雑記帳

集中講義の裏側(1999/09/18)

 昨日やっと集中講義が終わった。学部の頃にお世話になった夏目先生が声をかけてくださり、千葉大で物理学科の3、4年生を相手に話をした。

 先週の木、金と今週の木、金の4日間の日程でやった。初日が千葉大の大学院入試の翌日ということで、4年生(の一部)は多分くたびれているはずだから、講義は午後からにして、午前中は夏目研の院生の前で最近の研究の話をしてほしいということで、そのためのトランスペアレンシーの束もかついで行ったのだった。

 出席者は40人前後で、最後までよく聞いてくれた。私はまとまった講義をするのはこれが初めてで、多分他の先生方に比べれば不慣れでつたない講義だっただろうと思うのだが、学生達は最後までよくつきあってくれた。
 物理科の学部でやるにしてはちょっと珍しい話になるだろうと思ったので、途中参加も一部だけ参加もOKということにした。私としては、普段と違う話に触れて、何かの折りにヒントにしてくれればと思っていたので、出席についてはきびしく言わないことにした。もっとも、1回も来ずレポートも出さない人に単位を出すことはさすがにできないので、一応のチェックだけした。

 講義の内容は、このウェブページのラマン散乱のところに掲載している解説の内容をかみくだいて説明するものである。学部の3、4年だと、量子力学と熱力学と統計力学のグランドカノニカル分布の話などの知識は前提にしてもよい。フーリエ変換も物理数学でやっているはずである。しかし、自分が学生だった頃を振り返ると、とりあえず講義では一通りのことを習うが、習ったことがどういう場面で役立つかが想像できず、使うときになってあわてて昔のノートや教科書を引っぱり出していた。
 具体的に書こう。物理数学ではフーリエ変換や線形応答の話を習ったが、そのときにはまさか自分が、矩形波を試料にあてて応答をフーリエ変換して複素誘電率のスペクトルを出すということを、修士の研究テーマでやるとは思わなかった。量子力学では摂動論をやったが、クラシカルな分光では光と物質の相互作用が1次の摂動論で記述できる現象ばかりだとは認識していなかった。摂動計算はそれなりに長いので、時間制限のある試験では出ないだろうとタカをくくって手抜きし、実際その予想通り試験には出なかった。電磁場の量子化もやったが、素粒子論の準備だと思っていた。実は電磁場の量子化をちゃんとやらないと自発放射が自然に出てこない。非平衡統計物理は、学部の間にはやった記憶がない。修士課程で確率過程の話をちょこっときいただけである。実験系に進むと、非平衡系の話に触れる機会そのものがない。液体を扱うのは化学屋の仕事だと思っていた。
 私はそれなりに講義にはちゃんと出ていたがこういう認識だったので、もし今の学生もこうだとすると、研究の話まで橋渡しをするには次のような内容を話しておかななければならないことになる。

  1. 物理数学の復習
    分光にとって不可欠なフーリエ変換と線形応答をまず思い出してもらわないといけない。実際私はこの2つのお世話にならない日はなかったのだから。
  2. 誘電緩和の話
    ラマン散乱のデータの解析では緩和関数、それも誘電緩和から流用した関数を使っている。そういう緩和関数が流用ではない本来の目的通りにデータの解析に広く用いられていることを示し、しかもそれでうまくいっていることを言っておかないと、なぜラマンでも同じ形を使おうと考えたのかわかってもらえないだろう。学部の3、4年で、誘電緩和がどういうものか知っている人は少ないかもしれない。
  3. ラマン散乱の話
    化学科だったら、分析化学の教科書に赤外吸収とラマン散乱が出ているのを読んでいるはずである。しかし物理科は.....。学部の3年を終わった頃、私はラマン散乱という言葉位は知っていたが、具体的にどういうものかは知らなかった。だから、ラマン散乱とはどういう現象で何が測定できてどう使われているのかまず簡単に紹介しないと、今我々がやっている研究の話に馴染んでもらえないだろう。
  4. 光散乱の取り扱い
    光と物質の相互作用は、物理科である以上ちゃんと量子力学を使ってやらないといけないだろう。さもないと単なるお話で終わってしまう。幸いにして1次の摂動論で話が済むから、量子力学の教科書か演習をやっていればあとはひたすら算数なだけで、新奇な概念は出てこないから何とかなるだろう。で、長波長近似を途中で行うが、それが可能だということ=ラマン散乱では空間相関がとれないということを説明する必要がある。半古典的取り扱いと電磁場の量子化を行う方法の違いについても説明できれば、なぜ量子化かということもわかってもらえるのではないだろうか。
  5. 非平衡統計物理
    我々の最近の研究でのデータ解析の特徴は、デバイの緩和の破れと有色ノイズの効果を取り入れる点にある。この2つを理解してもらうには、確率過程の基礎から始めて、回転ブラウン運動のランジュバン方程式で慣性項を落として揺らぎを白色ノイズとして扱うというのを、実際にやらなければならない。そのあとフォッカープランク方程式になおして解を求め、確かに時間的に指数関数的に減少する形の解が出ることを示した上で、どこまでもその形のままだとすると吸収エネルギーが発散して困るということを言わなければならない。こういう内容は、修士以上で統計物理の理論の研究室にでも入らないとちゃんとやることはないのではないか。実際、実験屋の書いた誘電緩和の本だと、指数関数的に減少/増加する分極とそれに対応するデバイ型の緩和がいきなり導入されていて、どういう近似で得られた話かはちっとも書いていない。もともとの導出の時の近似を知らない人が結構居るようで、論文を投稿してレフェリーが実験屋だと中身を理解出来ないらしく、その結果理由無しのリジェクトを喰らって我々は困っている。研究者にしてそういう状態だから、当然学生は知らないはずである。
  6. 液体論
    液体に短距離だが秩序構造があることは、物理科の学生はあまり認識しないだろう。学部の物理で物性論というと、まず結晶しかやらない。キッテルの教科書だと、結晶をやって格子振動をやって、磁性・半導体・誘電体の話が出てくる。通年の授業だと、そこまでで時間が終わってしまう。アモルファスの話までやってるかどうか怪しい限りである。
    動径分布関数を説明して実際に測定から得られるということを言わないと、短距離秩序の存在を言えない。また、2体の分布関数と熱力学量の関係をつけるのは基本中の基本だろう。さらに、n体の分布関数を表すにはn+1体の分布関数の情報が必要だということも示さないと、なんで近似するしかなかったり、方程式に決定打が出ないかわかってもらえないだろう。
 

 ともかくこれくらいの予備知識があれば、液体が未だに研究テーマであり続けている理由とか、今我々が提案しているラマンの解析法の特徴だとかをわかってもらえるはずである。

 そこで、私は教科書をかき集めて上記の項目についてノートを作った。最初は自分の勉強用に作り、2回目は講義用で関係のないところを極力省略したが、それでも結構な量になったし、途中で式の番号が違ったり書き間違えたりで、なかなかちゃんとできないのだった。やはりこういう作業はコンピュータを使ってファイルに入れて、何回か推敲して直さないと間違いが減らないものらしい。話によっては解説用の図も必要だが、私は迅速にきれいな図を黒板に描くワザは持っていないので、OHPで映すことにした。
 また、研究の話は水・水溶液が主になるが、なぜ水に興味を持ったか説明するには水がいかに異常な性質を持つか示す必要がある。そこで、関連の本から図をコピーし、これもOHP用の原稿として準備した。また、他の測定による結果もあわせて示さなければならないので、その図も作った。
 こんなことをしていたら、結構な量になった。さすがにこれを全部黒板に描いて学生にノートをとらせるのは酷だし、映されるOHPを見てノートをとるのもきついので、全部コピーして学生に配り、数式部分については私は板書し、そのスピードに合わせて資料を見て貰うことにした。ノートを配っても、それを読み上げてしまうと多分速度が早すぎてついてくるのが難しいはずである。おかげで今度はコピーが大量になり、夏目研の学生さんたちを酷使することになってしまった。よく手伝ってくれたと感謝している。

 講義の準備をしていて、私は随分勉強になった。こういうことでもないと、解説用のトラペを作ったりしないし、本をきちんとは読まない。また、話をしてみてやはりまだまだ足りないところがあると実感した。

  「私は慣れてないこともあって、多分講義が下手だ。長くプロやってるだけあって先生はうまいよ」
と師匠の冨永教授に言ったら、
「それはごまかし方がうまいのだ」
と言われてしまった。つまり、嘘を教えるのはいけないが、学生に要らぬストレスをあたえないようにわかった気分にさせるワザは必要だということだそうな。

 ともかくレポート問題として簡単なのを2つ出し、さらに「講義の感想とこうすれば講義がもっと良くなるという指摘を書け」というのを3つ目の課題にした。最後に「自分ならこんなことを調べる、という研究のアイデアがあったら何でも良いから書いてね」とやった(他人のアイデアに頼ろうという魂胆が丸見えな課題である)。採点の基準は最初の2つができていればOKである。ほとんどの人ができるだろう。
 実は私が本当に知りたいのは3つ目のやつだったりする。そこで正直な感想が返ってこないと、もし次にどこかでやるときにあまり改善されないままやることになるからだ。できる限りのサービスはしたつもりだが、不慣れでつたない講義に対し、かなり厳しいことを言われるのではないかと内心ちょっと恐い反面楽しみでもある。

 とりあえは、講義内容をTeXファイルにでもして、じっくり改訂するというのをやりたい。熟成させれば、もうちょっと研究の風景を伝えられるものになるのではないかと思うから。



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