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がんのすけ (2008/05/16 02:28)
Re:なぜ「ゲルマニウム(健康グッズ限定)」の効果がまったく期待できないか
柘植 (2006/12/28 14:36)
とりばち (2006/12/28 17:56)
みつを (2006/12/28 19:52)
apj (2006/12/28 20:30)
apj (2006/12/28 21:06)
とりばち (2006/12/28 21:15)
やぎ (2006/12/30 08:39)
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apj (2007/01/05 12:30)
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apj (2008/04/15 22:40)
加藤 (2008/05/15 16:12)
zorori (2008/05/15 18:49)
apj (2008/05/15 20:45)
Kei (2008/05/07 21:23)
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最初にコメントをくださったkaeyさんが、次のようなメールをくださった。メールを題材にしてエントリーを上げることを快諾してくださったので、以下に引用する。
4月号の『似非科学と非寛容』を一読して心に浮かんだのは、ニセ科学が跋扈するのはなぜかという疑問です。やっと本筋の議論に戻ったという感じです。まずは、メールを紹介させていただきます。意見交換はコメントの方で……。
これについて記録を調べたり、具体的な事例を集積したり、きちんと調査研究したわけではないので、概論的なことを評論的に述べるしかありません。
理由はひとつではないでしょう。怪しげな摩訶不思議やニセ科学跋扈の原因として沢山考えられる中で先ず私に思い浮かぶのは、科学が人類に害悪を及ぼしたり、被害を受けた人々が追及したその原因が科学技術であった事実ではないかということです。
例えば、広島や長崎に投下された原子爆弾や近代戦争に使われた最新兵器・工場排水によって引き起こされた水俣病やイタイイタイ病・シックハウス症候群・ シアン化カリウムやアジ化ナトリウムによる毒物中毒事件・茨城で起きたICOの臨界事故・アスベスト問題などなど。人々に甚大な被害が出て大事件になり、 人々によく知られるようになった出来事では、人体に危害を加えた直接のものが化学反応や物理反応になっています。このような事件を引き起こした主体は人 (人為というやつです)ですが、一般人々は「科学」が凶器になって人に襲いかかったという印象を持ちます。実は科学そのものではなく、科学に基いた技術が 生み出したものがそうなっているのですが。「科学」とひとくくりにされがちです。
その印象からさらに「科学」≈「生命を脅かす凶器になることもある」≈「生命を脅かす凶器になる」≈「凶器」という風に印象が進んでしまうと、科学が悪いものになってしまいます。 科学は人間が自然界を理解したり役立つものを得るため方法だったりする、中立的なものなのに、「悪いもの」という風に修飾されてしまいます。科学の本質をあまり理解していない人は、このような印象に流される場合もあるでしょう。
そうするとその極端な反動として、非科学的がものが「善いもの」という価値観も生まれて来るでしょう。宗教団体が作るパンフレットなんかによくある絵 は、いろいろな動物や人が田園風景の中で仲良く暮らしているというもの(私には胡散臭い)で、そこに科学技術を象徴するような事物は出てきません。科学と 離れたところに理想の楽園があるかのような印象を与えます。
以上のように、科学が人類にもたらしたいい面を忘れ、悪い面だけがことさら記憶に残った結果、科学を毛嫌いする風潮が生まれ、それが怪しげな摩訶不思議を受け入れる素地になっているのではないかと思います。しかしながら、多くの人がそのような考えに陥っているという訳ではありません。飽くまでそのような 風潮があるというだけの話です。
そして、人々が「こうあって欲しい」という希望をかなえるのに、摩訶不思議だけでは十分ではないときにニセ科学が使われるのではないでしょうか。つまり、都合のいいところだけ科学的検証の方法論を利用するのです。科学をよく理解できない人には、科学的であることとそうでないことの区別が明瞭ではありません。また、いくら科学は怖いと思っても、現代の日々の生活で科学技術の恩恵を受けていない人はないのですから、自分に都合のいいところでは科学を受け入 れます。
私は、科学や技術から生まれてきたよい点と悪い点をきちんと捉え、それに関わった人間活動を踏まえてきちんと分析し、それを啓蒙することが、このような 風潮を消すために大切ではないかと考えています。
posted at 2008/03/06 17:17:31
lastupdate at 2008/03/06 17:17:31
と言うか、科学技術に限らず兎角専門的な知識とかノウハウとか技術ってのはリターンもあればリスクもあるという二面性があるのを忘れていて、プラス(全肯定)かマイナス(全否定)かの両極端ばかりが強調されてるって問題も大きいんじゃないですかね?前の議論で技術開発者さんが「プロフェッショナルが尊重されなくなっている」って総括していた気がしますけど、プロフェッショナルに全てを期待するか、逆に全ての責任を負わせるかって両極端の議論しかないってのが、反ってこうした問題の本質的な解決を遅らせているって気がするのですよね。
理科離れや技術者への不人気の問題にしてみたって、今更科学の功績とかメリット・技術立国とかの大義名分を強調するのは逆効果に終わる気がするんですよね。それを打ち消すくらいのマイナス面を散々見てしまっている訳ですから。そういうのを脇に置いて、生活のリテラシーとしての専門知を教えた方が本質的な解決に繋がるんじゃないかと、個人的には考えています。
これって科学の場合に特に強調される気がします。科学を一生懸命やると一定数がまっどさいえんてぃすとになっちゃうみたいな「イメージ」です。ある意味でステレオタイプができあがっている。
これに対して例えば、国語を一生懸命勉強してなることができる悪人って何だろう…。経済学を一生懸命勉強すると拝金主義者になるというイメージも、ステレオタイプが形成されるところまで行ってないし、例えば堀エモンを拝金主義者の典型にしたとしても、彼は経済学を究めたわけでも何でもない。
エントリーに取り上げてくださいましてありがとうございます。
上の電書(e-mail)では、文が長くなってしまったので途中でやめましたが、実は、ニセ科学が出てくる理由はまだまだ沢山あると考えています。
そのひとつは原料としての「水」です。
ある企業が製品や技術を作って売ろうとするときに、原料が安くて売値が高いほど利益が上がります。製品を作るためにある物質を合成したり、天然から取ってきたりするには、労力とエネルギーが必要で、原料を買うだけでもそれなりのお金が掛かります。
ところが水は安い。上水道設備のあるところなら簡単に得られる。湧き水を利用する場合も、石油を採掘するのに比べれば格段に安く手にはいる。
したがって、水を製品にするとなれば、製造コストを相対的に低くすることが可能になります。
次に、水は医薬品やその他の口に入るものに比べ、開発から流通までの関門や帰省が少なく、認可やその他の手続きも楽でしょう。したがって、開発費用も可能な限り低く出来ます。
さらに、医薬やその他の人体に使うものでは、安全性が問われます。強い副作用や人体に傷害が起ってはたいへんです。それに比べて水は、変なものが混ざっていなければ、危険なものではありません。毒にも薬にもならない、我々に身近な物質です。
使用法も難しくありません。
そんなこんなで「水」を売り物にする企業や団体が多いのではないでしょうか。
しかし、水はそのままではありふれた水です。付加価値をつけないと高く売れる商品にならない。そこで、摩訶不思議やニセ科学の利用が始まるのではないでしょうか。
このあたりの背景は、私なんかよりも《水商売ウォッチング》を主催されているapjさんが詳しいでしょうし、深い考察をされていると思いますので、ご意見を聞いてみたいと思います。
ですかね?バブル期なんか経済学=金儲けのための学問ってイメージが強くて、経済学を一生懸命勉強した人間が大儲けしてって偏見が往々にして広まっていた気がしますね。で、その一方で経済学をまともに勉強している人間が景気を回復できないで云々って非難もありましたし。
法学も似た様なものですよね。法律や政治を勉強した人間が、利権に食らいついて私服を肥やす、ってステレオタイプも結構俗耳に入り易いし。
その意味では、ソフトやサービスも似た様なことが言えますよね。原料や開発にコストがかからないことが多く、使用法も難しい、と言うより使用法を意識しないで済む訳ですから。
しかも、(水にも言えることだけど)効果の定量化とか差別化が難しいとも言えるのですよね。何かサービスやソフト・更には営業に於いて科学的な分析とかが遅れてて、精神主義とかオカルトが蔓延ってしまうのって案外その辺りにあるのかも知れません。
そこで出てくる「悪人」たちって別に博士でも何でもないと思うのです。基本的に学問とは結びついていないのでは。
バブル期は受験生でしたが、経済学で金儲けというよりも、経済「学部」に入ると給料の良い企業に就職できる的な認識の方が一般的だったと思います。
悪徳政治家や役人も政治「学」のプロとは認識されてないと思います。悪徳弁護士でも最先端の法学理論を駆使して云々と言うよりは、法の網をかいくぐって庶民を騙すとかそういうのだと思うのです。
むしろこれらの学問のプロに対するステレオタイプは、「象牙の塔にこもって役に立たないことをしてる無駄飯喰らい」ではないでしょうか。
むしろ、科学は信じているが、組織的な権威にマイナスイメージを持っている人において、似非科学を有り難がりそうです。蛇足ながら、これは、陰謀論などに惹かれる気持ちにも通底するものがあると感じます。
なるほど。「水」がキー、というのは非常に肯ける話です。
ちょいと筋はずれますが、「水」には太古の昔から「聖水」だの「霊水」だの「奇跡の泉」だのと、溶けているものの効果とかでなくて水そのものに何か不思議な「力」が宿る…というイメージが連綿と付き纏っていますよね。そのせいで、「昔から人が経験的に知っていた神秘の力の正体が科学的に解明された、それがこれです」みたいな説明が受け入れられやすい土壌がもともとあったのかも知れません。
だいぶん前にどこかで「人間の基本仕様」なんて話を書いて、その中に「キャスター角のついていない自動車」なんて話を書いたりしたんです(その時は間違えてキャンパー角にしちゃつたけどね)。
キャスター角というのは自動車のタイヤを傾けて付けるその角度のことね。これが大きくついていると車は真っ直ぐ走りやすいけど、ハンドル切るときは重くなるのね。でもって全く付いて無いと自動車を真っ直ぐ走らせるのは至難の業みたいになってフラフラしちやうわけです。
でもって、人間の基本仕様にキャスター角がついているかというと、たぶん、ほとんど付いていなくて、もともとフラフラとしか走れない自動車なんだろうというわけです。でもって人間が長い間試行錯誤して作り上げた文化というものの方に人間や社会にキャスター角を或る程度つける働きがあったのじゃないかなと思うわけです。でもって、文化というのは時に行きすぎることもあって、キャスター角を付け過ぎちゃうとハンドルが重すぎて切れなくて事故する事もあるわけね。或る意味で、我々はそういう反省の時期の文化で成長してきた感じもうけている訳。
キャスター角を付けすぎた事の反省の上で育つと「キャスター角を付けてはいけない」みたいな意識が強くなって、今度は逆にフラフラ社会で暮らさなくてはならなくなる訳です。今がそういう時期なのかなという気がする訳です。
なんていうか、例えば「嘘の話をするなんて悪い奴だ」とみんなが嫌い、「自分は嘘の話を広めないようにしよう」と自分を戒めるなんてのは、もともと嘘話にフラフラしやすい基本仕様を持っている人間が苦労して作ったキャスター角を付ける文化だと思うわけです。でもって、このキャスター角が尽きすぎると「あいつは非国民だ」でみんなで迫害する様になってハンドルが切れないまま戦争に突入なんて事にもなるわけです。その経験に懲りて「みんな自由に発言して良いんですよ」なんてのも今度はやりすぎて、もともあった「嘘話に対する嫌悪感や禁忌感」まで無くす様になると、ハンドルこそ軽いけど社会はフラフラとどこに行くのか分からなく成るわけです。
> 似非科学の跋扈の理由とするのに、科学に対する無理解は判りますが、科学に対するマイナスイメージは理由にはならないような気がします。
確かに、このことについては研究したり調査したわけではありませんので、根拠を基にした議論が出来ないのですが、仮説として話します。また、科学に対するマイナスイメージが直接的で主要な似非科学の跋扈の理由というわけではなく、その背景のひとつとしてあるのではないかということです。
というのは、これまで築き上げられてきた科学体系や知見によっては説明できない「起っていると主張される」現象や、科学者が理解できない珍妙な説を受け入れしまう人が少なくないのは、そういう人に科学的な考え方が理解されていなかったり、科学的知識が乏しいということが先ずいえます。
それでは、科学的な素養が足りない理由はというと、若年層では、学校の勉学が楽しくないとか、教師の教え方がよくないとかがあります。これが中高年になると、若い子たちの理由に加えて、科学が人を傷つけるということをよく聞くのです。例えば、合成化学物質は毒で天然由来物質は安全と言う誤解です。そこで、科学は嫌い、科学は危ない、科学が凶器という偏見が生まれていると思います。
この偏見に陥ってしまった人々が、「安心素材の△▼」や「天然の○■パワー」を謳った商品に走っているのではないでしょうか?
例えば、かつて『買ってはいけない』(『週刊金曜日』ブックレット、ISBN-10: 4906605036)という書籍を編集執筆していた人の一人は、相当な反科学論者だと見えました。『月刊あれこれ』という雑誌(旧刊中)に移ってから、この人は一寸怪しげな通販をやっていました。本人はニセ科学に加担するつもりはなかったのでしょうけれども、その通販品の説明にはかなり怪しげな表現もありました。(この通販のHPは現在閉じられています。)
反科学論者になってしまって、かなり頑迷で、塩谷喜雄氏の言う「非寛容」な態度を取る人を私は知っています。
こんな場合も、ニセ科学の温床になっていると思います。
私にとっては、「天然はよくて人工は毒」とかは、先に私が書いた中では「反科学的なムーブメント」の方の主張に位置付けられるものです。
言わば、定義の違いですね。故に違和感を感じたというところです。
了解しました。
それにしても、反科学的な考え方になってしまった人が、行きついた先でニセ科学的な考えにだまされていることがあるのは、かわいそうな気がします。
ニセ科学論者が「科学的な」隠れみのをまとって解説しているのを、科学ではなく合理的な説明と理解しているのですから。実際は逆で、非合理的な内容を科学に裏付けられているかのように解説しているのですから。
結局、反科学論者は科学の本質を理解していないようです。
一方、3/3にこちらのHPで紹介されていた 日本システム企画株式会社の例では、明らかに「科学の権威」を商品の売り込みに利用しようとしていますね。
ただ単に科学はすごいものだと考えている、これまた、科学をあまり理解していない人々を対象にしていると思います。
科学のもつ知識体系と合理的考え方を広めることの大切さを実感しますが、先に述べた科学技術の負の面がいろいろ邪魔をしているように思えます。
これが、塩谷喜雄氏が述べていた「....科学を知らない方が思考は柔軟で人間味がある....」という考え方にもつながっているような気がします。
科学技術の持つ負の面が科学の理解に影響しているとは、わたしは思いません。
一番最初のひろのぶさんのコメントが、一番的確であるように思います。
合理的な考え方や、知識の体系化は、自然科学に限った話でないですし、むしろ人文系や社会系の部分で、合理性や学問の普遍性みたいなのを避けているのが目に付くのは、私だけでしょうか?
小難しい事を避けて通る風潮が、そもそもの問題ではないでしょうか?
>合理的な考え方や、知識の体系化は、自然科学に限った話でないですし、むしろ人文系や社会系の部分で、合理性や学問の普遍性みたいなのを避けているのが目に付くのは、私だけでしょうか?
具体例を思いつかないのですが……。
たとえば、マスコミが安直にやるような自称「社会調査」等は、自然科学に対応させるなら、バラエティ番組における「実験」と大差なかったりしそうですし。
法学については勉強中なんですが、相当に理路が鍛えられていますよ。合理性や普遍性の内容が自然科学とはだいぶ異なりますが。
人文系や社会科学系の学問そのものが、合理性や普遍性に欠けると言いたいのではなく、それを専門家でない人に伝える際の態度において感じる事です。
具体例はと聞かれると、どう答えて良いのか悩ましいですが、少なくとも身近では「なんとか学」とか「なんとか論」の名前の付いた講義がずいぶん減った状態のまま回復の兆しがありません。
>人文系や社会科学系の学問そのものが、合理性や普遍性に欠けると言いたいのではなく、それを専門家でない人に伝える際の態度において感じる事です。
科学(や学校で学ぶ理科)のように、合理性や普遍性が入門段階からもともと「見えやすい」ものでさえ、専門家でない人に伝えることに十分成功していると思えないわけで……。人文系や社会科学系の場合は、入門段階では合理性や普遍性が「見えにくい」ですから、さらにうまくやらないと伝えるのが難しいのでしょうね。割と早い時期から、文系科目で合理性や普遍性を非専門家に見せる方法として、有効なものはあるのでしょうか。文系の人の意見を訊きたいところですね。
その辺りって、理系でも似た様なもんでしょう。現場の技術者とか医者とかが別に「博士」って訳じゃないし、両者に重なる部分が大きいとは言え現実には期待されている役割は違っている訳ですし。
逆に、理系の若手が呼号するような「改革」にしてみてさえも、往々にして「象牙の塔にこもって役に立たないことをしてる無駄飯喰らい」を何とかしろってのが動機だったりする訳で、ましてや文系をやってことになっちゃうのでは?
>apj様
そもそも、学ぶ側や役立てようとする側にとって、「合理性や普遍性」よりも「具体的効果や有用性」を期待しちゃっているとこで終わっちゃってるって思うのですけど。特に文系の場合は、場合によって「合理性や普遍性」が現状批判に繋がっちゃったりもしちゃうし、そんなのを学んだ人間が自分とこにやって来て革命みたいなことをやられたくないって変な疑心暗鬼が(特に管理者や経営者に)あるんじゃないかと。
で、そういう現実を眼前にしては学ぶ側も「合理性や普遍性」を余り重視しなくなってしまうのも当然なのでは。幸福の科学の大川総裁が、東大の法学教育を「『憲法』一つとってみても、その成り立ちと意図そのものが、果して正しいのかどうかという根本的問題が脳裏を去らず、条文の丸暗記と学説の記憶にはげんでいる友人たちに、一種の気の毒さを感じた」「『法律学』や『政治学』の学問性と価値論の不在・貧窮に直面し、東大法学部には、自分が師事すべき教師がいないことを悟りました」と著者で批判してたけど、(その記述通りだとして)実際には自分が実学一辺倒で勉強していたのでは?って気がするのですよね。
「なんとか学」「なんとか論」が減ったために、かえって実態に近くなった面もあると思います。あと、カリキュラムの作りがそもそも全然違いますし。人文系の場合、講義に限って言えば積み上げ型ではありません。1年で解析1→2年で解析2なんてなるのは語学(と一部のゼミ)ぐらいです。
もう少し具体例があれば、同意するなり反論するなりできるのですが。
私の意見は、最初のひろのぶさんのコメントに同意するものです。
ニセ科学が蔓延するのは、科学のマイナス面が原因というのは、的はずれで、「自分が無力なことを自分で認めたくない。」という防御本能のほうが重要なのだと思います。
# いにしえの「無知の知」を会得できない。
50歩51歩の議論になりそうですが、自然科学系だと、それでも自分の無力さを教えるような教育が、なされている部分があるのに対し、人文系や社会科学系はこのあたりの疎かさ加減がひどいのではないかと。
特に中等教育の社会科学系の教育なんかを見て感じるのです。
「合理性や普遍性」ってのを簡単に理解出来ないって教えてしまうのって、諸刃の剣になる危うさがあるんじゃないかと思うのですよね。下手に無力さを教えてしまうと役立たずの学問だと解されてしまう部分があって、だからって簡単に理解できる様な錯覚を与えてしまうと、今度は微妙な部分が理解されずに出鱈目にひっかかってしまう。
「無知の知」って言う哲学的な至言を引き合いに出されているけど、(文系・理系問わず)そもそもの教育の根本で「無知の知」を忌避しちゃっているって感があるんじゃないですかね?天然資源が恵まれていない技術立国を目指してしまった以上、「自分の無力さを教える」ってのは敗北主義になる訳で。
この問題って、個人がニセ科学を信ずるに至るのは何故か、という面と、そういう認識を持つに至ったのは何故か、という面がありますよね。
個人が信じる過程、という所を考えると、「直感を過度に信頼する」から、というのがありそうな気がします。血液型性格判断で顕著ですけれど。
後、シンプルな所で、「当該分野について知らないから」、というのがあって、それと、「知らない分野についての情報を鵜呑みにする」、というのが相俟って信じる事も、ありそうです。
ところで、
「科学の負の面」が「科学に対する社会的なネガティブイメージ(科学への”毛嫌い”)を形成する」
事と、
「科学に対するネガティブなイメージ」が「ニセ科学を流布させる要因となっている」
事って、別の現象ですよね。
紛争が続発したため、ここ数年法学マニアと化して過ごしているわけなんですが、実用性と合理性って結構結びついてるんじゃないかと思うんですよね。
大川氏については、受け取る側の問題もあるとコメントするしかないかも。法律学は、ある意味大人の学問なので、10代で面白さがわかる人ばっかりではないと思うのですけれど。
>「科学の負の面」が「科学に対する社会的なネガティブイメージ(科学への”毛嫌い”)を形成する」
事と、
「科学に対するネガティブなイメージ」が「ニセ科学を流布させる要因となっている」
事って、別の現象ですよね。
その通りです。
ニセ科学跋扈の原因は沢山あると思います。「科学の負の面」は、最初に私の頭に浮かんだものというだけです。
欲とか恐怖とか不勉強とか鵜呑みとか、色々思いつきます。
教育が、両者を架橋できるのを果たしていれば良いのですよ。ところが、丸山真男が嘆いていた様に「実感信仰と理論信仰の架橋し得ない対立」が根深かったりして、下手に普遍化され理論化されてしまうと非現実的と捉えられる嫌いがある訳で。教育者が幾ら両者の結びつきの重要性を説いても、社会の側でリテラシーが無いとそれまでなんですよね。
こう考えるのは、最近前後して起きている博士の就職難と"学位屋"の偽学位問題ってのが、案外これから来ているってことなんじゃないかって個人的に思うからなんですよ。プロフェッショナル教育をするならば、本当なら学位を持っていて相当な見識を持っている方が教えるべき筈なのに、現実には"実務経験"なんてのが評価されて”実務経験”の無い人間は「教えているのが現実に役立たないんじゃないか?」って先入観を持たれてしまっている。だから博士号をとっても教壇につけずに浪々の身となる一方で、学位を持っていない実務家が形式ばかりを取り繕うために"学位屋"から偽学位を買うことになる。本当に役立つ知識は、高度に理論化されて普遍化されているって社会の間で共通の認識にならないと、この問題は根本的に解決しないんじゃないかと思いますです。
>実用性と合理性って結構結びついてるんじゃないかと思うんですよね。
人文学分野で「実用性と合理性の乖離」というか、理論的な予測が全く自分の将来予測に活かされない例なんて話ならいくつか思いつきます。
例えば、町工場の親父さんとか工員さん。日本の誇る家電や自動車の部品を労働集約的な工場で作って納めている下請け企業ですね。「自動車などの製品の国際競争力がアップすれば自分も分け前にあずかれるから」と、代金も抑えて頑張る訳ですね。ところが経済学の比較優位論の教えるところでは、自動車などのハイテク系の知識集約産業の競争力が高まれば、当然、労働集約型産業の国際競争力は弱まって、あるとき「今度からこの部品は中国から買うから」と言われて、工場は潰れる訳です。経済学的に極めて合理的な潰れ方なんですね。比較優位論なんてちょっと勉強すれば誰にでも分かる簡単な経済学すら、町工場の親父さんにはなんら実用的に使われない訳です。
>丸山真男が嘆いていた様に「実感信仰と理論信仰の架橋し得ない対立」が根深かったりして
これは、「体験談だけでモノを売る」という姿勢にそのまま通じているような。
>本当なら学位を持っていて相当な見識を持っている方が教えるべき筈なのに、現実には"実務経験"なんてのが評価されて
江原啓之に大学で講義させるとか、ねぇ……。
自称実務家の根拠のない自信がいけない、とか?
ところが「技術立国」「ものづくり立国」とかの美辞麗句を並べられて下手に科学技術で成功体験が積み上がってしまうと、その辺りの予測が見えなくなってしまうのですよね。それで経営側が撤退してしまうと、経営陣が無能で経済学も役立たずってなってしまう。
大体、「技術立国」の内実なんて内橋克人辺りが批判している様に、技術的な巧拙というより生産性ないしは生産効率で積み上がっていたものなんですよね。ところがマスコミとかで話題になるのは、科学技術の華やかな成果や成功ばかり。科学とか技術とかの現場に見られる泥臭いところと、最先端の研究開発が一緒くたに論じられてしまうから現実が見えなくなってしまい、議論に混乱を来たすのでは?
>apj様
まぁ、江原の場合は極端な例ではあるのですが、九州の方で大学院の研究科長をしていた方が偽学位だった、てのが象徴的なんですよね。彼の方の略歴を見ると、それ以前に企業でコンサルタントをやっていて"実務経験"がある訳なんですよ。
これが欧米なら(最初の新人の際に中卒・高卒だったとしても)"実務経験"を積むうちに大学や大学院に通っていき、実務でのキャリアと専門的な学識・学位がワンセットになっているのです。ところが、日本ではそういうケースが稀なのですよね。相当な大企業か官僚機構でも無い限り、大学院へ通うことをキャリアアップとして認めていないでしょ?だから”実務経験”があっても学位は無いってことになるし、欧米流に実務家教員を採ろうとしても(合)教授を探すのに苦労する。
結局のところ、「実用性と合理性って結構結びついてる」てのをコンセンサスとして形成しない限り、本質的な解決は難しいんじゃないですかね。
>結局のところ、「実用性と合理性って結構結びついてる」てのをコンセンサスとして形成しない限り、本質的な解決は難しいんじゃないですかね。
なんていうか、自然科学という学問の方がこの結びつきが単純なんですね。人文学になると、この結びつきが複雑になって、単純化するととんでも無いしっぺ返しに合うわけです。その結果として、人文学の学問的合理性を実際に取り入れる事に臆病になる面は出ていると思います。
実のところ、例えばテーラーの「科学的(合理的)生産管理」なんて学問的な合理性は非常に急速に社会に取り入れられたりしました。皆さんからみると「そんなの当たり前じゃないか」と思われるかもしれませんが、テーラーは「経営者は平均的な工員が単位時間に行う作業量を把握しなくては成らない」なんて事を言ったわけです。テーラー以前はそういう事も行われていなかった訳ですね。実はこの作業量の標準化というのは、フォードの「流れ作業」が成立するための必要条件なんですね。テーラーの提唱以降、産業は極めて迅速に科学的生産管理を推し進めて来たわけです。つまり、その時代には、学問の合理性と実用性は非常に強く結びついた訳です。ところが、1970年代くらいになると、あちこちで「テーラーイズム過適用」の問題が起こり始めます。詳しく述べると経営学の論文を書かなくてはならなくなるので割愛しますが、テーラーの科学的生産管理をいろんな作業に強引に当てはめたために、かえって効率を落としたり、品質を劣化させるシステムが出てきた訳です。その解析から、チャンピーなどのいうビジネス・プロセス・リエンジニアリングなどの考え方も出てくる訳です。
なんていうか、私は「今の日本は1980年代の米国の後をそのまま追っている」なんて言ったりします。1980年代の米国はそういう「テーラーイズム過適用」によりシステムがボロボロになって大不況でしたからね。
米国は少なくともテーラーイズムが何なのかを知りながらそれを取り入れてフォーディズムを完成した経験があるわけです。そのため、テーラーイズム過適用の問題についても「この過適用が問題なんだ」と気が付く事ができました。でも、日本はそのことに気が付く事は米国よりも難しいだろうと思います。なぜなら、日本にはテーラーイズムそのものの理解はなく、フォーディズムのみが入ってきているからです。テーラーイズムの学問的合理性を取り入れた実用性がフォーディズムであるとすると、フォーディズムのみを取り入れた日本の産業には、テーラーイズムの過適用を行っているという概念そのものが存在しない訳です。
そう言えば、日本ではテーラーシステムとかフォーディズム以上にSQC(統計的品質管理)が、戦後のビジネスに与えた影響が大きいですよね。徳丸壮也が「日本的経営の興亡」って大著を書いているので詳細はそちらに譲るとして、日本のSQCで主導的な役割を演じたのは統計学でも数理統計学=応用数学の中でも理工系に近い面子が主導しているのですよね。だから「実用性と合理性」の結びつきが単純に応用できるって理由で、あっという間に企業の現場に浸透しちゃった訳ですよ。
しかも、そのSQCを「生産現場に使えるなら営業でも管理でも経営戦略でも応用可能じゃ〜ん!!」とばかりに、ビジネス全般に応用してTQC(全社的品質管理)になっちゃう訳ですけど、ミュージカルにもなったいすず自動車の例とかが見られる様に、過適用の弊害が出てしまうってとこも一緒なんですよ。ところが、ビジネスがTQCを棄却した訳じゃなくてCがMに変わっただけのTQMって形で生き残ってしまってる。加えてTQCの究極的な形のトヨタ生産システムが企業ばかりか官庁組織や教育現場にまで持て囃されている有様なんですよね。
で、その違いを考えるとSQCの普及にあたって合理性の問題以上に(現場で使える)実用性の方が過度に強調されてしまって、加えて精神主義的なものまで下手に絡んじゃってしまっているって要因が大きいと思うのですよね。しかも、それで成功しちゃった例が結構ある上に、理科系の人間がそれを賞賛しちゃっている。これが文科系が法とか政策論とか心理学によって掣肘されるのであればマシになっていたかも知れないけど、「技術立国」の建前で何も言えなくなっちゃってしまう訳ですから。よくよく考えてみると「技術立国」って大義名分が齎した歪みって想像以上のものがあると思いますね(苦笑
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高度に発展した科学は魔法と見分けがつかない。科学は高度過ぎて理解しようとしても理解できない。自分が無力なことを自分で認めたくない。そこで奇妙な防衛機制が発生するんじゃないか、というオレ仮説。
氷の結晶なんて典型的で、実はクソ難しい世界。でも、結晶は目の前に現実にある。理解できない。そこで奇妙な合理化(正しくない理由付けによる正当化)がされる。こんにちは、おはよう。自分が理解できないという現実を直視しなくてもいいでしょ?
こんな感じじゃないかと思っているんだけど、ちがうかな。
変な合理化をしなきゃいいだけだと思うんだけどね。たとえば僕なんか、スーパーストリング理論なんて何度読んでも意味不明なんだけど、そこで「おはよう。こんにちは」とはいわないのは、こんな難解なことを理解できないという自分を知っているから。たぶんあっちの人は、波動って一言で片付けると思う。そして自分が理解できるだけの能力がないとは決して認めない。