低振動数ラマン散乱で見る液体のダイナミクス

2.低振動数ラマン散乱

 物質に単色光を入射させると入射光と振動数が少しずれた散乱光が観測される。これをラマン散乱という。ラマン散乱は2次の光学過程であり、振動数のずれは赤外吸収で観測される分子振動に対応する。分子振動スペクトルのパターンは分子の形によって決まるので、多くの物質についてラマン散乱と赤外吸収のスペクトルのピークの帰属が調べられて、分析化学で利用されている。

 ラマン散乱では、スペクトルのシフトをあらわすのにcm-1という単位が使われる。波数と同じ単位であるが、これはあくまでも振動数のずれである。1 cm-1は30GHzに対応するので、cm-1であらわされたラマンシフトを周波数に読み換えると、マイクロ波吸収や誘電測定との比較ができる。

 通常の分析化学では赤外吸収との比較から300 cm-1以上のラマン散乱スペクトルの測定を行うことが多い。この領域には分子内振動に対応するピークが現れる。多くの物質について、この領域の振動モードの帰属が行われているが、分子の対称性と分子の構成原子から予言される基準振動モードの数があわないこともある。この場合は結合音やフェルミ共鳴などで一応の説明がなされることもあるが*1、まだ問題が残っているものもある。300 cm-1以下の領域では、主に分子間振動や分子の衝突に起因する散乱が観測される。この領域の散乱には低分子の分子間相互作用の情報が含まれているので、液体のダイナミクスの理解には大変有用であると期待される。

 液体の低振動数ラマン散乱の測定をすると、一般に図1のような形のスペクトルが得られる。これは室温での水のスペクトルであるが、他の有機溶媒なども似たような形になる。


fig.1
図1:室温での水の低振動数ラマンスペクトル

 ラマン散乱光のうち、入射光の振動数より低い振動数を持つ成分をストークス散乱、高い振動数成分を持つ成分をアンチストークス散乱と呼ぶ。ストークス側とアンチストークス側で散乱ピークは対称な位置にあらわれるが、ストークス側の方が強度が強い。原理的にはストークス側を測定するだけで十分であるが、蛍光の混入の心配がある場合にはアンチストークス成分も測定しておく必要がある。また、低振動数ラマン散乱の実験では、主に偏光解消(depolarized)スペクトルを測定している。分子間の振動や衝突では分子相互の位置関係の対称性が崩れているため、偏光解消スペクトルを測定することでその情報を選択的に観測するためである*2

 ラマン散乱の散乱強度と動的感受率の虚部の間には次のような関係がある。

eqn.1

 ここで、I(ν)はラマン散乱強度、n(ν)=[exp(hcν/kT)-1]-1はBose-Einstein因子、 ν(=f/c) はラマンシフト、 νi(=fi/c)は入射光の振動数、cは光速、Kは装置に依存する係数である。実際に観測する量は散乱強度そのものではなくて散乱photonの数であり、h(νi-ν)のエネルギーを観測するので、式(1)のI(ν)をカウント数N(ν)で置き換えて、(νi-ν)-4のかわり(νi-ν)-3をかけた形になる。この方法で系の動的感受率χ''(ν)を、図1のスペクトルから計算すると、図2のようなスペクトルが得られる。

fig.2
図2:室温での水の低振動数ラマン散乱スペクトルから計算した動的感受率

 動的感受率になおすことで、図1でははっきりしなかった180 cm-1と50 cm-1のピークがよくわかるようになる。感受率になおしたスペクトルに対しては、減衰振動や緩和モードといった現象論的なモデルを各ピークに当てはめて解釈することができる。具体的には、例えば減衰振動の式の虚部の重ね合わせ

eqn.2

の形の式を使って最小2乗法によるフィッティングを行う。ここで、ωj=2πcνjは特性振動数で、γj=2πcgj(j=1,2)は減衰定数である。フィッティングではAj、νj、gjをフリーパラメータにしておいて、各パラメータの温度依存性などを調べて定性的な議論をする。

*1 例えば、「赤外吸収とラマン効果」水島・島内著、共立全書
*2「ラマン分光法」、日本分光学会測定法シリーズ17、濱口・平川著(学会出版センター)参照


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