「やる気があります」「がんばります」が信用を落とす場合がある
初等中等教育で、関心・意欲・態度を評価することについて、たとえばこんな資料があって「中村先生からは「関心・意欲・態度」を一時的に表出した行動や態度(提出物のチェック,忘れ物の回数,私語の有無,授業態度,挙手の回数)で評価するのでなく,生徒がワークシートに記載することで,育った姿(育てた姿)を記載内容から読み取る評価方法を紹介していただきました。」とある。ここに書かれたように、一時的に表出した行動や態度での評価が全く行われていないのであれば良いのだけれど、どうもそうでもないらしい話を聞いたので念のため書いておく。
どうもそうではないらしい、というのは、授業中に挙手するという積極的な態度を求めるあまり、わからないのに手を上げて指されると「わかりません」と堂々と答えてもポジティブ評価されているという話を聞いたからである。大学内で教員から聞いたので、どうも、入ってきた学生から、そのような授業を受けてきました、という話が出て来たのではないかと思われる。
もし、わからなくても手を挙げることを推奨するような教育を小中高で受けてきたのなら、それは間違っているので即刻考えを改めてもらいたい。理由は次の通り。
以前に比べて数は減ったけれども高卒で就職する人はいるし、専門学校や大学に行ってから就職する人も大勢いる。仕事場で会議や打ち合わせをやっている時に発言を求めて「わかりません」だけしか言わなかったらどう評価されるか。会議に参加する積極的な態度をポジティブに評価されることはまず無い。そのかわりに、無能と思われるか、会議進行の邪魔が目的と思われるか、何も考えてないお調子者かつバカ者と思われるかのどれかだろう。少なくとも、次からコイツをメンバーに入れるのは止めよう、と会議を招集する側に思わせるには十分だろうということだ。
仕事場でやらかしたらまずもって相手にされないかバカにされる行動を学校で推奨するというのはどう考えてもまずい。関心・意欲・態度の評価を表面的にやった場合、してはいけない行動を学校で強化してしまうおそれがある。
表面的な「関心・意欲・態度」が悪影響を及ぼしうる場面として、面接試験がある。私が経験したのは、大学への推薦入試と大学院への面接試験の二種類である。このような試験の場で「関心・意欲・態度」を表明するのは全くかまわないのだが、それが実績を伴わないと学力だけではなく人格や人間性にまで疑義が生じる。疑義が生じるのは例えば次のような場合である。
面接で「化学に大変興味があってもっと勉強したいです」と主張する人の化学の成績がぱっとしなかったり、授業内容以外に積極的に化学について自分から何か調べて勉強した形跡が全く無い場合。興味もやる気もあるのに成績がダメというのは、そもそも能力や適性をまるで欠いていることの証左にしかならない。やる気と態度だけで何かを成し遂げられるわけではないので、成績に見合わない「やる気」の主張は、面接する側からしたらむしろ危険信号である。「これからがんばります」という意味だと解釈しても、それならなおさら、そのやる気があってなぜこれまでできていないのかの説明がつかない。この人物の本質は実は大変にズボラなのではないかと疑うことになる。受け身のままでも得られる授業内容以外に自分から積極的に何かをした形跡がなければ、「関心・意欲・態度」の表明で嘘をつく人物だという評価になって、その場さえ切り抜ければいいという人間性の持ち主だと判断することになる。
大学院受験の場合だと「もっと研究や勉強がしたいです」といったものが面接時の定番の台詞となる。ペーパー試験や普段の成績評価が良好であれば「化学に取り組む意欲があるのね」と判断するから、この主張をきいても何の違和感もない。ところが、ペーパー試験無しに卒業研究の内容等で面接する場合には問題が生じることがある。例えば、研究室滞在時間が随分と短かかったり、英語の成績が著しく悪かったり、発表した研究テーマの仕事をするにあたって当然知っていなければならないことを知らなかったり、わからないことをそのままにしていたことが質疑応答でバレた場合である。理系の実験を主体とする研究室の場合、時間のみで仕事を測れるわけではないとしても、あまりにも滞在時間が短いと話にならない。毎日大学に出てくるのが当たり前である。それをしないでおいて意欲だけ表明すれば、面接している側としては、進学後の仕事ぶりに期待が持てないばかりか、その学生がいい加減な人物であるという印象が強くなるだけである。理系の場合、必要な情報は英語で書かれた論文やテキストから得るので、英語の成績があまりに悪いとやる気だけあっても仕事は進まない。そのことは学部の講義でも強調され、論文を読んで発表するといった演習型の講義もある。にもかかわらず受験の時期まで英語について放置したとなると、やはりその意欲は口先だけだという判断にならざるを得ない。研究テーマについては指導教員が与えるとしても、その研究の過程で疑問に思ったことを解決するために積極的に動いた形跡が無いとかそもそも疑問すら持たなかったと思われる場合、主体的に研究をするのはまず無理で、指導教員の手足以上の存在になれないのは確実である。この場合「進学してもっと研究したい」という主張は「もっと誰かの手足のままでいたい」という意味にしかならない。つまり、大学院に来るべき人材ではないことを自ら示してしまうことになる。いっそのこと「もっと研究がしたいです」の代わりに「進学の目的はモラトリアムです」とでも宣言してくれた方が、主張内容と現実に一貫性があるので、正直で実直な人間とみなせるし、自分を客観視できているという意味では好感が持てる。
一般論として、何かを教えつつ一緒に仕事をする人を選ぶ場合、その場限りの調子のいい事を言ったり自分を客観視できなさそうな人物は望ましくない。表面的な言葉よりも、主張内容のギャップの方が判断材料としては重要である。
ペーパーテストであれば、デキが良くても悪くても、学力の指標以上の意味は持たない。人間性とは切り離して評価ができる。しかし、「関心・意欲・態度」を評価する場合は、表明された「関心・意欲・態度」と実際の学力やそれまでにしてきた行為とのギャップが大きければ、人間性まで疑わざるを得なくなる。「関心・意欲・態度」を安易に表明することは、マイナス面の方が大きくなる場合があることを知ってほしい。一方、「やる気があります」「がんばります」は言わずに、これまで何に興味を持って何をしてきたか、内容をきちんと語ってくれれば、やる気や意欲は自ずと伝わる。もし、語る内容を持っていないのなら、面接よりもペーパー試験で通る方が、多分向いているし有利である。
全員がここに書いたような基準で審査するわけではないだろうけど、学校では一般に「良いこと」とされている「関心・意欲・態度」の表明が足を引っ張る可能性も考えた方が良いと思ったのでこのエントリーを書いた。自分がどっちの試験(ペーパーか面接重視か)で通るのが有利か、よく考えて、希望の進路を叶えてほしいと思う。
書きながら考えたのだけど、面接型の試験で「関心・意欲・態度」を見ようとすると、人間性の評価とか人物評価になってしまうことが実は必然なのではないか。「関心・意欲・態度」への言及をお互いに意図的に避けて(つまり志望動機など一切問わない)、科目内容や研究内容についての口頭試問のみにすれば、人間性と切り離した評価ができるが、それならペーパー試験で測るのと何が違うのかということになりそう。大学入試で人物をもっと重視せよという話が出てきているけど、必然的に人間性の評価と一体となってしまうのなら、ペーパー試験で輪切りよりも落ちた人には救いが無く苛酷なのではないか。
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