成績の悪い学生をレポートなどで救済してはいけない明白な理由
まずは、日本経済新聞のサイト、「アインシュタインがもし福島を見たら…(震災取材ブログ) @福島・浪江」より。問題の部分に色付けしてみた。
東京電力福島第1原子力発電所の事故から2年を迎える福島県。いまだに15万人の県民が避難生活を続ける。多くの避難民は仮設住宅で生活し、生命は助かったものの仕事や故郷を失って生きがいを見いだせない人も大勢いる。「生命を奪わず生活を奪う」。福島県で取材を続けると、これが原発事故の本質ではないかと感じてきた。
2月下旬、原発事故で避難区域になった福島県浪江町の住民が生活する仮設住宅を取材した。福島県が主催する健康相談会が開かれ、約20人の避難者が参加していた。食事のアドバイスに始まり、体操、ゲームと続いた。ただ参加した高齢者の男性は「仮設住宅は狭く、やることが全くない」と肩を落としていた。
余生を家族と静かに暮らそうとしていた高齢者。自宅周辺は放射線量が高くて帰還できる見通しは立たず、賠償も思うように進まない。生活再建に向けた道筋を示されなければ心身とも厳しい状況に追い込まれる。原発事故は仕事や住居、共同体(コミュニティー)を破壊する。
これは、そもそも原発が安全かどうかを評価する審査基準に起因するといえる。なぜなら安全審査の考え方は、事故が起きた場合に人命が失われるリスクがどれだけ高いかをよりどころとしているからだ。
「確率論的安全評価」と呼ばれるリスク評価の方法で、事故が起きるシナリオと頻度、事故が起きたときの規模から、人間が死亡する確率を割り出す。飛行機事故やダムの崩壊などと比べて人命が失われる確率を割り出し、どこまで安全対策に取り組むかを決める。原子力の安全審査では米原子力規制委員会(NRC)が取り入れている。
2003年に日本の原子力安全委員会(当時)もこの考えを踏まえ「原子力施設の事故に起因する放射線被曝(ひばく)によって生じるがんによって、施設からある範囲の距離にある公衆個人の死亡リスクは年当たり100万分の1を超えないように抑制されるべきだ」と提言している。つまり、事故によって死亡するかどうかを判断すればよく、原発事故が起きても住民に避難生活を強いたり、放射線に対する精神的な不安は考慮したりしなくていいということになる。福島の現状はこれを体現しているといえる。
放射線による健康影響は不明な点が多い。高線量の放射線を浴びるとやけどなどで死亡するケースがあるが、低線量ならがんをすぐに発症しないうえ、長期的にがんを発症することがあっても、生活習慣や食事などによる影響も考えられるため原因が特定できない。避難生活で亡くなる人も多く、放射線は直接的な被害より、長期間にわたる影響の方が大きい。
ウランの核分裂が発見されてから80年足らず。原子力のリスクはどう考えられていたのか。「E=mc2」という世界でも最も有名な公式を発見した物理学者のアインシュタインが、もし福島の現状を見たらどう感じただろうか。大学で物理学を専攻していた私は、福島の現状を取材しながらこうした疑問がわくことがあった。
アインシュタインは核分裂の発見が原子爆弾を生み出す危険性をいち早く感じ、ナチス・ドイツが原爆を製造する危険性を訴える手紙を当時の米ルーズベルト大統領に書いたことでも有名だ。原子力にかかわる数多くの言葉も残している。
「原子エネルギーの解放によって私たちの世代は先史時代の人類が火を発見してからこのかたもっとも革命的な力を世界にもたらした」
「私は原子エネルギーが長い間には大きな恵みとなるという見通しをもっていないので、さしあたり脅威であると言わなくてはなりません」
いずれも『アインシュタインは語る』(大月書店)から引用した。
これらは原爆について触れた言葉と思われるが、原子力の平和利用である原発についての考えと仮定しても理解はできる。避難生活を続ける福島県民を見たら、同じような言葉を漏らしていたかもしれない。
原子力を生んだ物理学では、エネルギーを無限に取り出せる永久機関が学問における究極目標の1つ。1990年代後半、東電の原子力担当役員を取材したとき、使用済み核燃料の問題など原発の限界を指摘したところ「聖書に書いてあるだろう」と激しく反論されたことがある。初めは「聖書」という意味が全く分からなかったが、詳しく聞いてみると1950年代に米国で書かれた原子力工学の教科書のことだった。その本には、核燃料リサイクルが夢の永久機関に近づくと紹介され、東電役員はこれを信じて発言していたのだ。
東電福島第1原発の事故後、多くの原子力学者が批判を受けたが、この教科書をいまだに信じ続ける学者は少なくない。原発事故から科学者は何を学んだのか。人類は原子力と共存していけるのか。福島の取材を通じ、この自問を今後も続けなければならないと強く感じている。(竹下敦宣)
物理学専攻なら、永久機関の存在がこれまでに行われた実験全てによって否定されてきたたこと、物理学の歴史はそんなものが存在しないことを確かめてきた歴史でもある、ということは共通認識のはずである。また、熱力学はどこの物理学科でも必修科目のはずで、これを落とせば卒業はできない。
物理学の方では、永久機関は無理、と限界をすでに提示していて、工学の側は、永久機関……じゃなくて効率のよいエネルギー利用を実現するかを追い求めているだけだろう。
一体、どこの大学のどこの教員が、こんな理解しかできていない学生に単位を与えて卒業させ、物理学科卒の学歴を与えたのか。
あと、留年が多いとあれこれ圧力をかける文部科学省さん、留年を減らすために救済策を講じたりしていると、こういう知識のままの人材が社会で活躍する結果になるわけですよ。それでもいいんですか?
Filed under: 科学
この記者は自称「物理学専攻」ですので、工科としては「ソッチでどうにかしろ」と、いいたい所です。
私は学生のころ、機械工学の中でも、熱学研究室に在籍していて、今でも熱でメシを食ってますから、「熱力学の第一法則は破ってもいいけど(あんまり破って欲しくないけど)、熱力学の第二法則に反してはいけない」という、宇宙開闢以来の掟を重んじています。
原子力工学は、コッチですから、原子炉の設計ミスとか品質不良があったりしたら、面倒を見ますけれども、……。
と、apjさんを敵に回しても、何の得にもなりませんので、本音でいいますと、出身の学科や大学以上に、本人の勉強というか、個体差が大きい上に、就職してからの影響が多きいんですよね。
機械工学の例では、材料力学を専門にしていますと、例えば流体力学なんて、試験の時にギリギリの点数を取れるよう、一夜漬けで「通した」人が少なくありませんので、そんなの一週間も経てば、きれいサッパリ忘れています。
それで良いわけじゃないのですが、有限の能力のヒトが専門性を高めるって、ある程度、他を犠牲にしなくちゃ、やっていけない面もあります。
で、この記者は、物理学の何処を専門にしていたのでしょうね。
物性方面ですと、案外、原子核のことを突っ込んで学ぶ機会が少ないように思えます(もちろん、想像だけですが)。
永久機関がダメというのは、まずは小学生の時に学ぶことで、その後、中学、高校、大学と、裏づけを盛り付けていくのが学問ですよね。
工科は元々産業のために存在する学問ですから、製造業だと会社に入ってからも、それなりに尊重されますが、新聞社なんて、「学校で学んだことは全て忘れろ」とか、大げさにいえば理系のアイデンティティを覆すようなこと、入社式の終わった直後に言われそうな気がします(これも私の想像です)。
私は、新聞記者を理系とか文系とかではなく、他と隔離された特有の文化を持つ「民族」だと、とらえています。