーん。なかなか、分かり合えませんね。書けば書くほど誤解を重ねるようで、止めようかと思いましが、もう1度だけ書かせて下さい。田部さんと私の話がかみ合わないのは、
zororiさんがおっしゃる
>キタヤマさんと田部勝也さんの食い違いは「道徳の根拠を科学に求めるな」というキャッチコピーから連想するイメージの違いではないかという気がします。
>「道徳の根拠を科学に求めるな」に違和感を感じるのは、判断材料にすることまで否定しているような印象があるから
>要するに、短い必要があるキャッチコピーの生み出す誤解ではないかという気がします。
が、大きな理由だと思います。でもそれだけでもないようで。

「水からの伝言」を使った道徳の授業への批判として、「道徳の根拠を科学に求めるな」という言葉を使うことに対して、まず感じるのは、「水からの伝言」は、科学ではないということです。「道徳の根拠をオカルトに求めるな」というのであればよく分かります。「水からの伝言」を科学と勘違いした人には、「科学は、道徳の根拠にならない。」というのも分かります。では、この授業をした教師は、「科学に道徳の根拠を求めた。」のだろうかと考えると、
>「道徳の適用・運用」に「科学的事実」が用いられる
ということをしただけのように思います。「水からの伝言」を知って、急に「きれいな言葉を使いましょう」と、思ったのではないでしょう。「きれいな言葉を使ってほしい」と以前から思っていて、そうさせるための説明に「水からの伝言の事実」を用いただけだと思っています。
これを、「道徳の根拠を科学に求めるな」というと、求めれば根拠にできるような感じがしますし、この授業を、「道徳の根拠を科学に求めた」というならば、私たちは、似たようなことをしているのではないかと感じるのです。

>「この種の研究」と「周りの人と向き合うことこそ大事という気持ち」が両立不可能だとほんの少しでも思われる心理が分かりません(むしろ興味深いくらいです)。「周りの人と向き合うことこそ大事という気持ち」を持っているからこそ「この種の研究」を期待する――と考えるのが、自然だと思う
という点ですが、この種の研究の成果を利用しつつ向き合うことは不可能ではないと思いますし、世の中はそのように動いているのだと思います。一方、私たちは科学に多くを頼るようになって、その分、自分の目で見ることが疎かになっていないか、科学的な事実が、人々の価値観を揺さぶることに鈍感になっていないかという気がします。この辺のことは、自分の中でもモヤモヤしていて、これ以上は説明できません。
分かりにくい話にお付き合い下さり、ありがとうございました。