水・電解質水溶液系のラマンスペクトルは、ピークの強度比や幅に多少の違いがあるものの、図2と同じような形になる。このスペクトルを解釈するのに、これまではCole-Cole型の緩和モード
と式(2)で示した減衰振動モード2つの重ね合わせの式を用いてきた。
Walrafenらは、水分子同士の配置としてゆがんだ4面体モデルを提案し(図3)[7]、水の低振動数ラマン散乱スペクトルには氷の格子振動の名残である歪んだ4面体の振動モードが現れていると考えた。さらに、180 cm-1付近のモードを水分子5個の間の伸縮振動、50 cm-1付近のモードを水分子3個のO-O-O間の変角振動と考え、20 cm-1以下の成分については弾性散乱の成分と解釈し解析から除いた[8,9,10]。
ここで注意しておきたいのは、液体の水がこのような孤立した4面体の集まりではないということである。分子動力学の結果は、図3の外側にある4つの酸素に対してさらに別の水が水素原子を向ける形で水素結合し、3次元的にネットワークを作ったような形を予測している[11]。熱揺らぎで水素結合は生成消滅を繰り返し、その結果このネットワークは〜10-12秒のオーダーで組み替えがおこっている。ある瞬間のスナップショットをとれば、図3のような4面体になっている部分が存在し、その構造が持続している間だけ分子間振動が可能である。平均構造として分子間振動が可能な部分が存在しているから、ラマン散乱の測定で分子間振動が観測できるのだと考えられる。十分長い時間観測する(ずっと低い周波数領域のスペクトルを見る)と、水分子は全くランダムにその位置を変えているだろう。しかしある時間スケールで観測すると、水分子同士の相関をもった動き、すなわちある種の構造が見えてくる。この時間を考えに入れた構造のことを動的構造という。水の「構造」という概念は、EisenbergとKauzmanによって最初に提案された*3
我々はWalrafenらの結果をふまえて、180 cm-1付近のモードと50 cm-1付近のモードが減衰振動であると仮定した。さらに、20 cm-1以下の成分にはCole-Cole型の緩和関数をあてはめると、水・電解質水溶液の温度変化、濃度変化ともに低振動数領域のスペクトル全体をとりあえずよく再現できることがわかった(図2)[11,12,13,14]。
ジオキサン水溶液で180 cm-1付近のモードの濃度依存性を調べると、水のモル分率0.8以下、すなわち水分子4個に対してジオキサン分子が1個の割合以下でこのモードが見えなくなった[16]。ジオキサンは自身は水素結合を作らないが、水と任意の濃度で混合することができ、混合に際して水の水素結合を壊して混じっていく。この結果より確かにこのモードが水分子5個を単位とする振動によるものであることが確認できた。
ところがこのCole-Cole緩和と減衰振動2個の重ね合わせによる解析には次のような問題点があった。
水のスペクトルのバックグラウンドについて、Walrafenらはcollision-induced background*4という考え方で説明しようとした[17]。これは、もともと単純液体(液体窒素など)の光散乱スペクトルでみられるバックグラウンドの説明のために提案されたものである。同じことが液体の水に対して成り立っていても不思議はないが、他の有機溶媒(ベンゼン、トルエン、アセトンなど)でバックグラウンドが出てこないことをどう説明するのだろうか? 液体中での分子間の衝突は有機溶媒でもごく普通に起きているはずである。
*3 「水の構造と物性」カウズマン・アイゼンバーグ著(関・松尾訳)みすず書房
*4 collision-induced absorptionというのもあるが、これは遠赤外領域での有機溶媒の吸収ピークの原因として提案されたもの。collision-induced backgroundは光散乱のスペクトルにあらわれる高振動数領域まで続くなだらかなバックグラウンドのこと。