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フレッシュマンキャンプ

Posted on 4月 10th, 2010 in 倉庫 by apj

 新入生への導入教育の一貫として、今年から行われることになった、フレッシュマンキャンプの日だった。
 午前中は単位の取り方などを担当の先生が説明。昼前にキャンパス内のどこに何があるか(掲示板の場所、図書館や保健管理センター、学生センターなど)の案内、昼食は教員と一緒に会食、昼からは院生と先輩学生による大学生活の解説、研究室紹介に時間割製作など。
 サークルの新入生歓迎イベントの日とぶつかったので、キャンパス内はあちこちにテントが立ってて、勧誘してる人達の間を進みつつキャンパス内見学。

 今日は晴れていて、外の方が屋内よりも暖かいくらいの天気だったので大変に助かった。これが暴風雨の日に当たると、キャンパス内の見学がとんでもない試練と化すので(汗)。


ここからは旧ブログのコメントです。


by ちはちょる at 2010-04-31 16:49:31
Re:フレッシュマンキャンプ

 こういうオリエンテーションは、うちでは、土・日を使った泊まり込みのものまであります。当然ながら教員も動員されます。

 いくら何でも学生サービスが過剰なのかな、と思うところ。僕たちが学生だったころは、時間割の組み方やら図書館の使い方など自分であちこちに聞きまくって何とかしていたもの。いくら「当時とは時代が違う」とはいえ、手取り足取りの親切に学生時代から慣れきってしまうというのは卒業してから怖いと思います。


by apj at 2010-04-22 02:10:22
望んでいるのは誰か

ちはちょるさん、

 多分、手取り足取りで育てられた学生を、社会は望んでないと思います。ただ、大学改革の圧力は、手取り足取りの方に向かっているようですね。
 社会と学生の双方が、手取り足取りは望まないと言えば変わるでしょう。具体的には、手取り足取りでない大学に受験生が殺到するなどすればいいわけですが、その判断ができない以上、判断できなかった不利益は学生本人が4年後に自分で帳尻合わせするしかないですね。

 私なら、学生を放任しておいてくれない大学に好きこのんで進学しようとは思いませんし、もし進学してしまったら、堂々とクレームをつけて其の手のサービスは拒否しますが。


by RBの残党 at 2010-04-08 15:51:08
Re:フレッシュマンキャンプ

フレッシュマンキャンプの捉え方も大学・教員により、どうもいろいろあるみたいです。
某大学は新入生全員強制参加。
某大学は相当規模の定員はあるものの自由参加。
強制か自由かという違いは大きくて、後者は学生サービスが目的であろうと思いますが、強制というのは、学生サービスと言うより、大学の危機管理・リスク管理の面もあるかと。学内ルールの徹底やトラブルやクレームの起こりそうなポイントに関する注意をし、問題の予防と問題発生時に備え予防措置はやっていましたというアリバイ作りの側面もあるのではないかと。学生が未熟になったという面だけでなく、世間が大学の責任を問うようになったという面もあるでしょう。最近の世間が責任を問うのは、対大学だけではないわけですけど。

効率的な予防策とすればサービス過剰ではなく狡猾な作戦とも言えるわけです。

ただ、隣の大学がやっているからという理由でポリシーなく、目的も折衷的でやっているところもあるかもしれませんが。


by 技術開発者 at 2010-04-03 01:25:03
5倍論なんて提唱したのね

こんにちは、apjさん。

昔、悪徳商法批判者だった頃に、事業者は消費者に対してどの程度労力を出すべきかみたいな話になってね。でもって、「5倍論」なんて変な事を提唱したのね。つまり事業者として消費者に対する時には消費者として事業者から受け取るサービスの5倍は労力を使わなくてはならないなんてね(笑)。

理屈は簡単なんですね。人生において我々が生まれて仕事に就くまでの時間と仕事を辞めてから死ぬまでの時間、そして仕事をしている間も家で休んだりしている時間を足すとだいたい人生の4/5を消費者として過ごしていて、人生の1/5を仕事をしているなんて考え方ね。

でもって社会というのは互いに仕事に労力を提供しあって、その仕事をしていない時間を支え合うものだという考え方ね。そう考えると消費者として受け取る労力の5倍を労働者として提供しないと勘定があわないというだけね。

でね、消費者として「お金を出して居るんだからもっとサービスをしろ」といって、今までの2倍のサービスを受けるということは、今度はそのお金を稼ぐときに、5倍の2倍の10倍の労力提供をするという意味になる訳ね。そうしないと社会全体の勘定が合わなくなるからね(笑)。

実際の所、「社会というのは互いに仕事に労力を提供しあって、その仕事をしていない時間を支え合うものだという考え方」そのものが理解されていない気がしますけどね。