またまた途中まとめ
ニセ科学まとめの方のコメント欄でいろいろ議論が進んだので、現状を簡単に整理。
○「ニセ科学批判」と括れるようなものは存在するのか?
→存在しない。スポーツをする、という表現と同様に、あくまでも個別の事柄への批判があるだけ。
○「ニセ科学批判批判」はあるのか?
→そもそも「ニセ科学批判」で括れるものが無いので、何を批判しているかが不明のまま。
個別の議論の際に、もっとうまい表現がある、などといった批判が出ることは考えられるが、それは、ニセ科学を問題だと思う側もお互いにやってきている。この議論をするなら、「ニセ科学批判」対「ニセ科学批判批判」という構図を無理に作り出す必要は無い。
○ニセ科学はどう問題なのか?
→科学として間違っている(事実としての正しさが無い)上に、「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」といった社会規範にも違反する(規範としての正しさも無い)。
○「ニセ科学批判」に含まれる共通のものは本当に無かったのか?
→最近いろいろ考えた結果、含まれるものがあるというのではなくて、「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」という社会規範に拠って立っていたということが相当程度共通のことだったのではないかと考えるようになった。同時に、この社会規範を意識して説明する、という行動が、これまたかなり共通して「批判側」に抜け落ちていたのではないか。
○事実と規範の切り分けは?
→事実で規範を変えることはできない。規範に対抗するものは別の規範である。……このあたりは法哲学や法社会学の議論で当然知っておくべきことだと思うが、どうだろう。
科学の部分を問題にする場合は、事実としての正しさを問題にしていることになる。科学の部分の内容に関わらず、その内容によって社会規範を新たに説明したり補強したりすることはないし、できない。あくまでも、現状の社会規範を再確認しているに過ぎない。
なお、特定個人が科学的正しさを担保するわけではないのと同様に、特定個人が規範としての正しさを担保するわけでもない。前者は知識の集積でもって正しいことが徐々に確定するし、後者は合意を得るプロセスを通じて原則が何であるかが徐々に確定する。前者は自然現象を相手にするので、人の都合とは関係なく何が正しいかが決まるのに対し、後者は人の都合で何が正しいかが決まる。
※規範は不断の努力と考察をしないと維持できない。
※【追記】規範を決める時に、事実を踏まえてはいけないという意味ではない。事実を踏まえた規範にするか、それとも事実とは関係無く規範を定めるかどうかが人の価値判断に任されているということであって、事実によって自動的に規範の在り方が決まってしまうという関係ではない。
○ニセ科学の問題は規範の部分を含むのか?
→この社会で問題にする限り、科学の部分と規範の部分は不可分。
なぜならば、もし、社会の側が「嘘ついてもOK」を規範としてしまったら、その社会では、ニセ科学を問題にする意味は無くなるし、逆にニセ科学を問題にすることの方が規範に照らして非難されるべきこととなるかもしれないから。事実としての正しさ(=科学の部分)のみでは、ニセ科学を問題にすることが正当であることを支えきれない。
※規範の部分が入る、即ち価値判断を含むことが、科学哲学とも異なっているのではないか?
○共通のものがあることが分かったところで、「ニセ科学批判批判」はどう位置づけられるか?
→これまでのところ、はっきり言って成果は無さそうである。
「批判批判側」のいう「批判側」が共通に拠って立っているものが社会規範であるということを、「批判批判側」はきちんと拾い上げることができなかった。このため、科学以外のことを押しつけるなとか、科学教とか、ニセ科学批判一派といった、間違った問題を設定して批判するばかりであった。
「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」という社会規範を受け入れているということがニセ科学を問題にする側の共通の部分で(多分ほとんど当てはまると思う)、これが事実(=科学の部分)以外のほぼ全てである。「ニセ科学批判批判」が、科学的正しさの部分は受け入れるというのなら、批判すべき対象は「ニセ科学批判」ではなく「批判側」が拠って立っている「社会規範」ということになる。
つまり、「ニセ科学批判批判」は「ニセ科学批判」を対象とするものではなかったので、ネーミングが違っているとも言える。
○「ニセ科学批判批判」が本当にしなければならないことは何か?
→科学的事実以外の部分について批判をするという立場をとるのなら、議論すべき対象は「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」という社会規範ということになる。これらの規範は「原則」である。
個人の主観と感情に基づいた「規範が押しつけだ云々」という議論で済むのは、せいぜい中学生までだろう。規範である以上、客観性があったり、社会における機能がどうであるかといった部分を無視して議論しても意味がない。既に書いたように、規範を制限したり変えたりするのは別の規範である。
従って、特定のニセ科学を問題とすることに異議を唱えるのであれば、それが、「嘘をつくな」という規範の「例外」にあたることを説明しなければならない(原則が当てはまらないことを主張する側が例外を立証するのがルール)。あるいは、ニセ科学を問題にするのに、これらの社会規範に拠って立つことが妥当ではない、あるいは、社会規範そのものが妥当ではないことを示し、別の規範をぶつけて、どういう価値判断をするかについて論じなければならないだろう。
つまり、「ニセ科学批判」論を展開するのではなく、「規範」論(勿論勝手な作文ではなくて文系のお作法に則ったもの)を展開しなければならないということである。
コメントをいくつか。
これまでの自称「批判批判者」は、「批判側」から共通に抜けているものを指摘し損なった上、見当外れの問題を設定して、メタな議論ばかりしていて役に立たなかった。だから、今度は、その人達が規範論をメタな方向に突っ込まずにやれるかというと、多分無理じゃないかと思う。ただ、問題にすべきことが規範の意味だったり位置づけだったり機能だったり、ということをはっきりさせておけば、文系の人が問題を認識して一緒に考えてくれるんじゃないかと期待してるんだけど……。
実のところ、ある時期までは、私は「規範」ではなく「利害」を全面に出して進めようと考えていた。これは、悪徳商法系の人達による批判が、「安っぽい正義感を振り回しても現実は違う」といったパターンでやって来ることがあったからで、これに対抗するため「正義感じゃなくて利害」という説明をする必要があったことによる。また、一般論として正義の名のもとに何かやると歯止めがきかない、という危惧もあり、私自身が正義感というものに対してネガティブイメージを抱いていたこともある。
ただ、被害を発生させない、という「利益」を実現するために、規範が実際に役立ちそうだということに思い至ったので、正義感よりは客観性と普遍性のある「規範」の方を考えることにした。
まあ、見方を変えた理由は、私が、法の概念とは何かとか、法と道徳の関係はどうだとかいう話を、せっせと教科書を読んで勉強してみた、というのが主な原因かもしれない。
ところで、「ニセ科学批判まとめ」の、「何故ニセ科学を批判するのか」では、理由は「人それぞれ」とされていて、いくつかありそうなものが列挙されている。私が見る限り、列挙されている理由は、「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」といった社会規範そのもの、あるいはこの規範が社会において必要である理由として説明できそうに思う。
【追記2009/06/19】
ニセ科学が科学としてどう間違っているかを判定するのは、社会規範とは関係なく、自然科学のみで可能である。内容の正しさは、科学だけで支えられる。一方、ニセ科学をニセと間違いなく指摘して他人に伝える行為の正しさは、規範としての正しさである。だから、反論や検討としては、
(A)指摘の内容そのものへの異議→科学として間違っているかどうか、つまり事実として正しいかどうかが問題となる
(B)指摘するという行為への異議→規範として正しいかどうかが問題となる
という形をとることになる。この2つは異なった正しさなのだから、議論するときに混同してはいけない。
科学の優位を主張しているわけではないことに注意。科学的に正しいことが(B)の主張の根拠になることはないし、規範が(A)の主張の根拠になることもない。規範は人の価値判断の結果出てくるものであり、科学は人にとって何が価値あることかを決めることはできない。規範を定めるときに、科学的事実を取り入れて定めるかどうかはケースバイケースである。科学的事実の一部が採用されたとしても、それは人が考えた価値判断基準によって選ばれただけであり、科学的事実が規範を規定するという関係ではない。
科学としての正しさと、規範としての正しさは対立概念ではない。
ここからは旧ブログのコメントです。
by TAKESAN at 2009-06-06 20:14:06
今頃・・・
今日は。
しばらく見ていない内にやり取りが多くなされているのを、今頃知りました次第であります。
ところで、すごく素朴で的をはずした意見なのかもですが……
私としては、どうしても、「嘘」という語に、「意図的な」という意味を読み取ってしまいます。もちろん辞書的には、「真実でないこと。また、そのことば。」(広辞苑第五版)という意味で、特に「わざと」という意味合いは含んでいない訳ですけれども、語感としてそれを読み取り、印象が引きずられてしまう感もなきにしも非ず、です。
ニセ科学を批判する際の動機の「嘘をつくな」は、ちょっと言い換えると、「誤りを広めるな」、となりますよね。他には、「不正確な情報を流布するな」、とか。apjさんの表現ですと、「不確かなことを言い触らすな」、ですね。
いや、なんでこんな事を書いたかと言いますと、「よく知らない人」に対して動機を説明する際に、「それは、嘘を言ってはいけないからです」、と言った場合、聞いた側が、「嘘=意図的に誤った情報を吹聴する」事だと解する事があり得るのかも知れない、と思ったからなのでした。ニセ科学についてよく知っている人々は、それらの言説を流布する人について、自己の主張内容を誤りであると認識しているか否かは問わない、というのを理解している訳ですけれども、詳しく無い人からすると必ずしもそうでは無いので、「嘘」という言葉の印象に引きずられて誤った理解をする可能性があるように考えました。
別の辞書(goo辞書参照)では、「事実を曲げてこしらえたこと。」とあるし、そっちで解釈する人も結構いるだろうな、と。
いきなり話は替わって。
私は、フィクションにおける「いかにも科学ぽい」ものを「ニセ科学」として批判するのは可能だと考えています。きくちさんは、フィクションにおける許容出来る嘘として「疑似科学」の語を取っておき、そうで無いものについて「ニセ科学」を当てるという風に書いておられますが、それは当然、フィクションにおける表現をニセ科学として批判出来ない事を意味しない訳で(フィクションが「全部嘘」というのは論理的にあり得ないから、描かれるものが「本当」だと誤認される可能性も当然ある)、これはいかにも本当の科学っぽいがそうじゃ無いよ、と指摘するのも意義ある事と思います。
たとえば、神経科学者のvikingさんによる、ドラマ 『MR.BRAIN』の検討がありますが、
http://www.mumumu.org/~viking/blog-wp/?p=2806
これなどは、フィクションにおけるニセ科学の批判の一つですね。
っと、なんか、全然エントリーと関係無い話になっちゃいましたね。すみません。
by apj at 2009-06-41 21:27:41
語感の問題かなぁ
TAKESANさん、
>「よく知らない人」に対して動機を説明する際に、「それは、嘘を言ってはいけないからです」、と言った場合
あ、このあたりの説明方法は、その場に応じて変えてもいいかと。間違った事を広めてはいけない、とか、真実でないことを広めてはいけない、といった表現に置き換えても、意味は同じですし。
まあ、規範の議論をするのに、内容を言わなければいけなかったので「嘘をつくな」とやったわけで、「わざとじゃないから嘘じゃない」などと反論されたら「わざとでなくても真実でないことを広めるのはよくないですよね」と表現を変えればいいだけですし。
>フィクションにおける表現をニセ科学として批判出来ない事を意味しない
これはその通りです。
別のエントリーで、フィクションの嘘をとりあえず対象にしない理由として、
現実の嘘は放っておくと判断を誤ったり他人の行動への信頼度が低下したりして判断のコストが上昇したり、といったことがあるが、フィクションの嘘は一般にはそういう結果を引き起こさないからだ
といったことを書きました。
ですから、当然例外があるわけで、フィクションの嘘といっても、その部分が真実であると普通の人が誤認し、その結果判断を誤ったりする蓋然性が高い場合には、野暮でも、どこがどうフィクションか指摘することには意味があると思います。
結果発生で扱いを変える、ということでいいと思います。フィクション除外の理由と例外については、まとめの方に書いた方が良さそうですね。
by 摂津国人 at 2009-06-23 21:50:23
誤解を避けるためにこの辺りも確認しておくべきではないですか?(重複する部分もありますが)
(apjさん、またまた口出しします)
これは「ニセ科学」の蔓延が「嘘をついてはいけない」「不確かな事を言いふらしてはいけない」という規範が弱くなったのが原因ではないかと云う考え(経験に基づく仮説)が前提の一つに有る。
「嘘をついてはいけない」「不確かな事を言いふらしてはいけない」という規範は嘘が判断の正確さを損ない、誤った結論に基づく行動によって起こる被害を避けるためにある。それを避ける事は「社会」の利益であると考えられる。
ここで考えられている「社会規範」というのは「表現された」「行動・言動」についての基本的な合意であり、、ペナルティはその程度(社会によって異なる)によって単なる指摘や、批判や非難の形で与えられる(違法行為は法の問題になる)。(故意であるか悪意があるかは別に規範によって問われる)
”「ニセ科学」批判”というのは科学に基づき事実とした正しい事を述べているだけではなく、規範としても正しい事を行おうとしている行動である。
「批判者」側の前提(動機、根拠)として規範があるはずで、その批判を受け入れる側(批判される側と社会全体)の受け入れる根拠として規範があるべきである。
これは主として「科学」を「人間」と対立する物と考え、”「ニセ科学」批判”を科学の優位を示した物と考える人に対し、「批判」は「規範」に基づく行為でもあることを確認するためにされる説明です。
by apj at 2009-06-51 04:11:51
補足
摂津国人さん、
>これは「ニセ科学」の蔓延が「嘘をついてはいけない」「不確かな事を言いふらしてはいけない」という規範が弱くなったのが原因ではないかと云う考え(経験に基づく仮説)が前提の一つに有る。
は、「なぜか科学の話題になると弱められているのが原因ではないか」のように、補った方が良いかもしれません。
科学の場合は、ニセ科学だと指摘していると、指摘の仕方が云々、科学の部分だけは受け入れるが云々、と第三者が出てきて、規範とは関係ない、という方向で話を始めるんですよ。でも、悪徳商法を非難している場合にこのパターンで第三者が出てくることはほとんど無いんですよね。
穿った見方をすれば、科学の部分は(相手が自然現象で事実として誰でも確認できてしまうので)反論できないが、何とかして価値相対主義を維持したいがために、規範の部分を意図的に軽んじている(そのことによって反論する機会を得ようとしている)ようにも見えるんですけどね。案外これが、規範を弱めている原因の一つかな、と思ったりもするんですけど、そこまで言うとまた別の議論になるので、ちょこっと書いただけで本筋の方では突っ込まないようにしているわけですが。
予防のための議論としてどこかに入れておいてもいいかもしれません。あくまでも予防なので、私が推測したようなことをやろうとした人だけ引っ掛かればよいので。
by korean at 2009-06-07 23:14:07
はじめまして
「嘘をつくな」が社会規範であるならば、ブログ主様は在日外国人が通称名を名乗り、かつ自らの国籍を隠す事はアウトだとお考えですか?
by apj at 2009-06-03 01:25:03
法的根拠はありましたっけ?
koreanさん、
>「嘘をつくな」が社会規範であるならば、ブログ主様は在日外国人が通称名を名乗り、かつ自らの国籍を隠す事はアウトだとお考えですか?
通称名の使用や国籍を隠すことを認める根拠条文はありましたっけ?
ペンネームを名乗って文章を書くことは別に規範には違反してませんから、どういう扱いにすることで合意しているかで結論が変わってくると思うのですけど。
というか、外国人に通称名の使用を認めるのであれば、日本人にも本名と異なった通称名の使用を認めることにしておかないと不公平な気がしますが。
by iseda at 2009-06-19 05:04:19
科学哲学は規範を扱わない?
ごぶさたしています。京大の伊勢田です。コメント欄でのやりとりが膨大できちんとフォローしきれないので、すでに出ている話かもしれませんが、一応わたしの専門にかかわる部分についての感想を書いておきます。
>事実としての正しさ(=科学の部分)のみでは、ニセ科学を問題にすることが正当であることを支えきれない。
>※規範の部分が入る、即ち価値判断を含むことが、科学哲学とも異なっているのではないか?
「狭い意味での科学哲学は社会的な規範や社会的価値判断を対象としない」という意味であれば、おおむねその通りです。ただ、狭い意味での科学哲学でも、認識論的規範(何を信じるのが合理的かということについての価値判断)は扱います。また、科学哲学をどう定義するかにもよりますが、科学倫理なども含めれば当然社会的規範はかかわってきます。また、認識論的規範と社会的規範は区別できないという科学哲学上の立場もあり、そういう立場からは「嘘をついてはいけない」といった社会的規範も科学哲学のプロパーの問いに関わってくることになります。
>「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」といった社会規範にも違反する(規範としての正しさも無い)。
これがどのくらい根本的な批判になるかというのは、倫理学の立場からは疑問です。倫理学ではこういうのは「一見自明の義務」などと言われていまして、例外的な場合には停止されるという前提で受け入れられているものだ、ということになっています。
嘘つきが絶対いけないと思っているのは倫理学者ではカントくらいなものです。
ではどういう場合を例外とするのか、ですが、これについては倫理学ではいくつもの立場があります。私自身の立場はいわゆる功利主義に近く、あるタイプの例外を認めることがすべての人にとっての幸福につながるかどうか、といった基準で考えます。
そもそも倫理学って何、という場合は、手前味噌ですが、拙著『動物からの倫理学入門』という本をご参照ください。
by apj at 2009-06-37 05:51:37
例外があることは織り込み済みです
伊勢田さん、
>また、認識論的規範と社会的規範は区別できないという科学哲学上の立場もあり、そういう立場からは「嘘をついてはいけない」といった社会的規範も科学哲学のプロパーの問いに関わってくることになります。
なるほど。私の方は、この部分を、科学哲学ではなくて法哲学の方から何とかしたいと考えているのですが、だいぶ様子が違う分野に手出しすることになるため、どうやって進むかも含めて模索中です。
ただ、下にも原則と例外のことを少し書きましたが、少なくとも、「嘘をつくな」が原則としての位置を保っていてくれないと、ニセ科学を問題であるとする主張そのものに意味が無くなりそうに思います。
>これがどのくらい根本的な批判になるかというのは、倫理学の立場からは疑問です。倫理学ではこういうのは「一見自明の義務」などと言われていまして、例外的な場合には停止されるという前提で受け入れられているものだ、
これは、技術開発者さんと何度も確認していますが、「原則」と「例外」の扱いで処理すべきことだと考えています。停止させる場合は、「例外」であることを示す(例外にする方が合理的だとか、すべての人にとっての幸福につながることを説明する)ことになるだろう、という話です。エントリーにもそのように書いています。
by korean at 2009-06-22 05:53:22
返答ありがとうございます
apjさん
>通称名の使用や国籍を隠すことを認める根拠条文はありましたっけ?
通称名にかんしては外国人登録法で使用が認められていると思います。
>というか、外国人に通称名の使用を認めるのであれば、日本人にも本名と異なった通称名の使用を認めることにしておかないと不公平な気がしますが。
日本国内で日本人であるという理由により差別されるという可能性があると思われますか?
by zorori at 2009-06-46 06:19:46
「殺すなかれ」が社会規範ならば、正当防衛もアウトか?
koreanさん、
>「嘘をつくな」が社会規範であるならば、ブログ主様は在日外国人が通称名を名乗り、かつ自らの国籍を隠す事はアウトだとお考えですか?
そういう話ではないのと違いますか?
子供が見ていた漫画「激辛4コマ 暴君ハバネロ」を思い出しました。
女の子A「今度の日曜日なにしてる?」
女の子B「何にもしてないよー。」
女の子A「じゃあ映画見に行こうよ」
暴君ハバネロ「何もしてないだと?」
暴君ハバネロ「何もしてないってことは、息もしてないんだな」
女の子B「いえ・・息はしております」
暴君ハバネロ「ダメー」
てな感じです。子供のころよくやっていたやつです。
by apj at 2009-06-51 08:44:51
なら、別にいいんじゃないですかね
koreanさん、
>通称名にかんしては外国人登録法で使用が認められていると思います。
なら、別に問題ないんじゃないですかね。
>日本国内で日本人であるという理由により差別されるという可能性があると思われますか?
差別を無くするためにしなければならないことは、隠したり隠れたりすることではないと思います。
by apj at 2009-06-49 08:54:49
むしろ……
法的には問題無いけど誤魔化されてる感がありまくるのが、東京で争ってる吉岡氏関連会社だったり。
訴訟やっている間に法人の名称を変えたりしてるんだけど、裁判の場では何も言わないので、わざわざこっちから「変えましたね、実質同じですね」と念押しする始末。登記されて公示されてるわけだから何も問題は無いんだけど、当事者としては何だか引っ掛かる。訴状に名前が書かれてるんだから、名前変えたら変えたって言えよと。
by korean at 2009-06-07 22:33:07
Re:またまた途中まとめ
apjさん、
私はいわゆるニセ科学に批判的な意味で興味をもっており、apj
さんの活動にも尊敬の念を抱いていますが、ニセ科学批判の根拠として、「嘘をつくな」という社会規範に違反する、という部分に違和感があり上のような質問をしました。
そう言う意味では伊勢田さんのコメントは腑に落ちるものだったのですが、
>なら、別に問題ないんじゃないですかね。
これは例外的であるということでよろしいんでしょうか?
>差別を無くするためにしなければならないことは、隠したり隠れたりすることではないと思います。
差別を無くすとかいう話ではなく、現に存在する差別からとりあえず避難する為に多くの人は通称名を使用しているのだと思います。
by apj at 2009-06-22 07:20:22
Re:またまた途中まとめ
koreanさん、
>>なら、別に問題ないんじゃないですかね。
>これは例外的であるということでよろしいんでしょうか?
立法趣旨までたどらないと、例外になってるのか、「嘘」の範囲の方を変えるという考え方なのかがわからないので、正解にはたどり着けなさそうな……。でも、法規範でOKなら、既に社会において合意はとれているということで、「嘘をつくな」という規範については問題無しという結論でいいと思います。
>現に存在する差別からとりあえず避難する為に多くの人は通称名を使用しているのだと思います。
本筋とは違いますが、通称名であることがばれた場合に、逆に「外国人=うさんくさい、こそこそしている」という見方を強化する結果になって、長い目で見ると逆効果な気もします。何て言うか、「差別用語」に対して「言葉狩り」をしたり「自主規制」をしたりするセンスと共通のものを感じます。言葉だけ隠せばいいだろう、とやっておいて、差別の方はしっかり生き残るというパターンをたどっていそうです。個人的意見ですが、通称名を使うことを許すというやり方で「臭い物に蓋をする」で済ませてしまうことで差別問題を真面目に考えるきっかけすら無くす、という、別の不道徳な状況を発生させたように見えます。「嘘をつくな」とは全く関係のない問題ですが。本当に実現しなければならないことは、合法的に日本に滞在している外国人は全て差別なく暮らせるようにする、ということなのに、残念です。
by ごんべえ at 2009-06-16 07:04:16
通称は認められている
apj:「外国人に通称名の使用を認めるのであれば、日本人にも本名と異なった通称名の使用を認めることにしておかないと不公平な気がしますが。」
結婚に伴って改姓しても旧姓を通称として使う人はかなり多いし、芸名が通称と化して選挙ですら通称ででられるんだから、戸籍名と異なった通称の使用はごく一般的に認められていると考えるべきでしょう。
by apj at 2009-06-47 07:37:47
社会的「姓名」
>結婚に伴って改姓しても旧姓を通称として使う人はかなり多いし、芸名が通称と化して選挙ですら通称ででられるんだから、戸籍名と異なった通称の使用はごく一般的に認められていると考えるべきでしょう。
そういえばそうですね。じゃあ、ますます、通称の使用については問題なさそうですね。多分、通称、というからには、周りの人がその名前をきいたら「ああ、あの人ね」と特定できるようなものだということなんでしょう。
悪さをする目的で、特定されないために一時的に名乗る「偽名」とは区別しておかなくちゃ、と。
by korean at 2009-06-32 00:57:32
Re:またまた途中まとめ
apjさん、
ある在日朝鮮人家庭に生まれた子供がいました。あるとき親から「我々は日本人ではなく朝鮮人で、使っている名前も本名では無い、しかしこのことは誰にも言ってはいけない。」と言われましたが、子供のことですから、一番仲の良い友達にその話をしました。するとしばらくしてその友達から、「おまえとはもう遊ばない。親にそう言われた。」と言われ、さらに仲間はずれにされてしまいました。子供はその不条理さに恐れおののき、これからは日本人であると偽って生きていこう、これは「ついてもよい嘘」なのだ、と悟りました。
これはほぼ実話なのですが、在日だけでなく、被差別部落出身者などにも同様の話はいくらでも転がっていると思います。
このような例をきいて、
>通称名であることがばれた場合に、逆に「外国人=うさんくさい、こそこそしている」という見方
ではない見方をする方も多数おられるのではないでしょうか?
現在、日本国内に在日韓国朝鮮人は約60万人住んでいますが、在日本大韓民国民団によると約9割の人が通称名を名乗っています。
それは、
>多分、通称、というからには、周りの人がその名前をきいたら「ああ、あの人ね」と特定できるようなものだということなんでしょう
ということではなく、日本人であると偽るため、いわば「嘘をつく」ために名乗っています。
これは伊勢田さんのおっしゃる「例外的な場合は停止」にあたるとおもわれますか?
by apj at 2009-06-44 06:34:44
何が問題なのかわかりませんけど
koreanさん、
>ということではなく、日本人であると偽るため、いわば「嘘をつく」ために名乗っています。
通称名=ああ、あのhとね、とわかる状態ですよね。なら、別にいいんじゃないですか。旧姓を使う日本人も居るから通称使用は社会通念上OK、という話だし。
問題にすべきは「通称」ではなくて、「偽名」を使った場合ではないかと。
by PseuDoctor at 2009-07-52 08:46:52
Re:またまた途中まとめ
>ところで、「ニセ科学批判まとめ」の、「何故ニセ科学を批判するのか」では、理由は「人それぞれ」とされていて、いくつかありそうなものが列挙されている。私が見る限り、列挙されている理由は、「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」といった社会規範そのもの、あるいはこの規範が社会において必要である理由として説明できそうに思う。
確かに、あそこに書いてあるのは「列挙」であって、体系的にまとめたものではないのですね。つまり、色々なレイヤーの話が混在していて「嘘はいけない」という話と「なぜ嘘はいけないのか」という話が並列に記載されています。
で、私はそれで良いと思っています。何故なら、色々な読者を想定しているからです。
「嘘は良くない」と言われただけで納得する人には、それ以上の理由は不要でしょう。それでは納得しない人も「他人に害を及ぼす」と言われれば納得するかもしれないし、更に「だから嘘は良くないのか」と思うかもしれません。
私としては、読者に、まず「ニセ科学というものの存在」を知ってもらい、次に「ニセ科学が批判されている事」を知ってもらい、そのうえで「なぜニセ科学が批判されているのか」を「自ら考えて」もらいたいと思っています。
その意味で、結果論ではありますが、あそこに未整理のまま並べてあるのは、それはそれで、ある意味妥当なのかな、とも考えています。
by apj at 2009-07-35 19:55:35
列挙でいいのでは
PseuDoctorさん、
ニセ科学批判まとめについては、「列挙」でいいと思います。
ただ、思いつきそうな内容を「列挙」したものが、私の方で考えている規範の話の範囲に入っている、ということは、心に留めて置いてもいいかな、と思いました。