読書感想文?
空想科学研究所(@KUSOLAB)のツィートが流れてきた。曰く、
『蜘蛛の糸』お釈迦様がカンダタを助けるために極楽からクモの糸を垂らすと、他の罪人も「何百となく、何千となく」登ってきた。仮に5千人とすれば、これに耐えるクモの糸は直径4.3㎝。こんな太い糸を出すクモがいたら、その体長は220mである。 (柳田)
これを見て、ツィートしながら、ひょっとしてこれは蜘蛛のサイズ以前にいろいろ問題がありそうだと考えた。
青空文庫で確認すると、「蜘蛛の糸」(芥川龍之介)は、
○はるか上空が極楽で、そこにはお釈迦様が居る。
○地獄はうんと下にあって、カンダタ他生前悪事を働いた連中が居る。血の池とか針の山とか、苦痛を与える設備が一通り揃っている。
○カンダタは生前蜘蛛を助けたので、お釈迦様は極楽の蜘蛛の糸をカンダタに垂らしてやった。
○地獄から見ると、天上がどうなってるかはわからない。
○とりあえず蜘蛛の糸が来たのでカンダタは登った。
○途中まで登って下を見ると他の連中も登ってきてたので、この糸は俺だけの物だと叫んだところ、糸が切れてカンダタ以下全員地獄に逆戻り。
という、まあ有名な話である。道徳話のネタで学校で習った記憶もあるし、ひょっとしたら国語の教科書や教材に登場したこともあったかもしれない。自分だけ助かろうとする了見の狭さがいかんだろうとかそういう教訓話にされてたと思う。
今回改めて読み返して気付いたのは、蜘蛛の糸の太さとか蜘蛛のサイズの推定以前に、目の前に蜘蛛の糸が垂れてきた場合、常識的に判断すれば、上に居るのは蜘蛛だと思わなきゃいかんだろうということである。蜘蛛の糸が天上から降りてきたからといって、上にお釈迦様が居る、と考えるというのは、相当なぶっ飛び具合である。でもって、人一人を支えられる強度の糸だということは、この糸で蜘蛛の巣が作られた場合、人が引っかかれば切って抜け出すことはまず不可能である。蜘蛛の糸が来たからといって喜んでいてはいけない。様子がわからない以上、上に居るのは、亡者を餌にしようと待ち構えている蜘蛛である可能性の方がずっと高いと考えるしかない。餌にされる予感しかしない。よくこんな状況で糸を登る気になったものだ。
しかしカンダタは、上に居るのが蜘蛛かお釈迦様かの識別ができない状態で、喜んで糸を登っている。地獄から抜け出せるかも、としか考えていない。後に続いた亡者どもも同様である。普通なら、このまま地獄に居るか上で蜘蛛の餌になるかの二択だったら、餌の方がマシなほど地獄が酷いところでない限り登らないだろう。
芥川の書いたオチは、自分だけ助かろうとする無慈悲な心がいかんという趣旨のものだったが、これには賛同しかねる。むしろ、上が蜘蛛かどうかも検討しないということでわかるように、先のことを全く考えない行動ばっかり生前にしていたから、結果として悪事をたくさん働いて地獄に落ちることになったのだという教訓話の印象の方が強い。
私がカンダタだったら、蜘蛛の糸が来た時点で逃げる……蜘蛛苦手。
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クモの糸は、細くて軽いので、風になびいて、まっすぐ垂らせないんですよ。クモが巣を張るときには、最初に糸を風に乗せて、別の枝まで梁みたいな物を作ります。
天上から地獄までの距離をよく知らないのですが、お釈迦様の力でのおかげで、まっすぐ降ろせたんでしょうね。
mimonさん、
多分、お釈迦様が手を加えた特別な糸だったんでしょう。
蜘蛛が張る梁といえば、大学の蜘蛛の巣で、植え込みの木と、建物の4階か5階あたりで張ってるのがありました。どうも蜘蛛の方が力の釣り合いについて、物理学者よりよく理解してるんじゃないかと思いながら眺めて居ました。
あと、生まれたての子クモがタンポポの綿毛のように糸でバルーニングするのは、有名ですが、このくらい大きいのでも、飛行できるようです。
http://www.youtube.com/watch?v=2T1N2_I8hHQ
確か仏教における地獄というものは「死んで楽になんかなれない」ものなんではなかったかと。
そもそも死者を責め苛んで一種の罰を与える存在 なのですから、死というexitは無い(死んでもすぐに肉体が再生して復活してしまう)ことになってたような。
たとえ蜘蛛に食われても、それが無限に続くとかでもなければ地獄よりまし、と考えるのは自然なのではないでしょうか。