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Re:なぜ「ゲルマニウム(健康グッズ限定)」の効果がまったく期待できないか
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apj (2008/05/15 20:45)
Kei (2008/05/07 21:23)
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まず、活躍中の物理学者が手間をかけて水伝批判の文書を公開したことで、ここでも以前話題になった「追試が必要か否か」という議論や「科学教育のレベルが低い」という議論があちこちで出てきた。やはり、科学者の側からの批判ということで「科学からみて何が問題なのか」という方向での意見が増えてきているように見える。
だが、ちょっと待って欲しい。水伝は確かにニセ科学だが、それだけなら、他にも山ほどあるオカルト話同様に、科学の側からは放置しておくことになっただろう。ところが、学校に持ち込まれたから無視できなくなったのだと私は認識している。さて、改めて考えてみる必要があるのは、「水にありがとうという言葉をかけたり印刷物を見せたりすると結晶がきれいになるから、人にもありがとうと言おう」を却下するのに、必要なのは科学知識だけか?ということである。
では、自然科学以外の分野の基本的な考え方で水伝を眺めたらどうなるだろうか。
倫理学の立場からすると、水伝のロジックは、「損得勘定を倫理的判断に持ち込むのはまずい」という一般的な原則に引っ掛かることになる(byワカシムさん)。
道徳教育という点からは、水伝のロジックは、『他者の価値観・感受性・人格を否定するのみならず、人間の尊厳や矜持などをすべて水に委ねてしまう、「悪魔に魂を売り渡した」「自我を放棄し、水の召使いに堕した」と言っても過言ではない、あまりに酷い倫理観』ということになる(by 田部勝也さん)。
言語学の立場では、「何か特定の言葉に特定の意味が1対1対応で張り付いていて、相互に変換できるというわけではない」から、「ありがとうーきれいな結晶、ばかやろうーきたない結晶」という対応関係を認めるという結論にはならないはずである(by とらこさん)。
もう少し一般的には、きちんと文系の学問を学んでいれば、文脈・状況を云々せずに言葉だけを云々するということ自体が受け容れられないはずである(by TAKESANさん)。
さらに、トラックバックをくださったDさんは、文学をやっている人間ならこんな話にはそもそも興味を持たないと書いておられる。「水」は文系の領域ではない、文系は「人」なしに動けないからだ、と。水と言葉がつながることと、人と言葉がつながることは、まるで別世界だから結びつきようがないというのがその説明である。
歴史学や民俗学がどうかについてはよくわからない。しかし、水伝はいわゆる「文系」の立場では、受け容れられないか、そもそも全く関心の持てない話だということがわかる。
「水からの伝言を信じないで下さい」は科学者の視点では、
全国の科学者さんたちがもっとまじめになるか、日本の科学教育をもっとまともにする必要があるなどと書かれているが、こんな認識では全く足りない。確かに、自然科学の考え方を身につけていれば、水伝はオカルトであるとして、即座に却下できるだろう。しかし、水伝は、世の中の何割かを占める文系学問を学んだ人達が、その文系の考え方を本当に身につけていたならば、自然科学の知識など無くても却下できる種類のものである。
<中略>
そもそも巷に蔓延したのは科学者さんたちがその問題を放っておき過ぎたことに起因すると思う。
<中略>
むしろ科学とニセ科学の区別がつかないくらい科学を理解できない日本の科学教育のレベルの低さが問題かな。
理系でも文系でも、どれか1分野だけでもでいいから、標準的な知識というか知識の背骨のようなものを身につけた人が一定数いたなら、水伝は広がらなかったはずである。水伝が蔓延したのは、理系文系を問わずに学力と常識の劣化が起きていたからではないのか。科学者の態度や理科教育だけが問題なら、まだ状況はマシだった。しかし、水伝蔓延の状況を考えると、分野を問わずに学力が崩壊しているとしか思えないわけで、その方がよっぽど深刻な問題ではないのか。
posted at 2006/11/14 02:34:34
lastupdate at 2006/11/14 02:43:43
私はもともと「ニセ科学問題」を「社会が病んでいることの症状の一つ」として捉えています。そして、その根底にあるのは「曖昧さに耐える力の衰弱」のように思えます。
例えば法学などを学びますと「人を殺してはならない」という大原則はあるわけですが、「正当防衛は罰しない」という例外もあるわけです。そのため人が殺されるという事実があり、「正当防衛だった」という主張がある時、とりあえず「罰するべきかどうか分からない」という曖昧な状態において、その実態を詳細に検討し、「正当防衛だね」とか「正当防衛は成り立たないね」とか決めなくてはならない訳です。
もともと、社会生活における判断とは、このように対立する幾つかの方向に対して、まず自分を「どちらとも言えない」という曖昧さにとりあえずおき、その中で詳細を検討をしなくてはならないわけです。その「曖昧さの中に自らをいったん置く」という事ができなくなっている面を感じるわけです。
自然科学には人文学に無い特徴が一つだけ有ります。それは人間社会の外の事実・事象を扱うために、得られる知見が人間には変えようが無いと言うことです。人が全て「太陽が地球の周りを回る」と思っていても、事実として地球が太陽の周りを回っている様にです。
社会の中で様々な判断を下すために「自らの判断をいったん曖昧な状態におく」という基本的な態度の苦しさに耐えられない人間が増えたときに社会は、「ゆるぎない判断基準」を求める事になり、その標的が「人の力で変えることのできない自然現象の知見をだすものとしての自然科学」をあらゆることに当てはめようとし始めるわけです。
「この商品が良いか悪いか」は本来、いったん「良いか悪いかわからない」と曖昧さの中に自らをおき、自分の価値観を確認して決めなくてはならない訳ですが、自然科学的知見を装った販売トークにより、「科学的に良い」と言われることで、その曖昧さに自らを置くことから逃げだしている様にみえる訳です。
このように考えると、現在ニセ科学問題として上げられている現象全てが、人文学的判断として、自らを「曖昧さの中におく」事の苦しさを「科学的知見」という絶対性に依存する事で逃げ出しているという見方で整理出来るような気がします。
小学校から高校まで、「総合的な学習の時間」があって小学校では、105時間ですから週3回の「総合的な学習の時間」を実施することになります。
今話題になっている「小学校の英語」もこの時間を使う、といったことで全く予定が立たないということでもないようですが、教科書が用意できず、教師が準備をしなくてはならない。
地域の職場の見学、といったことは簡単に思いつくところですが、その交渉に教師が割くことが出来る(準備する)時間は考慮されていません。
そんな背景で、「教科書的に使える教材」を探したときに「水伝」は使い勝手が良くできていた。というところはあったのでしょう。
つまり、教材を供給する側がユーザである学校側の都合を考えているところが、専門業者に偏っている=供給される種類の不足、であったのだろうと思います。
わたしは、総合的な学習とという観点からは多様な教材が教師の前にある方が自然であろうと思っています。
昔、業者の方とのメールのやりとりをしていて、こんなこと
» link here «
を書いたことがあります。
要約すると、「わからなさに対する耐性」が減っているため、手っ取り早く、間違ってはいるがそれっぽく聞こえる説明にとびついているのではないか、ということです。
その時は、科学をきちんとやっている側はわからなさに対する耐性を持っているのだけど、それが足りない人もいる、という認識でした。
もっと正確に言うと、「科学的知見」にとびつくのではなく「科学的知見に見える説明」にとびついているのではないかと……。
「核兵器を日本が持つという議論自体けしからん」と野党や自民党の一部の人が言っている状況はまさにこの「曖昧なところに自分を置けない人」が政治をやっていると言えそうですね。
>その時は、科学をきちんとやっている側はわからなさに対する耐性を持っているのだけど、それが足りない人もいる、という認識でした。
確かにこういう仕事で飯を食う以上「わからない」にすぐメゲてはやっていけませんからね。私は10年以上前に「こういう操作をすると理由は分からないが誤差がでるからするな」という警告を発しました。そして、誤差が出る理由をそれなりに説明出来るようになったのは2年ほど前です。その間、その問題ばかり考えていた訳ではありませんが、ずっと「今に理由を明らかにする」という意識だけは持っていました。墓までもっていかずに済んだのが幸いと言ったところですね。
問題は、社会の多くの人にもそれなりにあつた「わからなさに対する耐性」がここのところ急速に衰弱している感じを受けるわけです。それは科学的な事に限らない訳です。例えば交渉事なんかも、「相手がどう出てくるか」なんてやってみるまでわからない。だからこそ「こうきたら、こうしよう、ああきたら、ああしよう」と様々なバリエーションを考えて用意する訳です。それができない人が増えている気がする訳です。「相手がどうでてきても大丈夫な一つのやり方」を求める意識の強さを感じるわけですね、あったらとっくに私が使っていますよ(笑)。
なんていうか、近年のニセ科学の蔓延の根底に「わからなさに対する耐性」の衰弱を感じるわけです。そこから治療しないと、対処療法に追われながら結局は治らないとなる気がしているわけです。
「議論自体けしからん」に関しては悩ましい面があります。引退した悪徳商法批判者が言い出した話に「茸狩り」というのがありましてね。「茸狩りに行って、毒茸か食用茸かわからない茸があったら、食い物がなくて飢えているので無ければ、食べない」訳ですよ。これがきちんとできる人なら、茸をとりあえず里まで持って返って「食用でしょうか」と聞いて回ってもかまわない。それがきちんとできないなら、里に持って降りる茸は食用とわかる種類だけにしなさい」、なんて感じです。
「わからなさへの耐性」というのは「あるない論」ではなく強弱論ですから、耐性の弱い人が増えている状態では「最初から拒否しなさい」もまた選択肢としてはあり得てしまうわけです。電話勧誘販売に対して「言い訳君」になりそうな人には、「話を聞かずに切りなさい」と勧めないとならない場合があるのと同じ面でね。
まあ、それって袋小路だと思いますけど。
論じるとなんとなく気分いいけど
なんも実際は変わりませんので。
分からないことへの耐性がない、のではなく
手短に答えを知りたい、という感じだと思いますが。
啓蒙の現場で直面するのは
そうした、先を急ぐ人達が多いものですから。
そういう人に出会うと、
耐性がねーな、とは思わず、
どうどうどう、と馬をなだめるように
まあ、落ち着け、としますね、わたしは。
しょうがないのですよ、
人の脳味噌は、単純なほうが
理解しやすいのですから。
話は少し変わって、
もし、血液型性格診断のやさしい本があって
それを授業で「人には血液型というのがあります。
輸血などの際には、間違えないようにしているのですよ。
血液は身体中を駆けめぐっているのですから
人の性格にも、当然影響を与えます。
ですから、相手の血液型を知って、
そして、それを理解して相手に接することが
みんな仲良くやっていく上で、とても大切です・・・・」
なんてやったらどうなるのだろうなぁ、と。
やる勇気ある先生いるか?
水伝というのは、このレベルの話なわけで、
もし、この血液型の授業を、先生方が行わないなら
それは、血液型診断が、所詮そんなもの、という理解が
あるからですね。
今回、先生のところでストップが掛からなかったこと
それが、大きな問題だと思います。
というか、推進しようとした人がいる、ということがorz。
では
>なんも実際は変わりませんので。
というか、どのレベルで具体的な対策をするかですよね。
個別の問題だと思っている限り、同じコトが繰り返されるので、対症療法的な部分と、もうちょっと長い目で見てどうやっていくかということを、両方考えておかないといけない。
>今回、先生のところでストップが掛からなかったこと
>それが、大きな問題だと思います。
なぜ、ストップがかからなかったのか、その理由についてはどう考えておられますでしょうか?何か思い当たる節はありますでしょうか?
素朴な疑問(反論では無いです)として、「水伝の様なニセ科学が広まる様な世の中に”なった”」と言えるのだろうか、というのがあります。こういう社会学的な問題は、なかなか難しいものだとは思いますが。
そう「なった」と言えるには、どういう情報があれば良いのかな、とふと考えました。
ある意味で、水伝やら血液型性格判断やらがニセ科学と看做されて批判される様になった、というのが、リテラシーが高くなった可能性を示唆している、とも言える訳で(←そうだと断言しているのではないです)。
考えてみると、日本社会総体としてどうなったのか、というのは、よく解らないなあ、と思いまして。
ただ、ニセ科学を道徳の授業に使う教師が存在する、使ってしまう様な状況がある、というのは、とても由々しき事態である、という事は、はっきりと言えると思います。
stellarcrystalさん>論じるとなんとなく気分いいけど
>なんも実際は変わりませんので。
それを言ってしまうと、元も子も無いような気も…。社会がどうあるか、という視点で論じるのは、もっとやるべきだと思います。
リテラシーが低下したにしろ、上がったにしろ、余り変わっていないにしろ、「現状では不充分」である、というのは、確かだと思います。
見解はよーわかります。
でも、ターゲットはそこにいないんじゃないの? と。
国を相手にした国賠法の裁判を追っていますと
「国と戦うぞ!」とシュプレヒコールを挙げるけど
担当官僚の資質が問題の根っこ、ってのはよくある話。
そして、その役人は3年でころころ代わる。
そうした現場に、国なんてものは存在しないのですよ。
あるののは、役人根性丸出しの個人。
だから、個を捉まえて、どうにかしないと
変わっていかないのです。
個ありき。
ですから、社会に対して、といった具合に
大上段に構えるのではなく、
いかにして、個を捉まえてるのか? ということに
腐心したほうがいいと思いますよ、という話です。
水伝の場合、表面上の対決は
誠実な科学者vsトンデモ商売したい人、という構造ですが、
観客は4種類にわかれます。
信者、興味ありbut信者未満、なんとなく怪しいと感じている、見抜いている
たさきさんのサイトは、素晴らしいですし
その労力に敬意を払いますが、
なんとなく怪しいと感じている人と、見抜いている人向きですね。
興味ありbut信者未満の人は、
あんな長いテキスト読まないですよ。
問題の構造は、宗教戦争ですから
教祖叩くと、信者騒ぐ、という反応がでる。
信者のいない教祖は、変なオヤジ、ですね。
ですから、トンデモさん(教祖)は、決していなくならないけれど
トンデモが広がないようにするには
興味ありbut信者未満、という人を
いかにawarenessするかに係っているわけです。
ときどき、トンデモさんを絶滅させよう、という
高邁な使命感を持った方がいますけど
そうした人は、科学以前に、
人とは何かを知るようにしたほうがいいと思います。
で、主ターゲットが、「人」である、と理解した場合
戦術的にも、戦法的にも、
単純に科学の話をしてもダメなわけで、
それは皆さん直感的によくご理解されているわけです。
興味ありbut信者未満の方を減らすには
もっと簡潔で、わかりやすい話をする必要があります。
たざきさんにしろ、菊池さん、apjさんは
スポーツに喩えれば、トップアスリートなわけです。
でも、名選手名監督ならず、というように
大事なことを、平易な形態で伝えるという点に対しては
必ずしもプロではない。
しばしばNHKの番組で良質なものができるのは
それは、編集のプロがいるからで
わかりやすいアナロジーを考え、専門家がそれを
チェックする、という共同作業が行われいるからで
今後は、そうした方向も必要になるでしょうね、
特に、興味ありbut信者未満の人を変えるには。
先生のところでストップが掛からなかったわけ、ですが。
一つは、先に書いた、人文系の教材がないのでしょう、ということ。
もう一つは、使命感が強い人多い(教育に対する情熱)ので
まじめだったから。
言い方変えれば、その分、視野が狭くなっていた。
だから、
わかりやすい話……プラス要素
科学としてみたら変……マイナス要素
のプラスを優先しちゃった、という話でしょう。
そういうプラス・マイナス、単純に考えて
失敗することってありません?
まじめであるがゆえに、
まじめであるからこそ
プラス要素ばかりに目がいってしまった、と。
» link here «
総合的学習の時間などでの教材作りが基本的に現場任せなので、しかも外部からはほとんど持ってくることが出来ない、というのが学校が「水伝」に引っ張られた大きな要素だと思います。
新指導要領の時間配分を見ると分かりますが「どうやって教材を揃えるのだ?」になってしまいますよ。
わたしの従姉妹が小学校の教師なので「どうやってるの?」と聞いたら「担当の先生が決めた」とかだそうで、その段階でヘンテコなものがはいってしまう可能性は常にありますね。
わたしは、教材候補のようなもの山ほど作っておくことが必要だと思います。
> 興味ありbut信者未満の方を減らすには
> もっと簡潔で、わかりやすい話をする必要があります。
このあたり、kikulogでも話題になった、
» link here «
でも、
「これが「洗脳合戦」だとすれば、「著名な物理学者の実験結果です」という言葉が社会に対して持つ絶大な「洗脳力」をもっと自覚すべきという事。」
とあるんですが、皆さんがおっしゃっているのは、それじゃだめなんじゃないかということでしょう?
「著名な学者先生が『水伝』に否定的な実験結果を出した」
->「だから『水伝』はニセ科学なのか」
という理解は、
「『水伝』はこんな科学的実験結果に基づいています。学会発表もしちゃいました。」
->「だから『水伝』は科学的事実なのか」
という理解と、あまり変わらないような。
ただ、
> 興味ありbut信者未満の人は、
> あんな長いテキスト読まないですよ。
は、その通りだと思います。
それでも、やはり、
> 教材候補のようなもの山ほど作っておくことが必要だと思います。
のように、地道に積み上げていくしかないんでしょうか。
(個人的には、「特効薬」はないと思っていますが)
社会全体を論じることは,個を論じることであり,個を論じることは,社会を論じることです。なぜなら,社会は個の集合体だからです。
そのような社会の中の,「なんとなく怪しいと感じている多数の個」に対して,専門家の手による確固とした裏付けを与え,社会全体に「水伝は科学ではない」という雰囲気を作り,ひいては「懐疑心を持って損はない」という啓蒙を与えるのが,たざきさんのテキストの存在意義ではないかと思います。
また「信者を折伏(しゃくぶく)することは不可能」というのは,既に共通認識としてあります。なので,たざきさんも,あのテキストで信者を改心させようとは思っておられないのではないでしょうか。
あと,他の人の批判方法を批判するのは,あまり良いことではないと思います。たとえ効果が少なくとも,多少なりとも何らかの効果があるのであれば,また,個人が払えるコストの範囲でそれが出来るのであれば,やらないよりやった方がいいんじゃないでしょうか。
そのような個人の行動が増えれば,社会全体の雰囲気も代わり,第2の水伝の誕生を防ぐことは出来ずとも,それらの価値寿命を短くすることは可能でしょう。生み出すコストに利益が見合わなくなれば,それは消滅します。
効率を重視して一撃必殺を狙うのは,水伝の想定顧客そのものです。「水伝」は,いわば「効率主義社会の落とし子」でしょう。
ニセ科学が生まれたから解りやすさを求めるようになったのではなくて,人々が解りやすさを求めるからニセ科学がそこに付け入ったのです。
そのことは忘れてはいけないと思います。
少し、私自身にも整理できていない話を書いてみます。言いたいこととしては「ニセ科学と向き合っていろいろ考えること」そのものが一つの教材と成り得るのではないかと言うことです。
私は今年の夏に仕事場の所内公開の行事の一環として「マイナスイオン」を取り上げてニセ科学批判の講演会をやりました。その準備に30枚強ののパワーポイントを書き上げて、仕事場で実験を手伝ってくれている契約職員の方(パートタイムで来ていただいている主婦の方です)に「こんな内容で話してみようと思うけど感想を聞かせて」とお渡ししました。その方が家に持って帰られたところ、そこの高校3年生のお子さんが興味を示して読まれたのだそうです。そして「もしも、今までにこういう話をしてくれる先生に会っていたら、僕は文系ではなくて理系を志望したかもしれない」と言われたそうなんです。どういうつもりでそう思われたのか、それ以上は聞き出せなかったのですけどね。
私の講演というのは「ニセ科学」を暴くという部分も当然持っていますが、むしろ、「我々科学に携わるものは、ものごとを正確に言うために厳しく『しつけ』られています。そのことを理解していただけたら、ニセ科学を言いふらす人のいい加減さがわかると思います」という論調の講演でして、「理系は厳しくしつけられますよ」みたいな話も多くて、そう魅力的な話ではなかったと思うのです。
教える学年にもよると思うのですが、私は種々のニセ科学的言説そのものが、教師がきちんとここで交わされている様な議論を考えた上で反面教材として取り扱うなら充分に教材となるような気がするのです。
メディアリテラシーの学習で、誤報を扱うことがあります。
新聞社は、あまりいい顔をしませんが、有効な学習のようです。
メディアの言っていることは正しい、と思っている子どもに、ガツンとインパクトを与えることができ、なぜ誤報が起きたのかを検討していく中で、メディアのもつ問題点が見えてくるからです。
その意味で、ニセ科学の教材化も十分あり得ると思います。
ドラゴンさんが仰る様な、マスメディアの情報を相対化出来るかどうか、というのは、決定的に重要だと思います。
結構、「テレビに出るくらいだから、それなりに信頼出来る情報だろう」、というバイアスが掛かっている人はいると思います。ですから、それがいかに曖昧であるかは、教えるべきでしょうね。
その為には、ニセ科学言説を取り扱った教材を作る、というのは良い方法だと思います。血液型性格判断などは、ニセ科学がメディアを通じて流布した、典型的なケースですし。
社会には多様な価値観があるべきですから、分野間の衝突も当然あります。
これが授業に反映すると「トンデモ」になる可能性が大きいのでしょう。
こんな事を考えると「水伝」が科学的に論外であるから、科学的に正当な教材だけを提供しよう、とするのはひょっとすると別の問題を起こすかもしもしれない、と心配しています。
だからと言って何が出来るわけでもないのですが、高校の先生にキャリア教育(就業支援)についてご意見を伺ったところ「キャリア教育をことさら独立させなくても良いと考えている」という意見がありました。
これには「普通の授業において(この技術は)社会でどう使われているかといった展開をすれば、かなり広範囲にカバーできるはずだ」ということのようです。
このような横の展開は、小学校から高校までについては必要なことでしょう。
数学で、応用問題が不得意だ。とか、東大生が公明党が与党であること知らない、といった言わば入試のための縦割り教育が、生み出した問題の解決こそが教育について社会が介入しなければならない問題だと思っています。
>こんな事を考えると「水伝」が科学的に論外であるから、科学的に正当な教材だけを提供しよう、とするのはひょっとすると別の問題を起こすかもしもしれない、と心配しています。
>これには「普通の授業において(この技術は)社会でどう使われているかといった展開をすれば、かなり広範囲にカバーできるはずだ」ということのようです。
現実にできるかどうかは別にして、例えば電磁石実験のキットを使ってモールス通信機を作ったときに、そういう通信機がたとえば初期の鉄道の発達にどう関係したかが教えられたら良いななんて思うわけです。それこそが総合学習じゃあないかと思うわけです。
皆さんにはおわかりでしょうが、初期の鉄道においても苦労して引いたレールの上を1台の機関車しか走らせなかったらペイしないわけです。かといって複数走らせれば、ちょっとしたダイヤの狂いで衝突・追突する訳ですね。だから線路に沿って通信線をひき、「何々区間は何号列車通過、次の列車入って良し」とモールス信号でやりとりして事故を防いだわけです。
その頃の電報助手の若者がやがて鉄鋼王カーネギーと成っていく話まで、私ならしてしまいかねないけど、そこまでやったらやりすぎでしょうね(笑)。
A-WING さんのおっしゃることは,正にその通りであると思います。
その効率というのがエセ効率というか,本来効率で評価できなかったり,評価してはいけないことにも適用しようとしているというのが,異常なくらい「わかりやすさ」を求めることになっているのだろうと思います。
今,企業では「見える化」が流行っています。これも「わかりやすさ」ですし,成果主義,業績連動評価制度なども評価基準=ものさしがなければ機能しません。しかし,それらの制度で一番間違っている点がそこです。「絶対的な魔法のものさし」があると思い込んでいる。個人企業でない限り,企業の経営者が高収入であるのは,一般社員では見えないものを見る力やその他の経営者としての能力を期待されてのことです。そういう能力の無い者,自身の無い者が経営者になってしますと,絶対的な魔法のものさしを欲しがるようになります。
教育の場でも,大学合格人数等のような「○○の数」を評価するような「絶対的な魔法のものさし」が求められるようになった。それで評価するのがわかりやすい,公正だ,効率的だ…となってしまったのだと思います。
# 田崎さんのコンテンツは,道徳の教材として良いものであると思います。
特に、うちのような底辺大学だと、入学者が減っていることもあって、正直、誰でも入ることができる。
これが、国民全体の教育レベルの低下を意味するのかどうかはわからない。
しかし、若年層の人口が減っているのなら、より、個別対応の、親身な指導が出来るはずなのに、実際には、エリート校と呼ばれる大学ですら、学生の学力低下に嘆いているのが、現実である。
世の中が豊かになり、何も考えなくても、上の世代が作ってくれたものの恩恵にあずかって、不自由なく暮らせるようになったために、努力して勉強することをしなくなっているのではないかと思うのだが、これでは、上の世代が居なくなると、自力では何も出来なくなってしまう。
極端な話し、国が滅びることにもなりかねない。
例の水の話しを信じるのは、もちろん、若年層だけでなく、多くの国民がそうなのかも知れないが、それでも、ちょっと考える力があれば、わかりそうなものだ。
おかしいなと思う人が大多数で、だまされる人が少数ならやむを得ないかも知れないが、現実はその逆であろう。
学生流にしゃれれば「学力の低下とか言ってるレベルじゃないぞーー!」(PS3販売待ち行列ニュースより発生した流行語のもじり)ということになるのだろうか。
子供の担任の先生が「水からの伝言」の話をしてくれたと云う話を長男から聞いてから,遅ればせながらとんでもない状況になっているということを知り,ここにたどり着きました。
この問題は,自然科学教育後進国としての日本の教育問題が一番大きいような気がしています。科学教育が欠損した科学技術教育のバランスの悪さと,昨今の殺伐とした教育現場や子供達周辺の事情もこの悪書が上手く立ち回るのに力を貸していると思いますし,これは日本だけの問題ではないかもしれません。また,UFO教授が仰るように旧帝大系でも自分に根幹的な知識がないのは自分が教えて貰ってないから,システムが悪いからだと言い張る大学院生の増加を15年ほど前から感じて,なんだろうこれはと思っておりました。オウム事件と同様,ニューエージ的なものに取り込まれる風潮は,聞いたこともない話にぶつかったときのもろさのようなものを感じます。正否の判断が出来ない気持ちの悪さに耐えられず,受け入れてしまう人が増えているのかもしれません。
遅いコメントで申し訳ありませんが,TBさせていただきます。
何て言うか、社会全体が「わからなさに耐える」ことが出来なくなっているように思うんですよ。インスタントに、分かりやすい説明を求たがる風潮が強いし、それに迎合して情報提供する人達も出てくる。
水伝は、一見「いい話」なんですよ。とても薄っぺらだけど「いい言葉を使いましょう」といった、正面切って反対しづらい内容になっています。まあ、ここで「いい言葉って何?」と立ち止まれば、薄っぺらさがたちどころにわかるのですが、そういう立ち止まって考える姿勢自体が弱くなっているのかもしれません。
自然でも社会でも現実を相手にしていると、ずっとわからないことがあったり、はっきりした結論が出ないことがあったりして、それをずっと頭の中でわかるまで転がしておくしかないのだけど、そういう面倒なことは避ける方向に向かっているように思うんですね。何だか、わからんものとわからんなりに付き合うという余裕を失ってきている気がします。
文系/理系を問わず、物事の捉え方と考え方…科学すること(そう、人文科学/自然科学なのですよ)がおざなりにされて来た結果と言う事でしょう。
どちらの科学にとっても重要なのは、プロセッシングなのであって、アウトプットはその結果でしかないはずなのに、プロセッシングの可否を判断する根拠としてアウトプットを偏重してきた結果が、水伝の跳梁跋扈ということかと。