ここからの話は現在構築中であり、まだまだ埋めなければならない穴がある。低振動数ラマン散乱のスペクトルのうち数cm-1以下に出てくる成分は緩和型の関数で表現できるという仮説のもとに、どのような緩和関数を使えばよいかということを考えていくのだが、肝心のラマン散乱における緩和を担っているのが分子のどういう運動であるかということが、具体的にはまだはっきりしていない。光散乱の偏光解消スペクトルを表す式が誘電緩和と同じ形に書けるということを示した仕事があるので[18]、誘電緩和とのアナロジーで話を進めるが、数式の上で同じ形になるというだけで実際に観測している物理量は異なっている。誘電緩和や赤外吸収は1次の光学過程であるのに対しラマン散乱は2次の光学過程である。ラマン散乱では光が直接相互作用する相手は電子系であり、電子系が分子運動の影響で変調された分だけを拾い上げているので、本来ならば電子系も含めたハミルトニアンを書いておいて、変調の部分だけを取り出して電子系を見かけ上消去するという手続きが必要なはずだが、これはまだできていない。それでも、現象論として系の特徴をうまく出せるような簡単なモデルを使うことで、他の測定手段で得られた結果と比較したり、シミュレーションに対して新たな情報を提供したりすることが可能であると考えて、あえて現象論という手法のなかで手探りをしてみる。この立場を理解していただいた上で、続きを読んでいただきたい。
分光実験屋にとっては、Debye型の誘電緩和というのは大変になじみがある。緩和時間の分布をとりいれた実験式として、次の形がよく使われている。
これは、Havrilliak-Negamiの式で、α≡1、β≡1$のときがDebye緩和で、α≡1のみが条件だとCole-Cole型になる。
Debye型の緩和関数は電気双極子の回転ブラウン運動を記述するLangevin方程式に対してoverdamped limit(慣性項を無視)とnarrowing limit(熱揺らぎが白色ノイズ)を適用することで得られる。一番簡単なLangevin方程式は次のような形になる。
左辺第1項が慣性項、第2項が減衰項で、右辺第1項が熱浴からの揺らぎよって受ける力で第2項は外場による項である。式(5)は1次元で揺らぎがadditiveに入っているが、3次元にして揺らぎの効果にも異方性を持たせ、揺らぎをmultiplicative(揺らぎの強さが系の状態に依存する形)に入れるともっと一般的な式になる。式(5)の慣性項を無視し、かつ、揺らぎの相関が無い、すなわち
が成立すると仮定すると、Debye型の緩和関数を導くことができる。Debye型の緩和関数に緩和時間の分布を持ち込んだ実験式がCole-Cole型緩和であるから、これらの近似はCole-Cole型においても仮定されている。Overdamped limitは数10 GHz以下の周波数の低い領域ではよく成り立っているが、1 THz(〜30 cm-1)を越えたあたりで成立しなくなることが、遠赤外吸収の実験ではよく知られている[19,20,21]。低振動数ラマン散乱は、まさにこの領域を測定しているので、ラマン散乱の成分に緩和モードが入っていたとすると赤外と同様に近似が破れていてもおかしくない。近似の破れは周波数が高くなると徐々に起こってくると考えられるので、最初からこの効果を取り入れた形で緩和関数を求める必要がある。
緩和関数を正攻法で求めるには、式(5)やこの一般形を、揺らぎに相関があるという条件で解かなければならない。すでに膨大な理論の成果が出ているが、これを解くのは実は大変に難しい[21,22,23,24,25]。記憶関数を含んだ一般化ランジュバン方程式の形になおすこともできるが、具体的な記憶関数の形を仮定しないと計算ができない。無限次数の連分数展開(Mori-Zwanzig formalism)の形で解を求めることもできるが、次数が増えるに従ってパラメータの数が増えてしまい、高い次数での各パラメータの物理的な意味がはっきりしない[26]。連分数を2次または3次で打ち切って実験データに合わせる方法がしばしば使われるが、この打ち切りが無限次数の連分数の十分よい近似になっているかどうか疑問が残る。どうやっても、どこかで何かを仮定することになってしまう。また、必ずしも解がフィッティングというデータ解析法で使いやすい形では得られない。
そこで、柴田らによって導出されたランダム周波数変調モデルに基づく緩和関数を用いてラマン散乱のデータ解析を試みた[27,28] 。ランダム周波数変調モデルは回転ブラウン運動の角速度が2状態遷移模型*5の重ね合わせ(Multiple Random Telegraph, MRT)で表される確率過程によって変調をうけるというものである。MRTモデルは、高周波数領域での慣性項の効果とともに、熱揺らぎの相関の効果が実効的に取り入れられており、また時間領域、周波数領域ともに解析的な形で書けているので大変使いやすい。Overdamped limitとnarrowing limitの破れが取り入れられているので、従来のDebye型やCole-Cole型の緩和を使ったときに比べて、現象論としての近似の精度が良くなることが期待される。
一般に誘電緩和の形は
のように書ける。MRTモデルでは、v[iω]=v[s]が具体的に以下の形で与えられる。
ここで、~Δ02=Δ02(1-σ2)、~γ=γ-2iσΔ0である。この模型は、各2状態遷移模型が±Δ0の値をとり、それをN個重ね合わせた確率過程によって電気双極子の角速度が変調されるという模型である。γ は2状態遷移模型の時間相関の逆数をあらわす。σ≠0のとき確率過程の分布にかたよりがあることを示す。このモデルは、N→∞ではGaussian-Markovian limitとなり、α0≪1でnarrowing limitとなる。このモデルからDebye型の緩和が出てくるのはα0≪1のときである。フィッティングの解析では、Δ0、α0(=Δ0/γ)、σ、N、緩和強度をパラメータにした。ただしNは整数値でなければならないので最初に与えて、フィッティングの時は変化させないようにした*6。
実験結果のみからNの値を決めることはできない。また、実現値が±Δ0の確率過程を$N$個重ね合わせているので、NとΔ0を個別に議論することはこのモデルでは意味がない。N→∞の極限をとるときには、NΔ02 ≡ Δ2が一定の値を保つようにしなければならない。水、水溶液系の場合はN=1を仮定して計算した。フィッティングでは減衰振動2つとMRTモデルの緩和1つの重ね合わせの式
を使っている。このときNを変化させても最小2乗法によるフィッティング結果の残差2乗和にそれほど違いがない。
MRTモデルでは緩和時間がフィッティングパラメータに含まれない。そこでv[s]を時間領域であらわした
を用いて、
となる時間を求めることで緩和時間とした。緩和時間の分布に相当するパラメータは無く、緩和時間が1つだけ求められる。
式(9)によるフィッティングによって得られたパラメータのうち、振動モードについてはAi、νi、giを、緩和モードについてはAmrt、α0、緩和時間を議論することにした。
*5 dichotomous process, dichotomic processともいう。
*6 a0を久保数という。