MRT模型と2つの減衰振動モードの重ね合わせでフィッティングした水の温度変化スペクトルを示す(図5)。
低温では、緩和モードの作るshoulderと減衰振動の両方が50 cm-1のピークに寄与している。室温では、50 cm-1の減衰振動モードの寄与はわずかであり、高温(約300 K以上)では緩和モードと180 cm-1の減衰振動モードのみでスペクトルを再現できた。また、変角振動モードの振動数は温度を上げていくとわずかに減少した。Cole-Cole関数を用いたときには250 cm-1付近の強度の約30 %を緩和関数のバックグラウンドが担っているのに対し、MRTモデルでは実効的に慣性項の効果で緩和関数のバックグラウンドは出てこない。
Hastedらは水の遠赤外吸収スペクトルには49 cm-1と200 cm-1に2つのピークが存在し、303 K以上では49 cm-1のピークが見えなくなったと報告している[29]。一般に、対称性の崩れた振動はラマンにも赤外にも活性であり、振動モードの振動数はラマンも赤外もほぼ同じである。従って遠赤外吸収の2つのピークはラマンの伸縮振動と変角振動に対応していると考えて良い。MRTモデルを用いた解析は、遠赤外吸収の測定結果と矛盾しない。
緩和モードのshoulderは角速度を変調している確率過程の相関が強くなると出てくる。水のフィッティングではα0が0.6以上ではっきりする。本来のピーク以外にピークが出てくるような緩和は普通の教科書では見かけず、あまり馴染みがなく奇妙なものに見えるかもしれない。しかし、MRTモデルのかわりに良く知られたCole-Cole型の緩和を使うと、50 cm-1の減衰振動モードは350 K以上まで存在し、赤外吸収の結果と矛盾したフィッティング結果となってしまう。
水の同位体(D2O、H218O、D218O)についても、図5と同様のフィッティングができ、いずれも300-320 Kの間で変角振動モードがフィッティングの解析では見えなくなる。
水の同位体の緩和時間の温度依存性は、図6のようになる。
沸点の測定から、HよりDの方が5%ほど水素結合が強いといわれているが*7、緩和時間は全温度範囲にわたってDの方が遅くなっていることはDの水素結合の方が強いことを支持する結果である。HとDでなぜ水素結合の強さが違うのかは今の所わからない。酸素の同位体効果は、僅かに18Oを含む水の方が緩和時間が遅いというところにあらわれている。温度とともに緩和時間が速くなるのは、分子の熱運動が激しくなって水素結合がこわされていくことで分子の集団的な動きも速くなっているからだと考えられる。
揺らぎの相関α0は温度が高くなるほど小さくなり、これは白色ノイズに近づく傾向の変化であるが完全に白色ノイズになったわけではない(図7)。このモデルではα0=0.5のあたりはまだ有色性がある。
2状態遷移模型の非対称性を表すパラメータσは低温ではかなり大きな値になる(図8)。今の所σについて、はっきりした解釈はできていない。温度が上がると揺らぎの相関が切れていって、分布も対称分布に近づくので、少なくとも他のパラメータの変化に矛盾するような変化ではないということが言えるだけである。本来なら運動方程式をちゃんと解くべきところを、角速度の変調だけ考えた模型で近似してしまっているので、この部分の無理が大きなσの値となって出てきてしまっているのかもしれない。
分子間の伸縮振動と変角振動の幅(減衰定数)の温度依存性を図9に示す。
幅が広くなる理由は、水素結合の状態がわずかずつ違うことにより固有振動数の異なった分子間振動が存在することと、振動のユニットが一定時間しか寿命をもたないことの両方によると考えられる。伸縮振動の減衰定数g180は温度上昇に伴って大きくなっている。これは水分子の熱揺らぎによって水素結合がこわされて振動のユニットの寿命が短くなっていると考えると定性的に説明できる。変角振動の減衰定数g50は減少傾向にあり、一見振動モードが鋭くなってきているように思われる。実際には温度が高くなると変角振動モードは急激に小さくなって緩和の陰に隠れてしまうので、広がった裾野は小さすぎてバックグラウンドに埋もれてしまってはっきりしない。ピークのところだけがフィッティングでわずかに区別できるので、g50が小さくなるところに収束するのだと考えている。
分子間振動の振動数を図10に示す。
伸縮振動モードの振動数は、H2OとD2Oが高く、H2と18OがD218Oが低い。変角振動の振動数は同位体の間に差がない。水の非干渉中性子散乱では散乱断面積の関係で主に水素の動きを観測することができ、その結果から180 cm-1のモードでは水素が動いておらず、50 cm-1のモードでは水素が動いているということがわかっている[30]。ラマン散乱では分極率の揺らぎを観測するので水素が動いても酸素が動いても応答が出てくるが、主に酸素の動きが強く反映される。水の分子間振動が調和振動であると仮定すると、調和振動子の振動数νと分子の質量mの間には
が成り立つ。180 cm-1のモードでは主に酸素が動いているので、酸素の質量の比から、
となる。また、50 cm-1のモードでは分子全体が動いていると考えられるので、分子量の比から、
となる。これに従いH2Oの振動数から期待される各同位体の振動数を計算すると、図11のようになる。
180 cm-1の伸縮振動モードについては、図10とよく一致している。50 cm-1の変角振動モードは、もともとの振動数が小さいので式(14)で計算される変化は小さく、フィッティングではスペクトルのノイズや緩和モードの収束値の影響を受けるため、同位体による違いははっきりしない。
図12に、ラマン散乱から得られた動的感受率と誘電緩和の虚部を示す。誘電緩和の虚部は赤外吸収スペクトルに対応する。線で示したのはフィッティングで振り分けた各モードである。振動モードである限り、それが分子間の振動であってもラマンと赤外の振動数は一致している。しかし、水の誘電緩和の〜20 GHzのピークはラマンの感受率に何の影響も与えていない。またラマン散乱の緩和時間は誘電緩和に比べて約1桁速い。このことから、ラマン散乱の緩和と誘電緩和は全く別物であることがわかる。誘電緩和とラマンの緩和の間に何らかの関係があるかどうかはまだわからない。
Barthelらは、図12に黒丸で示した水の誘電緩和の解析の結果をDebye型の緩和2つでフィッティングし、8.32 ps、1.02 psの2つの緩和時間を出している[31]。遅い方の緩和時間は水の〜20 GHzのピークに対応し、緩和の速い方の成分は水素結合の生成消滅に関係すると述べられている。この緩和時間はラマンで得られる緩和時間に近いが、これが同じ内容のものであるかどうかは今のところ不明である。図12に示した50 cm-1にピークを持つ減衰振動の形をみると、スペクトルは低振動数側の裾野からピークに向かってνに比例して増加していることがわかる。低振動数側の振る舞いだけを見る限り減衰振動とDebye型の緩和は同じに見える。誘電緩和の解析で得られる数psより速いDebye型の緩和成分には、実は50 cm-1付近の分子間振動のモードの影響をかぶっている可能性のあることを指摘しておきたい。
*7「生体系の水」「水の分子工学」上平著、講談社