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「論」が持つ強さではなくて「現実」が持つ強さ

Posted on 7月 9th, 2009 in 倉庫 by apj

PSJ渋研Xさんのところの「教えて、元増田」のコメントを見ながら。

Posted by zorori at 2009年07月09日 07:13さん、

>「自分は物を知っている特別な人間と思われたい」という「欲得」そのものだろう。
(中略)
人間には「欲得」は必ずありますから、主張している内容には無関係に必ず「動機が不純だ」と批難が可能になるんじゃないでしょうか。

 動機が不純だった場合、というか「欲得」を持ったことで生じる実害がはっきりしない。一方、知らなかったことによって、具体的な不利益が発生する場合がある。
 実害がはっきりしている場合の批判と、実害がはっきりしない場合の批判を、同じに扱うことはできない。

Posted by pooh at 2009年07月09日 08:13さん、

難しい部分があって、ある程度強い主張に対して対抗言論をおこなうためには、対抗言論にもそれなりの強さが求められる。ここの部分の制御はあんまり容易じゃないし、正直云って最近のJudgementさんあたりの議論はその部分がコントロールできなくなってるんだろうなぁ、みたいに感じます。ご自分の場所が、ご自分が批判している対象の質の悪いパロディみたいになってしまっている。Judgementさんのように、そもそもは相応に高い意識で言説に臨んでいるはずの方でさえ(自分自身の言動も含め)コントロールできなくなる。いや、ご本人に訊けば「意図的にやっている、コントロールは万全だ」とおっしゃるかもしれませんけど。

 ニセ科学言説が「言説」のみにとどまり、現実の社会において何ら被害を発生させないのであれば、ニセ科学に対してクレームをつけることも、それに対して対抗言論を出すことも、全て「言説」の中だけで終わる。そこには、言説同士の強さの違いは、純粋に、論としての強さだけで決まるだろう。
 しかし、実際には、ニセ科学言説の「強さ」は、現実の被害(多くは金銭的な被害)を発生させる強さである。すると、ニセ科学に対するクレームは、現実を相手にしていることによって必然的に伴う強さを持つことになるし、現実の被害に対抗する限度であれば「強さ」が過剰になることもない。これらの論が持つ強さは、論そのものに拠るのではなくて、論が現実に直接結びついていることに拠るものである。
 「ニセ科学に対するクレーム」への対抗言論は「ニセ科学を正しいと主張すること・ニセ科学が存在することに何らかの正当性があると主張すること」であって、いわゆる「ニセ科学批判批判」「批判の仕方批判」といったものではない。このようなものは、「ニセ科学に対するクレーム」に対して、対抗言論としての地位を獲得することはない。これらが、ニセ科学に対するクレームの論と同程度の強さを持つとしたら、例えば、「ニセ科学に対するクレームによってニセ科学が発生させる被害と同程度の被害を発生させる」ということが現実に起きた時だろう。この場合には、これらの論は「新たな別種の被害発生をくいとめる」という現実に土台を置くことになるので、論の強さとしては同程度になる。批判の仕方批判のようなものに強さを付与したいのであれば、「批判の仕方が良くなかった事によって生じた被害を具体的に指摘する」ところから始めるべきで、そこを欠いていたら、どれだけ言葉を並べたって脆弱なものにしかならない。
 そもそも対抗言論でもなく、拠って立つ現実にも乏しい論にしかならないものを、「対抗言論」であると錯覚して、無理に強さを持たせようとしているのだから、コントロール不能な状態に陥っても別におかしくはない。できないことをやろうとするから無理が生じる。見せかけの強さは長持ちはしない。

 一方、共通の現実を相手にしている論の場合は、対立があっても、無理に強さを持たせるようなものにはなっていない。例えば、刑法総論の学説の対立を見ると、プロの学者同士の対立だけあって、相当強い論同士の対立になっているのだが、論の強さのコントロールができなくなるといった無理は生じていない。刑法でなくたって、法学の本を読んでいると、判例・通説・多数説・小数説・有力説、などと並んでいたりする。これらは、いずれも、すべて同じ現実(世の中で起きた事件や紛争、立法、裁判)を相手にしている、つまり全て現実を取り扱うものなので、無理は生じていない。