私は学位取得後しばらく軽部研にいた。
研究報告会で、軽部教授が「ひとの言うことをきかない奴は大成しない」と言ったので「嘘つけっ!言うこときいてたらテーマつぶれたやんけ!」って突っ込んだりもした。
スタッフが全員私と同じ歳で、3人とも学位を取らずに助手になったので、その後学位をとれるかどうかは軽部教授の方針次第という状態になっていた。また3人とも、自分の足場になる研究業績が無い状態だった。そのせいかどうか知らないが、研究の指導に関しては、軽部教授の言ったことをそのまま学生に伝えるだけになっていた。
軽部研は、いわゆる大学の研究室だと思っているとあれっと思うことが多い。ワンマンな社長に率いられた中小企業だと考えたほうがしっくりくる。軽部教授自身も、「俺は中小企業の社長だ」と言っていた。
大抵の場合、社長の思いつきと現場の作業内容は一致しない。会社であればその違いを中間管理職が吸収してうまく仕事を回すのだが、教授の言うことを素直にきくだけの助手が3人ということになると、社長の思いつきがそのまま現場におりてきて、現場が振り回されるという状態が続いた。
私が院生の頃は、会社から派遣された社会人大学院生が何人かいて、そういう人たちは開発の現場をくぐっているので優秀で、学生や院生はスタッフが指導しきれないような測定上のノウハウを社会人から教わっていた。また、会社の話などもきかせてもらえたので、就職の際の参考になった。しかし、社会人大学院生はほとんどが私と前後して修了して会社に戻った。バブル崩壊の余波もあって新しい人はほとんど増えず、モノを動かすという点での指導が手薄になったことは否定できない。
私はその後、縁あって千葉の放射線医学総合研究所で仕事をすることになったので、軽部研との関係はだんだん減っていった。さらにその後、研究のしきり直しのため、高専の非常勤講師などをしながらお茶の水女子大学で研究することになる。この間ずっと、先端研の協力研究員にしてもらっていたので、合宿などにも参加したから、軽部研の様子はときどき研究室のメンバーから伝え聞いていた。
私が修了した頃から、軽部教授は「これからは世の中の役に立つことをしたい」と言い始めた。元々センサーの開発と応用の研究室だったから、私から見れば十分応用的色彩の強い研究室なのだが、教授本人はそれでも満足していなかったらしい。程なく院生の主な研究テーマは特許に結びつきそうなものに変わっていった。定例の研究報告会で教授は、特許をとるために必要な実験をさせるように院生に指示するようになった。
先端学際工学での学位取得の条件は、欧文の投稿論文が査読をパスして3つ受理されることである。このために必要な実験と、特許のための実験は必ずしも一致しない。また、日本の院生には特許のための仕事が割り振られても給料が支払われるわけではない(アメリカでは、給料をもらって業務としての開発に参加しつつ学位をとることもしばしば行われているようだが)。公開した情報は特許にならないので、院生は論文を出すより先に特許を出さなければならいから、論文を出すのが遅れがちになり、修了も遅れがちになる。研究報告会で「お前の学位より特許が先だ」と言われた博士課程の院生もいたようだ。また、「学位仕事にはフィロソフィーが必要である」と軽部教授は考えているらしく、最初の2年間はさんざん特許仕事に必要な指示を出しまくっておいて、そろそろ学位論文をまとめる頃になると「お前の仕事にはフィロソフィーがないし一貫性もない」と言い出すのだった。多くの院生は「誰のせいで研究に一貫性が無くなったんだ!」と言いたいのをひたすらこらえていたようである。
特許や実用化のための実験で振り回されたあげく、最後になって一貫性や哲学を要求されても対応できるわけもなく、3年で学位をとれない人が続出することになった。奨学金をもらっている人は3年で切られるから延長した時点でアルバイトに追われるし、追加の学費は院生個人が負担することになる。特許の仕事のために修了が遅れたとしても、その分の給料を支払っていたなら、院生の不満もそれほどではなかっただろうと思うのだが。
私が何度か軽部研に遊びに行ったときにきかされた院生の不満の筆頭は、「こんな研究(や実験)をして一体何になるのか」であった。コミュニケーションがどこか根本的に欠落しているとしか思えない。志気も研究の能率も上がるはずがない。院生はサラリーマン化して、5時になったらさっさと帰り、週休2日をしっかり守っているという話だった。大学の研究室にしては珍しい状態であった。
その後しばらくして、学位審査を受けた院生が、審査委員の質問に対し「その質問は特許に抵触するのでお答えできません」と答えたという話をきいた。これでは学問の破壊ではないか。審査委員は激怒しなかったんだろうか、とか、そういう審査で学位を取っても気分がいいはずがないだろうに、とか思ったのだけど。
軽部研公式行事の1つに夏合宿がある。全員参加で、たいていは新潟県塩沢にある教授の別荘と近くの民宿に泊まって行う。バーベキューをしたりスポーツをしたりなのだが、食事を自分たちで準備するのであまりのんびりしている暇はない。院生・学生にとってはそれが疲れるという理由で、伊豆の方にある東大の施設で合宿をしたことがある。東大の体育会が管理している建物で、そういう施設の常として、建物その他は古いが安く宿泊できる。
このとき、軽部教授は、「そんなボロいところに泊まるのは嫌だ」と言って、近くのホテルに泊まっていた。それはそれで施設の管理者に対して失礼な話ではあるが、まあ主観は人それぞれだから仕方がない。それよりも、公式行事で全員参加を命じておいて肝心のヘッドがこれでは、研究室メンバーに「教授は所詮我々の側にはいない人」と思われるだけだろう。教授が居なかったことでハメを外せた学生は多数居たはずだが、外部から参加した私としては「ただでさえ教授とメンバーの意志疎通がうまくいってないときに、わざわざメンバーとの間の溝を再確認してどないするんじゃい」とツッコミを入れるしかなかった。
こんな状態だったから、誰がいつ不満を爆発させても不思議はないとは思っていた。サンデー毎日の告発記事を見たとき、私は、とうとうやったなと思った。
客観的にみて、少なくとも講座制のヘッドとしては軽部教授はしっかり役割を果たしていた。数多くのメンバーが不自由しないだけの研究費を獲得してきていたし、企業の知り合いも多く、就職先の紹介なども、今居るお茶の水女子大理学部の平均的な教授よりははるかにやってくれていた。集まった学生・院生も、数が多いので中には問題のある人もいたけれど、平均するとそこそこできる人たちが集まってきていた。
それなのに研究の現場は混乱したし、院生は不満をため込んでいた。おそらくその原因は、軽部教授に正面切って反対できるだけの力(=研究の実績と実力)のあるスタッフを助教授や講師として採用しなかったことにある。イエスマンの助手では、教授の言うことを上意下達で流すだけしかできず、院生が不満を言っても「それを言っても軽部教授はきかないだろう」という形で押さえ込むだけだから何の解決にもならない。一度こういう雰囲気ができてしまうと、教授が間違ったことを言っても誰にも止められなくなる。研究で実力のあるスタッフが居たなら、軽部教授の言うことをうまくずらしつつ、軽部教授も満足させながら、豊富な研究費と人手(院生)を使って成果を出して自分の業績も増やすということになったはずである。そういう人が居なかったから、院生は軽部教授に振り回されて不満を蓄積したし、軽部教授にとっても(本人が認識したかどうかは不明だが)不幸だったのではないか。
さて、今回の内部告発だが、波及効果を考えるとあまり役にたたないと思う。誰が告発したかは大体見当がついているが、証拠もないのに名前を挙げるわけにはいかないからここには書かない。軽部研の本当の問題は、前述した理由で院生に対する指導の質が何年にもわたって非常に悪いことにある。こういうときにしなければならないことは、週刊誌に告発するのではなく提訴することだと私は考える。払った授業料分の指導がなされなかったのなら、責任を追及してもかまわないはずだ。企業だって、製品の品質保証に失敗して欠陥品を販売したら責任を問われる。
私の場合は、軽部教授がフェアだったことと私のアイデアに対して研究費をつけてくれたことを考慮して、つぶれるテーマをよこしたことについての責任追及はしないことにしたのだが。
北陸先端大に栄転した民谷教授は、私の脳研究の指導に見事に失敗したのにそれを教訓とはしなかったようだ。軽部研から民谷研に進学した院生の話では、懲りずに脳の測定に院生を突っ込ませたあげく、実現不可能な要求をしたために、院生が共同研究先に泣きついて助けを求めていたそうだ。また、民谷教授は、軽部研で実験の現場からずっと離れたまま昇進したので、院生の実験に対するアドバイスの内容に無理があることが多く、院生のテーマ変更がしょっちゅう行われて、院生はストレスをためているということだった。軽部研の良くないところを見習ったようである。こういう話をきくにつけ、他の被害を防ぐために民谷さんだけでも提訴しておくべきだったかと、ちょっと後悔している。
私と同い歳の助手3人は、修士卒が1人(博士課程進学が決まっていたが中断)、博士課程中退が2人だったが、採用されてからは自分で実験をすることはほとんどなかった。研究室を動かすための雑用に追われていた。3人とも、外部から来た卒研生の仕事を指導し、その結果を論文にまとめて業績数をかせいで、論文博士で学位をとったようである。うち1人は講師に昇格した。このままいくと、民谷さんに続いて現場を知らない指導者が養成されることになる。まあ、3人が「指導者が現場を知らないことの弊害」を正しく認識してくれていればいいのだが。
私は暫くの間、千葉の放医研でPositoron Emission Tomographyの画像再構成プログラムの計算をしたり、そこの核医学のグループ用のイントラネットの管理をしたりしていた。しかし、画像再構成のセンスは私にはあまりないことがわかり、ネットワーク管理という業務的な仕事では期限付きのポストで給料をもらっても先行きは良くないと思ったので、多少不安定でも論文が出せる状態を選ぶことにした。ちょうど、修士課程を過ごしたお茶の水女子大学の冨永教授にお願いしてやらせてもらっていた低振動数Raman散乱で、新しい解析法を思いついて、まとまった結果が出始めていた。教授が余計な指導をしなければ、研究とはどんどん進むものだと思った。
私がサンデー毎日の記事を見たのは、Raman散乱の結果をまとめて博士(理学)をとってはどうかと進められ、2つ目の学位論文にとりかかっていた頃だった。それから半年たったが、今も調査や監査が続いているらしい。私の方は、学位の本審査と公開発表を問題なく終えた。課程博士でまともな仕事ができなかったことを挽回するのに、5年以上かかったことになる。
論博の学位論文の謝辞の最初には、次のように書いた:
「本研究を進めるにあたり、設備や試薬を全面的に提供してくださり、かつ余計な指導はしなかった、お茶の水女子大学大学院人間文化研究科の冨永靖徳教授に感謝いたします。冨永教授は常日頃から、「学生は教師を教育して学位をとるものだ」とおっしゃっています。課程博士の指導教授が与えたテーマが見事につぶれた経験を持つ私にとっては、これは至極もっともなことだと実感しています。」
- 私としては、実現可能性のあるテーマを常に与えるように努力しているつもりです。また、院生のテーマ変更がしょっちゅう行われ、院生がストレスをためていると書いてありますが、どの程度のことをいっているのでしょうか?多少のテーマ変更は、どこの研究室でも行われていることだと思います。
- 脳研究に関しては、現在も進めており、グルタミン酸を酵素と蛍光剤を用いてイメージングしています。これに依れば、グルタミン酸のシナプス放出のみならずグリアでの再吸収もイメージングできます。それから神経細胞をチップ上に培養し、これを用いたスクリーニングシステムの開発にも展開しております。
- 大学院のあり方について修士課程と博士課程とは少し事情が異なると存じますのでまず、北陸先端大の修士課程の教育指導体制について説明します。本学は、学部がない独立大学院大学です。そのため、種々のバックグラウンドやレベルを有する学生が集まって来ます。入学時は研究室を決めずに一律に入学します。入学後、約4ヶ月間は、講義のみで研究室には配属しません。もちろん飛び級レベルの学生には、早期の配属は準備されていますが、きわめてまれです。研究室に配属後は、約半年ぐらいかけて自分で研究提案書を書くように研究を開始します。その後8ヶ月ぐらいかけて修士研究を完成するというわけです。こうした体制は既存の有数の大学とは、かなり状況が異なることがわかっていただけると存じます。既存の大学では、4年、修士課程と3年かけて修士研究が実質できますが、本学では、これと対抗して行おうとするとかなり厳しいわけです。このことは、学生が就職活動するときにも影響します。そのため、できるだけ研究を進展させようと努力するわけです。
- 一方、博士課程の学生に関しては、天羽さんのいうとおり、かなり研究テーマに関する本人の絞り込みが必要ですが、外部から入って来る場合には、自分の研究室で実施可能なテーマであるかなどあらかじめ十分議論することが必要です。天羽さんの東大入学の経緯については、その点の相互の理解が不十分であったことが反省すべき点と存じます。特に、天羽さんの種々悩まれた点については、重く受けとめたいと存じます。学生の誇りと自負心については、大いに認めたいと存じます。天羽さんのようなエネルギーを持った人があまりいないことを逆に心配しているほどです。私の大学では、学生による授業評価や指導教官以外の教官も学生の指導に加わる複数指導体制をとっており、研究テーマの変更や研究室の変更も実質上行われております。学生の立場も考慮するようなしくみになっています。
ということだそうな。でもね、博士に進学した年に、学振特別研究員の申請書を出すという話があって、私はちゃんと当初やりたかった水とタンパク質の話を書いて見せたのに、「こんなのはダメだ」といって脳の研究に書きなおしをさせたのは民谷先生本人だった。教官には学問の自由があっても、博士課程院生のそれは無いって結論しか出てこない。私は、研究室の本流と離れたテーマだからこそ、自分で研究費をとって迷惑をかけないように進めたいと思っていたのにねぇ。おかげで、書類を提出するときには「頼むから落としてくれ」と真剣に思った。興味がまったくないテーマで研究費をつけられて成果を問われるなんて冗談じゃない。書類で落とされたときにはほっとした。落ちることを願いながら申請書を出すなんて、後にも先にもこのときだけだった。
私がこの9章に書いた話を聞いたのは、私が軽部研を卒業して2年以内の頃の話だ。民谷研究室から、別の大学(だったか研究機関だったか)に行った学生が、脳のテーマを進めていて行き詰まって共同研究先に助けを求めたという話を、民谷研から軽部研に進学してきた院生からきいた。そのときに民谷先生にいろいろ聞くと、教えてはもらえるのだが、よく考えるとそれは無理だ、という助言であることが多く、結局共同研究先の方に助けをもとめることになったと話していた。テーマの変更が多いという話も確か同じ人にきいたと記憶している。また、民谷教授が軽部研にいたころから、指導されていた学生がしょっちゅう「アイデアをくれるがしばらく考えると実は不可能とわかる」とぼやいていたので、後でそういう話をきいたときには、さもありなんと思った。そのときの私にとっては、十分信じるに足る話だった。この話を聞いてから、サンデー毎日の告発が出るまでに、2年ほど経っていたので、詳しいことまでは書かずに、簡単に触れた。
しかし、民谷研究室メンバーの全員がそういう受け止め方をしたわけではなさそうだし、大勢のメンバーがいれば、全体としてうまくいっていても、中にはうまく意志疎通がいかない場合も起こりうるだろう。私は今の北陸先端大を直接は知らないが、民谷教授の主張するような指導がきちんとおこなわれているのであれば、私のように、最初のすりあわせが失敗した上に、実はできないテーマをもらってひどい目にあう学生は滅多に出ないことが期待される。
学生の側が、教授に対して過剰に素直に反応した場合、教授の方は単に相談に乗って話を振ったと思っていても、学生の側がそれを命令と受け取る可能性がある。受け止める側が過敏になりすぎると、この章で書いたように、「振り回されている」と感じることも起こりうると思う。9章についてはあえて変更はしない。そのかわり、民谷先生の主張を追記しておく。この主張を読んだ限りでは、「教授に振り回された」と受け止める前に、議論をして違いの認識の違いをすりあわせる余地は十分にあると思う。
民谷先生には、所属する院生が、そこでやった研究について誇りをもって課程を修了できるような研究室運営をこれからもしていってほしいと思う。教授というのは、それができる立場なのだから。