前置きの部分が非常にしっくりきた

 小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句「ネット弁慶が街中に現れた理由」の、冒頭部分。

心を痛めている。

 ……という書き出しを読んだ瞬間に

「なんだこの偽善者は」

 と身構えるタイプの読者がいる。

 ながらく原稿を書く仕事をしてきて、最近、つくづく感じるのは、若い読者のなかに、情緒的な言い回しを嫌う人々が増えていることだ。

 彼らが嫌う物言いは、「心を痛める」だけではない。
 「寄り添う」「向き合う」「気遣う」「ふれあい」「おもいやり」「きずな」といったあたりの、手ぬるい印象のやまとことばは、おおむね評判が良くない。かえって反発を招く。

 彼らの気持ちは、私にも、半分ぐらいまでは理解できる。

 この国のマスメディアでは、論争的な問題を語るに当たって、あえて情緒的な言葉を使うことで対立点を曖昧にするみたいなレトリックを駆使する人々が高い地位を占めることになっている。彼らは、論点を心情の次元に分解することで、あらゆる問題を日曜版に移動させようとしている。

 若い読者は、そういう姿勢の背後にある卑怯さを見逃さない。
 リテラシーとも読解力とも違う、不思議な能力だ。

 この手の言い回しは、どう書かれていてもやっぱり上滑りしているようにしか見えないのですよ。議論すべきことを曖昧にする卑怯さというのは、相手にするとストレスが溜まるものです。何でもかんでも情緒で決着つけようとするヤツばっかりだった嫌な思い出というのは、私の場合、学校教育と一体のものになっています。
 「手ぬるい」言い回しの何が嫌かというと、言ってる側が真意をぼかしているためそれを推測するために余計な労力を使わないといけないからなんですね。禁止するとか止めろということを論理的に伝えられないので、敢えてぼかして相手に察しさせようとする傲慢さか、きれいごとで誤魔化そうとするずるさしか感じないのです。
 それを正面から指摘すると、人の気持ちがわからない、と非難されるわけです。私からみれば、伝える努力を怠っているのは貴方でしょう、としか言えない。
 こういう表現に隠された卑怯さを見抜く若者が増えてきたというのであれば、私にとってはかなり希望が持てる話です。