お茶大理学部物理の主に2Fフロアに棲息している物性関係の研究室で、年に1回草津ゼミツアーというのをやっている。参加者は大体修士以上の学生と教官で、参加した人はかならず何か発表することになっており、現在進行中の研究や興味をもった論文の紹介などをする。10月の終わりに行われるのでうまくタイミングが合えばきれいな紅葉を見ることができる。
さて、これに参加するため私は教授の車に乗せてもらっていた。長野原の近くまできたとき「そのへんでお茶にするか」と教授が言うので、この近くに喫茶店なんかあったっけと思っていたら、教授はいきなり道をはずれて河原に車を乗り入れて止めると、携帯用のコンロと鍋を持ち出して湯を沸かし始めた。
言葉通り“そのへんでお茶”であるから、「喫茶店へ入ると思っていたのに」と苦情を言ったところで「間違ったことはしていない」と切り返されてしまう。
もちろん他の研究室では、教授が「そのへんでお茶」というとしゃれた喫茶店に入ってケーキセットか何か注文することになっている。うちの研究室だけ“そのへんでお茶”の指す具体的な内容が他の研究室と異なっている。
このページ、しっかり教授の奥様にも読まれていた。そして、私は奥様直々の、
今度はお茶にする時にお菓子も用意するよう忠告しておきました。
というメールを頂戴したのだった。
冨永教授によれば「学生は教授を教育して学位をとるものだ」そうな。教授が学生をしていた研究室でも、これが不文律とされていた。これでは教授ではなくて教受になってしまう。
確かに、自分の頭では一切ものを考えず教授の言うことをなんでも素直によくきいて学位を取りました、なんてのは博士号をとったところで研究者としては使いものにならないだろう。修士の学位だとしてもちょっと情けない。学位の審査委員を説得できる自信があれば、たとえ指導教官ともめてもがんばるべきだという話である。お茶大の大学院は、学位審査では指導教官はノータッチなのでこれが可能である。
もっとも、卒業してから
「放ったらかしといたらすくすくと育った」
「指導の手ェ抜いとったんかい-_-#」
「俺の言うことをきけ、言うてもちっともきかんだろうが」
「それは..............」
というやりとりになることもあるのだが。
女子大の場合は容赦なく留年させるようなことはしない、と思っている人はどのくらいいるのだろうか。いつだったか、私も誰かがこういうことを言っているのをきいた覚えがある。しかし、冨永教授に関しては、これはまったくあてはまらない。物理学科の必修の電磁気学を担当しているので、これを期限までに通らないと留年することになるのだが、悪い点をとってしまって「先生のを落とされると留年なんですぅ」と泣きついてもだめである。
冨永教授自身が5年かけて大学を卒業しているのである。「留年したくないんですぅ」と言ったら、「私は留年して教授になった」と言われるだけである。
留年することがちっとも悪いことだとも苦痛だとも思っていない教授は、学生にとっては泣きが通用しないという意味で一番恐いかもしれない。
この4,5年、夏休みに入ったばかりの頃(つまり7月の終わり頃)、教授の家でバーベキューパーティーが開かれる。教授本人だけでなく、家族が全員それぞれの友人知人を招待することになっているので、初顔あわせの人が大量に参加している集まりとなっている。教授は、この日のために自宅1Fを完全に片づけて、かつ庭の手入れ(雑草の除去など)をするらしい。こうでもしないと部屋が片づかないという話もあるようだ。参加条件は、自力で食事のできる人で、見知らぬ人と場を盛り上げることができる人の2つである。教授は材料を準備する以外、一切接待する気は無いと公言している。従って参加者は自力で食料を確保するか、見知らぬ他人でも気にせず使って肉を焼かせるなどすることが要求される。
さて、今年もいろんな人が参加して盛況だった。大体夜の11時を過ぎるとみんな帰宅しはじめる。教授の家は埼玉県の朝霞にあり、私は池袋経由で練馬まで帰るだけので、大丈夫だろうと思ってつい話しこんでしまった。お茶大近くに住んでいる冨永研に来年来たいといっている3年生と、化学科から参加して三鷹まで帰る人(同じく池袋乗り換え)も、何となく話をしていた。で、11時40分頃に家を出て駅に向かったのだが、駅に着いてみると、土曜日で休日ダイヤで運行していて、上りの東武東上線は5分前に出てしまっていた。12時半までに池袋駅に着けば、下り方面の電車には間に合うので、3人いるからタクシーで行こうと思った。ところがタクシー乗り場には列ができていて、タクシーはなかなか来ない。どう考えても、今からタクシーで池袋にたどり着いても、そこから先の交通手段はすでにないという状況になってしまった。
そうなると、わざわざ旅費を使うのももったいないので、結局朝霞駅前の居酒屋で始発を待って帰ることにした。ところが、この3人組は誰もお酒を飲みたがらない人だった。居酒屋で長時間過ごすのに、ソフトドリンクと海苔茶漬けを頼むだけという、ちょっと変な客になってしまった。
夜の12時には就寝する3年生は、椅子で横になってすでに寝ているし、最近朝の4時頃に寝ている私はパワーブックを取り出して時間つぶしにこれを書いている。
ということで、このイベントに参加するなら、余裕を持って帰るようにするか、または一緒に始発を待つ友人と時間つぶしの方法を確保しておくことが必要である。
「昔々,あるところに,おじいさんとおばあさんが居ませんでした。」
確か,学会予稿提直前でかなり煮詰まって作業していたときに何の前触れもなく教授がのたまった言葉。本人は何も考えずに言ったらしい。思いっきりオチがないというかオチしかないというか・・・・。精神的に追いつめられているときにこれをやられて,涙が出るほど笑い転げることになったのだが,ダメージも大きかった。教授は私に向かって「これは合作だ」と頑固に主張したが,私は,人間には脱力のあまり殺意を覚えることがあるのだとこのとき初めて知ったのだった。
学部と大学院の講義の両方を担当している。理学部の卒研も修士以上の院生も一緒にゼミをやったり実験したりしている。教授の正式所属は大学院人間分科研究科。
学科 | 授業科目 | 居候(apj)が勝手につけたコメント |
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人間文化研究科 | 凝縮系科学特論 | |
人間文化研究科 | 凝縮系科学演習 | |
人間文化研究科 | 研究指導 | 博士論文のための指導 |
人間文化研究科 | 化学物理特論 | その年によって内容が違う |
人間文化研究科 | 化学物理特論 | |
人間文化研究科 | 固体物理学特論 | |
人間文化研究科 | 固体物理学特論演習 | |
人間文化研究科 | 特別研究 | 修士論文書くための研究 |
理学部・物理学科 | 物理学特別講義II(1年生) | |
理学部・物理学科 | 熱・統計力学(2年生) | ちゃんとレポート出さないと後で泣くぞ... |
理学部・物理学科 | 基礎物理学実験(2年生) | 最近はけっこういい装置(DSC, AFM)が入ってきている。 |
理学部・物理学科 | 特別研究 | 卒業研究ですね |
氏名 | 冨永靖徳(とみなが やすのり) | 生年月日 | 昭和19年5月10日生 |
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学歴 | |||
年 月 | 事項 | ||
昭和43年3月 | 東京大学理学部物理学科卒業 | ||
昭和45年3月 | 東京大学大学院理学系研究科修士課程物理学専攻修了(理学修士) | ||
昭和48年3月 | 東京大学大学院理学系研究科博士課程物理学専攻終了 | ||
昭和48年3月 | 理学博士(東京大学)(博 理第474号) | ||
職歴 | |||
年 月 | 事項 | ||
昭和48年4月 | 東京大学物性研究所 誘電体部門 助手 | ||
昭和48年10月 | 東京大学大学院理学系研究科 担当 | ||
昭和53年1月 | お茶の水女子大学 理学部物理学科 助教授 | ||
昭和53年1月 | お茶の水女子大学大学院 理学研究科(修士課程)担当 | ||
昭和61年7月 | お茶の水女子大学大学院 人間文化研究科 比較文化学専攻(博士課程)担当 | ||
昭和63年8月 | お茶の水女子大学 理学部物理学科 教授 | ||
平成 8年4月 | お茶の水女子大学 評議員(理学部) | ||
平成 9年4月 | お茶の水女子大学大学院 人間文化研究科 複合領域科学専攻 専任教授 | ||
平成 9年4月 | お茶の水女子大学 評議員(人間文化研究科) | ||
学会及び社会における活動等 | |||
年 月 | 事項 | ||
昭和43年 | 日本物理学会 会員 | ||
昭和45年 | 応用物理学会 会員 | ||
昭和50年 | 日本生物物理学会 会員 | ||
昭和55年 | 日本分光学会 会員 | ||
昭59.4-昭60.8 | 第6回国際強誘電体会議プログラム委員 | ||
昭61.4-平1.3 | 日本物理学会ジャーナル編集委員 | ||
平9.4-平11.3 | 学位授与機構審査会委員 |