普通に読んでみた
TAKESANのところのエントリー「不明確」経由。
mzsmsの雑記にいくつか言及しておく。
「擬似科学批判・批判」について。
僕は、ウェブで見かける疑似科学批判に、不満を持つことが多い。一言でいえば、「科学」というレッテルの帰属を争うだけでは、たんなるセクショナリズムに過ぎない、という不満だ。
不満を持つのは自由だが、「セクショナリズム」に止まったとして、どういう不具合があるのかがはっきりしない。
あえて乱暴な言い方をすれば、彼らは、知識と非知識、事実と非事実、命題と非命題を区別する基準として、検証主義を唱えたのだ。だから、彼らにとっては「非科学的な知識」や「非科学的な事実」や「非科学的な命題」というのは一切存在せず、「科学的な知識」「科学的な事実」「科学的な命題」というのは過剰修飾である。
現実の科学は自然現象の近似である。何かの主義と結びつくようなものではない。科学に過剰な期待をしているのではないか。また、科学で何とかなる範囲は限られているので、その何とかなる範囲の知識を総称して「科学的な知識」と呼んで他と区別することには意味がある。
彼らの志の高さを、いまの一般的な疑似科学批判はどれだけ受け継いでいるだろうか。それを受け継がないのに、検証主義を持ち出すのは欺瞞的ではないか。検証主義が、知識・事実・命題の基準なのではなく、たんなる「科学の作法」に過ぎないのであれば、それは伝統芸能や伝統的な職人技の擁護と、どこが違うのだ。
芸能や職人技との違いがあるとしたら、共有可能だという部分においてだろう。科学の成果も方法論も、特定個人の能力と一体となったものではない。
伝統芸能や職人芸に特許が認められないことにした理由と共通のものがあるのではないか。
「擬似科学批判・批判の補足」について。
そうではなく、「彼らは、自ら『非科学的』だといっているが、実際には科学を装っている」というのでしょうか? それは言いがかりなのではないでしょうか。どうして彼ら自身がはっきりと否定していることを、彼らはそれを装っている、などといえるのでしょう。ビーカーや顕微鏡や温度計は科学の道具なので、科学者以外は手を触れてはいけない、それに手を触れることは科学者を装うことだ、とでもいうのでしょうか。それとも、およそ科学を装わないかぎり、大衆が何かを信じることなどありえない、よって大衆が信じている以上それは科学を装っているのだ、とでもいうのでしょうか。あるいは、理由はないが、彼らは疑似科学批判側が満足するまで、「科学とは言っていない」「科学とは言っていない」とオウムのように連呼する義務があるとでもいうのでしょうか。
顕微鏡を使う、でも、何やらスイッチのたくさんある測定器らしきもので測ると数値が出てくる、でも何でもかまわないが、「通常人が科学であると誤認する」ものを「科学を装う」と呼ぶことにしている。やっている人達が「非科学的」だと言っても「ポエム」だと自称しても、そんなことは関係がない。どの程度まで手の込んだことをやれば、装ったことになるかは、受け手の知識や経験にも依存するし、もちろん、プロの科学者と高校理科も忘れてしまった多くの人とでは異なる。基準はあくまでも「通常人」である。
また、大衆が何かを信じる、というとらえ方は範囲が広すぎる。大衆が科学でないものを科学と誤認する、くらいに絞らないと議論が成り立たない。
もし、ここで疑似科学批判が、たんに「科学的事実」「事実の科学的な真偽」ではなく、端的に「事実」「事実の真偽」を問題にしていれば、こういったことには陥らないでしょう。つまり、「彼らは科学的には間違っている」というのではなく、端的に「彼らは間違っている」というのであれば、こういうことにはならないでしょう。
「事実」の意味は状況により異なる。
科学的事実であれば、科学の手続に従って実験的に確認されたもの、ということになるが、民事訴訟の場であれば裁判官が認定したものが「事実」になる。だから、端的に「事実」と言ったのでは範囲が広くなりすぎてしまう。かといって「事実」という一般的なものに対して科学的であれという縛りを入れると、他の議論をするときにうまくいかなくなる。リップサービスで「事実」という言葉の使い方にこだわっているのではなく、現実に「事実」の意味する内容にブレがあるから、混乱を避けるために「科学」で扱える範囲に限定しているに過ぎない。
「 疑似科学批判・批判の補足(2)・ブクマコメントに」について。
k-takahashi> ニセ科学, 科学 『宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ』 それがあったとしたら、むしろニセ(疑似)科学。自然科学が相手にするのは「自然」。自然だけで、むちゃくちゃに強大で強力なのですよ。
なぜ、自然を探求対象とすることが自然科学の特権なのでしょう? 宗教が、自然のあり方を語ってはいけないのはなぜでしょうか?
誤読あるいは言い過ぎ。k-takahashi氏のコメントは、科学が自然を相手にしているという言明に過ぎず、他の何かが自然を相手にすることがあるかどうかについては何も言っていない。
実際には、多くの疑似科学批判は、探求対象としての自然が科学の占有物だとまで主張するとこまでいっていないように思います。もし、そう考えているのであれば、自然についての議論において「科学的に正しい」とか「科学的な方法」とかいう過剰修飾を行う必要はないはずです。もし、自然を探求対象とすることが自然科学の特権であるならば、自然についての議論において「科学的に正しい」のならばそれは端的に正しいのであり、「科学的な方法」は唯一の探求方法であるからです。「正しい」の代わりに「反証されるまで正しいとみなす」といった言い回しでも構いませんが、探求対象としての自然が科学の占有物ならば、いずれにせよ「科学的」というのは過剰修飾です。
自然を相手にするのに、科学的な方法でも、宗教的な方法でも、芸術的な方法でも、まあ、どんな方法でもアプローチすることは可能である。ただ、科学的な方法で自然を相手にしたとき得られるものと、それ以外の方法で自然を相手にしたとき得られるものが、それぞれ異なっている。このため、違うアプローチで得られたものを混同してはいけないし、それぞれ適切な使い方がある。
しかし、科学的に効果のある医療を提示するのは、疑似科学批判ではなく科学の役割であって、かつその提示が信頼できる理由は、科学がなぜ信頼できるかというですから、それは少なくとも「実証」「検証」「反証」というのものの価値の説明を度外視した疑似科学批判が単独でできることではないと思います。
擬似科学批判が単独でできるのは、科学的に効果のない医療を選ぼうとしている人に対して、それは効果がないということを知らせるだけであって、それ以上のことはできない。だから、この部分には同意する。
それでも、実用上は役に立っている。既に科学的に効果のある医療があるのに、そうでないものを科学的に効果があると誤認することを防げるからである。
誰かが勝手に科学でないものを科学だなどと主張するから、批判などという余計な作業をするはめになる。だからといって放置した結果、ニセものの方が社会の方で主流になってたりすると、ホンモノを持ってきても使ってもらえなかったりするから、困るんだよねまったく。ニセ科学を広める人達に対して言いたいことは、「要らんことすんなボケ」という身も蓋もないものでしかないから、そりゃ志も低く見えるわなぁ……。
「疑似科学批判・批判の補足(3)」について。
科学を支持し、疑似科学を批判する側には、たんに方法論、「科学の作法」以上の科学へのコミットメントがあるはずです。それは、科学こそが自然を探求するおそらく唯一の信頼できる方法であって、さらに何か信頼できる方法がでてくればそれを取り込むという信頼や自負があるからでしょう。私は、疑似科学の批判者が、そのコミットメントを自覚していないなどとも言っていません。
実のところ、科学のやり方は、人間にとってそんなに自然なものでも楽に実行できるものでもないと私は考えている。人は、放っておけば簡単に、合理的でないものの方を受けいれてしまう。多分、痛い経験によって科学の方法を思いついて積み重ねてきた、という方が現実に近い。だから、擬似科学を批判することで何かが得られるとしたら「人は不合理を簡単に受け入れる」ということを何度でも再確認することで、意識的な訓練のきっかけとする、といった意味があるだろう。勿論、合理的でないものを受け容れたことで現実の損害が発生する場合は、損害を防ぐという具体的な効果がある。
「疑似科学批判・批判のまとめっぽい何か」について。
少なくとも前段、疑似科学批判がやっていることは「科学」というレッテルの帰属争いであるというのは、多くの疑似科学批判者が意識的に選んだことではないの?これが問題になるようには思えない。後段は、私の揶揄的な評価だけど、少なくとも後に続く論理実証主義をふまえた上で、これをセクショナリズムだと評するのが、そんなに奇妙なものとは思えない。
セクショナリズムの定義がうまく伝わらなくて誤解されたのだろう。レッテルの帰属だというのは、まあそんなものか。私は以前、ニセ科学批判とは、先に科学でないものに科学というレッテルが貼ってあるのを剥がす行為だと書いたわけで。もろにレッテル回収作業だわな。
科学、哲学、その他の文化領域のほとんどについて思想的に改造しようとした論理実証主義と同じような壮大な意図を、多くの疑似科学批判が持っているのだとしたら、そちらのほうがびっくりする。
科学が出てきたのって、「思いつきで行動して痛い目を見たく無い」というあたりからだと思うので、思想的な志はあんまり関係ないのでは。その後、もっとマニアックなことになって、統一理論を作ろうだの、宇宙を全部記述しようだのという方向までいっちゃったし、それはそれで楽しいのだけど。
最大限に何かを読み取るとしたら、「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒する」というのがありえる立場だと僕は考えている、ということだろう。
無理だろう。科学は真理じゃなくて「自然の近似」なので。対象を自然に限定し、実験で再現したり予測を立てたりできる場合には、既にそれなりの精度を確保しているから相当に強力だけど、強力だというのと真理だというのとは違う。それに、科学が対象としていないものには科学のやり方は使えない。
「実証されなければ確かな事実ではない」という代わりに「『科学的方法』によって実証されなければ『科学的事実』ではない」というとき、そういう連中が子どもを虐待する口実を作り出す空気、さも「科学的事実」とは別の「宗教的事実」なるものがあって、それは「科学的方法」ではない「宗教的方法」によって探求できるのだという主張を許す空気を温存させることになる。僕は、その空気が大嫌いだ。
好き嫌いの問題についてとやかく言っても仕方がないとは思うけど、「宗教的事実」をどうにかしたいのなら、宗教的な考え方の範囲でどうにかすべきだろう。宗教をどう定義するかが曖昧だけど、少なくとも、人間にとっての価値判断を与える思想体系に科学を安易にくっつけるとろくなことにはならない。
科学は観測事実によって理論の枠組みを変えてきた。だからこそ強力であるけど、何にでもこの方法を用いることにしたら、困ったことだって起きる。科学に倣って枠組みを作るのなら、例えば殺人事件が増えたから殺人を容認する思想的体系を作ろう、という主張を受け容れることになる。こんな主張は、倫理的にも道徳的にも普通は受け容れられないのではないか。逆に、もし、科学が、地球上の人口は1つの生物種のサイズと数からいって多すぎるという結論を出したら、一体どうするのだろう。地球環境のためにランダムに選んだ人を殺して間引きましょう、というのは、星新一のショートショートの世界だけで十分だと思うけど。
しかし、「『科学的方法』によって…」という代わりに「実証されなければ…」というだけで、そのような空気の温存をいくらかは防げるというのに、「科学的」という修飾詞を好む明確なメリット、とくに科学者が率先してそうするメリットというものが僕にはあまり思いつかない。
「科学的」と修飾することで、副作用を防いでいるのではないかな。「実証」の意味が分野によって違う以上、「実証は全て科学的であれ」と縛ると身動きがとれなくなるだけだろうし。
もともと科学は適用範囲を限ることで精度を上げて強力さを確保しているのだから、みだりに適用範囲を広げたら、逆に収拾がつかなくなるし傍迷惑な結果になるだけだろう。
ここからは旧ブログのコメントです。
by 黒猫亭 at 2009-04-39 08:06:39
知らんがな的な
すでに多くの方が指摘されているように、この方の言い分と謂うのは一言で言って「お門違い」で、ご自分の思い込みに基づく「素晴らしい科学」と謂う幻想に、現実のニセ科学批判が合致していないと謂う不満にすぎないように思います。
どうも「こんなのボクの○○○じゃないやい」みたいな勝手なものを感じますね。何かが自分の思い通りじゃないことを批判する意見と謂うのは、まあ一般的には不毛でしょう。その何かがどのような目的性に基づいたどのような在り方なのかを前提とした批判でない限り、それはお門違いですよと謂う話にしかなりません。
by mizusumashi・mzsms at 2009-04-00 08:20:00
一点だけ
> 科学的事実であれば、科学の手続に従って実験的に確認されたもの、ということになるが、民事訴訟の場であれば裁判官が認定したものが「事実」になる
これは、厳密には、違うだろうと思います。
> じじつ【事実】 〔…〕また、民事訴訟、刑事訴訟において、法律適用の前提ないし対象となる事件の内容たる実体関係をいう。〔…〕
(法令用語研究会、代表 秋山収『有斐閣 法律用語辞典 [第2版]』有斐閣、2000.10.30)
訴訟における話ですから当該事件の法律適用に関係のないものは除外されており、いわゆる「訴訟法的事実」も除外されているのかもしれませんが(民事訴訟だと除外する必要はないと思いますが)、基本的には科学の場合と「事実」の意味しているところは異ならないだろうと思います。また、「民事訴訟の場であれば裁判官が認定したもの」としてしまうと、当事者がその認定を得るために「事実を証明」するというのが何を意味しているのか分からなくなってしまいます。
もっとも、科学は十分に再検証できるような事実を扱いますが、訴訟は「十分に再検証できないから扱わない」といったことはできないという違いはありますし、「証明」「立証」の要求される程度は自然科学と訴訟では異なります。これは、そう明言した最高裁判例があります:
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/D99DF1FB40619B8549256A85003120D1.pdf
(この判例の「一点の疑義も許されない自然科学的証明」という表現は、個人的には疑問ですが)
by apj at 2009-04-03 09:00:03
追加説明します
mizusumashi・mzsmsさん、
以前に、磁気活水器を付けたら養殖ヒラメが全滅したため、買った側が売った側に損害賠償請求したという事件が起きました。
科学の方から言えることは「磁気で水の物理的性質が変わることはない(但し磁気流速計などがあるから、塩濃度が高い場合には金属管から何かが溶け出す可能性はある)」となります。もし、科学で事実を突き止めるなら、活水器を通過させた海水の成分を分析し、何が魚に害を及ぼしたのかを突き止める、といったものになります。
訴訟の方は、売った側と買った側が共に、問題の装置を「磁場に水道水を通過させることによって,水の物性を変化させて活性化した磁気水を造る装置である磁気活水器」と考えて、そのように主張したため、この内容は判断の前提となる事実に盛り込まれました。「そういう装置を販売していた」が事実なので、主張された内容がその装置で起きることが科学的に立証されたわけではありません。
さらに、ヒラメ全滅が、活水器を取り付けた生け簀のみで起きたことなどから、活水器が原因であるという判断が出て、損害賠償が認められています。
効果があると言って売ったのだから、被害が出たら弁償しなければならない、という分かりやすい論理なのですが、装置の性能をどう考えるかという部分が、訴訟では科学に踏み込まず、何て言うか形式的・論理的に判断された形になっています。
こういう意味で、「事実」は裁判官が認定したものになる、と書きました。
科学の「事実」と多少ずれたものが事実とされる可能性は常にあると考えています。法律用語辞典は私も参照しています。ただ、判決書の項目で「事実」とある部分について、裁判所が認めたものですし、そういう意味の「事実」もあるのかな、と。
このことから、「事実」のすべてに、科学の手続を践んだものであることを要請するのは現実に無理だろうというのが私の理解です。